十字架の効能

 「ローマ人への手紙」8章31節から39節までを朗読。


 


 34節「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」。

世間の人から見ると、熱心に教会に通って、信仰を持って生活している人に対して、ある種の大いなる期待があります。きっとこの人は平均的な人間よりは少しましな人間、少なくとも物分かりが良くて寛容であって、穏やかな人物、人格円満に違いないと期待されます。一人の方は50年近く教会生活を続けましたが、大変我がままな人でした。その方の娘婿がある時私に「先生、義母は何年先生の所へ行っているのですか」と。「かれこれ半世紀越えましたね」。「そんなに長く通っても、何にも変わらないのはどういうことですかね。先生は何を教えておられるのですか」と問われました。その方が言われるには、自分は職人として仕事を長く続けている。「弟子入りして10年もたてば一人前。それに比べてキリスト教は何ですか。義母を見ていると、キリスト教は役に立たないという見本ですわ」と言われました。「誠に申し訳ない。本当に指導者である私の不徳の致すところです」と、平身低頭謝ったのです。世間の人はそのように期待して見ます。しかし、私から言わせると「期待するほうが間違い」と思うのです。「どだい私が変わるわけがない」と思っています。イエス様の救いにあずかるとは、「罪無き者として神様が受け入れてくださった」ことであります。その結果、いま言うように、次の日から立派な人間になるかというと、そのようにはなりません。そのことを自分自身も気にします。「私は洗礼を受けてもう10年になるけれども、10年たっても何の効き目もない。世間の漢方薬のほうがもっと効き目がある」というように、自分でもそう思っている。でも、これは私たちの責任ではありません。神様は滅ぶべき私たちを罪の中から救い出して、神様の所有、義なる者としてくださった。これは変わらない事です。イエス様を信じることによって、私たちは神様によって罪無き者、汚れなき者として受け入れていただいている。神様と私との関係が完成したことであって、私の行動や言葉やなすわざが変わるかどうかは別問題です。「だったら、私は何も変わらなくていいのか」と言われると、もちろん、救われた者として実際の生活が変わることも大切です。しかし、それは信仰の目的ではなく、自分がイエス様の救いにあずかって義とされた、神様によって愛されている自分であることを常に自覚し、絶えず感謝し、喜んでいる結果として現れることです。しかし、現実の生活にはいろいろな問題、悩み、不安や悲しい出来事に出会うたびに、神様のご愛、神様が義なる者としてくださったことに疑問を持つのです。これが私たちをして成長・変化させない、新しくなれない理由です。といいますのは、私たちが神様の限りないご愛、ひとり子を賜うほどのご愛によってあがなわれ、罪を赦された者であり、神様が私を愛してくださっていることを信じ貫く。何があっても「神は愛である」と信じて行くとき、考えること、語る言葉、手のわざ、足で歩む一つ一つの事柄が変わってくる。それは神様のほうが私たちを造り替えてくださるからです。神様によって造り替えていただく手段はただこれだけです。どのような事態や境遇におかれても「神様は私を愛してくださっておられる」と信じて、常に神様のご愛に応答していく。これがイエス様の救いにあずかった、イエス様の救いを受けて生きる者の原動力、力です。救いにあずかったクリスチャンとしての生きる命は、神様のご愛に応答していく生涯です。「神様が、こんな者を今日も愛してくださっておられる。だから私はこの事をさせていただく」、「神様が愛してくださるから、どんなことも感謝だ」と、喜び、望み、平安を与えられるとき、私たちの性情性格、あるいは生活上のいろいろな問題も変わってくる。だから、いつまでたっても変化がない人は、どこか問題がある。何が問題か? 造り替えてくださる神様の力を頂くどこかが詰まってしまっている。滞(とどこお)っているからいつまでたっても変わらないのです。先ほど申し上げた方は家族からそのように言われましたが、家族の見る目と私の見る目とは違いますから、その方の変化は私もよく知っていますので、一概に娘婿が言ったことが100%当たっているとは思っていません。その方は、地上の生涯を終わる時に、本当に輝いた者と変えられました。そのように私たちを造り替える力は神様からいただくものです。だから、ご家族の方が「お母さん、いつまで教会に行っているの、教会に行って毎日毎日お祈りをしているけれども、ちっとも変わらんね」と言われたら、「今まだ神様が変えてくださらないが、そのうちに必ず変わるよ」と答えていただきたい。自分では変われないのです。私たちはいくら努力したって自分では変われないのです。自分で変われるのだったら、今の皆さんではないはずです。私たちを神様の御心にかなう者に変えてくださるのは、神様の力です。


