主に遣わされて

「ヨハネによる福音書」20章19節から23節までを朗読。


 21節「イエスはまた彼らに言われた、『安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす』」。

19節に「その日」とありますが、それはイエス様がよみがえられた週の初めの日のことです。その日の早朝、女の人たちが墓に来ましたらイエス様の体がなく、墓は空でした。そのことを弟子たちに伝えました。ペテロとヨハネは急いで墓を見には来ましたが、しかし、何のことかよく理解できなかったようで、そのままエルサレムの町に戻ったのです。そして、彼らは一つの所に身を潜(ひそ)めて隠れていました。19節に「弟子たちはユダヤ人をおそれて」とあります。大変不安だっただろうと思います。イエス様が十字架にかけられて何日もしないうちですから、興奮状態、町中が異様な雰囲気であっただろうと思います。それだけに、彼らはいつどういう危害が及ぶか心配でありました。少しでもイエス様とかかわるならば、自分たちも十字架に釘づけられるかもしれない、生きるか死ぬかというぐらいの恐れを持っていたと思います。ですから、自分たちのおる所の戸を皆閉めて、息を潜めて隠れていたのです。そこへイエス様が入って来られた。「イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた」と。まさかイエス様がそこに来てくださるとは思わない。誰も入ることができないような状況であったと思いますが、よみがえったイエス様はそんなことはお構いなく入って来られた。そして20節に「手とわきとを、彼らにお見せになった」。ここでイエス様ははっきりとご自分があの十字架におかかりになったイエス様ご自身でいらっしゃることを見せて下さった。今ですと、身分証明書を見せてください、と本人確認をすることでしょう。イエス様は自分の体を直接見せてくださったのです。手と胸の傷跡、それを見せて「ほら、わたしであるよ」と、幻(まぼろし)でも夢でもなくて現実にイエス様がよみがえってここにおられる、ということを証詞してくださったのです。


 イエス様はよみがえられた後、いろいろな所でいろいろな人々にご自身がよみがえられたことを証詞して、現われてくださったとあります。振り返ってみますと、必ずしも同じようにではありません。この時弟子たちには直接的にイエス様の身体を見せて「わたしはこうやってよみがえったではないか」と明らかにしておられます。ところが、その後ガリラヤ湖畔では、早朝まで彼らが漁をしていました。そうすると岸に朝早く立っていた一人の人、イエス様は声を掛けられました。「何か獲物はあるか」と、すると「何もない」、「じゃ、右のほうへ網を下せ」と言われたのです。そのときのイエス様は、彼らから見れば見ず知らずの人でした。その声に従って、網を引き揚げたところ、たくさんの魚が取れて、その結果「いったい、あの人は誰だ」と、もう一度見直したところ、「これは主だ」と、ペテロはびっくりした。だから、よみがえられたイエス様は、何か特定の姿、形をして現れてくださるのではない。まさか、それがイエス様とは思いません。ただ、改めて「誰だろう」とよく見ると、ひょっとしたら主ではないかと思った。「ルカによる福音書」5章にありますように、ガリラヤ湖で漁をしたときの体験がありますから、「そうだ。イエス様だった」と思って見たところ、それがイエス様だったというのです。また、イエス様がよみがえった後、弟子たち二人はエルサレムを離れてエマオに向かって行きます。そうすると、そこへもう一人旅の人がやって来る。でも彼らはそれがイエス様とはわかりません。よみがえったイエス様が、「これがよみがえったわたしですよ」と、いつも白い衣でも着ていて一目瞭然、見たら分かるという、そういう御方としてよみがえられたわけではない。弟子たちと一緒にガリラヤやユダの地を宣教しているとき、神の国を宣べ伝えているときのほうが、まだイエス様の独特の容姿といいますか、見た目でも分かる様子ではなかったかと思います。よみがえられてからのイエス様の姿は、そのとき、そのとき、いろいろな場合によって違います。一人ひとりに「ここに主がいます」と教える仕方でよみがえりの事実を現わしてくださる。だから、エマオに行く途中二人の弟子たちに近づいてくださったイエス様は、単なる旅人としての姿でしかありません。彼らが「これは主だ」と分かったのは、一緒に食卓についてパンを裂く姿を見た瞬間でした。


