真の礼拝

 「マタイによる福音書」2章1節から12節までを朗読。


 11節「そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた」。

今お読みいたしましたこの記事は、クリスマスの物語の一つの大切な場面と言えるかと思います。よくクリスマスの祝会などで子供たちが降誕劇というのをやりますが、必ず東の国から博士が出てまいります。博士は『三人の博士』という本もありますが、博士が三人であったと、聖書には書いていません。ただ11節にありますように「黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた」と、三つのささげものがあるから、これで三人ではないかと推測したのだろうと思います。ですから、クリスマス祝会で劇をするとき三人の博士が登場して、一人が一つずつ「黄金・乳香・没薬」という贈り物をささげる場面を演じます。

しかし、いずれにしても博士たちはどういう人であったかというと、当時東の国、これは恐らくメソポタミヤのバビロンの辺りバビロニヤ地方だろうと思いますが、その辺りから来た星辰(せいしん)術といいますか、星占いをする人たちのことであろうとよく言われています。彼らは天然自然の現象を解き明かしていろいろな事を予測する、予言する。当たるものもあるでしょうし、当たらないこともあったと思います。そういう知恵といいますか、能力を与えられていた人たちでありました。彼らは聖書を調べていたのです。聖書には星にまつわる記事がもちろん幾つかあります。


アブラハムが神様から「夜空の星を見なさい」と言われて、夜天幕から出て大空を仰いで、神様の大きな力といいますか、偉大さをそこで知って神様の前に謙遜になった記事があります。その他にも幾つかそういう星にまつわる記事があります。民数記を読みますと、やがて星が現れてその星によって救いがもたらされるという内容の記事も見られます。恐らくこの博士たちも旧約聖書やいろいろな書物を読んでいろいろな現象を現れてくる様々な出来事と結び付けて考えていたに違いありません。彼らはそういう古い文献、旧約聖書などを通してその星に導かれて、異常に光るといいますか、普段と違う星の動きを察知しました。彼らはこれがきっと旧約聖書に約束された救い主のご降誕に違いないと信じたのです。彼らがその星に導かれてやって来たのがエルサレムでありました。


 1節に「東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った」と。彼らはまずヘロデ王の所にやって来たのです。そして2節に「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか」。王様の所に来て「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか」と尋ねるのですから、なかなか勇気がいります。既に王様がいるわけですから、恐らく彼らはヘロデ王の後継者か何かが生まれたかと勘違いしたかもしれません。しかし、いずれにしてもそこへわざわざ訪ねて行っているわけであります。これを聞いてヘロデ王は3節にありますように「不安を感じた」のです。しかも「エルサレムの人々もみな、同様であった」と。寝耳に水でありますから、思いもしないことを博士たちが訪ねて来たので、これは世の中どうなるか、政権交代どころではない。大騒ぎになるに違いないという不安があったのであります。律法学者たちを集めて王様はそれを問いただしましたが、5節に「彼らは王に言った、『それはユダヤのベツレヘムです』」。

彼らも研究熱心であって知識が豊富でありますから、旧約聖書に語られている預言から、それはきっとユダヤのベツレヘムだと推測したのです。その根拠として6節以下に旧約聖書の言葉が引用されています。「ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう」。別の意味にも考えられますが、それらしくもあるという実に当たらずとも遠からずの表現であります。きっとこれに違いないというわけです。それで「ベツレヘムに行きなさい」と博士たちに勧めたのでしょう。

彼らは言われたとおりに出掛けて行きますと、9節に「彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった」。言われて出掛けて行きましたら、その途中で夜になったのでしょうか、夕暮れでしょうか、また星が輝いていた。「この星こそが自分たちをここまで導いて来た星であった」と。その星がとどまった所に来てみたところが、そこに幼子を見たのです。11節に「そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた」。読みますと、「なるほど、博士たちがその宝を持って来たのだな」と思います。実に一つの物語としてこれで完結しますが、しかし、ここであえてこの事を聖書が語っているというのは、何のためでしょうか?イエス様は決して拝むべき何物もないわけです。拝むにふさわしい見栄えも、有難さもない。馬小屋の飼い葉おけに寝かせられたふつうの男の子にすぎません。しかし、博士たちは聖書に預言された神様の約束の子であると信じたのです。


