死んで生きる

「コロサイ人への手紙」3章1節から4節までを朗読。


 1、2節「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない」


人類は皆そうだと思いますが、神様がいらっしゃること、何らかの形で人の力を超えた大きなものがある。それを神と呼ぼうと仏と呼ぼうと、そういうものを求める心、宗教心といいますか、信心というものがあります。これは神様が人をお創(つく)りになられたときに、初めからそのように創られているわけです。「永遠を思う思いを授けられた」(伝道 3:11)と聖書にも語られています。永遠を思うとは、取りも直さず人の有限といいますか、相対的な人としての存在を超えた大きなものにあこがれる。あるいはそういうものを求める思いが人の心にあるということです。ですから、神様のことについて話すならば比較的受け入れられるのです。「そうや、そうや、それはもう聖書が言う神様が本当かどうか知らないにしても、きっとそういうものがあって私たちが造られたとは、そう言われればそのとおりやな」という風に言われます。ですから、私の知っているある方も84歳ぐらいになったときに初めてイエス様の救いにあずかった方ですが、その方に個人伝道をしたことがあります。ある程度期間があったのですが、初めのうち神様のことについてお話をすると大変よく聞いてくださった。「分かりました」と。お聞きすると、自分も田舎のほうで生まれ育った者であって、小学生ぐらいのとき既に村の近くの丘に夕暮れ時に登って、沈んで行く太陽や空、また広がってくる星空を眺めながら「いったいこの宇宙は誰が創ったのだろう。どうしてこんなものがあるのだろう。きっとこれは神様……と、その頃は神様と分からなかったけれども、何か大きな力があってこういうものがあるのだな」という、恐れといいますか、畏敬(いけい)の念に捉(とら)われたことがあった。「そのことが今でも84歳になっても忘れられない思い出です」と。だから、神様がいらっしゃるということはよく分かる。ところが次に「イエス・キリストを信じる、神様の御子でいらっしゃる方、それがちょっと分かりません」と、そこへ来ると話がストップするのです。「まずもっておとめマリヤから人が生まれる。これはちょっと考えられません」と。「人の力を超え、想像を超え、理解を超える大きな力がある」と言いながら、その超えることが目の前に起こっている。「おとめマリヤから神の御子が人となって生まれてくださるなんて、それはあり得んだろう」というのは、これは大きな矛盾です。人の力を超えた神様がいらっしゃるのだったら、これだってあり得るわけです。だから、案外と人は自己中心といいますか、自分本位ですから自分の都合のいいように神様を置いてみたり外してみたり、持って来てみたり仕舞って見えなくしたり自由自在に操っている。ここが人間のいちばんの問題だと思うのです。神様がなさるのなら、おとめマリヤから御子が生まれることだってありえるのですが、神様を信じられないゆえになかなか聖書の出来事を受け入れられない。もう一つは「復活」です。それは「イエス様が神の子として生まれたのは分かる」。しかも、33年半近くの地上の生涯の最期が全ての人の罪のために神様の呪いと刑罰を受けて十字架に命を捨ててくださった。これは分かる。「これは有難いことや」と。そこまでは良いのです。それで自分が罪人であると、皆さんだって誰だってそう思います。「自分は清廉潔白、どこをとっても罪の『つ』の字もない」と言う人はいません。人前には立派な聖人君子のような顔はしますが、皆さん、自分で振り返ってみたら、内心、私にはこんな嫌な所がある、こんなできていないことがある。こんな私は本当に罪人だな。愛はないし、寛容な心はないし、人を裁いて人を非難して虚仮(こけ)にしているような自分の心が決して神様に喜ばれるとは思っていないのです。今この瞬間に厳しい裁きをなし給う神様の前に立たせられたら「私はどこをとっても合格点」と言える人は誰もいないことは分っています。だから、「イエス様が私の罪のために十字架に死んで、神様の呪いと刑罰を受けてくださった。身代わりとなってくださった、これは有難や、有難や」という「ここは分かる。分かるといいますか、それは有難いことです」と。ところが、その次に死んで墓に葬られたイエス様が3日目の朝、よみがえってくださった。「それはなかろうや」と。そこでまた問題になるのです。「死んだ人間がよみがえるなんて、そんなことはあるはずがない」。これだって神様がいらっしゃるのだったら、できないことはないのです。私たちはいろいろなことを全部分かっているつもりでいますが、実はほとんどなにも知らないのです。


