神様の子ども

「ヘブル人への手紙」12章5節から11節までを朗読。


 6、7節に「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである。7 あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか」。

 私どもはこの地上にこうして命を与えられて生きていること、これは何のためなのだろうか? 何ゆえこういう人生を生きるのだろうか? このことを思いめぐらしつつ生きることは大切なことの一つだと思います。この度の震災のことを通してご礼拝でも教えられたことですが、神様は私たちにながく忍耐してくださっている。全ての人が悔い改めに至って救いにあずかるのを待っていてくださる、という記事がありました。また、神様は私たちが滅びないようにと、さばきの時、終わりの時を先延ばしにしておられる。こうやって平穏無事に私どもは今日も一日過ごすことができる、あるいは健康を与えられ、生活するための全ての必要を備えられて今日もある、というのは「神様の憐れみ、主のいつくしみの尽きざるゆえに」と「哀歌」にあります。私たちは滅び去って当然の者だったのです。というのは、そもそも、私たちは神様によって造られた者であります。本来神様のご目的に沿う者として造られたのです。だから、神様のかたちにかたどられ、尊い者として造られた、と「創世記」に語られています。だから、私たちは神と共にあって、神様のご目的にかなう生涯を生きる者として造られたのです。ところが、すべての人間は神様から離れて、人が自分の力で、自分の知恵で生きようとして神なき者となってしまう。造り主である神様を忘れて人が自分勝手な歩みを始めた。そのため神様は大変失望して、嘆いておられるのです。どんなものでもそうですが、何かを作るとき、これはこのことのために、この用途のために、この目的のためにとはっきりとした意図があります。心に思っているものがあります。「これはこうしよう」「これはこのために作って使おう」。作るばかりではなくて、買うときでもそうです。買うときでも「これは今度旅行に行くときに使おう」とか「これは何々のときに役に立つに違いない」というように、何か思うところ、願っていることがあります。ところが、それに沿わないことがあると「こんなもの、捨ててしまえ」、「せっかく買ったけれども、役に立たない。これは誰か欲しい人にあげよう」というような話になります。なかには自分の気に入らない物は身近に置いておきたくない人もいまして、全部やってしまう。「これもいらない」「あれもいらない」と、不用品ばかり。神様から私たちを見たら、まさに不用品です。役に立たない。というのは、私たちを神様のご目的にかなう者として、神様の御心を表わすために造られたのです。ところが、私たちが神様を離れて自分勝手な歩みをし始める。それは神様にとって“邪魔なもの”でしかありません。無用の長物です。だから、神様は一瞬にして潰(つぶ)してしまうこと、それを廃棄することが自由自在におできになります。そういう絶対的な力をもっています。生殺与奪といいますか、生かすも殺すも自由自在に成し得る神様は、私たちを潰してしまうこと、無きにしてしまうことはいとも簡単なことです。「では、なぜそうしないのだ」と、居直る人もいますが、要は憐みのゆえに私たちを惜しんでおってくださる。


 預言者ヨナの記事があります。神様の命令を受けてニネベの町に出かけて行き、「悔い改めなければみな滅びるぞ」と、40日間町中を巡って人々に警告を与えました。そのとき町の人や王様が率先して悔い改めました。「それは悪かった」と。ところが、収まらないのはヨナです。彼は「なぜ、神様、滅ぼさないのですか」と言った。それでふて腐れて町のはずれに庵をくんで神様に憤っていたのです。あるとき、一晩のうちにとうごまという、つる性の植物が生えて、自分の住んでいる小屋を囲った。暑い日照りのときでしたから、それがいい日陰になり、ヨナは大変喜んだのです。「これは有難い」と。ところが、ある晩に小さな虫がやって来てそのとうごまの根っこをかみ切ってしまった。根っこを切られたらすぐに枯れてしまったのです。翌日ヨナは「惜しいことをした。せっかくいい日陰になっていたのに、一晩で枯れてしまった。惜しかった」と言って嘆いたのです。そのときに神様は「ヨナよ、お前は自分でまいたわけでもない。自分で作ったわけでもないとうごまが枯れただけでもそれほど残念に思うのだ、どうしてわたしはニネベの人々を惜しまないでおられようか」と言われました。いつもヨナの記事を通して教えられるのは、神様の御愛です。神様は何も取り柄のない者を惜しんでくださる。自分を振り返ったら、何もできてない、あれも足らない、これも足らない、欠けだらけです。


