永遠の大祭司

 「ヘブル人への手紙」4章14節から16節までを朗読。


16節「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」。

神様を信じる者とされ、日々毎日の生活の中で常に神様を意識するといいますか、神様のことを心にとめる生活を送っています。考えてみると、非常に不思議な感じがします。神様は、もちろん目には見えないし、手で触るわけにもいかない、また、その声を聞いたりすることもできません。けれども、神様がいらっしゃることを信じ、神様が天地万物の創造者、造り主でいらっしゃるわけですが、そのような神様をまるで自分の家族の一員か、親しい友達のごとく、親しく「神様」と呼び掛ける、身近に生活している人のような関係に置かれている。それを考えると、とてつもない出来事だな、と思います。というのは、私どもは小さな者で、地上の人生を生きるのもせいぜい良くて80年か90年でしょうか、本当に短い時間です。ですから、私たちの存在は非常にはかないものです。それに対して神様はどういう御方か? とてつもない大きな御方でいらっしゃる。私たちの想像で測り知ることができません。神様はどれほどの方であるか、全体像を人が理解することはできません。地球は非常に大きなものですが、しかし、世界地図とか、あるいは、地球儀のような物を見ると「地球とは全体がこうなっているか。北の方には北極があって、南の方には南極大陸があって、そのほか幾つかの大陸があって、あとは海なのだ」と理解しています。私たちは人工衛星に乗って地球を全部見渡すといいますか、上から眺め見ることはしたことがありませんが、少なくとも想像力によって「世界というものはこういうものであるか」と理解するのです。人が初めて地球に生まれてから長い年月が過ぎていますが、地球全体を見渡して見ることができるようになったのは、実にこの何十年かのことにすぎません。ルネッサンスが始まる1600年代から、ヨーロッパなどでは「地球は丸いもの」とは、なかなか納得できなかった。コロンブスという冒険家が船でぐるっと回ってみて「地球は丸いのだ」と、はじめて分かった。それだって、全部上から眺め見て北極であるとか、南極であるとか、そんなことを見て知ったわけではない。おおむねこうではないかという推測から「地球は丸い」と考えた。それ以前はどのように考えていたか。地球は平べったいもので、ズーッと行くと恐らくその先は滝のようになっていて落ち込んでおしまいになるのだろうという考え方でした。だから、私たちは今いろいろなことがよく分かるようになってきた。かつては知り得なかったことを知ることができるようになった。その意味では科学的な知識、情報というものが飛躍的に大きくなった時代であります。つい自分がそうだから昔の人も同じように考えていたと思いがちですが、大間違いです。パウロの時代、2千年前の人たちが地球という意識があったかどうか、むしろそういうことは考えなかった時代だろうと思います。そういう意味で、今は非常に大きなものを、自分の体以上のもの、あるいは、自分の生活範囲を超えた広い大きなものを理解できる時代であることは確かです。しかし、だからといって、神様のことは到底知り尽くすことができません。神様ははるかに大きなものであります。