 


だから、神様からの力を受けるにはどうするか。それは絶えず「神様が私を愛してくださっておられる」、そして「私の全てを受け入れてくださっておられる」と確信して、神様と和(やわ)らぐことです。これに尽きます。この信頼がありますと、毎日の生活で少しずつ、気がつかないうちに私たちは造り替えられていきます。キリストの姿かたちに似る者と造り替えられるのです。それは、神様が私たちをこの救いに引き入れてくださったご目的なのです。私たち一人一人が神のひとり子、イエス・キリストの姿かたちに似る者となること。神の家族として神に似る者、「神の性質にあずかる者となるためである」(Ⅱペテロ 1:4)とあります。神様のご性質に私たちを変えてくださる。神様のご性質とは何か?「神様のご性質の一つを挙げてください」と質問されたらどのように答えますか。これは簡単です。「神様のご性質は愛である」と。私たちの内にその愛があふれてくる。愛というのは非常に抽象的な言葉でありますが、愛があふれてくると、語る言葉のとげが無くなるでしょう。手の業が柔らかくなるし、歩む道筋が真っすぐになってくる。私たちの内に、愛があるにしてもそれは人間的な意味の愛で、情欲であったり、損得利害であったり、自分を愛する自己愛であったりしますから、その結果神様のご性質から遠く隔たってしまった。そういう私たちを神様はご自分に似る者へと造り替えたい。だから、私たちは神様の憐れみによってこの救いに引き入れられたのです。「自分でイエス様を信じたくて信仰を求めて教会に来た」と思われるかもしれませんが、度々申し上げますように、その背後には神様が目を留めてくださって多くの人々の中から選んで引き出してくださったのです。それには神様の側の目的がある。私たちには私たちの目的、求めるところがあったでしょう。しかし、それは神様が私たちを引き入れるための釣り餌(えさ)のようなものです。悩みに遭って、私たちは神様の所へ近づいてくる。神様は初めから引き入れようとして私たちを選んでくださった。だからイエス様は「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」(ヨハネ15:16)とおっしゃいました。その選びの目的は神様が私たちを神の作品にふさわしく、神のご性質に似る者に造り替えたい、そのように願っているのです。神様のご目的にかなうためにはどうするか?それがいま申し上げましたように、いつもキリストと共に生きること、神様のご愛を信じて、神様の許しと、神様の恵みの中に絶えず自分を置くこと。そのことを毎日忘れないで自覚し、ご愛と恵みに応答していく生活です。朝目覚めて「今日も良かった。体は健康だし、今日も長生きしてやろう」というために生かされているのではなく、朝起きたら「今日も主よ、あなたのためにこんな者に命を与えてくださって、今日の一日何をすべきでしょうか?」と。神様が私たちを愛してくださったご愛に応えて「では、この事をさせていただきましょう」。家族の世話をする主婦としての仕事もあるでしょう。あるいは世に出て行って会社で働く主人としての勤めもあるでしょう。しかし、何のためにそれをしているか、それは全て主の愛のゆえに、です。だから、生きること自体がキリストのご愛に促(うなが)され励まされ押し出されていくこと、ここに造り替えられる秘けつがある。そうやって行きますと、一日一日気がつかないうちに神様は私たちの内側も外側もことごとくを整えて清めてくださる。やがてその内実を満たしてくださるのです。だから、私たちは神様の前に許された者、神様と和らぐ者と自覚することです。神様の許し、神様の十字架のあがないによって、今日も憐れみを受ける自分であること、神様からの恵みの中に置かれている自分であることを絶えず覚えて行かなければ、いくら自分で変わろうと思ってもできません。


