福音に生きる

「ヘブル人への手紙」4章1節から3節までを朗読。


 2節「というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである」。

1節に「神の安息にはいるべき約束」と記されています。これはエジプトでの奴隷の生活から救い出されたイスラエルの民の犯した大きな失敗に言及したものです。奴隷の生涯から救い出されて、神様の約束の地・カナンを目指して旅立ってまいりました。神様は「カナンの地はあなたがたにとって安息の地」であり、そこで神様の恵みにあずかる幸いな生活を約束してくださいました。「乳と蜜の流れる地」という言葉でそのことが表現されていますが、「乳と蜜の流れる」と言っても、川に行ったらミルクが流れているのか、というような話ではありません。そういう豊かな恵みにあふれた地であることを比ゆ的にあらわしたのです。

彼らは、神様の約束を信じて荒野の旅路を耐え忍びました。決して楽な旅路ではありません。荒野でありますから大変厳しい環境の中での旅路です。他民族との戦いもありました。しかし、彼らに与えられていた希望は「カナンの地は素晴らしい所だ」という、神様の約束を信じて、それを希望として困難な旅路をたどったのです。いよいよヨルダン川の近くのパランの荒野にあるカデシという所まで来ました。神様はそこで一つの試みを与えられたのです。12部族から一人ずつ代表を選んで、これから入って行こうとするカナンの地を探らせる。そこにどういう生活があるのか、そこにはどんな人がいるのか、食べる物や習慣にしろ、いろいろと見て来る、というわけです。調べに行ったのです。

40日間にわたって調べ回り、やがて戻って来ました。彼らは人々に報告をしました。その一つは、確かに約束のとおりに、そこは“乳と蜜の流れる”素晴らしい実り豊かな大地であること。その証拠にそこで収穫した果物などを持って来ました。それを見てイスラエルの民は大喜びをしました。「早く行きたい」と願いました。ところが、もう一つニュースがありました。そこには巨人族の子孫がいて、堅固な町があって、強い民がいて、到底自分たちが入って行って攻略できる、攻め取ることができそうもない。ひとたまりもなくやられてしまうに違いないというニュースです。それを聞いて期待が大きかっただけに、彼らはガックリしたのです。「これは大変、そんな所へ行ってどうする」と失望落胆して、とうとう指導者であるモーセやアロンに文句を言いました。「エジプトの地へ帰ろう」と。これがまず大きな失敗でありました。彼らは神様の約束を聞いてはいたのです。「カナンの地をあなたがたに与える」という約束です。それを実行なさるのも神様なのです。いうならば、最後までその約束の言葉を信じて踏み出して行くことが最善の道であったのですが、彼らは見聞きした事に心が奪われてしまい、とうとう神様に対する信仰を失ってしまうのです。「こうなったら、エジプトにいたほうがいい」とか、「こんな所で死ぬぐらいならエジプトに帰って死のうではないか」と、人々はモーセとアロンに背(そむ)きました。そのときにヨシュアとカレブは「主にそむいてはなりません。またその地の民を恐れてはなりません。彼らはわたしたちの食い物にすぎません。彼らを守る者は取り除かれます。主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません」と言って、彼らをなだめたのです(民数記14:9)。

しかし、時遅しであります。神様はお怒りになって、「彼らをカナンの地に入れない」と言われたのです。そこでモーセは執り成して、取りあえず神様は一つの条件を出されました。カナンの地を探った40日の1日を1年と数えて、「40年間もう一度荒野の旅路をせよ」と。これは大変厳しいことになりました。40年もたったら、そのとき神様に背いた世代の人たちは大抵死に絶えてしまいます。代替わりをします。そこまで神様は待ちました。カナンの地を目の前にしながら、そこに入ることができなかったのは何であったか? それは不信仰と言えばそのひと言で済みますが、神様の約束の言葉を信じなかった、それを行わなかったことです。


 よく言われることですが、「信仰は信じることが中心であって、行いは必要がない」と言われます。ルターがかつて「人が義とせられるのは、ただ信仰のみによる」という、「ローマ人への手紙」(1:17)の言葉を掲げて宗教改革を行いました。それ以来「信じること」、信じさえすればいいのだ、ということが中心になる。確かに「信じれば良い」と、まさにそのとおりでしょう。信じさえすればいいのですが、「信じる」とはどういうことなのか? 