前にもお話ししたと思いますが、私の父の家は商売人の家です。だから、勉強なんかしなくていい、長男以外の息子たちは家を出て仕事見習いとなって実業を学びました。しかし、父は何とか勉強をしたいと頼み込んで、やっと父親を説得して中学に進むことができました。そのときに母親が「お前は自分が少しでも頭がいいから学校へ行けていると思っているかもしれないが、それは大間違いだ。お前ぐらいのできる子は、掃きだめに捨てるほどいる」と言われた。まさにそうです。「私は、生きていて少しは役に立っている」とか「値打がある」とか「どこか取り柄がある」というのは、大間違いです。掃いて捨てるほどたくさんいる。恐らくそうだと思うのです。


この度の震災で亡くなられた2万人を超えると推定される方々は、私たちより何倍も役に立つ人たちだったでしょう。なぜ私どもが今ここにこうして生かされているか? これはただ神様の憐れみです。惜しんでくださったのです。私どもがこれを忘れると高慢になります。「今日も主よ、あなたの憐れみによって……」と、いつもこのことを忘れないでおきたい。主イエス・キリストは神の位を捨てて人となってこの世に来てくださった。そして「父よ、彼らを赦し給え」ととりなしてくださるゆえに、今日も神様の憐れみを受けているのです。そして、私たちに生きる力を与えてくださっている。「いや、私が頑張って働いて、長年勤めあげて定年退職」。やっと年金をもらうようになって「これは俺の努力の結晶だ」なんて、そんな偉そうなことを思うと、ひっくりかえります。そうではないのです。神様が憐れんで私どもに生活の糧(かて)を与えてくださる。手段や方法、住む所も着る物もことごとく主によらない物は何もない。「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか」(Ⅰコリント 4:7)と、全部もらったものばかりではないか。まさに神様から憐れまれて、神様の御愛のゆえに、今日も許され生かされているのです。だから、私たちは何一つ誇る所はありませんし、またどれをとっても私の力によるものではないことを認めて行く。これが私たちの大切な生き方であります。私たちは本来そうであるべきなのに、神様を離れて、今や自分の力でどんなことでもできると思い上がっている。


そういうときに神様は地を振わせられる。震災を起こし、津波を起こされます。繰り返し皆さんもテレビの映像でご覧のとおりであります。まるで、小さなおもちゃ箱をひっくり返すがごとくに一つの町が大波に飲まれて行きました。これだって神様の力のそれこそほんのわずかな力でしかない。その力に対して人は何にもなすすべがないのです。お手上げです。これが人の姿であることをしっかりと心に刻(きざ)んでおきたいと思います。神様の前に私たちは何一つできない。 


