神様を身近に

「ヨブ記」42章1節から6節までを朗読。


 2節「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを」。

これはヨブが大変な苦しみの中から到達した心境といいますか、与えられた悟りであります。ヨブという人は、神を恐れる正しい人物であった、といわれています。確かに彼は神様を恐れて燔祭やささげ物を欠かすことなく、また祈りを絶やすことなく、神様に仕えておりました。その結果、神様は豊かな祝福をもってヨブを恵んでくださったのです。彼には10人の子供たちがいましたが、それぞれが独立して、ちゃんとした家を構え、何一つ不自由のない理想的な家庭を築いていたのです。ところが、サタンが神様に許可を頂いて、ヨブに苦しみを与える。というのは「ヨブがあんなに神様を慕って『神様』『神様』と言っているのは、神様、あなたが恵んでいるからに違いない。そういうものを取ってしまったら、すぐにあなたのことを恨むはずです」とサタンが言った。神様は「それじゃ、やってみなさい」と言われました。彼の家族、また持ち物を、次から次へと災難が起こって来て、嵐に遭ったり、雷に打たれたり、火災や盗難などにあい、瞬(またたく)く間に持っているものが皆失われてしまったのです。しかし、その時でもヨブは「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ 1:20)と「裸になって当然だ」と、実に立派な信仰を持っていました。神様はサタンに「見ただろう、お前の言ったとおりにならないじゃないか。あんなに神様を大切に思っているではないか」と言われた。そのとき、サタンは「いや、まだ一つ残っている。健康が彼にはある。健康だからこれから働けば何とでもなるし、だからあなたを恨まないのです」と。そう言われて神様はサタンに「ヨブの健康を取ってよろしい。ただ命については手を付けてはいけない」と許して、きちっと一つの線引きをなさいました。それでサタンは出て行ってヨブの健康を奪ってしまうのです。訳の分からない皮膚病におかされ、体中ができものだらけで、昼夜、かゆくてたまらなく、灰の中に転げ回っていたのです。ヨブはそこでもなお神様を呪ったり、身の不幸を嘆くことをしなかった。それを見ていた奥さんが「こんな人とは付き合えない」と、家を出て行った。それでもヨブは神様を恨むことはしません。しかし、心の中では「どうしてだろうか」「何でだろうか」という悩み、これが非常に深かった。彼の友達が「慰めてやろう」「励ましてやろう」と、言葉を尽くして彼に問い掛けてくれますが、全く身に覚えがない。どんなに言われても「なるほど、そういう訳だから……」と納得する理由がない。これがヨブの大きな苦痛といいますか、苦しみです。これは私たちも同じでありまして、こういう原因があってこうなった。このことがこうだからこういう悩みに遭うのだと、因果関係がきちっと理解できると、諦(あきら)めます。「仕方ない。こうなのだから」と。大抵「年だから」という、良い理由があります。忘れ物をしても「どうして記憶力が悪くなったのだろうか。そうだ、年だから」と、納得するではないですか。ところが、それが納得できないと、「何か悪いものがあるのではないだろうか。脳の中に何か悪いものができて、記憶を一時的に失ったのか。そう言えば、昨日の新聞にそういう話が書いてあった」と、不安が高じてきて、落ち着かなくなります。だから、私どもはいつも自分で納得できる理屈といいますか、因果関係、原因、結果をはっきりさせようとします。ヨブの場合もそうであります。原因がまったくないのです。あるとすれば、それは神様がなさったとしか言い様がない。それにしても、神様がそんなひどい目に自分を遭わせることはありえない。今まで神様に不義理を尽くしたことはない。神様に対して悪いこともしていない。どうして私がこんな目に遭わなければいけない。普段から神様に対してそっぽ向いて、神様に罪を犯す人物であったら「私は罪を犯していた。神様、天罰だ。これは神様がそうやって私を懲らしめておられるから仕方がない」という話にはなりますが、彼にはそれがないのです。どう見ても自分に何の落ち度もない。神様からそういう罰を受ける理由がない。どうしてだろうか、何でだろうか、と。これがいちばんの悩みであります。私たちもそうです。病気をすると「どうしてこうなったのだろうか」と悩む。