 「ヤコブの手紙」2章14節から20節までを朗読。


 ここに「行いのない信仰」ということがいわれています。「これは困ったな、何かしなければいけないのかな」と、思われるかもしれません。17節に「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである」と言われますが、このときの「行い」とは、世で言うところの道徳的な、倫理的な、そういう品行方正、人助け、世のために役立つ業をする、そういう意味での「行い」では決してありません。ここにありますように、「信仰に伴う行い」とは、御言葉、神様を信じること、その信じることによって当然生まれて来る具体的な歩み、これが「行い」であります。私どもはイエス様を救い主と信じます。そのときイエス様のお言葉を聞いて、「良いお言葉だ」と言って、聖書の言葉を喜び、感謝もしますが、それを読むだけに終わってしまう。それはまさに「それだけでは死んだもの」です。ただ単に聞いて、その瞬間、心が晴れやかになった、何か気分がさっぱりしたと、まるで温泉にでも入ったよう気分になる。聖書のお言葉を聞いて「なるほど、神様はこういうことを言ってくれる。有難いことだ。感謝、感謝。ところで、あのことは困ったな」と、聖書のお言葉と現実とが遊離、離れてしまう。これがここで言われている「行いを伴わない信仰」です。

神様を信じるならば、当然いろいろな事の中であり方が変わってくるはずです。御言葉を解き明かされて、「良い話を聞きました」となれば、その次に「では、これからどうしますか」という話になる。すると、それはこちら側に置いておいて「あれはどうなったか。あれが足らない」、「これはどうしようか」と、多くの場合、ついそのようになるのです。心配な事がある、あるいは思い煩いがある。「いま目の前に問題が起こって来た。だからどうするか」と迫られるとき、「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ14:1)と聞いていながら、「いくら神様だって、これはちょっと無理かもしれない」と、その言葉をいま現実にある自分の心の状態につなぐことをしない、あるいは、これからしようとすることとの結びつきが離れてしまう。言葉は言葉、現実は現実と、二つに分かれた生き方をすることは、死んでしまう。


だから、17節に「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである」と。信じるならば、信じたごとく踏み出して歩むこと、それが必ず伴わなければ信仰とは言えない。そこまでが信仰なのです。信仰とは、ただ言葉を信じて「信じております」というだけではなくて、信じた結果、それに伴って具体的な行動が当然出てくるわけです。イエス様の「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ 28:20)という言葉を聞いて、「今もこの瞬間も主は私と共におられるのだ」と信じているかどうか。信じていたら、今、自分がしていることはイエス様に見られて恥ずかしくないか、と問わざるを得ない。また、そうしますと、自分の歩みとか、言葉とか、いろいろな事態が変わってくるはずです。だから、変わらないというのは、言葉を信じていない。いうならば、信仰が死んでいる。


 「ヘブル人への手紙」にありましたように、イスラエルの民に「あなたがたにカナンの地を与える」と、安息を与えてくださるという神様の約束を信じてエジプトを出たのであります。せっかく出たのにいよいよ直前になって見える状態や聞くおとずれに心が惑わされてしまう。神様の言葉を信じて、それに自分を結びつける。困難があるかもしれない、死ぬかもしれない、いろいろな不安や心配がある。何があっても、神様が約束してくださったのですから、「主よ、従います」と踏み出すこと、それが“行い”、信仰です。そこまでが信仰に含まれる範囲です。その半分の所ですっぱり切れてしまって、後は自分の考え、世の中の仕来たりや習慣やいろいろなもので済ませてしまうといいますか、それで何とかやって行こうとします。そのために信仰がいつまでも床の間の置き物、飾り物のようになっているのです。だから、御言葉の命にあずかる、神様の恵みを受ける秘けつはそれを自分に結びつけることです。


