あなたは何を信じるか

 「コリント人への第二の手紙」5章1節から10節までを朗読。


 7節「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである」。

私たちは「信仰によって」、「信仰」という言葉を繰り返し聞きます。私たちも語ります。そもそも「信仰とは何なのか」? これは実に単純明快で「神様を信じる」ことに尽きるわけです。「神様を信じる」という場合、信じる内容といいますか、ただ知っていることと違うのは既にご存じのとおりであります。知っていることと、信じることは大きく違います。何が違うかというと、信じるとは、信じたように実際の歩み、生活といいますか、私たちがしていることや語ることなどいろいろな事の中で、具体的にしみ込んで来る。食物が消化されて体中に行き渡ってエネルギーになるがごとく、信じることは、自分の全存在がそこにつながるのです。


世間でも、神様だけではありませんが、信じることは普段の生活でいろいろな事態や事柄を通して経験することです。人がこう言ってくれた、ある人がこのように勧めてくれた、あるいはテレビのニュースでこう言っている。「そうなのか」と信じる。この度のように集中豪雨が各地に起こって、「明日は朝から大雨になりそうだ」と天気予報を聞く。そうするとそれを信じる人は前の日から明日の為に何かを用意して、「ひょっとしたら買い物に出掛けられないかもしれない。だったら今のうちに用意をしておこう」とか、信じたらそれに応じて体が動きます。単純に信じやすい人と、なかなか強情で信じない人がいます。私はどちらかというと「そうは言っても、そうなるものか」と思います。だからたやすく信じないほうです。ところが、家内は比較的信じやすい。テレビで「明日は大雨になりそうだ」と言うのを聞くと、途端にあちらへ走り、こちらへ走り、バタバタし始める。「何しているの」と「明日の食事の準備を備えておかなければ」と。さらに見ると洗面所に二つ三つのバケツに水が貯めてある。「水があるがどうしたの」と、「いや断水になったときに困るから」、「え!断水って言っていたの」、「いや、大雨になったら断水になるに違いない」と、信じたら行動につながるのです。ところが、私はそこまで信じませんから「天気予報はそう言っているけれども、天気図を見たら梅雨前線はこのあたりで台風は右のほうに……」と自分の考えに留まる。この間も2,3日前から台風が近づいてきて九州北部は大雨の連続との予報、本来今日は大雨の予定だったのです。けれども私は素人ながらに天気図を見ていて、台風は少し離れた西の海上を北へ上って行く。これだったら梅雨前線を押し上げて行くから、当面雨が降るはずはないと、分かるのですが、ニュースを見ると「明日は大雨になりそうです」といわれます。どちらを信じるかということになる。信じるとは、日常生活でもしばしば体験することです。人の言葉を信じる場合もそうです。「あの人がこう言ったからきっとそうなるに違いない。だからそうならない前に今こうしておこう」と、現実の今の自分の生活に信じたことが影響して来る。これが信じることです。知っているだけではそこまで行きません。「なるほど、台風が来ているのか」と、知ってはいてもそれに対して用意をするとか準備をすることとはつながりません。信じる時、初めて具体的な歩み、生活の具体的な事につながって来ます。