私もよく病気をしてきましたが、やはりそのたびに思うのです。「何が悪くてこうなったのだろうか」「どこに私の落ち度があったのだろうか」。周囲の者から「それは夜が遅いからよ」と言われると「夜更(よふ)かしが原因だったかな」とか、「ちょっと食べすぎ」とか言われると「なるほど、それが原因か」と考えます。だから、ついお医者さんに尋ねるのです。「何が原因なのでしょうか。これを防ぐ方法はないでしょうか」と。お医者さんは「いや、ありません」「原因は何でしょうか」「原因もありません」と言われる。原因がないからといって、人は安心しないでしょう。原因がないというと、いよいよ不安になる。


まさにヨブはそういう中に置かれました。何が原因か分からない、というのが、いちばんの苦しみです。ヨブもそうやって苦しんで、心の中で「どうしてだろうか」と、悶々(もんもん)としている。だからといって、神様に対して冒とく的な、神様をあし様に言うようなことはもちろんしません。ただ自分の中で「どうしてやろうか」「何でやろう」と思い煩っているのです。そのとき神様はヨブに声を掛けてくださった。「お前は、どうしてか、何でやろうか。何でこうなったと言い募るけれども、お前は何もかも知っているのか? 」と言われて、「わたしが尋ねるから、お前は答えよ」と。それから神様は矢継ぎ早に質問攻めです。それに対してヨブはひと言も答えられない。「どうして私の知らないことが起こるのだろう」「私の理解できないことが、こんな風に私の身に起こるのだ」と、ある種の憤りがある。それに対して神様が「そうじゃないだろう。お前がそんなに言うなら、あれはどうなっているか。これはどうなっているか」。天地万物の全ての現象、現れてくる事柄の理由は何だ、と問われたとき、ヨブは「ただ口に手を当てるのみです」(ヨブ 40:4)と、「私は無知なることを言いました」と認めました。そして、万物をつかさどっておられるのは神様である。それまでもヨブは神様を知っていたはずであります。ところが、神様に対する思いが違っていた。神様はヨブを守ってくれるものであり、神様に願えば、それに答えてくださる。ある意味で、ヨブの初めの頃の信仰は、「御利益信仰であった」と思います。家族の安心のために、家族の平和のために、まだ罪を犯さない前から、ひょっとしたら犯すかもしれないから、神様に前もって供え物をしておこう、というぐらいですから。いうならば、保険を掛けよう、という話です。ヨブという人は、それ程几帳面といいますか、先の先をおもんばかる人でもあった。しかし、その心には、神様から守って頂きたい、神様から祝福を頂きたいという心情がある。「私が幸せになりたい」、「私の思いが成就できるようにしてほしい」という、そういう意味での神様、御利益としての神様でしょう。どうでしょうか? 皆さんにとって神様はどういう御方でしょうか? それに対して神様がヨブに教えられたのは、ヨブの健康も財産も、命もことごとくが神様の手に握られていることです。神様のわざによって持ち運ばれていること認めることです。そのためには自分の思いを捨てなければ駄目です。私がこうなりたいとか、これが幸せなはずだとか、私の人生はこうなって、やがて何年後に、体が動かなくなったら、あれをして、これをして、そして、願わくば90歳前後ぐらいでぽっくりといきたいとか、そういう自分の考え、自分というものをしっかり握っているかぎり、私たちは神様の手にあることを認めることができない。信仰のいちばんの根幹はここです。聖書を通して一貫して神様が私たちに求めているのは「わたしは神である、今より後もわたしは主である」(イザヤ 43:13)という、この一点です。「創世記」のいちばん最初から「元始(はじめ)に神天地を創造(つくり)たまへり」と宣言しています。まず、神様がいらっしゃって全てのものが神様の手に握られ、そこに存在していることを一貫して語り続けているのです。「私と神様」とよく申し上げますが、神様と相対(あいたい)する考え方になりやすい。私があって相手に神様がいらっしゃる。これは説明するうえで分かりやすくそういう言い方をするわけですが、本来聖書が語っているのは、そんな私と神様とが相対(あいたい)で、向かい合って対等に話ができるような関係ではもちろんないのです。それよりも、実は私たちは神様の手の中にあるのです。


