朽ちない実を結ぶ

「ヨハネによる福音書」15章12節から17節までを朗読。


16節「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」。


今、私たちはイエス様を信じて救いにあずかって、感謝して、喜んで、生活をしております。そうしますと、信仰がない生活が想像できないわけであります。恐らく皆さんもそうだと思いますが、随分長いく信仰生活を続けておられますから、昔、自分がどのような生活をしていたかを忘れている方も多いと思います。イエス様を知らないで生きていた時代を忘れて、幸いなこの信仰に導かれたことを喜び、感謝して生きています。ですから、だれでもこの信仰に導かれてイエス様を信じて神様の恵みに生きることがどんなに幸いかな、と思います。皆さんも恐らくそう思うことでしょう。できるだけ多くの人に、できるだけではなく、ぜひすべての人々が信仰に入ってほしいと願います。なぜなら、その方が幸せになるに違いないと思いますから、熱心に勧めるのです。ところがなかなか……、せっかくこんな素晴らしい生活があるのにどうして信じないのだろうか、と思います。イエス様というのは分からないけれども、救いを求めてといいますか、自分の人生を変えたいとか、いろいろな理由はあると思いますが、初めて教会を訪ねて来られる方は年間に何十人かいます。


ある方が人生に行き悩んでといいますか、結婚したけれどもなかなか思うように事が進まない。それどころか相手の人が他にも女の人がいて何かややこしい関係になっていたのです。そのことで悩んで教会に相談に来られました。私は「そういう問題も大変な悩みですが、まず人としての生き方の根本は、神様に立ち返って、神様に解決していただくのです。神様が備えてくださる道筋があるから、それを求めていらっしゃい」と勧めました。その方はそれから一生懸命に励んで、礼拝、伝道集会など、欠かさず来られるようになりました。熱心に励んでおられました。「神様は素晴らしいことをしてくださるな」と、私は期待をしておったのですが、ところが、ある日突然パタッと来なくなったのです。「あら、どうしたのだろう」と、ご本人に聞いてみた。「いや、他のことで、離婚の手続き上、いま忙しくてちょっと教会に行く暇がありませんので、そのうち暇ができたら行きます」と。こちらもそれ以上は何も言えませんから「それじゃお待ちしておりますから、暇になったら是非来てください」と言ったのです。せっかく素晴らしい所に導かれたのですが、とうとうそこから離れて行きました。

聖書にイエス様が「滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い」(マタイ 7:13)と語られています。多くの人々は滅びに向かっている。しかし、救いにあずかる「命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」。私はしみじみとそのことを思います。また、一人の方はご夫婦であるとき教会を訪ねて来られました。そして「何としても、家庭の悩みもあるし、自分たちの人生の生き方を変えなければいけないと思うから、励んでこれからイエス様のことを知りたい」と。奥さんは別の教会に行っていたのですが、ご主人はまだ未信者の方でした。そしてお二人で熱心に励んで来られました。ご丁寧に私どもをご家庭に招いてくださってごちそうもしてくださるし、熱心に主を求めておられると、期待をしておったのです。私も祈っていました。実は一つの問題があったのです。息子さんのことだったのですが、あるときご両親がニコニコして礼拝にやって来られた。「ちょっと先生、お話があります」「何ですか」「いや、先生、お祈りしていただいた息子のことでありますが、これがこういう風になって、いちばんいい形で解決して、うれしくて感謝でなりません」「よかったですね」と、ともに喜びました。ところが、次の週からパッタリと来なくなった。こういうことに私は子供の時から慣れていますから、あまりショックはないのですが、しかし、イエス様の救いにあずかるということは難しいと思います。

