時を知る者

 「ローマ人への手紙」13章11節から14節までを朗読。


 14節「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」。

11節に「あなたがたは時を知っているのだから」と記されていますが、「時を知っている」とはどういうことでしょうか。朝になって空が白んで明るくなってくると「もう朝だ」と分かります。これはある意味で「時」を知ることです。あるいは、最近は日も早く暮れ始めて、昨日も6時半ごろ庭のほうへ出ましたときに「あら、もうこんなに薄暗くなって」と思いました。以前だと7時半ぐらいまではまだ明るかった。7時半から祈祷会がありまして、大体その時間はまだ明るい。昨日気が付くと「もうこんな時になっているのか」と。一年の春夏秋冬という時を知る、そういうことも含まれます。ですから、私たちは気が付かないうちに、何を今すべきか、どういう時に今自分が立っているかを、無意識のうちに自覚しながら生きております。時候の挨拶(あいさつ)で「もう、そろそろ冬に近づきましたね」とか、あるいは「蒸し暑くなって梅雨が始まりますね」と言って、「時」を見分けています。イエス様も「あなたがたは時を知っているのだから、いちじくの葉が出るとまず夏が近いことを知るではないか」とおっしゃいました。「そうであるのに、この時代の時を見分けることができないのか」と叱(しか)っておられます(ルカ21:29~)。「時代の時」とは何か。天地万物の創造からその終末に至るまでの長い歴史といいますか、時の流れのなかで現代がどのあたりに来ているのか、そういうことを知るのです。たとえば、森羅万象が創造された創世の時が始まりとするならば、今は春であるか夏であるか、あるいはもう終わりがけの冬にはいってきたのか。こういうことを見分けなさい、というのが、イエス様が勧めておられることであります。そういわれると、「何だか自分の小さな生活、自分の僅(わず)かなこの地上の人生と比べるとスケールが大きすぎて実感ができない」と言われますが、誠にそのとおりだと思います。あえてそういう規模の大きな話としてでなくても、自分自身の人生、生まれてから今に至るまで、あるいは、この先どのくらい命が与えられるか分かりませんが、この地上の生涯は必ず終わる時が来るのです。そのことを自覚して、翻(ひるがえ)って今私はどのあたりにあるのか? 


 あるシンガーソングライターが歌った歌に「いま人生の何章目であろうか」という歌詞がありました。まさに私たちの人生はいったい何章何節目にあるか。最終なのか、まだ中ほどであるか、これからハラハラドキドキという波乱万丈の物語が始まる時期に当たっているのか?私たちはそれを自覚して生きなければ、今の時を十分に生きることができません。


 ですから11節に「なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない」と言われています。「この事を励まねばならない」とは、何のことでしょう。それが何であるかはすぐに語られていません。結局、14節の「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい」ということです。では、なぜ励まなければならないか。「すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている」と11節にあります。眠っている間は、時の流れに気がつきません。皆さんもそうでしょうけれども、疲れてぐっすり眠り込んでしまうと、目が覚めて「何時だろう」と時計をみると、「もう朝の6時じゃないか。寝たのは10時だったのにもうこんなにたって」と、一瞬の間に数時間が過ぎてしまいます。ぐっすり眠り込むと時間の経過を自覚できません。目が覚めていると、自覚できます。朝支度をし、食事をして、「いま何時だろう」「そろそろお昼だ」、あるいは「もう3時になった、夕暮だな」。日が沈んできて陰がズーッと延びてきます。「そろそろ夕暮れだな」と、常に時間を自覚します。それは目が覚めているからです。眠ってしまったら、これは分かりません。だから、そういう生き方、毎日が行き当たりばったり、肉の欲といいますか、自分のしたいこと、自分の目先の楽しみを追いかけて、時間を忘れて日を過ごすこと、これが眠っていることです。一つ一つなす業がキリストを着るものであるかどうか? 主のものとなっているのかどうか? を問わないで、ただ世に流され、人の世の様々なことに心を奪われて時を過ごしてしまう。そういう眠った状態から「目を覚ましなさい」と言われる。神様が「目を覚ませ」と、眠りこけている者を起こしてくださることは確かであります。「え!こんな」と、ドキッとするような事態……。皆さんでもそうでしょう。朝起きてみたら足腰が動かない。「何でやろう」と、「今までこんなことはなかった」と驚くような体験をします。「目を覚ませ」と神様が自覚させて下さるのです。