 「使徒行伝」17章22節から28節までを朗読。


 この記事は、使徒パウロが当時のアテネの町にやって来たときのことです。アテネの町は、文明、文化が高度にすすんだ社会でありまして、多くの人々が哲学においても科学においてもいろいろな面で盛んな町でありました。この町アテネにパウロが来ましたが、「市内に偶像がおびただしくあるのを見て、心に憤りを感じた」と16節にあります。ギリシャ神話であるとか、ギリシャのいろいろな物語には、神々が次から次と出てきます。アポロンであるとか、ディオニューソスとかゼウスであるとかいろいろな神々がたくさんいます。そして、その神々をかたどった彫像といいますか、大理石でありますが、彫刻が町中に飾られている。私もついこの間アテネの町に行きまして、それらの彫刻を初めて見ました。「ここにパウロも来たのか」と思いました。町中にそういう物があるのです。日本でも田舎(いなか)に行けば道祖神とか、お地蔵さんだとかそのようなものが飾られている小さな祠(ほこら)があちらこちらにあります。アテネの町にもそういう物がたくさんあります。それは必ずしも偶像として、神として礼拝する対象ではないとしても、彫像があちらこちら、建物の飾りにも、公園の隅にもどこにでも置いてあります。パウロはそういう物になじみのない世界で生きてきた人ですから、恐らくアテネに来てびっくり仰天だったと思います。「こんな物を神にして」と、彼は大変憤りを感じたとあります。そして更に17節に「そこで彼は、会堂ではユダヤ人や信心深い人たちと論じ、広場では毎日そこで出会う人々を相手に論じた」。広場がありまして、そこでは人々が集まって議論を戦わせるのを楽しんでいる。各人の思っていること、考えていることを披歴する。アテネの人は議論好きなので、そうやって一日を過ごしている。だから、哲学が発達したのだと思います。ここにあります「エピクロス派やストア派」と語られていますが、古くからソクラテスやプラトンなど、今でも名の通った有名な人たちがいました。パウロも広場に集まった人たちの中に混じって話をしていた。そうすると、アテネの人たちは「これは珍しい話や、お前いったいどこから来た」ということで、外来者であるパウロを大変歓迎してくれました。


 22節に「アレオパゴスの評議所のまん中に立って言った」。アテネの町にアレオパゴス、評議所という広場がありまして、皆が国の方針だとかいろいろな政治を評議する場所でもあった。そこに彼は招かれたのです。そして、「アテネの人たちよ」とここで彼が語ったのは信仰の基礎の「キ」、土台のことであります。彼は「この町を歩いているといろいろな神々があってあなたがたは大変宗教心に富んでいる、と見ている。しかし本当の神様というのはどのような御方か、教えてあげよう」というわけです。24節に「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない」。その当時、アテネのど真ん中には立派な神殿がありました。当時の人たちはそこで神々を拝んでいた。そこに神様が住んでいると思っていた。でも、パウロが言うには「真の神様はそのような人の造った物の中に住むような御方ではなくて、万物の創造者、天地の造り主でいらっしゃる」。26節に「また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである」。神様が歴史を造り、国々を創造し、そこに指導者を立てておられるのは、神様のわざであると。ところが、勢力のある国が起こって周辺の国を制圧し、それを征服して領土を広げて国ができる、と思いますが、それもこれも神様がしておられること、神様のわざの中にあることだとパウロは言っている。27節に「こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった」。しかも神様はご自分が造られた全ての被造物、造られたものの中に神の神性とその力とがはっきり分かるようにしておられる。だから、ちょっと目を凝らしてそれらのものを見ていけば、そのことの背後に神様がいらっしゃることが見えるはずだ。だから、そのことを「ローマ人への手紙」にも語っています。「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」(1:20)と語っています。すべて造られたものの中に神様がいらっしゃることがちゃんと記されているではないかと。確かにそう思います。いま目の前にある講壇に生けられているお花を見ていてもそうです。誰がこんな物を造ることができるでしょうか。誠に不思議、神業としか言い様のない事は周囲に探せばいくらでもあるのです。ところが、自分の人生とか、自分の生活であるとか、自分自身については「これは私が握っている」と思っている。だから、27節の後半にパウロが「事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない」。神様は私たち一人一人から離れていらっしゃるのではないと。向こうに神の国があって、こちらに人の国があって、そんな神様と人とが対等に向かい合うような関係じゃないと。ましてや、それが遠く離れて、「神様ははるか遠くにいらっしゃる。私ども人間はこんな低い所でうごめいている」という、そんな関係ではないとパウロは言っているのです。28節に「われわれは神のうちに生き、動き、存在している」。神様と遠く離れていないどころか、実は神様の中に私たちは握られている。神様の手によって持ち運ばれ、生かされているのだと。これは当時のギリシャの人たちにとってはびっくり仰天の話だったと思います。自分たちは神様の中に生きている。そして、神様の中にいながら、神様を認めようとしないでいるのが人の姿です。