神様は皆さんの大切な物を取り上げようというわけではない。命を取ろうというわけでもない。むしろ恵もうとしてくださるのです。ところが、なかなかその道へ行かない。これは当然と言えば当然です。というのは、神様の力がなくては、神様の選びと召しといいますか、神様がその人を捕えてくださらなければ、人がどんなことをしてもその魂が変わること、神様を信じることはできないのです。いろいろな知識として、神様のことを研究する人たちはいます。だから、聖書を隅から隅まで知り尽くして暗記するように学んでいる学者もいます。しかし、だからといって、信仰に立って、実際の生活の中でよみがえったキリストと共に生きる、主の霊に満たされて、御霊の導きに従って、感謝、賛美、喜びに輝いているかというと、必ずしもそうではありません。だから、信仰に立って生きることは、人の力やあるいは事情や境遇、事柄によってなり得ることではない。恐らくここにいらっしゃる皆さんもそうだと思うのです。皆さんもそれぞれ何かの切っ掛けがあり、具体的な問題や悩み、あるいは何かに誘われて教会に足を踏み込んだ。それから捕えられてしまって気がつかないうちに半世紀近くたってしまった方、まさに自分の計画ではない、自分の思いではない。そこに不思議な、私たちを越えた大きな力が働いて、私たちの心を神様に結びつけてくださった、一方的な神様の恵みがあるのです。


そのことが16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」と言われます。神様が私たちを選んでくださったのであって、私たちがこの信仰、この道、この御方に信頼しましょう、信じましょうと、すべてを知り尽くしたうえで、また他のものと比較したうえでここに決めた、というのではない。スーパーに買い物に行くとき、必ず選びます。山積みしているトマトだとかきゅうりだとか、野菜があります。その中から賞味期限を気にして奥のほうから引っ張り出して選ぶでしょう。少しでもいい物を選びたい。選ぶというときは、他の物と比べます。そして自分で決定します。帰って来て、冷蔵庫にしまおうとすると、「しまった。これはここが痛んでいた」と悔やむ。「あのときちゃんと見ておけばよかった。見落とした」と。しかし自分が選んだのですから、文句の言いようがない。自分の責任でありますから諦めざるを得ない。


私たちが「この神様を信仰して行きましょう」「この神様を頼りとして行こう」と、自分で選んだのならば、あくまでも自分の責任が問われます。だから「これは役に立たない」あるいは「これは期待外れだった」と、そう言って捨てて行くことはあります。だから、先ほどお話した方のように、教会に来ていながら、せっかく入口まで立っていながら離れて行く人たちは、自分で選ぼうとしているからなのです。実は私たちも自分で選んだつもりのようですが、その背後に実は神様のご計画がひそかにあるのです。


「エペソ人への手紙」1章3節から5節までを朗読


5節に「わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さった」とあります。私たちを神の子にしようと、神様のほうが決めてくださった。「あらかじめ定めて下さった」。前もって決めてくださった。しかも、私たちがまだこの世にまだ姿かたちもなかったとき、4節に「天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び」とあります。神様の壮大なご計画でありませんか。私たちがまだ姿かたちもなにもないときに、既に将来この世に命が与えられるべき私たち一人一人の人生を全て知り尽くして、そのうえで「この者をわたしの子供にしよう。救いにあずからせてあげよう。信仰に引き入れてあげよう」と決めてくださった。神様のほうが一方的に決めてくださった。そして、時を定め、事柄を置いて、いろいろな問題や悩みを私たちのうちに置いてくださって、そこからここへ引き入れてくださった。いま私たちがイエス様を信じる者とされたのは、自分の努力や、自分の力、自分の計画によるものでは一切ありません。実は全ての背後に神様の選び、神様が私たちに目を留めてくださった、このことを忘れてはならない。これは神様の恵みなのです。いま、誰でもそれにあずかることができるのです。神様は全ての人を救いに導こうとしておってくださる。だから、いろいろな問題を与えておられるのですが、なかなかそのことに気づかないままに神様の手からスルーッと抜けて行ってしまう。本当に気の毒な話であります。しかし、私たちは今この恵みに引き入れられて神様の選びの中に置かれている。この恵みをしっかり自覚したいと思うのです。