 今もよく尋ねられますが「イエス様はよみがえったと、どこにいますか」、「どんな形をしている」、「どんな姿ですか」。時にそういうことを質問されますが、イエス様はどこにでもいらっしゃるのです。イエス様は、あるときは小さな子供の形であるかもしれない。時には年を取った人としてであるかもしれない。実はよみがえってくださったイエス様はいつでもどんな時でも私たちのそばにおられるのです。これは非常に大切なことですからしっかり心に留めておいていただきたい。私たちは2千年前にイエス様はよみがえって、今は御国に帰られてしまい、今はこの所にはいない」と思われがちです。そうではなくて、イエス様はまさに私たちの心の中にいらっしゃる。だから、先ほど申し上げたガリラヤ湖での朝の光景も「ひょっとしたらこれは主ではないか。かつてこういう場面に出会ったよな」との思いがあっただろうと容易に想像できます。エマオの宿でパンを裂いているときに「これはひょっとしたら主ではないか」と思った瞬間、「イエス様」と思ったときにはもう消えて姿はなかった、とあります。いうならば、イエス様はよみがえって実は私たちの心の中に住んでおられる。だからと言って、どこにいらっしゃるかと、私たちの心をいくら開いてみても、そこにイエス様は見えません。しかし、私たちのいろいろな人との出会い、事柄、問題、日常生活の様々なことの中で、そこに主は生きておられるのです。それは私たちが「ここに主がいらっしゃる」と信じるときに見えるのであります。不思議な形で主がご自身を現わしてくださるのです。


 「靴屋のマルチン」というトルストイの物語があります。クリスマスによく劇などで取り上げられます。靴屋のマルチンの所へイエス様が来るという約束で、彼は待っていた。イエス様がどんな風にして来られるか。前の日から準備をしてイエス様が来られたら、ああしてあげよう、といろいろなことを考えていました。翌日、朝早くからいろいろなことが起こります。寒空に道路を掃除するおじさん、あるいは乳飲み子を抱いた若いお母さん、あるいはリンゴを盗んだ貧しい少年と、そのたびにマルチンは引っぱり出される。仕方なしというか、可哀想だと思って、いろいろと手厚く尽くしてあげる。そうやって忙しい一日が終わり、静まって祈る。「イエス様、今日はあなたが来てくださると言ったのですが、とうとう来られなかったですね」と言った瞬間、その日に出会ったあの人、この人、あの人と、いろいろなかかわった人たちの光景が頭に浮かんだ。そのときにイエス様が「これがわたしだよ」と。「あの道路を清掃していたのはわたしだよ」「リンゴを取った子供は実はわたしだよ」と、そこにイエス様は来ていらっしゃる。


私たちも実は主がよみがえってくださった、と信じて、私たちが遣わされている所、置かれているそこに主がいます、と信じて行くとき、主を見ることができるのです。主がどこか遠くにいるように思うから、私たちはいつまでも「主はどこにいらっしゃるのだろうか」と求め続けます。


だから、イエス様がよみがえられたとき、墓に来た人たちに御使いが「あなたがたが探しているイエスは、もうここにはおられない」と。「ここにはおられない」。かつてガリラヤ地方でユダの野で彼らと一緒に生活をしたあのイエス様ではない。それはもうここにはいない。では、どこにいらっしゃるか、あなたの心に、私たちの信じるところにいらっしゃるのです。具体的に皆さんの生活のあのことの中に、このことの中に主がいらっしゃる。それを私たちが信じること、体験することができるのは、自分たちの心のあり様が問題となります。それがいま読みました記事です。