 私も最近そのことをしみじみと感じるのです。先週は神様のお恵みで1週間ほど石垣島へ出掛けました。何もすることがない時間を過ごしました。向こうは南の島でまだ暖かい。ですから少しスポーツをやってみようと、シュノーケリングという泳ぎをやりました。メガネを付けて口に呼吸をするためのパイプ、30センチ弱のパイプを付けて、足にはフィンというひれのようなものを付けて海面に体を浮かべるのです。人間の体は水に浮くようになっていまして、うつ伏せになって水に顔をつけると浮きます。しかし、そのままでは息ができませんから、そこへ空気を入れるためにパイプがあるのです。このパイプをシュノーケルと言うのです。これを口にくわえて息をするのです。そうしますと海中をメガネで見ながら浮いて泳ぐことができる。その海面下の景色が素晴らしいのです。サンゴ礁でとてもきれいなのです。そういう初心者向けの教室というのがあり、初めて参加しました。「こんな年だけれどもいいだろうか」と思って、受付の人に尋ねたら、「どうぞ、大歓迎です」と言われる。道具から何まで全部用意してくれるのです。決まった時間に約束の所へ行きますと、道具が全部揃えられている。他にあと3名ほど参加していましたが、大体同年代ぐらいの人で「やっぱりこの人たちもそうか」と思いました。そこへベテランの若いインストラクターの人が来ていろいろな器具の使い方を海岸の浅い所で教えてくれる。30分ぐらい講習を受けて、「沖へ行きましょう」と、船に乗せられて沖へ出ます。そして、「はい、ここです」と見ると深いのです。皆飛び込んで下を見ますと、きれいな世界です。水族館で熱帯魚のブルーであるとか赤、黄色、いろいろな種類の魚を見ましたが、メガネを付けて眺めていますと、目の前をそういう熱帯魚が通って行く。好奇心が旺盛なのか、魚たちがジッとこちらを見るのです。何だか、自分が彼らの世界にお邪魔しているという感じです。これは不思議な経験でした。それを30分か40分弱でしたか楽しませていただいたのです。そのとき「これはいけるな」と自信は持ったのでありますが、30分して帰ってくるとヘトヘトです。「これは大変だな」と思う。海を見ていると若い人は同じ器具を付けていったん海に入ると、2時間3時間ズーッと遊び回っているのです。年の差を感じてしまいました。また機会があったらしたいとは思いますが、次はいつになるか想像がつきません。そういう時、自分の年齢を自覚させられます。「やっぱり若くはないよな」と。それを若い人に話すと「先生、その年でシュノーケルをされるなんて、感心しました。大いにやってください」と言われたことです。「そういう新しいことにチャレンジされて素晴らしいと思います」と褒めてはくれたのですが、気持ちは若くても体は付いてきませんから、今の「時」を知らなければいけないのです。


 ここにありますように「あなたがたは時を知っているのだから」と、もう若くはない。そんなことで体力を消耗しておってはいけないのです。だから、神様はここで「眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである」と。「救いが近づいている」とは、何か意外な言葉であります。救いはもう達成された、完成されたのではないか。イエス様の救いは十字架で全てが完成されたのではないかと。事実そのとおりであります。それは間違いのないことです。ただ、その救いを今度は私たちが自分のものとして獲得する。そして、それが具体的に成就する時は、私たちの地上の生涯が終わって、森羅万象、ありとあらゆる被造物が全て消え去ってしまった終末の時を過ぎてであります。その時に私たちの受けた神様の救いの恵みが具体化されます。私たちが霊の体によみがえらされて、神様の御許で礼拝の民として神様に仕える者に造り替えられる。新しくしていただくその時が救いの完成、ゴールであります。その終着駅を目指して私たちは今この地上に置かれている。では、この世にあって私たちは何をするのか? それは私たちが救われた者として、神様のご性質にあずかる者となるためです。