「ヘブル人への手紙」4章2節に「というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである」とあります。いま私たちに福音が伝えられている。喜びのおとずれであります。神様は私たちを愛して、ひとり子すらも惜しまないで十字架に命を捨てて、私たちの罪をあがなって赦してくださいました。もはや私たちは何もとがめられるものはない。私たちを罪に定めるものはもはやない、といわれます。それは大きな喜びではないですか。それがいま私たちの生活のどこに具体的に結びついているか? 


家内の母が昨年(2011年)11月に脳溢血を起こして半身不随になった状態で、一命を取りとめました。その結果、極めて不自由な生活の中に置かれる。ところが、幸いに言葉はしっかりしています。思考力や記憶力も、年齢や病気の後遺症もあるでしょうから忘れっぽくなっていて、過去と現在がゴチャゴチャになって滑稽(こっけい)な話もありますが、取りあえずは年齢相応の力があります。今は老健センターという施設に入居しています。そこでもすんなりと物事は行かない。娘である家内は、やはり見るといろいろなことで動揺します。もっと自分がしてやれるのではないかと。母親は娘に頼りっきりですから、施設にいるといろいろと不都合なことがあり、また気に入らないこともあります。「早くここを出してほしい」と、食ってかかられました。でも、どこにも行きようがない。「ここにいなければ他に行き場所はないのだ」と言わざるを得ない。強く言ったけれども、それですっきりしたかというと、そうではない。今度は自分を責めるのです。「もうちょっとしてやれるのではないだろうか、してやりたいのだけれどできないし、できない自分は駄目なのだ。本当に足らないだらけだ」と、それで落ち込みます。

ところが聖書にはそうは書いてないでしょう。私たちがなぜ落ち込むかというと、己(自分)を義としているところがあるのです。「自分がしなければいけないのだ」「こうしてやるべきなのだ」と、そういう娘としての責任感が問われているように思う。聖書はそうではありません。まずもって私たちはイエス・キリストを信じて、十字架に死んで「最早(もはや)われ生くるにあらず」(ガラテヤ2:20文語訳)なのです。たとえ親子であろうと、母親であろうと娘であろうと、その関係は既にリセットされて、いま在るは「キリスト我が内に在りて生くるなり」。いまイエス・キリストによって生かされている。では、母親との関係は何か? それはここで負うべき重荷として神様が私に託しておられるのであります。その受け止め方の根本が違う。ところが、いつまでも肉親の情のようなものが根深くくっ付いていますから、抜き難いのです。そういう思いがあるものですから「もっとすべきじゃないのだろうか」、「もっとしてやらなければいけない」、「いや、こんなにまでしてやるものか」などという感情が常に動きます。そして心が荒れます。私たちが信仰に立つところはそこなのです。

「行い」とは、まさにそこです。「我キリストと偕(とも)に十字架につけられたり」と信じるなら、「そうだ。イエス様が罪をあがなってくださって、もはや誰も、もうあなたの罪は問わない、あなたは赦された」と宣言を受けたのです。そうでありながら、「あれが足らなかった。悪いことをしてしまった」、「ああでなくて、もう少しこうしておけば良かった」と、自分を責める。それは神様が責めておられるのではありません。神様は「それでよろしい」と言われている。私たちの欠けた所、足らない所、何もかもご存じで、私たちにこの重荷を負わせてくださった。負わせてくださった御方は共に荷を負うてくださる御方でもあります。聖書にあるように「 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ 11:30)と。「わたしとくびきを共にして」といわれている。信仰に立つとは、聖書のお言葉を信じて、現実のいま目の前の問題とそれを結びつけなければならない。