ここに大切な言葉ですが、11節に「ひれ伏して拝み」とあります。「ひれ伏して拝む」、殊に聖書の中で拝むという言葉はそう頻繁(ひんぱん)には出てまいりません。この拝むとは一つの大切なキーワード、私たちの生活の上でも心に留めておきたい言葉であります。といいますのは、これは礼拝ということです。今日、こうやって私どもは主の日として礼拝を守っています。教会に集まって、賛美し、祈り、聖書のお言葉を開いて、その解き明かしを聞くという。礼拝は一つの様式といいますか、手順が決まっています。毎週それは変わらずに行われます。ところがそういう賛美し、祈り、御言葉を聞くこと、これは確かに礼拝の一部分ではありますが、本当の意味の礼拝は何か? まさにこの博士たちが幼子の前にひれ伏し拝む、このことが実は礼拝です。いうならば、これは世界で最初の礼拝と言ったらいいと思います。

もちろんそれまで旧約聖書の時代からユダヤ人は礼拝を神様の前にささげるといいますか、神殿に出掛けて行って祈ること、あるいは神様の前に様々なささげ物、燔祭や罪祭、犠牲を神様にささげて礼拝をすることはしていました。しかし、それはあくまでもやがて来たる主イエス・キリストの、救い主として、また神としてその方を拝む礼拝のひな型、予形といいますか、一つのモデルです。しかし、本当の意味の礼拝はイエス・キリストの前に黄金・乳香・没薬をささげることなのです。「ひれ伏して拝む」、そして、そこで「宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた」とあります。

博士たちは確かにいろいろな贈り物を持って来たでしょう。ところがその中で、ここであえて「黄金・乳香・没薬」という三つの品物に付いての具体的な名前を挙げています。その他に「などの贈り物」とまとめられています。しかし、ここであえてこの三つの品物について名前を具体的に語っているのは、これは明らかに私たちが神様を礼拝するときにどのような態度といいますか、どういう心をもって礼拝をすべきか? しかも目の前にいらっしゃるのは幼子イエス様。イエス様はまだ飼い葉おけに寝かせられている幼い子供ですから、それが神の子であるかどうか分かりません。まだイエス様が十字架にご自分の命をささげられたわけでもありません。私たちと寸分たがわない、人の子として生まれてくださった御方をして、この御方が救い主でいらっしゃる、神なる御方であるということを信じる。また、イエス様に対して私たちがどのような心をもって礼拝をするべきか。そのことがこの三つの贈り物に集約されるといいますか、象徴されているのです。


そこでまず「黄金」でありますが、これは皆さんもお分かりのように金(きん)です。王の印(しるし)であります。王権、玉座といわれる王様の権威を表す印として黄金が用いられます。古代エジプトのピラミッドの遺跡などを発掘しますと必ず王の副葬品として金で造られた物が埋葬されている。皆さんもよくご存じのツタンカーメンという王様の墳墓(ふんぼ)からは金のマスクが出てまいりました。また金で出来た椅子(いす)であるとか、あるいは金の装飾品は高貴なる者、王の象徴、王であることを証詞する印であります。この三人の博士たちがまず「黄金を主にささげる」。言い換えると、この御方が、イエス様こそが私の王であると告白する。私たちがこうやって礼拝をささげるのも、礼拝にあって目には見えませんが、聖書のお言葉に約束された主イエス・キリストがよみがえり給い、今日も私たちと共にいてくださる。イエス様がこの地上を去って天にお帰りになるときに「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と約束してくださいました(マタイ 28:20)。共にいてくださるイエス様をどのような御方として礼拝しているか? まずは王として、私の王様としてイエス様を迎えること。このとき博士たちは黄金をささげてひれ伏し拝みました。「イエス様、あなたは私の王です」と。言い換えると、私どもはそのイエス様に仕えている僕(しもべ)にすぎないということです。