 私たちのこの地上でも生活のどんなことも神様によらないものは何一つない。神様に握られ、神様の中に生きる者としてくださっている。どう転んでも私たちは神様から遠ざかることはあり得ないのであります。


 「詩篇」139篇1節から5節までを朗読。


 神様は私たちの外も内もどことして知らない所はない。何もかも知っていらっしゃる。5節に「あなたは後から、前からわたしを囲み、わたしの上にみ手をおかれます」。まさにこれがパウロの言うところの「神のうちに生き、動き、存在している」ことです。私たちは創世のときからそうなのです。ただ罪のゆえに神様の手にありながら、まるで神様とは縁がないかのような生き方をする。これが誠に不幸なのです。どう転んでも、この神様の手からこぼれ落ちることは絶対ないのです。


 ですから、6節に「このような知識はあまりに不思議で、わたしには思いも及びません。これは高くて達することはできません」と。どうでしょうか? 私どももそう思います。「いま私は神様の手に握られて、神様の中に置かれているのか」と、詩篇の記者はあまりにも不思議だと語っています。それから7節以下に「わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。8 わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。9 わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、10 あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます」。陰府に行こうと天に登ろうと、どこにいてもそこは神様の手の中、神様の中に私たちは生き動き存在している。この事を認める。これが信仰のいちばんの土台、出発点であり、またこれを抜きにして信仰はあり得ないのです。「私は神様なんか要りません。神様なんか信じません。私は私です」と言う人にとっても、だからといって神様から遠ざかることはできないのであります。そういう人をも神様は憐れんで、ご自分の手に握ってくださる。だから、誰ひとり神様の中から飛び出して、遠く離れた所に行ってしまった人はいないのであります。私たちはそのことを認めること。今ここにあるのも神様のご計画があり、神様の御思いがあって、私たちはここに在(あ)らしめていただいている。そして、神様は私たちの思うよりも願うよりもどんなことにもまして、広く大きな知恵と知識をもって事を備え導いてくださっている。


 「ヨブ記」42章1節以下に、「そこでヨブは主に答えて言った、2 『わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを』」。これを認めるのです。「そうです。神様、私はあなたの手の中にあって、あなたの御業によって今ここに在らしめていただいている。私には何が何だか分からない。どうしてなのか、その理由も定かではないけれども、神様、あなたがこの事をご存じで導いてくださいます」と、この事を信じることが「神を信じる」ということです。「箴言」に「すべての道で主を認めよ」(3:6)「自分の知識に頼ってはならない」(3:5)とあります。「すべての道で主を認める」ことも、まさにこのこと、私たちが神の手の中に握られていることを認めるのです。神様はご自分の御心のままに私どもを持ち運んでおられる。導いておってくださる。だから「私の願いどおり」とか、「私がどうしてこうなった」とつぶやきますが、どうしてもこうしてもない。神様がそのことを知っていらっしゃる。そこで自分を低くすること、これが私たちの信仰であります。


 一年前に召された姉妹の記念会をしました。亡くなられたお母さんがお元気な頃ですが、長女の息子さんが突然亡くなったのです。そのため母親である娘さんは茫然自失の状態になり、ご主人も大変失望落胆して、慰め様がない状態でした。クリスチャンであるお母さんが娘さん夫妻を教会に連れて来られました。そして「先生、何とかこの娘夫婦を導いてやってください」と言う。それから息子を亡くされたご両親といろいろなお話をさせていただいた。「神様がこの事をつかさどっておられるから、私たちがなすことは神様を信じていくことですよ」と。そのときいちばんの問題は何であったかと言うと、ご両親は「どうしてこうなったんだろうか」「どうしてですか」「神様がいらっしゃるんだったら、どうしてこうなったんですか」と悩み続ける。私は神様の代理人ではありませんから答え様がない。「どうして息子が死んでしまったのか」「何で自分たちの幸いを壊されてしまったのか」。いうならば、自分です、行きつく所は。自分たちが思い描いた幸せな人生を途中で頓挫(とんざ)されてしまった。そこで打ち切られてしまった。「どうしてだろうか。何がいけなかったのか」、自分を責めるところもあるでしょうし、また訳が分からないがゆえに人を呪わなければならない。