 「ペテロの第二の手紙」1章3、4節を朗読。


ここに「世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである」とあります。神様のご性質にあずかる、いうならば、私たちの内に神様のご性質が成就される、実現されることです。神様のご性質に私たちが変えられる。自分の中には肉の性質、生まれながらの自我性、自己中心な我がままな、自分を神とするといいますか、自分を主人にする、自分を中心にする強い力が絶えず働いています。そして、それが私たちの性情、性格を形作っているのです。それによって私たちは神様を受け入れることができない、信じることができない、委ねることができない。そのために永遠の滅びに定められていた私たちであります。ところが、憐れみをもって神様はそこから私たちを救い出して神様の民、旧約聖書に語られているイスラエルの民としてくださったのです。また神の家族、神の子と呼ばれる者としてくださいました。いうならば、神様の民であり、神様の家族であり、神様の子供である。そうであるなら、当然私たちの内に親である神様のご性質が満ちて、隅々にまで行き渡った者になることが、神の子供にふさわしく整えられることに他なりません。いま私たちがこの地上で救いの完成を待ち望みつつ、なお命を与えられ、生かされている使命は何かというと、神様のご性質に私たちが造り替えられていくことに他なりません。「いや、そんなことをせんでも、やがて終わったときにシュッと神様の許へ帰ったら『終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる』(Ⅰコリント 15:51)と約束されているのだから、それでいいのでは」と思われるかもしれませんが、私たちが神のご性質にあずかる、神のご性質に造り替えられることを通して、実は神様の栄光を現わす、神様の力を現わす、この世に対して証詞するためであります。私たちが神様のご性質にあずかることは、私たちにとって大きな恵みであり、幸いなことですが、神様の側からいうならば、私たちが神様のご性質にあずかることによって、神の神たることを証詞する道具として用いておられるのです。ですから、この地上の生涯を終わるならば、私たちを栄光の姿に、キリストと同じ姿に造り替えて、永遠の命の生涯に引き入れてくださる。これは確かであります。しかし、なお地上に私たちがこの世に残されているには一つの大きな神様の願っておられる、求めておられる使命がある。それは私たち一人一人が聖なる者、神のご性質にあずかる者となることによって、神様の栄光を私たちが輝かすためなのです。この世にあって神の神たることを証詞する業、これが神様のご性質にあずかることです。だから、この地上にあって「私は何のために生きているのかしら、もう用事も、することもなくなったし」と思いがちですが、この世の目に見える意味での仕事だとか、人の役に立つとかそういうことがあるなしにかかわらず、私たちは死の直前まで、地上で命の息を引き取るその瞬間まで、神様の聖なるご性質に変えていただく。神様のご性質は聖なるものであることに他なりませんが、その他にも幾つか神様のご性質はあります。その中の一つとして大切なことは、聖なるもの、清いものであることです。


 先日望都姉が神学校へ帰りました。神学校のスケジュールでは9月の授業が始まる前に『断食聖別祈祷会』というのがあると言う。彼女は初めてですから三日間食べられない。非常に面白いという期待感があると同時に上手くやれるかな、という心配もあって、「断食祈祷会があるけれども、どんなもんだろうか」といろいろと一人で悩んでおられました。初日が終わったとき、メールが来まして、「いま断食祈祷会の初日が終わって、一日今日は何も食べない。だんだんと頭が痛くなってきた」と。「神様の前に自分を清い者としていく時だから、何とか頑張ってやり抜きたい」と。私は「確かに断食をして二泊三日という限られた期間を神様のものとして取り分けて、神様のご性質、神様の聖(きよ)きにあずかるのは神様の大きな恵みの時だとは思うけれども、ただ単にそれを断食してお祈りをするという一つの行事、イベントとしてこなして行けばいいでは駄目だよ」と。「聖化」という言葉がありますが、聖い者と変えられるという意味です。これは神様のご性質になることです。私たちが聖別された者として世から取り分けられ、神様に付ける者とされることです。だから、断食期間中、お祈りをしたり、御言葉を聞く時間があるでしょうが、それはごく限られた時間でしかありません。それ以外は、それぞれ各自が静まる時を持つ。その代わり日常的な仕事は一切しない、という時間です。「これはある意味では幸いな恵みの時でありますけれども、せっかくそうであるならば、どうぞ、この三日間の聖別祈祷会にあって、聖化とは何か、聖別されるということはどういうことなのか?そのことを深く思いめぐらしてほしい」と、私はそういうメールをいたしました。神のご性質にあずかる者、これが聖別、聖化、あるいは聖潔といわれることの具体的な実態であります。ただ単に何もしないで、断食し、お祈りしているから聖別されるかというと、必ずしもそうではありません。「私は1週間断食しました」と言われる。それを誇りになさる方がおられますが、それは本末転倒、全く趣旨が違います。私たちにとって聖別、聖化、あるいは聖潔、聖なる者と変えられることは生き続けるかぎり追い求めていくべき私たちの大切な目標であります。この世にあって、自らを聖別し、聖なる者、神のご性質にあずかる者となっていく。