19節「ユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた」。まずイエス様が彼らの所へ来てくださった。そして、手とわきを彼らに見せて、分かりやすい形でイエス様がよみがえられたことを証詞してくださいました。「弟子たちは主を見て喜んだ」と記されています。弟子たちは「イエス様がここに来てくださった」と言って、信じて喜んだ。ところが、その後21節に「イエスはまた彼らに言われた、『安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす』」。これは非常に大切なことです。というのは、イエス様がよみがえられていちばん最初にお話になったのがこのことです。もちろんお墓でマリヤさんに「わたしを触ってはいけない」とか、簡単な挨拶ぐらいはしましたが、集まった弟子たちにはっきりと一つのメッセージを語られたのはこの時がよみがえられて最初であります。ということは、よみがえられたイエス様がいちばん言いたかった、あるいは弟子たちに願ったことが、ここにはっきり語られた事柄です。いうならば「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。ここでイエス様がまず「父がわたしをおつかわしになったように」と語っておられます。「父」とは、父なる神様です。神様によってご自分がこの世に、人の世に遣わされてきたものである、とここで語ったのです。「わたしが父なる神様からこの地上に遣わされて来た」。わたしはあなたたちと同じ肉体をもった人となって、完全に人となりきってこの世に生きた。しかし、だからといってこの世のものではなかった。わたしは父なる神様から遣わされて、ここで神様のものとなって、神様の使命を、父なる神様が求めることを果たすために来た。これがここに言われる「父がわたしをおつかわしになった」ということです。


誰によって遣わされ、いま何のためにここに置かれているか、これがよみがえられたイエス様に出会う前提条件といいますか、大切なあり方であります。イエス様が私たちを「わたしもまたあなたがたをつかわす」と。これがイエス様の救いにあずかること、イエス様が私たちを新しいのちに生きる者としたのは、ここなのです。私たちは今までどういう生き方をしてきたか。それは自分のために生きる人生。「私のため」が第一でありました。恐らく皆そうだと思うのです。あるいは、自分の家族であるか、あるいは自分の何か仕事であるか、そういう「自分の」「私の」という世界。そこに私たちは生きていた。ところが、イエス様はここで死んで、よみがえられた。それは私たちが新しいいのちに生きるため、私たちが新しい使命に生きることなのです。目的が変わることです。今まで自分のために生きていた人生、それは滅びでしかないのです。その行き着く先は永遠の滅びです。また、自分のために生きる生涯は、闇の世界であり、不安と恐れと苛立ちと憤りに満ちた罪の世界であります。イエス様は死を打ち破って、その絶望的な己といいますか、自我といいますか、自己中心に生きる人生から、私たちを救い出してくださる。では、今度は何のためにか? 息子のためにでしょうか。娘でしょうか、孫でしょうか。そうではなくて、今度はキリストのためです。ここが新しいいのちに生きることです。


「ローマ人への手紙」14章7節から9節までを朗読。


7節に「だれひとり自分のために生きる者はなく」とあります。イエス様のよみがえりは、私たちを新しいいのちに生きる者と造り替えてくださる。その新しいいのちに生きるのは、それまでの自分のために生きていた人生ではなくて、今度は「主のために」、「キリストのために」です。これが主によって派遣されることでもあります。主のために生きる。派遣されるのは、遣わした人のために行くのです。だから、私たちが「主のために」というのは、至極当然であります。私たちがイエス様の救いにあずかって、主のために生きる。また「死ぬのも主のために死ぬ」。生きても死んでもどちらも主のものです。だから「生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」。これは素晴らしい恵みです。神様は私たちをご自分のものとしてあがなってくださった。そして、私たちを主のものとしてくださった。これが私たちの救いであります。今も私たちは誰のために生きているかと言われるなら、主のために生きている、これだけです。その後9節に「なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである」。イエス様がよみがえられたご目的は、私たちの主人となる、いわゆる遣わす人になってくださる。イエス様が私たちを買い取って、私たちの主となるためによみがえられたのです。ですから、よみがえってくださったイエス様が、実は私たちの所有者であり、私たちを派遣するための元締めであります。そうなるためによみがえったのです。イエス様は何のためによみがえってくださったのか。「私たちの罪のために死んでくださった。これは有難いことやし、それはそれで感謝しているが、それだけでどうして駄目なのだろうか」と。罪をゆるされるだけでなく、新しいいのちに生きるためです。新しいいのちは私たちがキリストのために生きる者、言い換えると、私たちが主のものとなりきることです。イエス様は手配師ですから、私たちはイエス様の下に雇われた者であります。「あがなわれた」とはそうです。主のものなのです。だから、それを伝えるためにイエス様はよみがえって最初に弟子たちの所へ来られたのです。