ここの所でいちばん大切なのは、このヨブがそう語っているように「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはない」と、神様に全面降伏することです。ここに自分を置いていく以外にないのです。「神様がなさっているのだったら、人は何も言うことができません」と。どうでしょうか? 私どもはそこが甘くなる。中途半端になるのです。そうすると「神様がいらっしゃるというのに、神様は愛だというのに、こんなことになってしまって、あんなことになってしまって、もっとこうあって良かったのではないか。何でやろう。このくらい神様はしてくれても損はなかろうが」と、神様に文句を言いたくなる。そこが信仰に立って生きることの分岐点です。ヨブのように「そうでした。神様、あなたが私どもを握っておられる」と信じる。私どもは神の中に生き動き存在している。そして、神様がいまこの事を起こしている。これが「何でだろうか」「どうしてだろうか、訳が分からないけれども、神様はできないことのない御方、神様は主権者でいらっしゃる。全能なる御方であって、万物をご自分の意のままに導くことがおできになる御方だから、いま神様がこの事をしてくださる」と委ねる。だからといって、神様は私たちに悲しいだけ、苦しいだけ、辛いだけの事をして喜ばれる方ではない。聖書に証詞されているように、ひとり子を惜しまないほどに私どもを愛してやまない御方です。神は愛なる御方、その愛なる神様の手に握られている。でも、いま目の前にある事は到底そうとは思えないけれども、その現実に自分を置くのか、それとも御言葉を通して語られている神様の手に自分を据えるのか。これは二つに一つです。絶えずそこを問われています。


どんな時にも、何があっても、「いま神様が、愛なる神様がこの事を備えてくださって導いておられることです」と、徹底してそれを信じていくものとなりたいと思う。


パウロは自分の肉体に一つのとげが与えられて、何としてもこれがなければ良いのにと願い、そのために三度も主に祈った。サタンが私を打つ使いとなってこのとげを与えられた、と彼は悔んでいます。しかし、祈っているときに「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(Ⅱコリント 12:8)と言われた神様の御心を悟ったのです。「どうしてだろうか」というのがパウロの悩みです。「どうして私だけこんな風になったのか」「どうしてこれがあるのだろうか。この病気さえなかったら、神様のためにああもできただろう、こうもできただろう」。自分を中心に事を考えようとしたのです。そのときに神様は「そうではない。わたしの恵みはあなたに対して十分である」。私が主である、と言われたのです。わたしがお前の全てを知っていて、お前のためにそのことを与えているのだ。何か文句があるか、と神様は言われる。言うことはなにもありません。ただ「そうでした」と認め、感謝するほかありません。そのときパウロは「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」と、心から感謝をしました。そして、弱さを通して神様が働いてくださると信じたのです。


私たちもそこに絶えず立って行きたいと思います。ヨブは神様に対して「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを」と告白しました。神様にできないことはない。できないことのない御方がいま私に敢えてこの事を与えてくださったのならば、これは神様の賜物です。たとえ、自分が嫌であっても、悲しくても辛くても、感謝しようではありませんか。「そうでした。神様。あなたが全てのものをご自分の意のままになし得給う御方ですから、主よ、あなたの手に委ねます」と、私たちは神様の中に生き動き、神様が持ち運んでいるのですから、そこにすっかりと委ねていきたい。


その後にありますように「『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました」。本当に私たちは自分が訳も分からないのに偉そうに「これが絶対私にとって幸い」「こうでなければ、嫌だ」と主張します。「これがいちばん良いのだ」と言いますが、ではそれで本当に良いのか、さらにその先はどうなるのか、実はなにも分からないのです。いま良いと思っていても、それがとんでもないひどいことになるかもしれない。私たちは分からないのです。明日のことも分からないのだったら、いまここにあることをつべこべ言うことはいらないのです。「感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない」(Ⅰテモテ 4:4)。「そうです。神様が備えられたことですから、信じて感謝します」と、主のものとなりきって、主の力を体験しようではありませんか。


ヨブは5節に「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします」と語っています。この苦しみを通して初めて手で触るように神様を知りました。それまでも神様を知っていたはずです。しかし、ここで神様を目の当たりに見ることでき、手で触ることができたのです。それは自分の心を捨てて、思いを捨てて、全面的に「わたしが主である」とおっしゃる神様に自分を委ねきったときであります。そのとき神様に触れる。どうぞ、この体験を味わう者となってください。


ご一緒にお祈りをいたしましょう。