 7節に「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである」とあります。「歩いている」という言葉は、生活すること、日々の生活を営むこと、これが「歩く」ことです。そこで「信仰によって」とありますが、神を信じることが聖書でいうところの「信仰」であります。ですから「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」と「ヘブル人への手紙」にありますが(11:6)、さらに続いて「なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」とあります。神のいますことを信じる。いま信仰によって生きる、信仰によって歩くことは、神様を信じて生きることです。具体的な生活の中に神様がいらっしゃることを信じなければ信仰によって歩くと言えません。神様がそこにいらっしゃると。だから、朝、目覚めて健康が与えられて「今日も暑い一日だけれども、今日は何をしようか」と思うときに、既に神様がそこにいますことを信じるのです。「そうだ、今日は神様がこうやって命を与えてくださって、食べる糧(かて)を与え、着る物を与え、住む場所を備えて、神様の恵みによって生かされています」と信じる。これがまず私たちが信仰によって生きること、歩むことの具体的な有り方です。朝、目が覚めて、一日のスケジュールをいろいろと人は思い巡(めぐぐ)らします。「今日はあれをして、これをして、あそこで買い物をして、ここに行って、この人のために……」と、スケジュールが立てられます。そのときにも神を信じているかどうか? 自分のスケジュールの中に自分の思いばかりが全部積め込まれ、どこを取っても神様に対する思いが無い。これでは神を信じている、とは言えません。確かに「このときにこうして、ああして」と神様は思いを与えてくださいます。願いを起こさせてくださるのも神様です。だから、今、このことをさせてくださるのは神様である、と信じているのかどうか? ところが、多くの場合、自分の思いを遂げたい。自分の願いを押し進めたいほうが先立って、そこに神様がいますことを除外している。いや、信じているつもりです。ですから、私たちは常に自分の信仰を点検して行かなければならない。といいますのも、普段の生活では、神様が目に見えませんし、どこにおられるか手で触るわけにもいかない。声も聞こえません。まるでいないかのような生活になってしまう。神様から心が離れて行ってしまいます。これは本当に致命傷です。神様を信じているとは言いながら、形だけで実際の生活のどこにも神様がいらっしゃらない。あるのは、一から十まで全部自分の願いや思い、計画や人の言葉、そんなのばかりが満ちあふれた生活をしている。それでは「信仰によって歩いている」と言うことはできません。


7節に「わたしたちは、見えるものによらないで」とありますが、「見えるもの」とは、日々の生活の具体的な歩みです。「あの人がこう言った」とか、「この人がああした」とか、「私はこうしたい、ああしたい」とか、目の前に見えている現象、事柄、そういうものに左右されて「あの人がそう言うなら、私はこちらをする」「こうしたら、こうなる」と見えることですべてとなり、神様が働いておられる、そこに神様がおられる、ということが消えてしまう。忘れられてしまう。そして「あの人がああ言ったからこうなった」「この人がこんなことをしたから、こういう結果になった」「あのときもっとこうしておけば良かった」と、そうやって自分を責めたり、「自分がこんなにしたから、こうなって……、見てみろ、私だって立派にできるじゃないか」と、高慢になり、自慢をしたり、誇ってみたりしますが、そこには神様の「か」の字もない。神様を認める思いが何も無いのは、信仰に生きることとは程遠い。


イエス様がこの地上の使命を終わって天にお帰りになる時、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ 28:20)とおっしゃいました。「いつも」とは、どんなときにも、良いときも悪いときも、うれしいときも悲しいときも、楽しいときも失望落胆のときも、どんなときにもイエス様は私たちと共におってくださる。それで、私たちが「主がここに共におられます」と信じなければ、それは具体化しません。イエス様は「わたしはあなたと共におるよ」と言ってくださった。だから、私がいなくても共にいてくださる。私がそう思わなくてもいつもイエス様は共にいてくださって、イエス様のことを忘れていても、イエス様は共にいてくださるのですが、私たちが「イエス様がここにいてくださいます」と、それを受け止める。約束の言葉を私たちが信じる。そのことをしなければただに言葉だけで、主が共にいてくださる恵みを受けることができません。具体的にイエス様が私と共にいてくださると信じるならば、普段の生活の隅から隅までどこを取ってもそこにイエス様の姿が見えなければ、本当にイエス様を信じて生きていることにはならないのです。だから、イエス様は「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と言ってくださるから、「では、ひとつイエス様、そのように私と一緒にいてください。私はあちらを向いています」と。「イエス様、あなたは私と共にいてくださるそうですが、私はこうします、ああします」では、主が共にいてくださることの恵み、神様の祝福を体験することができない。逆に、それが本当かどうかは分からないが、「イエス様がそうおっしゃるのだから、必ずここにいてくださる。この悩みのときにも、この問題のとき、いま目の前にある『どうしようか』と思い迷っていることにも、主が共におられるのだ」と信じる。信じると具体的に事態や事が変化し、主がいますことを実感する。神様がいますことを信じることは、神様がすべての物の造り主であり、全てのものをご自分の力ある御手で持ち運んでくださる。その力をあらわしてくださる御方である。私たちはその御方に仕えるべき者、私たちの主となり給う御方です。