「創世記」を読みますと、人が神様を離れてエデンの園を追われました。そののちだんだん増え広がりました人が、悪知恵を働かせて“バベルの塔”という物を造りました。東京にはスカイツリーという塔が出来ている最中だそうですが、その当時の人々は、何とか高く天に達する者となりたい。塔は、ある意味で人間の上昇志向の一つの象徴ではないかと思います。少しでも上に上がろう。いうならば、神に近づこう。いや、時には神に成り代わろうというほどの勢い。人々はバベルの塔を天に届くほどに高く積み上げたのです。ところが、神様はそれを全部打ち壊されました。そして言葉を散らしてしまったのです。だから、いま多数の言葉があって、なかなか意思が通じないことがあります。これは言語の多様化という表面的なことだけではなく、神様が人の力を打ち壊したことを象徴しています。言葉は「力」です。だから、その後ペンテコステの霊が注がれた時、御霊に満たされた人々は、異国の言葉を語り始めました。自由自在に多くの人と交わることができる者と変わった。いうならば、バベルの塔で散らされた悲劇から、神様が人にもう一度新しい力を与えるという、命の回復です。力の回復がペンテコステでもあります。私たちが神になり代わろう、自分の力で事を計ろうとする。これが私たちの犯した大きな罪であります。ですから、神様は私たちを滅ぼして当然でありますが、そのような私たちを神様は憐れんでくださる。神様は私たちをご自分の目的にかなう者に造り替えようとなさるのです。神様は私たちを惜しんで、何とかしてもう一度私たちを新しく造り替えたいと。これが神様の私たちに対する願いであります。そのために主イエス・キリストをこの世に送ってくださった。そして、私たちがイエス・キリストを信じることによって、私たちの犯したすべての罪が赦され、神と共に生きる者となるのです。神様に近づき、神様との親しい交わりに入れて下さったのです。これが救いです。イエス様の救いとは、私たちを父なる神様の許(もと)に帰らせてくださることです。これがイエス様のご目的です。イエス様を信じるとき、私たちは万物の創造者、全能の力ある御手をもって導いておられる方を、親しく「父よ」と呼ぶことができる。「『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊」を与えて(ガラテヤ 4:6)、万物をみ心のままに持ち運び、完成なし給う、力ある御方の子供としてくださる。これは感謝し尽くすことのできない人類最大の恵みです。それを私たちはつい忘れる。いうならば、創世の初め、エデンの園に人を創られた時の目的にかなう者に、私たちを取り戻してくださる。これがイエス様の私たちに対する救いなのです。これは世の中の言うところの、いわゆる一般的な意味での救いとか、宗教的な御利益とは全く違います。この辺はよく間違いやすいから繰り返し申し上げます。イエス様の救いは私たちを神の子としていただくことであって、この地上での悩みや悲しみや苦しみや何かが消えるとか、無くなる、あるいは、商売繁盛、家内安全、無事息災、病気が癒され、と言ったことばかりが救いではありません。もちろん、私たちの生活の必要を全て神様はご存じですから、今申し上げた生活のことも、もちろん神様が備えてくださる。「空の鳥を見よ」とイエス様がおっしゃる。「まかず刈らず、蔵に取り入れることをしないで、そして、天の父なる神様は彼らを養っていてくださる」。生活のことは神様が面倒を見てくださる。いうならば、それこそ大きなご利益です。私たちの生活の一切を神様が面倒をみるよ、とおっしゃる。だから、それを心配しないで、まず神の子供になることを努めなさいと言われます。それが「まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ 6:33)ということでしょう。神様の子供になれば、神様が私たちのお父さんになってくださる。お父さんが私たちのことを何もかも面倒を見て下さる。「こんないい話はないよ」と、聖書を通して神様が語っておられます。ところが、どういうわけか「いや、そんなことよりも私はあれが欲しい」とか「これが欲しい」、「いま目の前のこれが足らないからこうしてくれ」とか「ああしてくれ」とか、そんなことばかり求めるから、神様は「そうじゃなかろうが」と「目を高く上げて誰がこれらのものを創造したかを見よ」(イザヤ 40:26)と言われます。イエス様を信じて私たちが救われることがどういうことなのか? 「その恵みの中にあなたはいま生きているはずではないですか」と。罪を赦され、神の子とされる。そして、どんなときにでも万物の創造者でいらっしゃる神様を、まるで肉親よりももっと親しい方のごとく、「天のお父様」と呼ぶことができ、またその御方と共に生きる身分に私たちを変えてくださる。「ガラテヤ人への手紙」に「『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊」と記されています。「イエス様の救いにあずかって、少しは人生が楽になるかと思いきや、次から次へと悩みばかり、いったいどうなっているのだろうか」と、時につぶやかれる方がおられます。「せっかく教会に来たのに、熱心に毎日励んでいるのに、次から次へと悩みがあって」と。よく間違うのはそこです。


何十年か前のことですが、ある兄弟のことを思い出します。ある年、次から次に不幸なことが起こりました。まずはご主人がタクシーに乗っていたら、交通事故に巻き込まれて横転して彼は骨折で入院をしたのです。二ヶ月ぐらいして回復し元気になり、「良かった」と喜んでいたら、今度は娘さんが病気になった。海外旅行から帰って来たら腸チフスか何かにかかって隔離病棟に入れられてしまった。入国するなり病院に連れて行かれました。そのことも無事に回復して元気になりましたが、そのうちまたご主人が腸にガンが見つかって手術をうけることになった。立て続けに次から次へとその家庭に災難と言うべきでしょうか、災いが続いた。彼の家庭は皆クリスチャンで、家族そろっていつもきちんと礼拝に来られ、イエス様の救いにあずかっている。すると近所の人が訪ねて来られた。「お宅は大変ですね。次から次へとご家族がこういう不幸に見舞われて……」「はい、これは神様がなさること……」「いや、そうかもしれません。確かにお宅は熱心な信仰をして、毎週、毎週家族そろってお出かけになる様子を見ながら羨(うらや)ましいとは思っていましたが、こんな風な災難にどうして遭うのでしょうか。きっと、お宅に先祖の霊が付いていると思うから、お節介かしれませんが、お祓(はら)いをしてもらったらどうでしょうか」と。そう言われて、その方は笑っておられました。「うちは間に合っております」と、「お断りをしました」と言って大笑いをしました。