昨日の朝日新聞でしたか、介護で悩みを持つ多くの人たちがそうやって自分を責めるとの記事が出ていました。殊に子供たちが親を責めてみたり、自分を責めてみたり、疲れ果てる。その記事には「『私はこれでいいのだ』と、自分に言い聞かせるべきである」と書いてあるのです。家内はそれを読みまして「いい記事があった」と。私は読まなかったのですが「『実はそんなことで自分を責めて悩むことはいらない。あなたは精いっぱい、力いっぱいしているのだから、それでいいのだよと、自分を認めて行くことが大切だ』と書いてあったと。だから、自分も今はそういう気持ちで母にしてやれなかったこと、不足していること、足らないこと、できない自分を責めていたけれども、私は精いっぱいさせてもらった。もうこれでいい。自分をほめてあげたい」と言う。「それはいい話だね」と「でも、それは前から聖書で言っているよ」と。

神様は私たちに「和解の福音をゆだねられた」(Ⅱコリント 5:19)というのはまさにそこです。「誰があなたをとがめるのですか」といわれる。神様が「よし」とおっしゃっている。十字架に全てのものをあがない尽した。十字架のあがないとは、完璧な一つとして不足のないあがない。それを信じて、それを自分に結びつけなければいけません。それを知ってはいるけれども、現実の問題ではなかなか結びつかない。新聞記事には案外スーッと上手い具合に乗ってしまう。これは神様が教えてくださったのだと思います。そこでもう一度改めて私たちが受けている福音とは何か?私たちはもはやイエス・キリストのものなのであって、主が知恵を与え、力を与え、するべきことを導いてくださって……、その結果、相手が満足するかどうか分からない。分からないけれども、主が「せよ」とおっしゃることを精いっぱいさせていただき、神様に感謝するのであって、相手が納得するとか、満足するとか、喜ぶなど、それはもはや問われない。神様がそれを握っていらっしゃる。そこに立つのが私たちの信仰、イエス様が与えてくださる福音ではないか。そういう話をして、家内の気持ちが少し変わったのではないかと思います。本人が御言葉を信仰によって結びつけて行く。現実の事柄に合わせて行く。これが大切です。そうしないといつまでたっても安息、心の平安は得られません。人がどんなに「あなたはようやっているよ。頑張っているからそれでいい」と、そばでいくら言っても、本人がどうしても納得できない。「もう少し、ああでなければ……」と思う。そして、母親から「私はつらい」とか「苦しい」とか「寂しい」と言われると、強く拒みはするけれども、叱咤(しった)激励するけれども、そうしている自分が情けなくなるわけです。その中でイエス様はどこにおられるのか。そこで信仰が問われます。「信仰に立つ」ということ「信仰に生きる」ことがどういうことなのかをしっかりと考えておきたいと思います。また自分自身のものとしておきたいのです。


2節後半に「しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである」と。だから何をしても神様が「よし」とおっしゃってくださるのだから、神様の愛の中に感謝してとどまることが大切です。「信じています。でも心配です」。「信じている」と「心配」とはどのように両立するのか、それは相矛盾する事柄です。だから、いつもそこで信仰の側に立つことです。神様の側に自分を置いて行くことが幸いな恵みであります。「その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである」。信じて行くことです。