 先だってから一つの話題になっているのが、光の速度を超える物質が見つかった、という話です。私たちと到底縁のないような、関係のないような話かもしれません。そのことから、宇宙が膨張し続けている、という話です。皆さんも「そんな話を聞いても何の足しにもならん」と思われるかもしれませんが、取りあえず知っておっていただきたいのは、科学技術や科学知識が進歩していろいろなことが分かって来たように思います。しかし、実は宇宙の全てのことを100とするといま人が分かっている部分というのは、0.2%あるかないかぐらいのものです。ほとんどはまだ未知の世界、分からないことだらけです。


 またちょっと大きな話をしますが、私たちの住んでいる地球は太陽を中心にして幾つかの惑星が回っています。これを太陽系といいますが、その太陽系が含まれている銀河系という星雲があるのです。では、太陽系はその銀河系のどの辺りにあるかというと、「恐らく真ん中辺りではないか。中心やろう」と思いたいのですが、いえいえ、とんでもない。この銀河系がまるで楕円形の傘のような格好をした全体だとすると、太陽系はその銀河系の傘の端っこに近い所、8割ぐらい右側に寄った所にあるのです。では、その銀河系の中心はどこかというと、皆さんが夜空に見る天の川、あれが銀河系の中心部分の星雲なのです。これが銀河系という一つの星雲です。ところが、この銀河系といわれる星雲が更にもっと幾つあるのか分からない。実に膨大なものです。その中のほんの大宇宙の端っこの小さな、小さな……、この小さな地球に人が創られた。これを神様のわざと言わずして何と言うことができるでしょうか。


 そのような大きな力を持った神様が死んだ人を生き返らせることができない、そんなことはあり得ないじゃないですか。だから、イエス・キリストが墓の中に葬られて3日目によみがえった。神様がそのイエス・キリストをよみがえらせてくださった。そして、そのイエス・キリストは今も私たちと共にいてくださる。そのイエス・キリストを信じることによって、私たちは神様と共に生きる者と変えていただく。これがイエス・キリストの救いです。だから、私たちがイエス様を信じるというのは、イエス・キリストの死と復活、イエス・キリストにつながるといいますか、重ね合わされて一つになって行くことに他ならない。


 3章1節に「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから」とあります。「いや、よみがえられたのはイエス様だけだ」、2千年前お弟子さんたちが墓へ行ったところが、墓が空っぽでイエス様がよみがえったことを知った。「どうして私がよみがえらされた」と言えるだろうか。ところが、聖書には「死んでよみがえってくださったイエス・キリストを信じるあなたもキリスト共によみがえらされた者」と語られています。私たちがイエス様を信じるということは、イエス・キリストが神の御子であられて、神から遣わされて人の姿をとった神なる御方、人の肉体のかたちをとって生きてくださった神である、と信じることに他なりません。そのイエス・キリストを信じる、その御方を私たちの救い主と受け入れることは、それまでのイエス様を知らなかった生涯から死んで新しく造り替えられる、よみがえることなのです。