時にそういうことになります。次から次に災いが続いて、「どうしてこんな……、こんなに一生懸命に励んでいるのに、信仰しているのに心配は絶えない。次々と不幸が起こってくる。どうしてだろうか」と思います。それは、神様が私たちを愛しておられるからだ、と聖書に語られている。「どうしてこんなことが愛だ!」「私たちをそのような辛いこと、苦しいことに合わせることが神様の愛か!」と、世の多くの人はそう思います。だから、思いがけない不幸に出会ったら、すぐ人は「何か悪いことをしたに違いない。あれが悪かったのだろうか。これが……」と、疑心暗鬼に捕われ、天罰、何か神様が罰を与えていると思い込む。ひとり子を賜う程に限りない御愛をもって、神様は私たちを愛して、私たちのためにひとり子を与えて、信じる者を神の子供としてくださる。そのような神様が私たちを滅ぼそうと思われるはずがないではありませんか。人の親だってそうでしょう。イエス様は「あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」(マタイ 7:11)とおっしゃる。自分の子供が少々何をしようと捨てることができない。いや、手の掛る子であるがゆえにこそ手放せない。ましてや、神様はそれ以上に私たちを愛していてくださる。人の親の愛は限りがあり、いくら親が子供を愛すると言っても、それは限界があります。しかし、神様は限りない御愛を私たちに注いでくださる。「見よ、わたしは世の終わりまで……」どんな時にも神様は決して見捨てることをなさらない御方です。その神様が私たちを「子供とした」とおっしゃってくださる。ちょっと辛いことや苦しいことがあると、すぐ神様を疑う。これは誠に申し訳ない。それどころか、神様はそういういろいろな苦しいこと、辛いことすらも、実は私たちに与えてくださる。


それがいま読みました記事です。5節以下に「また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、『わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。6 主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである』」。殊に「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。神様は、私たちを愛するがゆえにいろいろな試練と思われること、苦しいこと、辛いこと、悲しい出来事の中を通していよいよ清めてくださる。新しい力を与えて私たちを整えてくださる。何のためにか? 私たちを造った最初の神様のご目的にかなう、神の子供にふさわしい者に造り替えるためです。私たちは長年神様から離れて罪の中に生きて来ました。一朝一夕に「はい、信じました。神の子となります」と信じるとき、確かに信仰によって神の子としてくださいました。だからこそ、私たちを神様の子供にふさわしい装いに、性質を造り替えてくださる。神様を離れて罪の中に生きていたときの古い性質性情、泥だらけのぼろぼろの衣装を全部取り除いてくださる。


「ルカによる福音書」15章にある放蕩(ほうとう)息子の記事でもそうです。弟がさんざんひどい目に遭って「これはたまらん」と、本心に立ち返ってお父さんの所へ帰って来ます。遠くから息子を認めたお父さんは、走り出て彼を抱き寄せて、まず、彼に「もうお父さんの子供と呼ばれる資格はありません」と言わせない。それも言わせないぐらいに「さぁ、着替えさせなさい」と、自分の子供として着替えさせ、手に指輪をはめさせた。そしてくつを履かせた。いわゆる自由人として、言うならば、自分の息子としてそれにふさわしい装いをさせた。そして「失われた者が見つかったのだからお祝いをしよう」と、その息子が戻ってきたことを感謝し、喜んだのです。私たちの天のお父様でいらっしゃる神様も、そのように私たちを迎え入れてくださる。そうであれば、私の願うように、私の思うように、心のおもむくままに、自分の願いどおりに神様やってくださいとは言えません。私たちは自分の我がままなやり方で神様から離れて行ったのですから、それを捨てて、もう一度神様から与えられる装い、衣装を身にまとう者とならなければならない。これは神の子供としての恵みであります。私たちを神の子供としてくださった、その子供にふさわしく整えてくださる。私たちの好き勝手に歩んでいた生活、考え方、価値観、何もかも頭の先から足の先までを造り変えたい。これは神様の切なる願いであります。自分の子供として、神の子供にふさわしい者に私たちを新しくしようとしてくださる。そのためにいろいろな問題の中に、事柄の中に置いてくださる。5節に「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない」。イエス様を信じて救いにあずかった者に対して、神様がいろいろなことを起こされます。病気もあれば、ややこしい人間関係もあるでしょう。でも、その中を通して、私たちを訓練し、清め整えて新しく造り変えてくださる。6節に「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。なんだか厳しい苛酷(かこく)なように思いますが、決して神様は私たちを懲らしめて罰し処分しようという御方ではなく、私たちに何とか早く変わってほしい。神様の子供にふさわしい性情性格、内側も外側もことごとくを造り変えたいというのが、神様の切なる願いであり御思いです。いろいろな問題の中を通ります。それは私たちを愛しているからです。