 


 今朝、「日々の聖言」でお送りした御言葉は「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」(マタイ 5:9)でした。「平和」という言葉は、殊に8月になると、原爆の問題だとか、あるいは終戦記念日などの記念日があって、「平和」と言うとすぐに戦争に結び付きます。だから、「平和」という言葉を聞くと、反戦とか、平和運動などを思わされますが、聖書が「平和をつくり出す」といっている「平和」は、確かにそういう戦争をやめさせること、これも平和をつくり出すことであるのは確かですが、しかし、そもそも平和の反対の言葉である「戦争」、争いとは、実は心の問題です。心の中に平和があるか?ということです。心の中の平和という言葉を代えて“安心”、和らぎといいますか、心穏やかにしておられる心ということです。毎日の生活の中で見える状態や事柄、悩みや心配や思い煩いが置かれますと、心が波立ち苛立ち憤ることがたくさんあります。他人に対して批判的になってみたり、非難してみたり、いろいろなことで口論したり、いらいらカッカする、そういう心の状態が続きます。そうすると家族に対しても激しい言葉を出す。また具体的にそれが暴力的な行為につながったりします。人の心が荒れすさんでくる。平和がない。ここがいちばん解決しなければならない問題なのです。確かに世界平和であるとか、国と国の平和であることとは程遠いことに思いますが、いちばんの根本はそこです。家族の中で本当に争いがないのか、平和があるのか、夫婦の間に和らぎがあるのか、これが問われていることです。だから「平和をつくり出す」とは、大げさな『原水爆反対』とか、あるは『軍縮をしよう』とか、そんなことをすることばかりではありません。もっと身近なところで、家族の中で、朝起きて皆が集まった所に、和らぎが作りだされているのかどうか?案外とあなたが家族のいる所へ入って来たら、皆が緊張して、せっかくにこやかに笑っているのに、雰囲気が暗くなる。これは平和ではなくて、トラブルメーカーであります。実に単純なことです。そういう自分の心にはいったい何があるのか?どんなに人と和らいでにこやかにしようとしてもできない自分がある。そのいちばんの心の奥底を探っていくとき、どうしてもぶつかるのが神様に対する怒りです。神様に何か不満がある。そうでしょう?自分の気に入らない、あるいは自分の願わないことがあって、「どうしてこうなったんだ!」、「何でこんなことに……」しかもそれが家族であったり、息子であったり、娘であったり、主人であったり、奥さんであったり「何であいつはあんなに……、何度も言うのに、してくれないんだ」というような憤り、そういうものが心にグッとある。そういう時、その人は奥さんが、息子が、誰かが原因だと思っていますが、よくよく自分を振り返るならば、それは自分が受けている状況、事柄を受け入れられない、それを「よし」と言えない自分がある。だから、聖書には「すべてのことは神様が備えてくださっている」ということが強調されていますが、自分が受けている事態や境遇を受け入れるかどうか、これが神様と和らぐことなのです。


 