 「イザヤ書」40章12節から15節までを朗読。


 ここに神様はどんなに大きな御方であり、知恵に満ちた御方でいらっしゃるかが語られています。「たなごころをもって海をはかり」とありますが、手のひらで海をすくい取るような御方、また「指を伸ばして天をはかり」、物差しや両手を広げてじゃない、指先だけで天を端から端まで、天体の端から端までを測り取ることができる御方。そのように言われても想像がつきません。昨日でしたか、宇宙ステーションに日本の宇宙飛行士がロシアの宇宙船に乗って出掛けたというニュースがありました。それとても地球から何百キロか上の所です。もっとその宇宙の果てはどこまで続くのか分かりません。私たちは宇宙のことを想像はしますが、想像して「このくらいかな」と思ってみても、それで全部をくくり取った、全部知り尽くしたかというと、それは分かりません。もっと先があるに違いない。そういう大宇宙すらも、指先ひとつで測り取ってしまうような神様でしょう。またその先に「てんびんをもって、もろもろの山をはかり、はかりをもって、もろもろの丘をはかったか」。山を量るなんて、そんなはかりをどんな知恵を尽くして造ろうとも、そんなものは測りようがありません。また15節には「見よ、もろもろの国民は、おけの一しずくのように、はかりの上のちりのように思われる」と。地球上に六十何億かの人々が住んでいるそうでありますが、もろもろの国民を神様の目からご覧になると「おけの一しずくのようだ」と。水をザーッと出しては最後にタラタラと垂れてくる一滴二滴、これが今の全てであると、地球上の全ての人がそのくらいのものにしか神様の目には見えない。ましてや、それじゃ私たちはどうでしょうか。神様の目からご覧になったら到底目にもとまらないどころか、あるかないか分からない、吹けば飛ぶどころか、飛ぶ前にもう無いのです。誠に小さいのです。だからその後の17節に「主のみ前には、もろもろの国民は無きにひとしい。彼らは主によって、無きもののように、むなしいもののように思われる」とあります。とてつもない大きな神様です。私たちの想像を超えた御方、しかも18節に「それで、あなたがたは神をだれとくらべ、どんな像と比較しようとするのか」。どうでしょうか? 私たちはいつも神様にお祈りするとき、「天のお父様」「神様」と、声を出して祈りますが、そのときの神様をどのような御方と私たちは見ているのでしょうか?仏像や刻まれた像の姿かたちをいくら想像してもそれは神様では全くありません。そのような形で測れるような御方ではないからです。だから18節に「それで、あなたがたは神をだれとくらべ、どんな像と比較しようとするのか」。もう比べようがないのであります。


更にもっと先の所を読んでおきたいと思いますが、21節から23節までを朗読。


神様は「地球のはるか上に座して」と言われますが、はるか上ってどこだと?それが分からない。私たちには理解できない。そのような大きな御方で、「地に住む者をいなごのように見られる」、まるで虫のように見ておられる。そういう神様を、先ほど申し上げたように、家族の一人であるかのように、また友人であるかのように、間近かな人のように信頼するとか、その御方に頼るとか、その御方に祈る、申し上げる。こんなことができるのは不思議どころではない。とてつもない出来事だと思います。だから、多くの人は「神様なんかいるものか」「神様なんか信じられないよ」と言いますが、むしろそれのほうが分かりやすい。しかし、では、神様はいらっしゃらないかというと、そうは言えません。というのは、私たちのこの見る世界、宇宙といいますか、少なくとも私たちの限られた知識でもって理解できる世界が、では何によって出来たかと言えば、それは神様によるとしか言いようがないのです。そういうとてつもなく大きく広大無辺な御方でいらっしゃる神様を私たち、小さな取るに足らない、無きに等しい者が「神様」と呼び求めて答えていただける、私たちの祈る声に耳を傾けていただけるのは、何故(なにゆえ)なのか?


もう一度初めに戻りまして「ヘブル人への手紙」4章14節に、「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから」とあります。確かに、私たちと神様はそもそも何の縁があって「あなたは私の神」、あるいは神様が「お前はわたしの民だよ」「お前はわたしの子だよ」と言っていただけるか。考えてみても、その根拠が無いわけです。神様の一方的なご計画とわざによって、私たちは造り出され、この地上に置かれている。誰ひとり自分が好んでこの日この時この親の許(もと)に生まれようと決めた人はいません。神様が勝手に私たちをこの世に置いて、苦しみ、悩み、もちろん楽しいこともあるけれども、喜怒哀楽というか、様々な問題や事柄の中で生きている。「どうしてこんな者に神様はされたのか」、「神様は私たちを懲らしめているのだろうか」、「私たちを苦役に置いておられるのか」とひがんでしまいやすいほどの状況。だから「そのような神様なんて迷惑至極だ」と言う人もいるかもしれません。しかし、どんなに否定しても、私たちが今日ここに生かされているのは、一重に「神様による」としか言いようがない。しかも、神様は私たちとどのようなかかわりで「あなたは神」、「あなたは父なる神様です」と信頼できる関係に置かれたか? それはただ一つ、14節にあるように「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいます」からです。これがひとつの大切な事です。イエス・キリスト、神の御子でいらっしゃった御方が人となってこの世に来てくださった。ここがただ一つの神様と私たちとの接点であります。いうならば、神様は創造者であり、私たちは被造物、造られたものですから、これは雲泥の差どころではない。到底交わり得ない関係であります。隔絶した、断絶した神様と人、創造者と造られたものという関係は、決定的に全く違うものであります。ところが、造られた人である、被造物である私たちを神様のほうが憐れんでくださった。そして私たちに近づいてくださった。神様がご自分をあらわしてくださった。それが御子イエス・キリストです。