私たちの日々の生活の中心は神様が握っておられると信じていく。自分の計画や自分の思いや自分の努力や自分の力や自分の知恵で生きているのではなく、神様が今日も私を生かしてくださる。また神様が今ここに導いてくださる。神様が私と共にいてくださってこのことをさせてくださる。「すべての道で主を認めよ」(3:6)と、「箴言」にいわれているように、認めるとは、信じることです。だから、何があっても、どんなことがあっても「ここに主がおられる」と、これを信じて行く。それが7節の「見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである」ということです。いろいろな思い掛けない事態、驚くような事柄や心配や、ハラハラドキドキするような事の中に突然置かれます。病気をしたり、家族に問題が起こったりします。そうすると「どうしてこうなった。あの人があんなことを言うから、あんなことをするものだからこうなった」「あのときにもっとこうしておけば良かった」「私がもっと前もって言っておけば良かったのに」と言って、苛立(いらだ)ったり、憤(いきど)ったり、つぶやいたりします。そのとき私たちの心には神様がいらっしゃらない。実は、目の前の悲しいこと、苦しい事態、思い掛けない、願わない事態の中にも「これも神様が今このことを起こしているのだ」と信じなければ、「信仰によって歩いている」とは言えません。


 「イザヤ書」45章5節から7節までを朗読。


 5節以下に繰り返して「わたしは主である。わたしのほかに神はない」と、神様はおっしゃいます。「あなたはわたしを主としていますか? 」と、神様は問うています。「あなたの神はどこにいる? 」「あなたは何を神としているのですか? 」「わたしが神ではないですか」と、神様は妬(や)けるような御思いをもってイスラエルの民にご自分を証ししておられます。そもそもイスラエルの民は神様の選びの民、神の愛する民といわれる人たちです。神様にいちばん近いはずの人たちであります。ところが、神様に近いはずの人たちが神様を忘れている。そして、自分たちの思いのまま願いのまま、あるいは神ならぬものを神とし、偶像を拝み、また人に仕え、まことの神様を忘れて身勝手な生き方をしている。それに対して神様は「あなたがたは誰を主としているのですか?」「誰が神ですか?」と、繰り返し問い掛けておられるのです。


それは、いま救いにあずかっている私たちにも問われている事であります。「あなたの人生の主は誰ですか?」、「いや、これは私の人生です。私が……」と。そうではありません。私ではなく、主が私の人生を、今日の一日を造り、生きる者とし、様々な事を起こし、持ち運んでくださる。7節に「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する」と。「光を」「暗きを」「繁栄を」「わざわいを」など、生活の中で起こる小さなこと、大きなこと、どんなことも神様の知らないことは何一つありません。これを認めて、これを信じることが、「神を信じる信仰によって歩む」ことです。これは、常日頃絶えずどんなことの中にもそれを自覚して、絶えず覚えて行かなければ、身に付きません。「神様を信じます」と口で言うだけでは、神様の力を体験することができないのです。いろいろな問題に当たったとき「神様がこのことを起こしておられるに違いない」と。確かに、目の前に見えるものがあるわけです。交通事故であれば、相手が不注意だったとか、あるいは自分が不注意だったということがあります。そうすると、見えることだけで事態が進んで行くように思います。「あの人がちゃんと前を見ておけばこんな事にならなかった」とか、あるいは「私がよそ見をしたためにこんなになって」と、原因結果が見えるものであって、それが全てだと思ってしまう。これは大間違いです。私たちはそんな大それた人間ではない。私たちの人生は私が造ったのではなくて、見えない神様が一人一人を造り生きる者とし、備えておられることがある。これを信じることが神を信じることです。だから、そういう思いがけない交通事故に当たっても、「神様がここで何かを起こしていらっしゃる」「神様はこの事故を通してどんなことをしてくださるか」。