「ルカによる福音書」5章1節から6節までを朗読。


これはイエス様がゲネサレ湖畔で集まって来た多くの人たちに神の国についてお話をなさったときのことです。ちょうどそこにシモンの船が漁を終えて仕事納めをしている、片付けをしていた。そこでシモンに頼んでイエス様は少し沖へ出まして、そこから岸辺にいる多くの人たちにお話をなさいました。幸か不幸か、シモンはイエス様のひざ元でその話を聞くことになるのです。恐らくそうでなかったら疲れていたので、さっさと家に帰って寝ていたかもしれない。ところが、彼は仕方なしにというか、やむなく船に乗せることになった。だから、イエス様がお話しなさっている間中、そこで聞いていた。話が終わって「これでもうおしまい」と思いきや、イエス様は何とおっしゃったか? 4節に「話がすむと、シモンに『沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい』と言われた」。唐突にイエス様はシモンに「今から沖へこぎ出して網をおろして漁をしなさい」と、これにはシモンもびっくりしたと思います。納得できない。というのは、そこで言っているように「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした」。夕べ一晩中働いたけれども何も取れなかったと。こんな時間に今からすぐに行って網をおろして取れるわけがない。自分のほうが専門家ですから、シモンは親の代から代々ガリラヤ湖で漁師をしている。イエス様は大工ヨセフの息子ですから、その方面はお分かりになるかと思いますが、漁のことは分かるわけがない。ずぶの素人(しろうと)が勝手に「沖へこぎ出せ」なんて、「そんな甘っちょろい」と思う。ところが、ここでシモンはどうしたか。確かに「夜通し働きましたが、何も取れませんでした」という、これは事実であります。それに対して今度は「だから、やめておきましょう」「いや、そう言われても無理ですよ」と断る手もあるのです。イエス様から脅(おど)されているわけでもない。そうしなければいけなかったわけでもない。イエス様の言葉を聞いたわけです。ところが、このときのシモンは船でイエス様のお話を聞いていたときに心が整えられていたに違いない。信仰が与えられていた。イエス様は人と違う、他の人と違う御方であると。だから、確かに夕べは一晩中何も取れないで仕事が徒労に終わった。「しかし、お言葉ですから」、せっかくイエス様がそうおっしゃるのですから、いうならば、主のお言葉を聞いて「網をおろしてみましょう」と答えたのです。でも「網をおろしてみましょう」という、そこまでは私たちもよく言うのです。「神様、はい分かりました。これからそのようにしたらいいですよね」と。その次です。6節に「そしてそのとおりにした」と。私どもにはこれが欠けるのです。

私どもは聞いてそのとおりにしない。「はい、分かりました。イエス様、そうですよね。イエス様がいつも共にいてくださる。安心ですよね。そうですね」と言いながら、「あれは、どうしようかしら。これはどうしようか」と「ああなったら、どうしようか」と思い煩う。信仰によって主の言葉を自分に結びつけて、シモンは「そのとおりにする」ことによって、初めて「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」というお言葉を自分に結びつけたのです。これが後の大きな結果になる。というのは、聖書のお言葉は神様のお言葉ですから、お言葉には力があり、いのちがあるのです。この言葉を私たちが取り込んで、そのいのちを開花させるといいますか、いのちを輝かせるには、それを信じて自分の生活の一つ一つの歩みに結びつけて行く、これしかないのです。だから、信仰は決して言葉だけの飾りではなく、私たちの実際の生活の一コマ一コマの事に結びついてくることです。結びついたとき、そこにいのちが、神様の力が、怒とうのごとく私たちの内に注がれてくる。私たちはたくさんの宝を頂いている。神様のお言葉を頂いていながら宝の持ち腐れです。


聖書を読んでいると、皆そうでしょう。アブラハムもそうです。「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」(創世 12:1)というその言葉を聞いて「はい、行けばいいのですね。じゃ、明日にしましょうか、明後日にしましょうか。いや、もうちょっと先にしましょう」と、先延ばしにしていたわけではない。彼はそれに従った。そして神様の示す地に行きました。またイサクが与えられて大喜びをしているときに、神様は「彼を燔祭としてささげなさい」(創世 22:2)と求められた。このときでも彼は「朝はやく起きて」と、ためらわなかった。というのは、イサクをささげても神様は必ず、私の世継ぎといいますか、「多くの民の父とする」(創世 17:5)という約束を必ずどんな形であれ、死人をも生かして、たとえイサクをここでささげて殺したとしても、そのイサクをよみがえらせることだっておできになると信じた。だから、そのとおりに具体的に実行したのです。「彼は朝はやく起きて、ろばにくらを置き」、モリヤの山に出掛けて行くのです。「いや、そのうち神様は許してくださるから、行かんでもよかろう」と、そういう横着なことしたのではない。ちゃんとお言葉を信じて、それに従う。私たちの信仰はそこでこそいのちにつながるのです。だから、御言葉をいくらでも聞いて、ただ聞き流して終わってしまう。行いを伴うものとし、その御言葉を自分に結びつけて行くことです。