「ヘブル人への手紙」1章1節から3節までを朗読。


神様は昔いろいろな預言者を通していろいろな方法によって「わたしが神であるよ」、神様が「ここにわたしがいるではないか」と語ってくださった、とあります。そして2節に「この終りの時には」、いうならば、終末の時代に入って「御子によって、わたしたちに語られたのである」。神様はいろいろな方法手段を用いておられましたが、最終的にご自分のひとり子イエス・キリストを神の位からこの世に遣わしてくださった。人となって、人の世に住むものとなってくださった。いうならば、神様が敢えて人の中に住んでくださった。これがイエス様の姿であります。だから3節に「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって」とあります。イエス・キリストは神様ご自身ということに他ならない。神様の姿かたち、神様がどのような御方でいらっしゃるかは、イエス・キリストがご自分を通して語ってくださる。それがこの3節のお言葉であります。神様と人でありますから、これは到底交わりがあり得ない、とてつもない距離のある隔たったものでありますが、私たちに神様のほうが近づいてくださった。それはどのような方法によってか。ひとり子、イエス・キリストをこの世に遣わすことによって、神様が御子を通してご自身をあらわしてくださったことです。ですから3節に「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる」。神様と同じ権能を持ち給う御方、力を持ち給う御方となって、全てのものを神の言葉によって今もなお堅く立たせてくださる。不動のものとしておられる。「そして罪のきよめのわざをなし終えてから」、イエス様が十字架にご自分を罪人として、いけにえの子羊となって命を捨ててくださった。そして、死んでよみがえられた後、「いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである」。イエス・キリストはこの世から携え上げられて天に昇って、今は父なる神様の右に座しておられる。いうならば、神と共にあり給う御子、神なる御方が人となって、私たちの救いを完成して、今は天にお帰りになられた。これは私たちにとって何と大きな慰めといいますか、喜びであるか分かりません。しかもイエス・キリストの霊が私たちの内に住んでくださった。私たち全ての過去・現在・未来にわたって全ての人の罪を完全に打ち砕いて清めてくださった。それゆえに、今私たちは神様の前に近づくことができる。最初に申し上げたように、神と人との関係があまりにも遠く隔たったものであり、到底交わることのできない私たちに神様が近づいて、私たちを大きな力によってサタンの支配から引き出してくださった。


もう一度初めに戻りまして、「ヘブル人への手紙」4章14節以下に「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。15 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである」。御子イエス・キリストは「大祭司」と呼ばれています。大祭司とは、私たちの普段の生活には全く縁のない言葉ですが、これは旧約時代イスラエルの民が神様に仕える道として、神様の定められた事柄でした。イスラエルの民の中から神に仕える祭司の役割、いうならば、神と人との仲立ちをする者として人を選ばれました。12部族の中のレビ族という部族が神様に仕える者として定められました。その中からアロンの一族、モーセのお兄さんであるアロンの末えいを神様の前に立つ祭司の一族として定めておられます。その当時はこの大祭司によって初めて神様の前に人が近づくことができる。その当時は直接人が神様に呼び求めることはできなかった。近づくことができなかったのです。いま私たちがしているようにいつでもどこでも「神様」と交わることができるのは、イエス・キリストが私たちの大祭司となってくださったからに他なりません。その昔は限られた人が選ばれて大祭司の役割をする。そして、大祭司のいる所に行って取り次いで頂く。神様に願い事をし、神様の御旨を聞き、御心を知るというのが常でありました。ところが、今は大祭司なる御方は人ではなく、神の御子でいらっしゃったイエス様です。全きあがないを完成してくださった御方は、繰り返される動物などの犠牲を必要としない永遠の大祭司となってくださった。