 「ヨハネによる福音書」3章1節から7節までを朗読。


 ユダヤ人の指導者でもあるニコデモ先生が、イエス様の所に夜ひそかにやって来ました。イエス様はどうも他の預言者や指導者とはちょっと違う。何か秘密があるに違いない。それを何とか知りたいと思ってイエス様を求めて来たわけであります。そのときにイエス様が答えられたのが3節で、「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と。生まれることは私たちも経験済みであります。皆さんもそうであります。お母さんのおなかに生を受けて生まれ出て来たわけであります。肉体を持って生きています。それなのにもう一度「新しく生れなければ」と、いうならば、「生まれ変わらなければいかんよ」と言うのです。生まれ変わるといったって……、だからニコデモ先生は4節に「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか」と問うていますが、誠にそのとおりであります。人がこうやって年を取っていて、かれこれ死に近づいている私がここでもう一度生まれ変わって、おぎゃーと幼子のごとくなる、年齢がズーッと戻ってカウンターがゼロに戻ってまたゼロ歳から始まるのだったら「何とかそういう方法はないかしら」と思うかもしれませんが、しかし、それは無理です。私どもがもう一度お母さんのおなかに入って生まれて出直すことは不可能であります。新しく生まれるとはいうならば、古いこれまでの自分を捨てて別の物を得る、もう一度生まれ変わることです。それに対してイエス様は5節に「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない」。言い換えると、新しく生まれる方法はただ一つであるという。それは「水と霊」、水というのは神の言(ことば)、これはイエス・キリストご自身と言っても良いと思いますが、イエス様はご自分を「命の水である」とたとえておられます。イエス・キリストを信じて神の霊に満たされて生きる者となること。それまでイエス様を知らない、神様にも縁がなかった私たち、自己中心で我がままで自分の思いだけで生きて来た人生、そこにイエス・キリストを迎える。イエス・キリストを信じる生き方に変わっていく。しかも、イエス・キリストを信じるというのは、ただイエス様が私たちにこんなことをしてくれた、あんなことをしてくれたというだけでなく「水と霊とから生れなければ」とあるように、今度はイエス・キリストを信じて、私がイエス様と共に十字架に死んで、そしてよみがえってくださったイエス様と共に私はいま新しくキリストのものとなる。イエス様のいのちによって生きていく。自分の命、生まれながらの自分の力によるのではなくて、キリストの霊に満たされる。イエス様を信じてイエス様のお言葉に信頼し、そしてイエス様から私たちの魂、心に注がれる神様の力、霊、神の霊、聖霊に導かれる者と変わる。これはイエス様を知らなかったときとイエス様を信じてからの生涯、いわゆる「前」と「後」では完全に違う世界に変わる。生き方が変わるのです。これが救い、それがよみがえりなのです。私たちのいま生活は変わりません。イエス様を信じたからといって生活のどこかがガラッと変わったということはありません。イエス様を信じる前も信じた後も皆さんの好き嫌いは変わらないと思います。イエス様を信じる前も信じた後も白髪は変わらない。何の変わりもない。けれども、私たちの心の有り様、いわゆるこの地上における私たちの生活の根本原理が変わってしまう。いのちが入れ替わる。今までは自己中心であり、自分の願望を実現し、自分の夢を追い求め、自分の計画で事を進めて生きて行こうと頑張っておった私たちが、それをやめるのです。捨ててしまう。「それではどうなるのだ。そんなことをしたら生きておられない」と。ところが、今度はよみがえってくださったイエス様の霊によって生かされる者と変わるのです。イエス様が私たちの主になってくださる。私たちのいのちとなってくださる。そして私たちに「これが道だ。これに歩め」と(イザヤ30:21)、これはこうしなさいと全て教えてくださる。イエス様が私たちの手を取り、足を取り、手となり、足となり、頭となり、ことごとく全ての中でイエス様が私たちを導く御方となってくださる。これが新しくよみがえって生きる生き方なのです。だから、たとえ生活は同じであっても、食べるものは同じであっても、あるいはやっている仕事は今までと変わらなくても、そこで変わるものがある。それは目に見えませんが、心が変わり、思いが変わるのです。その人のイエス様を信じてからの生き方の価値観といいますか、世界観が変わるのです。


私たちは普段空を見ていて、朝太陽が東から昇って西に沈んで行く。「太陽が動いて行くな」と見ています。ところが、コペルニクスが「そうじゃない」と言った。太陽が動くのではなくて地球が太陽の周りを回る。こういうのをコペルニクス的大転換といいますが、完全に主客転倒です。今まで中心であったものが端っこになる。入れ替わったわけでしょう。


イエス様を信じて、その救いにあずかるのはまさにこのような大変化を体験するのです。イエス・キリストが私の主となってくださる。私たちがキリストと共によみがえった者、新しく生きる者となる。これが救いであり、また私たちに与えられている神様の大きな恵みであります。