 ノアもそうです。神様から「箱舟を造れ」(創世 6:14)と言われた。何のために造るか訳が分からない。その当時の人々から見ると変人です。「必要もない所にそんな大きな船を造ってどうする」と、でも彼は神様のお言葉を信じて、「ノアはすべて神の命じられたようにした」(創世 6:22)とひと言語られています。「すべて神の命じられたようにする」、これが信仰の行いです。聖書のお言葉を信じて、信じたとおりに踏み出して行く。これがいのちにつながる秘訣です。


 「マタイによる福音書」8章5節から10節までを朗読。


 一人の百卒長、ローマからの軍隊が駐留していましたから、これはイタリヤ人だと思います。その百卒長、部下が百人もいる隊長さんだと思いますが、その人は大変部下思いの人です。「中風でひどく苦しんで、家に寝ています」と、脳梗塞か脳溢血の病気でしょう。半身不随になって寝ていたのでしょう。イエス様がそれを聞いて「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。このときイエス様はえらく機嫌が良いのです。時々「いや、わたしは知らない、そんな者は」とおっしゃいますが、このとき「わたしが行ってなおしてあげよう」と。ところがこの百卒長は「ただ、お言葉を下さい」と言ったのです。「ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」。

なぜ「ただ、お言葉を下さい」と言ったかというと、9節以下に語っているように、軍隊ですから上官の命令は命懸けです。部下はそれを必ず守らなければならない。それに従わなければいけない。だから「行け」と言われたら、瞬時にさっと行かなければいけない。「止まれ」と言われたら、そこがどんな所でも止まらなければいけない。そうしないと命に関わるわけです。殊に激しい戦闘の中にあるとき、敵味方が入り乱れているときに、勝手な行動をしたら本人が死ぬぐらいならいいですが、一緒に行動する仲間がいますから、巻き添えをくう。そのために厳しく指揮官の命令に一糸乱れずサッと従うことが求められる。そういう生活を彼はしていたのです。だから9節に「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきます」。言葉が具体化して行く。言葉がただ言葉で終わらない。「行け」「はい、行きます」と言いながら、ジッとしているわけではない。あるいは「これをせよ」と言われたら「はい、明日します」ではなくて、すぐにしなければ間に合わない。そういう厳しい言葉の世界で、言葉が具体的な力をもったものであることを彼は知っていたのです。だから、イエス様、しかも神の御子でいらっしゃるイエス様、全てのものがそれに従っているのです。だから「お言葉を下さい。私はそれに従います」と、徹底した服従の信頼をイエス様に告白しているわけです。その後「ちょうどその時に、僕はいやされた」(13節)と、驚くべき結果につながる。聖書を読みますと至る所にそういう事態、事柄が語られています、証詞されています。


 いま私たちもこの聖書のお言葉を同じ様に聞いているわけであります。これが無駄に終わらないためにしっかりと御言葉を自分のものとして、信仰によって自分の行動に結びつけて行きたい。


 「ヘブル人への手紙」4章2節に、「というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである」。そうです。かつてのイスラエルの民がカナンの約束を得たときと同じように、私たちも「いま素晴らしい神の子供だよ」と言われている。また永遠の御国の生涯に私たちを移してくださるという約束を頂いている。だから、恐れることはないという。聖書は前途が開けた、輝いた未来を私たちに与えてくれる言葉です。それを自分の生活の中でしっかりと結びつけて、そのいのちを力を、またその輝きを頂いて行く者となりたい。


 「しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられない」、このようにならないために私たちは信じて、信仰に立ってお言葉に従って行きたいと思う。


 ご一緒にお祈りをいたしましょう。