パウロが肉体に一つのとげが与えられたと語っています。自分の願わない一つの状況が自分の身に起こっている。「何とかこれを取り除いてほしい。こんなものがあるから、どうしてこんなになったのだ」と、常に憤っていたのだと思います。ところが、ある時「何とか神様、このとげを取り除いてください」と祈っていたとき、「わたしの恵みはあなたに対して十分である」と神様から語られた。「そうだった、これは神様が『よし』とおっしゃっておられることです」と、そこで初めてパウロは自分にいま与えられている、望まない、願わない状況すらも「これは神様が『よし』とおっしゃってくださっておられる」と信じたのです。それによって初めて神様と和らぐことができました。これが私たちにも大切な事であります。私たちにも常にそういう憤りが湧(わ)いてくるのです。「どうしてこうなったの!」、「あの人がもっとしっかりしていたら……、私が前から言っていたじゃないの」と、怒っている自分がある。そういう時、その人やその事柄が問題ではない。もっと奥にそういう状況や事柄を作りだしている神様に対する憤り、それを受け入れられない自分があるからです。「平和をつくり出す」とは、まず私たちの心に神様との平和を造りださなければなりません。そのために神様は私たちの罪をあがなってくださった。神様に対して怒りを持ち続ける私たちの罪を赦す御方として、ひとり子イエス様を十字架に架けてくださいました。私たちはキリストのゆえに罪を赦された者、神の許しの中に常に自分を置いていくこと。これが「平和をつくり出す」ことであり、また私たちが神のご性質に連なっていく道なのです。


 


 「ローマ人への手紙」8章34節に「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」とあります。ともすると、私たちは自分の内にある憤り、怒り、そういうものになじんでしまう、それをよしとしてしまいます。そのとき私たちは神様に敵対することになります。常に十字架の主を見上げて行きたい。今日もイエス様は私のために十字架に死んでくださって、罪をあがない赦してくださった。「そうでした、主よ、私もあなたに許された者です」と、許しにあずかっている者であると自覚する。そうしないと道を外します。そればかりでなく、今度は自分の状態に失望するのです。「どうして私はこうなんだろうか」、「私だけがこんな目に遭って」と自己憐憫(れんびん)に陥る。あるいは、劣等感の中に自分を置いてしまいます。「私はもう駄目です」、「私はこんなだから駄目です」と、時々そういうことを言われる。「私はこんなだから、先生、駄目です」と言われる。「誰が駄目と言っている?」、「いや、誰と言って、これはもう駄目に違いありません」と。神様が「駄目だ」と言わない限り駄目はない。自分で「駄目だ」と決めて掛るとき、お前はいったい何者だと問われます。私たちは常に主の十字架の御許(みもと)に自分を常に置いておきたい。そうする時、神様の平和が私たちの心にあふれてきます。34節に「キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し」、イエス様は十字架に私たちの罪のあがないとして死んでくださって終わりではなく、墓に葬られなさった後、三日目によみがえってくださった。それは何のためにか?私たちの罪のあがないとしてご自分の血を携えて絶えず父なる神様の御前にあって執り成してくださるためです。私たちと神様との間を常に結びつけようとしてくださる祭司の役割です。


 


 「ヘブル人への手紙」4章14節から16節までを朗読。


 