私は家内から「あなたと一緒に車に乗っていると私の命は二つ三つとっくに無くなっている」と言われますが、確かに「そうだな」と思う。車での事故にあっていますので、とっくに3回ぐらい死んでいる。しかし、不思議とけが一つしないでここまで生き延びたのは、自分の努力でしがみ付いて生きて来たわけではない。神様の憐れみだったのです。そして事故があったことによって、その後、人生が変わってくる。事故に遭わなかったらどうなっていたか、わかりません。今日ここに私がこうして在るのは、そういう事故があった結果です。だから、それがなかったなら、どうなっていたか想像が付きません、考えられません。まさにその事を起こしたのは神様です。だから、私は「神様がそういう風に導かれる」と言うと、家内が「あなたはすぐ責任逃れをして、神様に押し付ける」と。私は責任を取りたいのですが、それほど力がありません。能力もありません。責任を取れないのです。神様が全ての根本原因です。だから、思い掛けないことや、願わないことに当たったとき、誰彼を責めることはいらない。「神様、あなたがこのことをしてくださった。感謝します」と言えばいいのです。そうすれば神様のほうが「これは黙っておられん」と、次の手をちゃんと伸べてくださる。それを自分がしたと思うから、自分で修復しなければ、自分で償わなければと悩むのです。自分で後始末をしなければならないから困る。


そうではなくて、神様が、ここにあるように、7節「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する」と。その後に何とありますか、「わたしは主である、すべてこれらの事をなす者である」と。どんなことでも神様によらないものは無いのです。だから、神を信じるとはどうすることか? いま目の前に思い掛けないことが起こったとき、「これはどうするか。いや待て、神様が起こしていらっしゃる。さて、神様、これはどうするものでしょうか? 神様、これからどのようになさるか」と、主を待ち望む。これが神様を信じる信仰です。人を責めることも、自分を責めることもいらない。神様に期待する。これが「信仰によって歩んでいる」という歩み方です。だから、「あの人があんなことをしなければこのことが起こらなかった」「私がもっとこうだったら良かったのに」と、そんな話ではない。そうではなくて神様がその中に置いてくださると信じる。


私たちの年になると、これから先に大きな夢は描けませんから、過去を振り返ることが多くなる。すると、いろいろ悔やむ思い、じくじたるものが湧いてくるに違いない。「もう少し私が賢く振る舞っておったら、こんなことにならなかった」「もうちょっと私の育て方が良かったら、あの子はこんな風にならなかった。私が悪かった。私のような親の下に生まれてあの子は可哀想だ」と、そのように思っていたら、これは大間違いです。そうではなくて、振り返って、一つ一つそこに神様を認めて行く。神様がこの人生を、いまに至るまでいろいろなことがあったけれども、すべてが神様の御業としか言いようがない。そうでしょう、皆さん。自分の力なんて何一つ出来た試しがない。だから、ダビデが詩篇16篇に歌ったように「わたしは常に主をわたしの前に置く」、まさにここです。これがダビデの決定的な生き方です。だから、何があっても、ダビデは一度として人を恨んだり妬(ねた)んだりしたことはありません。どんな取り扱いを受けようと、仕打ちを受けようと、彼はいつも神様を前に置いている。これは強い生き方です。どんなものにも負けません。だから、人が何と言おうと、誰が何をしようと、どんな問題に当たろうと、私たちはいつも主を見上げて「このことも神様がご存じ」「この事も神様が必ず良きにしてくださる。大丈夫」と、主を見上げて行けば、何一つ失望落胆することはありません。いや、むしろこれからどのように神様が事態を展開してくださるか、大いに期待したらいいのです。「こうなったら、ああなるに違いない」と、自分のちっぽけな頭でいろいろと考えて「ここでああしたら、ああなってこうなって、あの1円がもったいない。この1円が何とかで……」と重箱の隅をつつくようなことばかりやっているから、神様が見えなくなる。そうではなくて、もっと大胆に神様を信頼して、今どんな状態であっても「大丈夫、神様が……」と信じる。これが見えるものによらないことです。