「ヨハネによる福音書」20章21節に「イエスはまた彼らに言われた、『安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす』」。イエス様ご自身が父なる神様に従ってこの世に遣わされてくださった。そのように「わたしもまたあなたがたをつかわす」。あなたがたは私のものだから、主のもの、私たちはイエス様のものだから、今度はイエス様が私たちを遣わしてくださる。いま私たちが生きている所、生活している場所、それが家庭あれ、職場であれ、地域社会であれ、どこであれ、それぞれの皆さんが置かれたそこに神様が私たちを遣わしてくださった。置かれているのです。だから、自分のために生きている、と思ったら大間違いです。私は今日も目が覚めてから夜寝るまで、あるいは、寝ている間でもそうですが、主のために、イエス様のためにこのことをさせていただいている。台所仕事をしようと、掃除洗濯をしようと、主のためにさせていただく。イエス様がいま私にこのことを求めておられる。だから、私どもはどんな時にも、主のためにと徹底して、「いま私はイエス様のためにこのことをさせていただいている」ことを自覚していきますと、先ほど申し上げたように、よみがえったイエス様に出会うのです。「ここに主がおられる」と、喜びをもっていのちに輝いて生きることができます。「弟子たちは主を見て喜んだ」とあるように、主を見るとき喜びが湧(わ)いてくるのです。朝起きてから夜寝るまで人のため、世のため、仕方なしに引っ張り出されることもあるでしょう。負わせられること、重荷が与えられることもありますが、それらを「主が私をここに遣わしてくださった。私は主のためにこのことをさせていただく」。「主のために」と、感謝と喜びをもって主に仕えて行こうとすると、必ずご自身を現わしてくださる。私たちはそこで主に出会うことができる。触れることができるのです。イエス様に出会うことを求めてといいますか、主にお会いすることができるように生きたいと思います。21節に「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。では、遣わされて行くそれぞれの家庭で、職場で、地域でどのように私たちは遣わされた者として生きるべきか? その第一の模範がイエス様です。だから「わたしがそうであったように」、「父がわたしをおつかわしになったように」と。ではイエス様はどのようにこの地上を歩まれたか。