「コロサイ人への手紙」3章1節に「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい」とあります。私たちはキリストと共によみがえらされた。ですから、皆さんも既にご経験のとおりにイエス様を信じて、これからイエス様の僕となるといいますか、神様と共に生きる者とされる。その救いを確信して、信仰告白をし、洗礼を受けます。水の中にザブッと沈められてしまう。これはイエス・キリストの死と一緒になる。「イエス様が十字架に死なれたように、私もここでキリストと共に死んだものです」と告白するのがバプテスマでしょう。そして、死んでそのまま水から上がらないかと言うと、そんなことはない。すぐにまた水から上がります。「何だ、死ななかったではないか」と。見たところはそのようだけれども、私たちの心は違う。今度は新しいいのちに生きるためです。新しいいのちって何か? イエス・キリストを私のいのちとして生きる生き方です。そしてイエス様は私たちの心に宿ってくださる、住んでくださる。だからといってCTかレントゲンで調べても見えません。「あなた、ここにイエス様がいるな、今日はこっちに、今、イエス様は寝ておりますよ」なんていう、そんな話はない。私たちが信じるときに神様の御霊、聖霊が私たちの内に宿ってくださる。「え!そんな馬鹿なことはあるか」と思う。信じない人には分からないのです。「そう言われるのだったら信じましょう」と素直に信じる。私の内に神様が霊を注いでくださる。神様の霊は何か、どんな働きをするか? 私たちに神様の御心を教えてくださる。また、神様の力に満たしてくださる。神様からの平安、安心、希望を与えてくださる。これは御霊が私たちの内に宿ってくださる結果であります。「ガラテヤ人への手紙」に「肉の働きは明白である」と「すなわち、不品行、汚れ、好色」などと幾つかのことが書かれてあります(5:19)。私たちを造り替える力を神様から与えられるのです。「そんなものがあったら欲しいな」と思われますが、既に与えられているのです。大切なのはそれを信じることです。「そうか。神様の霊が私にも注がれている」、「聖霊が私に宿ってくださっている」。信じたらどうなるか、今度は常にその御方に心を向けていく、思いを向けていく。だから、朝起きて夜寝るまで、イエス・キリストのことをいつも思っている。私の内に宿ってくださった御霊、聖霊がいま私に何を語ってくださるか。いま何を求めておられるだろうか、といつも思いが向いていく。そのことが聖書には「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(Ⅱテモテ 2:8)と語られています。イエス様のことをいつも思う。「神様はいま私に何と言えとおっしゃるだろうか」、「神様はいま私に何をさせようとしているのか」。そのように思いを神様に向けますと、これまで自分では到底考えられなかった、思わなかったような思いを与え、願いを起こさせてくださる。今まで「絶対あいつなんか、口なんかきいてやるものか」と思っていても、コロッと心が変わるのです。「これだけは絶対やめたい」と思いながらやめられなかったことでも、御霊が力を与えてくださるとき、気がつかないうちに「あら、こんなことしなくて済むようになった」。神様は私たちを造り替えてくださる。そういう力が私たちの内に働いてくる。私たちは神様の力が働いておられるのだけれども、ところが、それを神様からのものと認めない。「いや、あれは偶然だった。運が良かった。ラッキーだった」と。あるいは「あなたは幸運な星の下に生まれたのですよ」なんて、何やら訳の分からない話につないでしまう。あるいは「私が前もってああいうことをしていたからその結果だわ」と、自分がやった結果のように思ってしまう。そのために、神様が私たちに具体的に働き掛けて、思いを与え、それを実行しておられるのに、その御心が行われていながら、それに気がつかない。それをやり過ごしてしまう。これは実に残念であります。