これは今も変わることのない礼拝者の姿、私たちの礼拝の目的であります。いま私たちはここに集って礼拝をささげていますが、イエス様に対する私たちの思いは「あなたは、私の王でいらっしゃいます」と告白する場でもあります。またその時でもあります。皆さんが礼拝に来られたとき、いろいろな思いをもって来られるに違いない。しかし、この礼拝を通して、その時時に開かれる御言葉を通して何を思うか? それは過ぎてきた1週間の自分の歩みを振り返って、イエス様がどこに王として立っておられたか? 先ほどの2節に「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか」とあります。私はイエス様を王としてどのように共に生きて来たか? これをもう一度よくよく振り返ること、これが礼拝なのです。どちらかというと、普段は私が王様です。だから自分が実権を握っている。「俺が……」「俺が……」と、己(おのれ)が王様になっている。そうではなくて、実は「イエス様、あなたが私の王です」と告白する。自分の権威も力も一切をキリスト、主に譲り渡す。王権を譲り渡すことが礼拝であります。1時間半ぐらいの時間、自分を省(かえり)みて「自分がどのように1週間過ごしてきたか。また、これから更に1週間の旅路、その中で私は主をどういうものとして迎えるのか。主と共に生きようとするのか」、そのことを告白するのが黄金をささげることです。「イエス様、あなたが私の王です」と告白することです。


 「ヨハネの黙示録」4章9節から11節までを朗読。


 これは神様の御座の前での光景、まぼろしであります。これはヨハネが見た記事であります。9節に「世々限りなく生きておられるかたに、栄光とほまれとを帰し」とあります。「世々限りなく生きておられるかた」、これは誰か? イエス・キリストです。よみがえり給いて天にお帰りになって父なる神様の右に座し給う御方、キリストの前に全ての者が「栄光とほまれとを帰し、感謝をささげる」。そうしているとき10節に「二十四人の長老は、御座にいますかたのみまえにひれ伏し、世々限りなく生きておられるかたを拝み」と、まず父なる神様の前にひれ伏し、「世々限りなく生きておられるかた」、永遠に生き給うキリストの前にひれ伏して、その御方を拝んで何をするかと? 「彼らの冠を御座のまえに、投げ出す」、これが礼拝です。自分の持っている冠を捨ててしまう。その御座に投げ捨てるのです。過ぐる1週間、誰が王であったか、誰が冠をかぶっていたか。「私が王様で、私が納得しなければ許されん」「私がこうしなければ……」「私が……」と思っていた、それを脱ぎ捨てるのです。自分が王であることをやめてイエス様にそれを返して行く。これが礼拝です。神様の前に近づいて心を探っていただき、神様の霊によって私たちの思いを整えられ、そして「私ではなく主よ、あなたが王です。私はあなたに仕えている僕にすぎません」と、そこでひれ伏して、自分の王としての冠を捨ててしまう。キリストにそれを明け渡してしまう。これが礼拝です。そのような最初の礼拝者として博士たちは黄金をささげたのであります。


 「マタイによる福音書」に戻りまして2章11節に「ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた」。つぎに「乳香」とあります。この乳香とは私たちにあまりなじみのない物でありますが、これはその当時、またこの地方では大変貴重な物であったといわれています。これはある種の樹木、木の樹液を固めた物であります。それは幾つも種類があったようでありまして、「出エジプト記」などを読みますと、必ず神様を礼拝する時に薫香(くんこう)としてそれを火にくべるのです。香をたく、私たちの祈りと共にささげられるものであります。だから、礼拝をするというのは、祈りを神様に捧げる。その祈りを象徴したのが、香をたくということです。松やにが固まった様な物でありますがそれを火に温(あた)ためてやると非常に薫り高い匂(にお)いに満ちてくるのです。