「ヨハネによる福音書」5章19,20節を朗読。


ここにイエス様が「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない」と言われます。御子でいらっしゃったイエス様が神の位を離れて人の世に遣わされてくださいました。しかし、人の世に、我々と全く同じ弱き人となりきって、肉体をとって人となってくださいましたが、だからといって人とは違います。やはりあくまでも神の御子が人となり給うた御方でいらっしゃることは、決して消えないことです。そのイエス様は常に父なる神様から遣わされた者として、何をするにも父の御心に従う。ここに「父のなさることを見てする」と、常に父なる神様の御思いと一つになる。父なる神様はこうする、とまるで見るがごとくに父なる神様と一体になっておられる。だから、「自分からは何事もすることができない」。私がしたいとか、私が嫌だとか、私が好きだとか、そういうことを一切言わない。イエス様は、父なる神様がこうせよ、とおっしゃることの一つ一つを忠実に従ったのです。だから19節の後半に「父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである」と。だから、父なる神様がなさることをそっくりそのままイエス様がそれをまねていたと。いわゆるコピーであります。だからその後20節に「なぜなら、父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである」。父なる神様は御子でいらっしゃるイエス様を大変愛してくださった。ゆえにご自分の思いを全てイエス様に語ってくださる。そればかりでなく父なる神様のなさる一つ一つの業を見せてくださる。だから、見よう見まねでイエス様は父なる神様のなさる業をコピーするわけです。まねをする、模倣する、倣(なら)うのです。これがイエス様のご生涯です。だから、イエス様と父なる神様は寸分たがわず同一性といいますか、同じなのです。イエス様のことを神様であり、神様はイエス様でありという、いわゆる三位一体といいますが、そういう関係なのです。イエス様は寸分たがわず父なる神様の姿かたちです。「ヘブル人への手紙」の初めのほうでしょうか、「父なる神様のことはイエス・キリストの中に全て明らかにされている」と語られています。神様のことを知りたければイエス様を見なさい、というわけです。イエス様を見ていれば神様のことが分かるでしょうと。20節でイエス様は「なぜなら、父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである。そして、それよりもなお大きなわざを、お示しになるであろう。あなたがたが、それによって不思議に思うためである」と。だから、父なる神様よりもっと大きなことだっておできになるのがイエス様。では、イエス様だけかというと、そうではなくて、イエス様は「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」と言われる。私たちもイエス様がそうであられたように、同じように神様の力を受けることができる。いうならば、御子イエス様が父なる神様に従ったように……、ただ一つ条件があります。それは徹底してイエス様が忠実に死に至るまでも従順に、十字架の死をもいとわないで父なる神様に従い抜いたと、これが必要なことです。「これはえらいことだ、自分は十字架に死ななければいかんのか」とおじけづきますが、必ずしもそれはゴルゴダの十字架ばかりではありません。皆さんが逃げ出したいと思う現実があるかもしれません。避けて行きたい道があるかもしれません。こんなのは嫌だ、と思っていること、まさにそこでこそ徹底して父なる神様の負わせ給う道、求め給うところに従う。これが、イエス様がゲツセマネで父なる神様と取引するという言い方は語弊(ごへい)がありますが、ある意味でイエス様が父なる神様に全てをささげきった事態であります。だから、私たちもいい加減に諦(あきら)めて、降参して、神様の御手に全面的に降伏し、「もうこうなったら死でもどこにでも、たとえ死のうとも神様の御心にだけは従ってやるぞ」と、覚悟をしてご覧なさい。すると、神様のほうが捨てておかないのです。イエス様はまさにそこだったのです。「えいや!」とばかりにゲツセマネの祈りを通して父なる神様に懸けてしまわれたのです。そのときに、確かにゴルゴダの十字架の御苦しみは大変な苦しみではありましたが、しかし、イエス様を闇の中にとどめ置くことをなさらないで、「聖者を墓にとどめることなく」(16:10)と、詩篇に歌われていますが、そこからよみがえらせて全ての名に勝る名を賜る。栄光の姿に変えてくださる。私たちもいまこのために召され、そして、遣わされて行くのです。


「ヨハネによる福音書」5章30節を朗読。

ここに「自分からは何事もすることができない」と。では、何によってするのか? そこにあるように「み旨を求める」。派遣してくださった御方である、父なる神様の御旨を徹底して求めて行く。そして、これが主から出たことです。父なる神様が私に求めておられることです、という、父なる神様の御心に従う以外にわたしは何もできないとイエス様はおしゃっているのです。それと同じでイエス様はわたしたちの主となるためによみがえってくださいました。よみがえったイエス様が私たちの主人でありますから、その主の御旨に従う。このことを徹底して行きたい。自分の好き嫌いや、自分の利益や、自分の損得利害ではなくて、主が喜び給うかどうか、これは主の御心なのかどうか、これが遣わされた者の使命であります。私たちはどんなことでも祈って主の御旨を求める。イエス様は父なる神様の御心をひたすらに求め続けて、それに従って行かれた。私どもも、ともすると、同情とか、憐れみとか、感情が先立ちます。人情であるとか、あるいは情であるとか、そういうものでイエス様が消されてしまいます。そして自分の情欲に従い、思うがままに振る舞う。その挙句が失望落胆、苛立ちとか憤りとか決していい結果にはならない。そうではなくて、イエス様の御心に従う。人が喜ぶ、喜ばないにかかわらず、「これはいま私がイエス様から求められていることです」と信じる。これが信仰に立つということです。確信を持って立つことです。それがなければ私たちは動かない、何もしない。そのくらい徹底してイエス様の歩みに倣って行く。