だから、1節に「上にあるものを求めなさい」。2節に「あなたがたは上にあるものを思うべきであって」と、いつも上にあるものを思う。上にあるものって何やろう? 天井を見ると「汚れた天井だな」くらいにしか思いませんが、もっと上、いうならば場所の上下の関係ではなくて、神様です。いつも神様のことを思う。キリストのことを思うと、これが私たちの全てです。だから、イエス様の救いにあずかって、時に尋ねられます。救いにあずかって大喜びして「先生、これから模範的な信者になりたいと思う。何をしたらいいでしょうか。何か義務がありましょうか」と「ありません。お祈りして神様のことをいつも思っていてください」と答えます。「え!それだけですか」、「ええ、それだけです」、「他にないのですか」、「ありません。もうそれだけで十分」、「何か心細いですね」と言われる。ああしてくれ、こうしてくれ、これを守りなさい、あれを守りなさい、と言われるほうが何か手応えがあると。確かにそうかもしれませんが、それでは信仰が間違ってしまいます。私たちは神様の力から外れて行ってしまう。いつもイエス・キリストのことを思う、上に思いを向けて行く。「今このことをしているけれども、これは神様が喜んでくださるに違いない」、「今このことを私はやめようと思うのだけれども、どうしてやめられないのか。お祈りして神様から力を頂こう」。そのようにいつも神様に思いを向けて行く。これが私たちの毎日の生き方です。そうしますと、自分が考えたのと違う人生、自分が思いも願わなかったような道へ神様は導かれる。これまでもそうじゃないですか。これまでの人生を振り返ってみて、思いどおり願いどおり自分の計画どおりに来た人は誰もいません。良かったことも悪かったことも、それは一人一人が自分本位で自分勝手に良かった、悪かったと決めるわけですが、全てのことの中に神様のご計画と御思いが貫かれているのです。だから、失敗したことがあっても、そのときは落ち込んで「これで世の終わりや」と思ったけれども、今になって考えてみるとあの時あの事があったからこそ、次なるこれがあって、今はこうなってと、神様はちゃんと一つ一つのことを過不足なく、無駄なことなく導かれる。だから、私たちは先先のことを何も思い煩うことはいらないのです。神様が備えられる。ただ、一歩一歩、今日一日、上に心を向けて行く。


1節に「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされた」とあります。いまイエス・キリストが死からよみがえって父なる神の右に座してくださった。天にお帰りになられて、私たちの肉体の目をもって見ることはできませんが、今はイエス・キリストの霊が、神様から御霊が私たちの心に注がれて、絶えず私たちに教え、悟し、導き、守り顧みておってくださる。神様が私たちと共におってくださるとはそのことであります。だから、私たちはいつも上にあるもの、天につけるものであると自覚する。というのは、私たちはこの世のものに死んで、新しくよみがえって生きるものですから。キリストと共によみがえらされてこの世の者ではなくてこの世から選ばれ、取り分けられる。取り除かれる者であります。といって、この世から人里離れた山奥にいおりを作って世捨て人になったわけではありません。この世にありますが、私たちはこの世の者ではなくなる。いうならば生まれ変わってキリストのものとせられるのです。

 「ヨハネによる福音書」17章14節から16節までを朗読。


 この14節、16節に「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです」と言われます。彼らって誰かというとイエス・キリストを信じる者たち、イエス様の救いにあずかった者たちはこの世に生きてはいるけれども、もはやこの世のものではない。では、誰のものか? 天に属する神様のもの、主のものと変えられたのです。ですから、私たちは今この地上にあるけれども、いつまでもこの世に居続ける者でもなければ、この世につける者ではなくて、既に神様の所に移された者である。だからそのことを「ピリピ人の手紙」には「わたしたちの国籍は天にある」とあります(3:20)。私たちはやがてそこに帰る。私たちのふる里、帰るべき所属している所は天なのです。わたしたちの国籍は天にある。そこから再びキリストが私たちを迎えに来てくださる時が来る。だから、この地上にいながら私たちはいつまでもこの地上にとどまり続ける者ではない。天を、上を見て行く。こうしますと、いろいろなこと、世の中の物の見方が変わります。いつも上に思いを向けて行くとき、私たちがイエス様の救いにあずかってよみがえり新しく生きる者とされ、今は天につける者、神につける者、神の国の住人とされていることを絶えず覚えておく。この世の者ではないのだ。私は死んだもの、そして神様のものとなって生きる。いつでも神様が迎えてくださるときは喜んで帰る。いつもふる里を望み見て生きる者となる。これが私たちの幸いな生き方であります。ところが、私どもはともすると「いや、それよりもまだ目の前の、今この世の中のあれが大切、これが必要、これがなければ」と。