「ヘブル人への手紙」5章7節から10節までを朗読。


イエス様はこの地上に来られた時、全く人と同じ者となりきってくださった。肉によって生きる生涯を送ってくださいました。しかし、その生活にあって7節に「激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ」、生涯父なる神様にイエス様は絶えず近づいて祈りと願いをささげて、生涯を懸けて神様を信じる信仰に生きる道を全うしてくださった。それによって「その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである」。そのゆえに神様は御子イエス・キリストの肉にある祈り、いわゆる人となり給うたイエス様をその信仰の故にご自分の親しい者として選んで愛してくださった。そして、その祈りと願いに応えてくださった。8節に「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び」と。イエス様は御子であられましたが、この世にあっては全き人となってくださった。どこを取っても私たちと違いのない肉にある弱い人としての歩みをしてくださった。それは父なる神様の御心だったからです。「ピリピ人への手紙」に語られていますように「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(2:8)。だから「さまざまの苦しみによって従順を学び、9 そして、全き者とされた」。全き人として、人の中でも最も神様の御心にかなう全き人となり、ご自分をささげてくださった。ですから「彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり」とあります。イエス様がご自分に従順なる人々、いうならば、イエス・キリストを信じてイエス様に従って行く。イエス様に従順に従って行くとき、その人の救いとなってくださる。イエス様が救いとなって、10節に「神によって、メルキゼデクに等しい大祭司と、となえられたのである」。大祭司として神様がイエス様を立ててくださった。これがいま神様と人とをつないでいる大切なきずなです。


だから、先ほどの4章15節に「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである」と。しかもこの大祭司となり給うたイエス様は肉の生活にあるとき「激しい叫びと涙とをもって」、そういう苦しみと悲しみと病の中に弱きを知り給う御方となって、十字架の死にまで苦しみを味わってくださった。そして、私たちの弱さを知ることができる御方となった。だから、いまイエス様が理解できないような悲しみはない。イエス様が知らない悩みはありません。イエス様は世にあるとき全ての悩みを受けてくださって、悩んでいる人々の思いを知ることのできる御方となってくださいました。これは私たちの大きな慰めであります。ですから、自分がどんな悲しみの中にあり、どんな苦しみの中にあろうと、どんな不安の中にあっても、イエス様も同じように悩まれた。イエス様も私たちと同じように悲しみの人であって、苦しみの中に涙を流された御方であることを知っておきたいと思います。その主が私たちと共にいてくださる。共にいてくださって大祭司となってくださる。大祭司なる御方は常に神様と人との仲立ち、つないでくださる御方です。だから、大祭司となり給うたイエス様は父なる神の右に座してくださって、今も私たち全ての者のために執り成してくださる。私たちの祈りや願いや心の思いの隅々を父なる神様に「どうぞ、この者のために聞いてやってください」と執り成してくださる。


16節に「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」。だから、どんなことがあってもまず「恵みの御座」、いうならば、イエス様がそこにいらっしゃることを信じて、神様に近づいて行く。イエス様が私たちのために執り成してくださる。


「ヘブル人への手紙」7章24節、25節を朗読。


24節に「永遠にいますかたである」と。イエス様は永遠に居給う御方、期限切れはないのであります。いつまでも大祭司としての務めを持ち続けてくださる。しかも「変わらない祭司の務めを持ち続けて」、父なる神の右に座しておってくださる。25節に「そこでまた、彼は、いつも生きていて」、イエス様は今も生きておってくださる。で、彼らのために執り成しておられる。私たちのために執り成してくださる御方。だから「彼によって神に来る人々を」、彼というのは、キリストです。キリストによって神に近づいて来る人々をいつも救うことができる。イエス様抜きに神様に近づくことはできません。イエス様が私の罪のあがないとなり、ご自分を十字架の祭壇にささげて、「父よ、彼らを赦し給え」と今日も執り成してくださる。それと同時に、大祭司となり給うた御方は、私たちの弱さを知り、私たちの思いの全てを知ってくださって、父なる神様に余す所なく取り次いでくださるのです。このイエス様の執り成しによって、父なる神様が聞かないはずがない。イエス様は父なる神様に求められるところの一切を忠実に従順に従いぬいて永遠の名に勝る名を賜って天にまで引き上げられなさいました。そのイエス様がいま私たち一人一人の味方となってくださる。私たちの側に立ってくださる。だから、私たちははばかることなく……。