「ヨハネによる福音書」20章21節に「イエスはまた彼らに言われた、『安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす』」。イエス様によって遣わされた自分であります。だから、自分がああしたいとか、こうしたいとか、これは嫌だというのではなくて、そこで祈って「私を遣わした主よ、あなたはこれをどうすれば良いか。私はここで何をすべきでしょうか。あなたの御心はどこにあるのでしょうか」と、祈って、心に主が「これは道なり、これを行け」と勧められ、促されることがあるならば、はっきりと「信じます」と信仰に立って踏み出そうではありませんか。その結果が良いとか悪いとか、そんなことはどうでもいいのです。


先だってもある方が「先生、私は一つのことで祈って、これはきっと神様の御心だ、と思って踏み出して行くのですが、しばらくすると、いろいろな状況を見て、本当にこれで良かったのだろうか、ひょっとしたらあれは間違っていたのではないだろうか。御心だと自分が勝手に思い違いをしたのではないかと、不安になったりするのですが、そういう時はどうなんでしょうね」と言われた。「それはあなたが信じ続けないからですよ」と。「ひょっとしたら御心ではないかもしれないと思う」、「いちばん最初はどうだったの? 」、「最初は、神様の御心だと信じて、喜んで、と言ってさせていただこうと始まった。ところがしばらく時間がたってくるとどうも、本当にそれで良かったのだろうか、と思ってしまいます」と。それはまさにサタンがそこで働いてくるのです。私たちは最後まで信じ続けるのです。「これは主が私にさせてくださったことです」と終りまで信じ通す。それによって人から嫌われるかもしれない。ひょっとしたら思いどおり事が行かなくって失敗するかもしれない。しかし、それでも神様は無から有を呼び出すことがおできになる。失敗を成功に変えることだってできる。その道を通ることでどういうことを神様はご計画しているかわからない。私たちの最終結果はイエス様の前に立つその日まで分からない。それを徹底して信じ続けることが信仰に生きることです。「義人は信仰によりて生くべし」(ローマ 1:17文語訳)とはそこです。だから、最後まで信じ続けて行くこと。「ヘブル人への手紙」にありますように、「もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである」(3:14)。「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである」(10:35)と言われるのです。確信を持って行くのです。「主よ、あなたの御心と信じて私はここまで来ました。これからも信じて行きますと、どうして祈らないのですか」と言う。「途中で投げ捨てたら、何か他に救いがありますか」。「いや、ありません」、「だったら、しがみついて行くしかない。神様にすがって、徹底してイエス様と共に死のうではありませんか」と。時々、自分が出て来るものですから、自分のメンツを考えたり、利益を考えたり、「こんなにつらいな」とか「苦しいな」とか「ひょっとしたら御心じゃないかも。もっとあの楽な道のほうが良かった」と。


 「わたしがあなたをつかわす」と言われます。それに応答して「主が私をここに遣わして、今このことのために私を神様が用いてくださっておられる」と信じて行こうではありませんか。これが大切なことです。信仰に立って生きることが私たちの命であります。そうやって歩いて行きますと、絶望と思えた、これはもう無理だ、と思えたところにも、神様は海に道を設けることもおできになります。岩を割って水を出すこともおできになる。死んだ者を生き返らせる力をもって、私たちを通してくすしき業をしてくださる。ですから、最後まで「わたしもまたあなたがたをつかわす」と言われる主の使命を果たしましょう。今日、もう一度主によって遣わされて、それぞれの所に置かれていることをしっかり信じ続けて行きたいと思います。


 ご一緒にお祈りをいたしましょう。