先日も一人の姉妹のお証詞をうかがったのですが、その方は信仰に導かれて半世紀以上たちます。ご主人もクリスチャンでクリスチャンホームを築いて、子供たちが与えられて、それぞれ信仰に導かれて家庭を築いている。今振り返ってみると、その方は「どうして自分はこういう幸いな恵みの中に置かれているのだろうか、とつらつら振り返ってみると、本当に不思議としか言いようがない」と言われる。その方がまだ高校生ぐらいの時にお母さんを亡くした。それまでお母さんとの生活の中で、戦後の苦しいつらい生活をしていた。お父さんがいろいろな問題を起こすために、お母さんが苦労をした。そういう苦労したお母さんは何とか救いを求めてと、その当時創価学会が盛んになり始めた時期、昭和の30年代初めぐらいですか、お母さんも生活の苦しみに耐えかねて何とか救いをと、創価学会に行くようになった。そのとき、その方はまだ中学生ぐらいだったけれども、お母さんに連れられて創価学会の集まりに熱心に通(かよ)ったと。ところが、どういうことであったかその具体的なことは分からないけれどもお母さんは創価学会をやめてしまった。それでおしまいかと、今度は金光教に行くようになった。その方が高校受験の頃に自分もそこに連れて行かれて、そこの人たちは親切に優しく自分たちの家族を受け入れてくれた。ところが、それから金光教をやめてしまってお母さんは亡くなった。そして彼女は独りになった。そして、不思議な導きによってその方が教会に導かれてイエス様の救いにあずかった。それからクリスチャンの男性と結婚し、家庭を築いて、それはいろいろな悩みや困難もあり、平坦な結婚生活ではなかったけれども、そこで心豊かに平安を与えられ、望みに生かされて今、今日ここに至っている。「自分の人生を振り返ってみると、創価学会に行っていても当り前、金光教であっても当り前、どうして私がこのイエス様だったのだろうか、このキリストに出会うことになったのだろうか。それはどう考えても分からない。ただ、神様の一方的なご計画があり、導きがあったとしか言いようがない。そして、幸いな今という時を家族ともに主をあがめる、褒めたたえることはどれほど感謝していいか分からない」と言って、自分の人生をもう一度振り返ってこの大きな神様のご計画の中に生かされて来たことをしみじみと喜んでおられるのです。私はその方のお証詞を聞きながらまことに不思議としか言いようがない。


いま私たちはこうやってイエス様を信じることができる信仰に導かれたことが、神様の一方的な選びであり、恵みによる。だから「神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである」と「コリントの第一の手紙」(15:10)に語られています。まさに恵みです。


ですから、「ヨハネによる福音書」15章16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」。私たちはいま自分でこのイエス様を信じているのではなくて、神様が憐れみをもって私を選んでくださって、イエス様を信じる者にしてくださった。この選びをしっかりと握っておきたい。そうしませんと、私たちが何のためにこの信仰に導かれたか? 自分の気分に応じて「私が好きだから」「私がこうしたから」と勝手な考えに翻弄される。信仰生活で上手くいかないことがあると、すぐ「私は信仰をやめます」と言う。それは自分で選んでいると思うからです。そうではなくて、何があっても神様が捕えてくださった、選んでくださった。そして私たちを立ててくださった。6節に「そして、あなたがたを立てた」と語られています。「あなたがたを立てる」というのは、神様が一つの目的を持って私たちを選んだことに他なりません。選んだと言われる以上、何かの使命があるわけです。神様は私たちをただご自分の楽しみのために選んだのではないのです。私たちを選ぶにはそれなりの目的がある。そのために選んだのです。ですから、選ばれている自分であること、このことをしっかりと心にとどめておくこと。と同時に、その選びには使命、目的がある。それは何かと言うと、「あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり」、私たちが実を結ぶ者となることです。「実をむすぶ」と言われると、「これから何をするのだろうか」「何をしなければいけない? 」。私たちが頑張らなければいけない。神様のために実を結ぶ、役に立つ人間になる。「これは大変なことになった」。選ばれたはいいけれど、何か大きな重荷をドーンと負わされた思い。「お前を選んだのだからこれから頑張れよ、しっかりやれよ」と、「はい、頑張ります」という意味で選んだのか、そうではないのです。確かに選んでくださった、それは実を結ぶのですが、どうやって結ぶか。そのことは既に15章の前半の所に語られている。