ザカリヤが御使いガブリエルからヨハネの誕生を告げられたとき、彼は祭司として神殿で香をたく勤めをしていました。恐らくそのとき使ったのはこの乳香であったと思います。その乳香はいろいろの種類のものが混ぜ合わされて、こういうときはこれとこれとを混ぜなさい、ということが旧約には語られています。それは私たちのお祈りと共に神様の前にささげる供え物です。私たちが礼拝するとき、心の思いや様々な感謝や喜びや、あるいは願い事、これらを乳香の香りと共に神様の前に捧げます。「黙示録」のほうには神様の前には常にこの香りを絶やしてはならない。言い換えると、私たちの祈りを決して絶やしてはならない。乳香、これは祈りを表す、神様の前に礼拝者として、そこにイエス様が、祭司が祈りを執り成してくださる。イエス様が祭司でいらっしゃることを証詞する品物でもあります。ですから、私たちの祈りは私たちのいさおし、聞いていただく値打があり価値があるから神様が祈りを聞かれるのではなくて、「わたしの名によって祈りなさい」と、イエス様がおっしゃるように、イエス様が執り成してくださるゆえに私たちの祈りが父なる神様に届くのであります。イエス様が私たちの祭司となって、乳香をささげる。言い換えると、香をたき、私たちのために執り成してくださるがゆえに、私たちは祈ることができ、その祈りが聞かれることを確信することができる。

 

 「ローマ人への手紙」8章26,27節を朗読。


 ここに繰り返して「とりなして下さる」と語られています。御霊、キリストの霊が私たちと共にいて、私たちの祈りを父なる神様の前に持ち出してくださって、祭司として執り成してくださる。「どうぞ、この者の祈りを聞いてやってください」と、これが乳香です。神様の前に香をたくことによって、祭司は願い事を神様に伝えました。今、私たちは乳香とか何かそういう物をもって香をたくことはいたしません。しかし、既にイエス様がご自分の身を十字架にささげて、大祭司となってくださって、私たちの祈りをこうやって御霊が、聖霊が執り成してくださる。私たちはどう祈ったらいいかも分かりません。どういうことが神様の御心に適い、また喜ばれることであるか分かりません。言えることはただ自分勝手な、身勝手な祈りしかありません。こんな我がままな祈りを神様は聞いてくださるだろうかと、情けないぐらいの者であります。しかし、イエス様は私たちのために執り成してくださる。ですから、27節に「そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さる」と。どんな身勝手な祈りであっても御霊が私たちの心の思いを隅から隅までを知ってくださって、なお父なる神様に執り成してくださる。その執り成しの祈りこそが乳香、神様にささげる香りの供え物です。それを神様は受け入れてくださる。だから、礼拝は私たちの祈りの時でもあります。その祈りはただその礼拝の時だけ聞かれるということではありません。日々の生活の中で祈るたび毎に、神様にそこで乳香をささげて、私たちの祈りをよみがえり給うたキリストが執り成してくださる。


 「ローマ人への手紙」8章34節を朗読。


 いまイエス様は祭司となって私たちと神様との間で仲立ちをしてくださる。仲保者となって乳香をささげて香り豊かに供え物を父なる神様の前にささげてくださって、私たちの祈りを執り成してくださる。だから、信仰をもって祈る祈りに必ず神様は答えてくださるのです。


 「マタイによる福音書」2章11節に「没薬」と語られています。没薬とは、これもある種の樹木の樹液といいますか、木から取り出した液体(固形のものもあり)のことでありますが、これは死んだ人を葬るときのものです。ご存じのようにエジプトではよくミイラというのを作ります。死んだ人のおなかを裂きまして内臓を全部取り出します。心臓と腎臓、それから脳は別にします。それは別個に処理をしまして、腎臓と心臓はもう一度おなかの中に戻します。その他の内蔵は全部焼却してしますのです。そのときにおなかの中に没薬を他のいろいろな防腐剤を一緒に混ぜて入れるのです。その上に布を巻きましてその上からもまた没薬を幾重にも塗り固めていくのです。それを非常に乾燥しきった温度の一定の所へ置いておきますと何千年たっても変わらない。

 