 ここに「大祭司なる神の子イエスがいますのであるから」と語られています。祭司という役割、この言葉は日本人にはあまりなじみがない言葉ではありますが、旧約聖書の時代、イスラエルの民は選びの民ではありましたが、神様と直接交わることができない罪の中に置かれていました。律法の世界にあったのです。その時代でも神様とつながるチャンネルといいますか、道筋を作ってくださいました。これが祭司制度といわれるものです。神様はイスラエルの民の中から一つの部族、あるいは、アロンの子孫を選んで祭司となさいました。人は罪のため直接神様に近づくことは許されない。神様は義なる御方、聖なる御方、いと高き所に居給う御方でいらっしゃいますから、私たち人がずかずかっと神様に近づいて許されるはずがない。そもそも汚れたる者であり、罪なる者であり、滅びて当然の者でありますから、神様はそれでも憐れみをもって悔い改める時を置いてくださったのです。そのような人間のために神様は祭司を立ててくださった。祭司を通して神様に近づく道を備えてくださった。これが旧約時代の祭司でありました。神殿、神の宮によって、神様のご臨在を証詞してくださって、そこで神様の前に民の願いや祈りを取り次ぐ者としての祭司の役割があったのです。しかし、その祭司制度は、あくまでもその後にやってくるイエス様のひな型、予形でありました。やがてイエス様、神の子がこの世に遣わされて救い主となって十字架に命を捨てて、私たちの真(まこと)の祭司となられたのです。民の中から選ばれた人間の祭司であるならば、そもそもが人間でありますから、まずもって自分のためにいけにえを供えなければならない。そして毎回、毎回神様の前に出るために、自分を清めなければ出られません。不完全な者であります。しかし、イエス様は神の子でいらっしゃる御方、義なる御方が罪人とせられて、ご自分をいけにえとなさいました。そして、イエス様が祭司となってくださって、私たちが神と共に生きることができる、神様のそば近くに絶えずとどまることができる者と変えてくださった。しかも15節に「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない」と。大祭司でいらっしゃるイエス様は、私たちの全てを知り給う御方、悲しみも喜びも不安も恐れも望みもどんなこともイエス様は全てを知ってくださって、今も父なる神の右に座して、私たちのために執り成してくださる。16節に「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機(じき)を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」と勧められています。イエス様が父なる神様の右に座して、絶えずご自分の十字架に流された血潮をもって「父よ、彼らを赦し給え、この者を今日も許してください」と執り成してくださっておられるゆえに、私たちは義とせられ、神様の憐れみを受ける者であり、神様は私たちの祈りに応えてくださるのです。そればかりか神様の恵みを頂く者となっているのです。


 


 「ヨハネの第一の手紙」2章1,2節を朗読。


 


 ここに素晴らしい神様の約束が語られていますが、1節の後半に「もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」と。今も父なる神様の右に座してくださる主は、よみがえって父と共にいまして、私たちを助けてくださる御方。たとえ罪を犯すことがあろうと、過ちを犯すことがあろうと、主は間髪をいれないで私たちのために執り成してくださる。弱さを知り給う御方、だからはばかることなく、遠慮なくこの御方の恵みの御座に近づいて、主の許しの確信を与えていただく。「今日も主がこんな私を許してくださっておられます」と本当に感謝して、今の自分を受けて行くこと。「わたしの恵みはあなたに対して十分である」と神様がいわれますが、私たちはいま受けている状態や事柄につい不平不満、憤りつぶやくことを心に思い抱きます。そのとき私たちは神様に対して敵対した者となってしまう。そこには平和が失われています。その結果、人に対して争う者となり、戦う者となり、血を流す者となってしまうのです。まずイエス様の十字架のあがない、血の許しに今日も生きていることを感謝していきたいと思う。そして今も私たちのために主はご愛のゆえに全てものを「よし」とおっしゃって、備えてくださる。いま自分がどんな状況、どんなことの中に置かれても「これは主が与えられたもの」と感謝して受ける。これが神様のご愛に対する応答であります。「神様はひとり子を賜うほどの大きなご愛を注いでくださって、今このご愛の中に私は握られています」と堅く信じて行く者となりたい。


 


 「ローマ人への手紙」8章34節に「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」。執り成してくださる主がおられる。どうぞ、どんな時にもこの御方に目を留めて、思いを向けて、人ではない、周囲の事柄ではなくて、執り成し給う大祭司なるイエス様に思いを向けて行きたい。全てをささげて主のものとなりきって、主のご愛に常に応えていく者、これこそが実は私たちを造り替え、私たちをキリストのものに変えられるただ一つの道であります。


35節に「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか」と。どんな事情や境遇、問題、自分の願わない思わないことの中にあっても、キリストのご愛から決して離れてはならない。いやそれを疑うことはできない。常に十字架を見上げて、キリストと共に主のご愛に励まされ、押し出され、押し流されていく者でありたいと思います。


 


 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


 

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コメント: 1
  • #1

    Lloyd Volk (金曜日, 03 2月 2017 08:29)


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