「ヨハネによる福音書」15章4節に「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない」。


どうやって実を結ぶか、それはキリストにつながる以外にないのです。ここにありますように「わたしにつながっていなければ実を結ぶことができない」と。神様は私たちを選んで、実を結ぶ者となれ、とおっしゃいます。そう言われると、何か私がしなければいけない。私に与えられた課題、私たちに与えられた何か使命が「私が頑張らなければいけないのか。私は力もないし、知恵もないし、体力もないし、年も取ったし、これからいったい何をすればいいのか」と思ってしまいます。そして失望します。ところが、イエス様が言われる「実を結ぶ者」とは、取りも直さずイエス・キリストに密着すること、つながって行きなさいと。イエス様に連なって行くこと、これが実を結ぶ秘けつです。だからぶどうの木のたとえをイエス様は前もって語っておられるのです。


5節に「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」。


私たちが実を結ぶ秘けつはただ一つだけ、それはいつもイエス様に結びついておくことです。イエス様にくっ付いて行くとはどうすることか? それは私たちの内に注がれて来る神様の霊、キリストの霊に絶えず心を支配していただくこと、これに尽きるのです。朝起きて夜寝るまで、毎日の生活の一つ一つなす業、語る言葉、全てのことについてキリストに結びついて行く。「主の御心はいかに?」 「神様が私に今日このことをさせてくださっているのです」と、信仰に立って生きること、これだけです。だから、朝起きて夜寝るまで自分のしたいこと、好きなこと、人から頼まれたこと、家族の求めることに仕方なしに「嫌だな、仕方がない」と、右に左に様々に振り回されて、不完全燃焼といいますか、満足の行かない一日を過ごしやすい。その思いの中に何があるか。キリストのために生きているという思いが消えている。自分の満足、自分の願いを、自分の思いを遂げようとすることを求めていますから、それが家族によって妨げられたり、義理人情という様々な人のしがらみのゆえにそれが上手くいかなかったり、自分がそうしたいと思いつつ健康の理由があったりいろいろなことで不満足、物足りない。一日が「生きていて良かった」と言えないで過ごしてしまう。それでは実を結ぶことはできない。

イエス様につながって生きることは、一日一日、一つ一つのなす事柄の中で「主が私に求めておられる」、「イエス様がいま私に託してくださったことです」と信じる以外にないのです。これは他人(ひと)が信じるのではなくて自分が信じるのです。いまこのことを私に求めておられる、と信じて感謝し従う。これがキリストとつながることです。外側から見ると「あんたは好きなことをしているね」と思われるかもしれない。これは人一人一人の事柄でありますから、外目では分からないのです。大切なのは、私たち一人一人が「これは主の業であること。神様が私にこのことを託してくださった、主のために生かされている私である」ことを信じていることです。たとえ、それが自分を楽しませることのように思えても、「主がこのことを私に与えてくださった恵みです」と、感謝して受けるとき、どんなことも喜びであり、平安と望みが伴ってくるのです。それが欠けていますと「こんなことをしていいんやろうか。あの人が何か言わないだろうか。このことはやめておいた方がよいかもしれない」と、人を見、世を見、様々なことにあれこれと心が千々に乱れて、せっかく神様が恵もうとしてくださる恵み、言い換えると、実を取り逃がしてしまう。これが私たちの失敗です。