 ニューヨークにメトロポリタン美術館という大きな美術館がありますが、私も以前そこを訪ねたとき、ミイラが何十体と並んでいました。幼児から大人に至るまでです。その姿は顔も形も全くその亡くなったときのままです。それが二千年以上も昔の物であります。それは没薬がしみ込んで腐敗を止めるからです。なぜミイラを作るか? よみがえりの希望なのです。やがて人はこの肉体が滅んでももう一度よみがえるときが来るということを、異教ではありますが、エジプトの人々はそういう信仰を持っていました。


 聖書にはそれとはまた違いますが、イエス・キリストが十字架に命を絶たれなさった後、墓に葬られました。三日目の朝、女の人たちがイエス様の所へやって来た。それはもう一度埋葬をきちんと整えるためであったのです。既にイエス様はその墓に葬られるときに処置は一応されたのです。


 「ヨハネによる福音書」19章38節から40節までを朗読。


 これはイエス様が十字架に命を絶たれなさった後、十字架に野ざらしになった状態でしたから、急いでイエス様を取り下ろして埋葬することにしました。ここにありますように「アリマタヤのヨセフという人が」、それをピラトに願い出たわけです。ピラトはそれを許しました。さっそく彼らはイエス様のお身体を十字架から取り下ろしたのです。というのは、その次の日は安息日で何もできませんから、早くその処置をしなければということです。このときに例のニコデモ先生もやって来ました。彼は、39節に「没薬と沈香とをまぜたものを百斤ほど」を持ってきました。これは身体に塗るための結構な量であります。しかも没薬というのは大変貴重な高価な物であります。だからニコデモ先生は結構大金持ちだったのです。だから彼はイエス様の死にあたってこのことをしたいと、彼は持っているものをもってイエス様の所へやって来た。そして、彼らは「その香料を入れて亜麻布で巻いた」とあります。イエス様をその布で巻いてそこに香料を塗ってアリマタヤのヨセフの墓に取りあえず埋葬したのであります。それから三日目の朝、週の初めの日、朝早くに女の人たちが行ってみましたら墓は空っぽでした。身体に巻いていた布だけが頭の所と足の所に置かれていたのです。そこに御使いが「あなたがたは誰を探しているのか」「イエスはよみがえってもうここにはおられない」と告げました。よみがえってくださった。没薬というのは、死とよみがえりの証詞であります。


 私たちは今こうやって神様の前に出て礼拝をささげます。このときに私たちのなすべきことがあります。これは三つのささげ物、「黄金・乳香・没薬」、イエス様を私の王とし、イエス様が私の祭司となって祈りと思い、私たちの全てを知ってくださって父なる神様に取り次いでくださる御方。そして、その主は死んでよみがえって今も生きておってくださる。私たちと共にいてくださる御方でいらっしゃること。これが没薬であります。これをはっきりと言い表すこと、信じること、これが礼拝です。


 「マタイによる福音書」2章11節に「そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた」と。どうぞ、私どもは来たるこの新しい一年の旅路も、日曜日のこの定められた時間にこうやって共に集まって公同の礼拝、公の礼拝としての礼拝もそうでありますが、それ以上に毎日の生活の中で神様の前に「黄金・乳香・没薬」をささげて、神様を礼拝する民として生きようではありませんか。神様は私たちをそういう者として多くの者の中から選んでこの救いに引き入れてくださったのです。私たちは置かれて遣わされて行くそれぞれの持ち場立場は違いますが、その所で主を、キリストを王として、またキリストを私の祭司と崇めて、その主は今もよみがえり給うた主、永遠に行き給う御方、と同時に私たちもまたこの地上の生涯を終わるならば永遠の命に、滅びることのない、死ぬことのない命に生きる者であることを確認して生きる。そのことをしっかりと信じる者となる。これが礼拝であります。


 どうぞ、私どもはこの礼拝を通して、あの博士たちがキリストと出会い、礼拝をささげたその礼拝をもって、また新しい一年も主に仕えて行こうではありませんか。


 ご一緒にお祈りをいたしましょう。