「ヘブル人への手紙」4章16節に「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために」。父なる神様、広大無辺な御方、力ある御方、全能の神でいらっしゃる御方の全てを私たちに頂くことができる。「時機を得た助けを受けるために、はばかることなく」遠慮しないでと「恵みの御座」、神様の御前に、キリストの御前に私たちは近づいて求めて行こうではありませんか。遠慮なく主に求めていく者になろうではありませんか。


「ローマ人への手紙」8章26,27節を朗読。


これは素晴らしい慰めです。この御霊は、イエス・キリスト、父なる神の右に座し給うたキリスト、大祭司なる御方は弱い私たちをも助けてくださるとあります。「わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが」と、誠にそうです。神様がどのようなことを喜ばれるか私たちは知ることができません。私たちは自分の思うところ、自分の願い、勝手な祈りばかりをしているように思います。しかし、そういう私たちであることを神様はことごとくご存じです。だから、何も格好をつけることはいらない。神様の御心にかなう祈りを何とかしようと、いくら考えたってできないのですから、有りのままに自分の心の思いを身勝手なことのようであったとしても遠慮なく「はばかることなく恵みの御座へ近づけ」とおっしゃる。私たちがひと言言葉を出すならば、心の隅々まで全てを主は知り給う御方です。だから、26節に「なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって」と。御霊ご自身が私たちのうめくようなもどかしい心の……、いくら言葉を尽くして祈っても、なお心にはたくさんの思いがあります。その思いの全てを主は知ってくださる。ご存じなのです。そして、私たちのために執り成してくださる。27節に「そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである」。これも私たちへの大きな励ましであります。「御霊は私たちの祈る身勝手と思われる事をも神の御旨にかなうものとしてとりなしてくださる」。神様の喜び給う、願うところのものとしてくださる。ここに繰り返して「御旨にかなうとりなしをして下さる」とあります。先ほどの26節の終わりにも「わたしたちのためにとりなして下さる」。


それからもうひとつその先を読んでおきたいと思います。8章33節34節を朗読。


ここにも「とりなして」という言葉が繰り返されています。キリストは父なる神の右に座してくださって、絶えず私たちのために執り成す御方、大祭司となってくださる。だから、私たちは遠慮しないで、「こんな私がお祈りしていいんだろうか」とか、「こんな身勝手なお祈りでは聞かれないのではないか」とか、いろいろなことを考えますが、聖書にはひと言も「駄目だ」とは言わない。いや、それどころか、私たちの心を知り給う御方は、切なるうめきをもって今日も執り成してくださる。だから、私たちははばかることなく……。


「ヘブル人への手紙」4章16節に「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために」。「時機を得た助け」と、これは最高の恵みです。時機外れでは駄目です。家が焼けてしまって鎮火した後に消防車が来たって何の役にも立たないでしょう。出火したらすぐにそこに来てくれると助かります。「時機を得た助け」、まさにどんぴしゃり。私たちはそういうタイミングを自分で計ろうと思っても上手く行きません。しかし、神様に祈っておりますならば、最も良い時を備えてピタッとその事を行ってくださるのです。いま私たちは何がどうなっているのか、先のことは分かりません。いま目の前に起こっている事態がこれから将来どのように変化して行き、どうなって行くのか訳が分かりません。しかし、その時、その時心を注ぎ出して主に信頼し、祈っていきます時、「時機を得た助け」を受け、後になってみると「なるほど、この日この時この事があればこそ、今のこれがあるんだ」と、「どうしてこうなったんだろうか」と不思議としか言いようのないことを神様は備えておられるのであります。

だから、遠慮しないで神様の前に出て、打ち明け、時機を得た助けを受けるために待ち望んで行こうではありませんか。誰の知恵による、誰の働きによるのではなく、まさに神様が私たち一人一人に近づいて、神様の驚くべき力を現わそうとしてくださるのです。


私たちはいと小さな者であります。取るに足らない者であります。こういう者が大きなとてつもない力の源でいらっしゃる神様に近づくことができる。そして、その御方を「アバ父よ」、「天のお父様」とお呼びすることのできる御子の霊を頂いている者であります。このことをしっかり自覚して、感謝して常に主を呼び求めて、主の恵みの御座に絶えずとどまっていたいと思います。


ご一緒にお祈りをいたしましょう。