ですから、5節の「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」と。つながっておりさえすればいいのです。いつもイエス様を心の中心に置いて行くことに他なりません。「このことは主が私に求めておられることです」「これは主が私に許してくださったことです」と常に神様と私、この結び付きを持ち続けて行く。どんなことも主のために、キリストのためにという確信を持ち続けることが大切です。それはどうやったら確信が得られるか? 人から保証されたり、何か基準に合っているから大丈夫という話にはならないのです。「いま主が許してくださっている」と、自分が信じる以外にないのです。イエス様が私たちをそこに置いて、導いてくださっておられるのです。ですから、その確信を持つことがキリストとつながることであります。日々の生活のどんなこともキリストにつながって行く。そうしますと、何をしても心に平安があり、喜びがあるのです。それがないと何かしたとき、その後に決して満足がありません。


いま家内の母が老人介護施設に入って、お証詞していますように半身が不随、不自由になりまして全面的な介護を受けています。そうしますと、いろいろと気に入らないことや不満なことがあり、娘である家内にぶつけてくるのです。幸いにというか、不幸にというか、頭がすっきりしているわけです。体は動かないけれども頭の回転は良く、このバランスが悪いのです。そうすると厳しいことを言われます。聞いていると私も「つらかろうな」とは思いますが、そこはやはり我慢しなければいけない。そうすると「こんな母親なんか捨ててしまいたい」と思うでしょう。そこのところです。今そういう状況の中にお母さんが置かれている。自分がそのお世話をしなければならない立場に置かれている。弟がいるけれども遠く離れているから、どうしても家内に全面的に掛ってくる。それを仕方なしに負おうとすると、つらい、苦しいばかりです。だから精いっぱいやる。見ているとそこまでしなくてもいいと思うぐらいに母親の要求に応えている。しかし、母親としてはそれでもまだ不満足なわけです。それで「まだ足りない」「まだこうしてほしい」といろいろなことを言われる。本人としては「何とかしてお母さんのために」と思う。ところがお母さんがそれを評価しないといいますか、良しとしない。そのため不満がたまる。私はそれを見ていて気の毒というか、何かしてあげられればいいのですが、何もできない。聞いてやる以外にありませんが、そこでもう一つ大切なことは、親だからこれをしてやらなければいけないと思う思いがあるかぎり、必ず行き詰る。このことはイエス様が与えてくださった私に対する使命、果たすべき事であること、そして主に喜ばれる者となろうと、そこに思いを向ける。これ以外に救いの道はない。私は家内にそのことを繰り返し話します。やっと最近、そういう思いに心を整えられて変わって来まして、だいぶ落ち着きました。


これはキリストのためであることを感謝して受けて行く。そうしますと、そのしていることが喜びになります。心に平安がやって来ます。おのずから何を言われても相手に対して平穏な心で接することができる。私たちの目を目の前の人に置くのではなくて、主につないで行くこと、キリストにつなぐこと、これがキリストに連なって行くことです。そうしますと、一日が感謝になるのです。「今日もこのことを主がさせてくださった」「このことも主の御心に従わせていただいた」と。どうぞ、一日を終わるとき「今日も私は、イエス様、あなたに従うことができました」と、心から祈られるように生きようではありませんか。「いや、そんなことは到底言えません。まだ自分のしたいことがたくさんあるから」と言われますが、自分のしたいことすらも「主が与えてくださった恵みです」、「主がよしとしてくださったからさせていただきます」と、受けるのです。自分の願いだから、自分がしたいからしているのだ、と思っている間は駄目です。自分がしたいことをして自己満足して「してやったり、私は夢がかなった」と言うのだったら、それっきりでその後に喜びがない。ところが、私のしたいこと、たとえそれが長年の夢であったとしても、主が許してくださらなければできない。たとえ私がしたくてもできない。