「コリント人への第二の手紙」5章7節に「わたしたちは、見えるものによらないで」、見えるところがどうであっても、それに左右されない。若い人たちの生活振りを見ていて「あんなことをしていたらそのうち行き詰まる」、あるいは仕事もなくて自立できずに、50も60もなっていて家におられて、「そのうち泣くことになる」と思う。しかし、これは見えるところです。しかし、そうではないのです。それも神様がどのように導かれるか、神様に期待する。「信仰によって歩く」とは、見えるところを離れるのです。浅はかな知恵と僅(わず)かばかりの経験をもって、「ああなるに違いない」「こうなったら次がこうなって、その次はああなって、その次は、ああ、もう駄目や」と、どの道を考えても人の考えの最後は「駄目だ」に来るのです。それでは神様が命を与えてくださった私たちの造られた目的を果たすことができません。目の前に何を見ていようと、その背後に、見えない主を見て行く。神様がいらっしゃる。その神様を信じて、神様が主であって、全ての物をご自分の力ある御手でことごとく御心のままに導かれる御方と信じて行く。これが私たちの生き方、日々の生活です。だから、決して失望することはいらない。ところが、見えるものによって生きていると、「こうなってしまったら、もう駄目や。未来永ごう変わるはずがない」と思いこんでしまう。「こうなってしまったら、生涯こんな状態が続く」と。そんなことはありません。どんな悲惨な状況でも必ず神様はそれを変えなさる。「もうこれで決まり」ということはありません。だから、私たちは神様のわざの中に自分を委ねる。これが「信仰によって歩む」ことです。そうしますと、人生は誠に痛快といいますか、楽しい。何があったって、暗い顔をすることはいらない。笑っておけばいいのです。神様はちゃんといちばん良いように事を進めてくださる。それを私たちが信じられないから苦しむのです。「神様は分かっているのかしら、私のこの気持ちが!」と、ついそのようにつぶやくのです。神様は私たちの心の隅から隅まで全部知りつくしておられる。だから、大胆に主に信頼する。


私は両親の生き方を見ていて、それは私の心に残っている生き方です。私の父も母も一度として失望落胆したことがないのです。私は気が小さくてどちらかというと繊細なほうで、自分で言うのもおかしなものですが、両親の様子を見ていると「これで大丈夫だろうか、やって行けるのだろうか」と、財布の中まで知っていましたから、毎日心配でした。だから、子供の頃の私の写真を見るとひょろひょろでもやしのようです。太る余地がなかったのです、心配だらけで。親に代わって心配していたのです。「大丈夫だろうか、どうするのだろうか」と。それであるとき、うちは貧乏だな、と思って、父に「うちは貧乏なんだよね」と言ったら、父が「そんなことあるものか、うちほど豊かな家庭はない。何が貧乏だ」と、しばらくしたら父がメッセージの中で「子供が『我が家は貧乏だ』と言ったけれども、私は一度も貧乏と思ったことはない。いつも本当に豊かな恵まれた家庭だ」と。「え!そうかな」と私は思いました。でも、いま振り返ってみると誠にそのとおりだったと思います。神様がいくらでも、どんなことでもなし得る御方、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコ 10:27)とおっしゃるでしょう。「なんでもできる」とおっしゃる神様を信じなければ、私たちはいよいよ何もできません。