7節に「あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである」。ここです。「あなたがたを、子として取り扱っておられる」。神様は私たちを忘れたのではない。私たちが憎いのではない。私たちを懲らしめ、天罰を与えようというのではない。愛する子供ですから、熱心になります。愛していなかったら、無関心でいいわけです。放っておけばいい。自分の愛する子供には何とかやってほしい、と思いますから、嫌われようと何しようと厳しく言うに違いない。もっとも最近の若いお父さんやお母さんはあまり言いません。子供に好かれたい、と願うものですから、それは間違いです。子供を愛すればこそ、将来独立して家を出て行くにふさわしいように、あのこと、このこと、また自分の家の家風に合うように、自分の親の理想といいますか、ある意味で願っている者になってほしいと、そういう思いがあるから、厳しく叱(しか)るでしょう。あるいは欲しがる物、我がままな要求を厳しく拒みます。だから7節に「神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか」。父親が放任主義というのは、その子を愛していないのです。子供が勝手なことをして、それで黙っている、見て見ぬ振りをしている親は無責任であります。それは子供に対して親の身分を放棄している。それは子供を愛していないのです。皆さんもそうでしょう。自分の子供だから言う。よそ様の子供が何をしようと無関心です。「あら、あんなことをして」と内心思っている。「まだあんなことを……」と思っても、言いません。それは「私は関係ない」と思っているからです。ところが、もし我が子だったら、「そんなことをしたら駄目だ!」と厳しく言うに違いない。神様は私たちを子供として取り扱ってくださる。だから、時にはクリスチャンになったがゆえに、悩みに遭うのは事実です。神様は私たちを愛しているのですから。だから、次々とたくさん悩みがあったら感謝したらいいのです。


作家の三浦綾子さんは病気を通して救いにあずかった方です。『氷点』という小説を書いて一躍有名になりました。ところが、彼女はズーッと病気続きです。病弱です。殊に晩年はガンもありましたし、いろいろな次から次へと悩みに遭いました。あるとき、病気で大変体が弱っておられた。そのとき、編集者が電話をしたそうです。三浦さんは「いまこんな調子で自分は執筆できない」とのこと。編集者が「先生、大変ですね。こんなに次から次へと苦しい目にお遭いになって……」と同情をしたのです。すると三浦さんが「いいえ、私ほど神様に愛されている者はないのよ」と言った。それを聞いてその方はびっくりして、こんなに次から次へと絶え間なく苦しいつらい中にいながら、自分がいちばん神様に愛されている、というその言葉は衝撃的でショックを受けた。それからその方はイエス様のことを知りたいと思うようになった。それまではただ単に相手はクリスチャンで、私は違うと思っていた。その言葉を聞いて「これは大変なことだ」と思ったと。三浦さんのことは皆さんも素晴らしい信仰者だと知っておられると思います。しかし、その信仰を練り清められるには、背後の見えない所で戦いがたくさんあった。だから、いま悩みの中にあるのだったら、感謝したらいいのです。