先だっても2週間ほど旅行をさせていただいたのですが、家内は「こんな旅行をしてどう思われるかしら、半分にしておこうかしら」と心配する。私は祈って、主が許してくださったのだから、誰にどう思われようと、これは主の与えてくださる喜びですから、私はちっとも気にならない。「こんなことをしたら、自分勝手なことをしているようで、先生に言ったら叱られそうやから黙って行きましょう」と、そういうことを言われますが、その必要はありません。ご本人が「今これは神様が私に与えられる恵みの時で感謝です」と、感謝して行けばいいのであります。神様は決してとがめる御方ではない。神様は皆さんに願いを与え、思いを与え、それを実現に至らせようとしてくださる(ピリピ 2:13)。「いや、私だけがこんな楽しいことをして、温泉につかっとるわけにはいかん」と思いながら温泉にいますから楽しめない。帰って来て財布を開いて「空っぽになった。行かなければ良かった」と悔やむでしょう。そうではない。キリストにつながって生きるとは私たちのしているどんなことも主によらないものはないのだ、と認めていくことです。「いま主が許してこのことをさせてくださる」、また「自分の嫌なこと、つらいことかもしれないけれども、イエス様が『このことをお前がやってくれよ』と言われるなら、私はキリストのためにさせていただこう」と感謝してする。ここがいのちの実を結ぶことです。そうしますと私たちの心は穏やかで平安に、しかも寛容になることができ、愛をもって接することができる。これはぜひ実行していただきたい。イエス様にしっかりと連なること。そうしますと、人のためでも仕事のためでも、社会のため、家族のため、誰のためでもない、主のために、実を結ぶ。実を結ぶとは、私たちの心がキリストの姿かたちに変わって行く。栄光の姿に私たちは造り変えられて行くのです。その実とは何か? 


「ガラテヤ人への手紙」5章22節から24節までを朗読。


22節以下に「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない」と。御霊の実、私たちがキリストに結びついて生きる生活の中で、私たちの心に、思いの中に愛があふれてくる。喜びに満ちて、穏やかな平和が心を支配してくる。そして寛容な心をもって、広やかな思いをもって人に接する者となる。また慈愛をもって事にあたることができる。良き思いをもち続けることができ、忠実に一つ一つの事柄を全うする、正しく行うことができるのです。これを自分の力でしようとしてもできません。「平和でありたい」「心を平和に」と叫んでも、平和なのは一瞬だけです。後は常にいろいろな思いがぶつぶつ湧きあがって来ますから。しかし、御霊の実、キリストに連なって行くとき、生活のどんな事の中にも平和があり、喜びがあり、感謝があふれてくる。だから、人に喜ばれようとか、誰かに認められようとか、あるいは自分の思いを遂げてやろうということではなくて、常に、主に召された私たちがキリストに連なる者となること、そのために選ばれた。それが私たちの使命であります。そうしますと、おのずから心が整えられ、清められ、変わって行くのです。内なるものが造り替えられる。外なる皆さんの顔もきれいになります。私たちの心を変える秘けつは、キリストにつらなる者となること。どんな小さなことも大きなことも、なす業の一つ一つを主のために、キリストのためにと徹底していく。


「ヨハネによる福音書」15章16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」。イエス様が私たちを選んでくださって、ぶどうの木でいらっしゃるイエス様に私たちをくっつけてくださったのです。このキリストから離れないで、どんなことの中にも主の御心を信じて、今日も主に仕えている自分であること、主に生かされ、主と共にある自分であることをしっかり自覚して、感謝して一日を過ごそうではありませんか。そこに実が実り「その実がいつまでも残るためであり」、いつまでも残る。その実、私たちの心に生まれてくる愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制、御霊の実は消えることがありません。私たちに実が付いたらそれはいつまでも私たちのうちにとどまっています。その後にもう一つ約束があります。「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さる」。イエス様の名によって祈る祈りに神様は答えてくださる。こんな素晴らしい生涯に私たちを引きいれてくださった。私たちは選ばれた者であります。この大きな恵みを失うことがないように、また大いにそれを活用して、私たちの人生を心豊かに、喜びと平和と望みと愛と寛容な心となって、主に喜ばれる者となりたいと思います。


 ご一緒にお祈りをいたしましょう。