「ローマ人への手紙」に戻りまして、13章14節に「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい」とあるように、「主イエス・キリストを着る」ことです。「着る」とは、頭の先から足の先まで覆ってしまうことです。日本ではそのような習慣はありませんが、イスラムなどの女性は、目以外は全部覆われています。恐らくイエス様の時代も女性はそのような姿、日差しが強い所ですから……、だと思います。そのように全部覆ってしまうのです。半ズボンで上はTシャツ、あるいはタンクトップぐらいで露出のところが多い姿を最近よく見かけます。イエス・キリストをまるで水着を着るごとく着ていたら、それではキリストを着る、とはならない。私たちの頭の先から足の先まで、手の先に至るまで、隅から隅まで全てをキリストのものとなってしまう。それはどうすることか?それは、私たちがどんなことでもキリストのみ足の跡にならうことです。「ペテロの第一の手紙」に「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」とあります(2:21)。イエス様は父なる神様によってこの世に送られました。そしてこの世に人となって住んでくださいました。「その有様は人と異ならず」(ピリピ 2:7)とありますように、全く神でありながら、神のご性質を持ちながら、その姿形は人そのものであります。実は私たちもそのキリストのごとくなるように、「では、イエス様は何を着ていたのだろうか。イエス様が好きな食べ物は何だったのだろうか」と、一生懸命に詮索をして、それをまねしようかというのではありません。イエス様がこの地上にあってどのように歩んだか? イエス様は父なる神様の御心に全く従い抜いたのです。


 「ヨハネによる福音書」6章38節を朗読。


ここに「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく」とあります。イエス様がこの世に来て、人となってくださった。私たちと全く変わらない肉体を持ち、この世に生きてくださった。しかし、その生活の動機といいますか、その隠れた心は父なる神様の御心に常に一つとなって生きる。私たちもぞれぞれの家庭にあって生活を営んでいます。そこでは食べたり飲んだり、あるいは人との交際もあり、いろいろなこの世の生活がありますが、この世から自分を切り離して深山幽谷に住み、かすみか雲かを食べながら世捨て人になるのが潔いのではありません。この世にあってなおイエス様がそうであったように、私たちを滅びから救い出してくださった父なる神様の御心に徹底して従って行く。これがキリストを着ることです。なぜならば、イエス様がそうだったからであります。ここに「自分のこころのままを行うためではなく」、自分の好きや嫌い、自分がしたい、したくない、自分の損得、そういう自己本位の生き方ではなくて、御心を求める。しかも、それはただ単に時折、思い出したごとく神様の御心を求めるのではなくて、着るのでありますから、常時、絶えずキリストのように父なる神様の御心を求め続ける。また、求めることは同時に神様の御声を聞くことでもあります。「今私がこれをしているが、これは主の喜び給うことである」。「これは神様が私に求めておられること、このことは今私に神様が託してくださったことなのだ」と、はっきりとした確信を持って生きることに他なりません。イエス様の地上での歩みは、その当時の人々と、今の私たちと同じ人としての生活であります。その生活の中でどのように生きたか? イエス様は常にご自分がなさる一つ一つのことに「これは神様から出たことです」と、神様の言葉に従い、神様の求める御心に自分を委ねて歩んで行かれたのであります。だから、イエス様は一つ一つなさることについて「これは自分がしたいのだろうか、神様が求めていることだろうか」と、迷うことはありません。常にご自分は「これは神様が今わたしに命じておられることです」と、堅く信じたからです。それは今も変わらない、私たちに求められることです。それは人が見てどうこうではないのです。ご自分が信じるのか信じないのか。「これは神様の備えてくださったことです」、あるいは「これは神様がいま私に託してくださったことです」と、自らがそのように信じて引き受ける。そのことに携わることが大切であります。その信仰がなければ、人が自分の思いのまま、欲望の赴(おもむ)くまま、好き勝手に生きることになってしまいます。ですから、私たちは何があっても「自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである」とのイエス様の徹底した歩みにならうのです。