私は4人兄弟でありました。それぞれ様々なことを通り、波乱万丈です。その当時を振り返ってみると、「とんでもない大変な中を通ったなぁ」と思う。私の兄は3浪もしましたし、それに私も1浪しました。年が一つ違いで、私が先に大学へ入って兄は遅れましたが、そんな中でも父母から「今度、不合格だったら働け」と、ひと言も言われたことがない。こちらは親の懐具合など考えず、あの大学、この大学と、好きな所を「お父さん、ここを受けたい」「じゃ、受けたらいい。その大学はこうだ、ああだ」と、父は興味があったのか、調べて知っていましたから、勧めるわけです。こちらもいい気になって合格したつもりになる。だから勉強もしない。すると、ものの見事に不合格。失敗すると一人前に悲しみますが、父は「人生は長い」と、よく我慢してくれたといいますか、忍耐してくれたと思う。恐らく、その頃のことを知っている方は「榎本先生のご家庭、次から次へと浪人が続いて、気の毒な家庭、この先どうなるか……」と心配しただろうと思います。でも一度として父は「もうやめとけ、もう金がないからやめとけ」と言ったことがない。「主がよしとおっしゃるなら幾らでもある」。私は一度聞いたのです。「お父さん、ここの大学を受けたいのだけれど、お金はあるだろうか」と。「いや、今はないけれども必ず神様は備えてくださるから大丈夫、行け、行け!」と。「行け、行け」と言われても、こちらは信仰がありませんから、ちゃんと目の前に見えるようにしてもらいたいと思ったことがありました。しかし、いま振り返ってみて本当に良い体験をさせてもらったといいますか、信仰の生き方を学んだ思いがいたします。


 私は「両親の信仰勝ち」と思うのです。信じ続ける、人をではなく、神様を信じ続ける。「この子が必ず何か事をなしてくれる」と、子供を見て、信じるのではない。そうではなくて神様を信じる。神様がこのことを「よし」とおっしゃってくださる。そこを信じて行く。これが私どもの受けている信仰です。


だから7節に「わたしたちは、見えるものによらないで」と。私どもはすぐ見えるところを見て「あんなになったらこうなる。こうなったらああなる、ああなったら、これもやめとこう。あれもやめとこう。年は取ってきたし老後の蓄えもいるし……」と。老後がとっくに過ぎているのに、「老後を……」と、そんなことばかり考えて信仰に立てない。8節に「それで、わたしたちは心強い」とあるじゃないですか。「心強い」のです。神様が共にいてくださる。そして私たちを力ある御手をもって持ち運んでくださる。何があっても神様は見捨てることをなさらない。また私たちにいちばん善いことをしてくださるのです。「我窮(かぎり)なき愛をもて汝を愛せり」(エレミヤ31:3文語訳)とおっしゃる。限りないご愛をもって「お前を愛しているよ」とおっしゃってくださる十字架を見てご覧なさい。そこまでしてくださる神様があなたの願わないことをして喜ぶはずがないでしょう。もっと素晴らしい、私たちの思わないことをしてくださる。


 もう両親はとっくにいませんが、その祈りと願い、信仰のゆえにここまでそれぞれ家族が養われて来たのだということを振り返るときに、信仰の力といいますか、神を信じること、ここに全力を注いで行くことが私たちの命であり、力です。


 私たちはつい目の前のことに心を動かされ、あるいは目を奪われますが、そこでもう一度「いや、そうではない。私は信仰によって歩いているのです。「神様、あなたが主です。あなたは私の神です」と。「光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する。すべてこれらの事をなす者である」とおっしゃる神様を信じて、その御方の御手に自分を委ねて行きたいと思う。神様はどんなことも決して放っておかれる御方ではありません。必ずそこから具体的に事を起こして、神様の神様たるくすしきわざを、私たちをして褒めたたえさせてくださるのです。この言葉をもう一度心にしっかりと信じて繰り返し、繰り返しいま私は何によって歩いているだろうか? 「信仰によって歩いているのである。8 それで、わたしは心強い」。大丈夫ですと、大胆に主を信頼して行きましょう。


 ご一緒にお祈りをいたしましょう。