 「ヨハネの第一の手紙」2章15節から17節までを朗読。


 15節に「世と世にあるものとを、愛してはいけない」と。確かに私たちがこの世に生きている間、必要な物があります。食べるにも着るにも生活のいろいろなことで、あれも必要、これも必要という物が、確かにそれはそうであるに違いない。しかし、それはあくまでも一時的な物といいますか、その時必要な物を使ったらおしまいなのです。「愛してはいけない」、それに執着する、そのことに心を捉(とら)われる。愛するとは、そこに固執(こしゅう)するといいますか、しがみ付くことです。それは子供であってみたり、持ち物であってみたり、あるいは友人、知人や何かであってみたり、いろいろなものを私たちはこの地上に「これがないと生きていけない」「これが是非とも必要だ」と思い込んでいますが、これが私たちの最も危険な状態です。神様から思いが離れてしまう。世にあるもの、世につける思いに私たちが囚われる。そうすると、上を向いていた心が下に向いてしまう。この世のものに捉われてくると不安が起こってくる。心配になってくる。失望し、望みが持てなくなり、喜びを失って行く。「世と世にあるものとを、愛してはいけない」。いつも神様の御思いに心を向けておく。私たちは神に属する者、神の国の民であるという、天に属する者であることを決して忘れてはならない。そうしていくと、この地上の生活のどんなことも恐れず、思い煩うことがない。それどころか、絶えず神様が全ての必要なことを満たしてくださる。私たちが世にあるかぎり神様が責任を持ってくださる。だからイエス様が「あすのことを思いわずらうな。あすのことはあす自身が思いわずらうであろう」(マタイ6:34)。神様は必要な物は必要な時に必要なだけちゃんと備えてくださる。16節に「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく」と。私たちの大抵の欲はほとんどこれです。「肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである」。この世に属するこの世のものです。だから、そんなものはいらんとわざわざ蹴飛ばす必要はないでしょうが、それに心を捉われる。愛するのがいけないのです。だから、私たちは「いま私の心はどこに向いているのだろうか」と自らを省みてください。いつも上に向ける。神様のほうに思いを向けている。ひとり子を賜うほどに限りないご愛をもって愛してくださった神様。十字架に私たちの罪のあがないとなってくださった主イエス・キリスト、そのキリストと共に私は死んだもの。そして今はよみがえりの主によってよみがえらされて新しいいのちに生きている自分であること。神の国の住人であり、天に属する者である。今この世にひと時許されて神様が置いてくださっている。その間、私たちは自分勝手なことではない、自分の好きなこと、自分の欲を満たすのではなく、神の霊に導かれて、神様のご目的を全うする者となる。これが全てです。その使命が終わるならばいつでも喜んで神様の許に帰って行く。だから、いま元気なうちからですよ。私たちは天国に移ったつもりになって、死んで葬式も終わった人のような顔をして生きるのです。これが天に属する生活です。「私の葬式、どうしょうか」、そんなものはもう終わってしまったのですから……。


 「コロサイ人への手紙」3章1節以下に「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない」。棺桶に入りながら後ろ髪引かれる思いで「あれはどうなっただろうか」と、葬式に来た人に「あんた。あれはどうしたね」とか、気になって仕方がないという、そういう醜態(しゅうたい)はさらさないで上に向かって天に望みを置いて行こうではありませんか。これが今を生きる私たちの生き方です。続いて「あなたがたはすでに死んだものであって」とあります。既に死んでいるのです。皆さん、元気そうに生きていますが、死ななければいけないのです。「死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである」。もう私たちの命は神様の許に置かれているのだから、早く帰って来なさいと招かれている。


 どうぞ、私どもは常に上を望み見て、早くその主の来たり給う日を待つ。私どもはその時を望み見つつ与えられた、なお残された地上の旅路をキリストの霊と共に新しいいのちに日々生かされて生きたいと思います。


 ご一緒にお祈りをいたしましょう。