「ヨハネによる福音書」5章30節を朗読。


何かをするとき、「今私は神様の御旨を求めてしているんだろうか? 」「神様の御心を、私は本当に信じているのだろうか? 」と、そのことを問い掛けてください。手のなす業も、足で歩む歩みも、心の中で思うこと一つ一つを「これは神様の喜ばれることだろうか? 」「これは神様が私に求めておられることだろうか? 」と常に問い続けていく。そして、一つ一つ確信を自分自身がしっかりと握って、「はい、主よ、あなたの御心に従います」と、従って行く。キリストを着る、とはそこです。そうするとき「肉の欲を満たすこと」はできない。私たちは聖なる者として、神のものとして、神に付ける者と造り替えられるのです。


「民数記」20章6節から13節までを朗読。


これはイスラエルの民が荒野の旅をしておりましたとき、チンの荒野にはいって水に困ってしまうのです。水が得られなかった。そのためにイスラエルの民が大変苦しみまして、神様に対して文句を言った。アロンやモーセに対して「どうしてこんなことになったのだ」と食ってかかる。そこでモーセは神様の前に出まして、その導きを求めました。その時に神の栄光が現れて7節以下に「主はモーセに言われた、8 『あなたは、つえをとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、その目の前で岩に命じて水を出させなさい。こうしてあなたは彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませなさい』」。ここで神様はモーセに「それでは今から命じるからあなたはつえを取って、会衆を集めてある一つの岩の前に集まりなさい」と言われたのです。そして「その目の前で岩に命じて」とあります。岩に命じなさい。「『水を出せ』とあなたが命じなさい」と言われたのです。11節に「モーセは手をあげ、つえで岩を二度打つと、水がたくさんわき出たので、会衆とその家畜はともに飲んだ」と。このときモーセは岩に命じたのではなくて、持っていたつえで岩をバーンと激しくたたいたのです。恐らく民が強情で「こんなことで私をわずらわすか!」と、恐らくモーセはちょっとムッとしたのだと思います。というのも、以前にそのような経験を一回しているのです。同じく水がなくて困ったときに「あなたの持っているつえで岩を打ちなさい」と命じられ、そのようにしたら水が出てきた。そういう経験もありましたから、恐らくモーセはここで「今回も同じか」と思ったかもしれない。ところが、神様がモーセに命じられたのは「岩に命じて」です。イエス様は「わたしは、自分からは何事もすることができない」と言われましたが、モーセはここで神様の言葉を聞きながら、それに従わなかった。そのために12節に「そのとき主はモーセとアロンに言われた、『あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができないであろう』」。このとき神様は「聖なることを現さなかった」と語っておられます。モーセ自身が感情に駆(か)られて、自分の肉の思いによって事をしました。確かに結果は同じでしたが、その動機、そこに至る思いの中に神様の御心に従った、という確信がない。神様の御心に徹底して従う、これが聖なる者なのです。日々の生活の中で常にこういう場面に出会います。どんな時にも「主の御心に従います」と、神の聖なる者であることを現わす者として、潔くあるべきです。それは私たちに神様が与えておられる大いなる使命、果たすべき役割だからです。


「ローマ人への手紙」13章14節に「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい」。徹底してキリストに倣(なら)う者、イエス様の歩んでくださった足跡、どんな時にも父なる神様にだけ従い抜いて行く。だからといって「私は神様に従うのだから、あなたたちのことは聞いてやれない」と言うのではない。主が「従え」といわれたときには、目に見える主人にも従う。だから「情けなき主人にも従え」とあるでしょう。自分の考えで従うのではなく、主が何とおっしゃるか、主が「従え」と言われれば、赤ちゃんにだって従わなければいけない。主が「従え」と言われたら、御心に従うことが、聖なるものを現わすことです。


どうぞ、このお言葉をしっかりと心に置いてどんな時にもキリストを着る者として、聖なる者として自らをささげ、また、神の聖なる事を証詞し、現わしていく者でありたいと思います。


ご一緒にお祈りをいたしましょう。