7節に「あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである」。あなたがたを子供として取り扱っておられる。「いったい、父に訓練されない子があるだろうか」。8節に「だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない」と。だから、クリスチャンで「何の悩みもありません」と言う人は、ひょっとしたら神様から無視されているかもしれません。だから、悩みがあること、苦しみがあることは何もひがむことはいりません。悲しむこともいらない。どうぞ、感謝しようじゃありませんか。そして神様はこの問題を通して、この悩みを通して、この苦しいことを通して、何を私に求めておられるのだろうか。どのように私を造り変えようとしてくださるのか。私のどこを清めてくださるのでしょうか。それを主に求めて行く。神様は私たちを訓練して清め整えて、新しく造り替えてくださる。


ですから、9節に「その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか」。親が子供を訓練する。子供のときに嫌な事、辛いことを言われても、そのときは親に反発します。しかし、やがて自分がそのくらいの年になってくると「本当に良かった。あの時、親があんなことを言ってくれたのは、このことのためだったのか」と悟る時が必ず来ます。


私も子供の頃、よく父からいろいろなことを叱られた。叱られたというか、忠告をされた。殊に信仰の面で私が馬鹿なことを言うから、父からよく叱られました。その度に「こうだ」「ああだ」と言われました。「そんなことは聞いておられるか!」と反発したのです。そして、親元を離れましたが、やがて世の中に出てみていろいろなことで気がつくのです。「ああ、なるほど、あの時言ってくれたのはこういうことか」「ここはこうしておくべきなのだ」。そういう親の言葉は必ず後になって役に立つのです。だから“親の意見となすびの花は千に一つも無駄はない”と。だから、子供に言うべき時には言わなければいけないと思うのです。嫌われようと何しようと、叱るべきことは叱る。そのときは反発します。しばらくはそっぽを向かれるでしょうが、やがてその子にとっては大きな力に変わって行くのです。神様はそのように私たちを訓練してくださる。


いま私たちはいろいろなことの中に置かれている。これからはもっと、もっとです。年を取ってくると今までとは違ったいろいろな訓練を神様はしてくださる。天国に入るにふさわしく整えてくださる。まだ整わないから生かされているのだと思いますが、整えば即座に天へ移して下さる。だから、問題の中で「いま主が、私を訓練してくださっている」と信じましょう。10節に「肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである」。人の親は子供を訓練するために、良かれと思って一生懸命に言いますが、やはり親は人ですから、間違うこともあります。また、偏(かたよ)ったこともあります。そして、至らない所ばかりに違いない。しかし、神様の訓練は決して無駄に終わらない。しかも、魂の清さにあずからせる。私たちの根っこをきれいに造り替える。親の訓練というのは、表に現れた生活の形や歩み方でしょうが、神様の訓練はもっと徹底しています。その代わり厳しいですが、心の思いまでも根こそぎに作り変えてしまう。これが神様の訓練です。私たちはその訓練を受けて永遠のいのちにあずかる。これが私たちの救いにあずかった目的であります。神様が選び、今も憐れみをもって生きる者としてくださっておられるご目的です。


11節に「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる」。確かに訓練は苦しく辛いです。逃げ出したくなることがあるでしょうが、しかし、そこで耐え忍んで神様にいよいよ結びついて行く。真剣に切に主を求めて行くとき、その苦しみ、悲しみの中で、悩みの中で、神様は私たちの思いを清め、力を与え、全てのものを整えて神の性質にあずかる者と替えてくださる。11節の後半に「しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」。「平安な義の実」、キリストの姿かたち、栄光の姿に私たちを造り替えてくださる。私たちはこの地上にあっていろいろなことを通して神様の御顔を見る。顔と顔を合わせて主を見上げて行く。だから、悩みに遭うと、主のことを忘れるわけにはいかなくなります。苦しみの中にあるとき、絶えず祈り続けるでしょう。それがなくなるとすぐに忘れる。だから、神様は忘れないように次から次へと上手に問題を置いてくださる


この度の地震もそうだと思うのです。日本人が忘れかけた所でパッと“天災は忘れた頃にやって来る”なんて言いますが、それは世間の言葉ですが、同時に私たちが神様を忘れないように、気がつかないうちに心が神様から離れて行くときに、神様は叱って下さる。詩篇23篇に「あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます」と。神様が「コツッ!」と、むちでピシッ!と。痛いですが、ここで神様は愛をもって、子供として取り扱ってくださる。子供なのです。このことを信じて、いろいろな問題に遭うとき、逃げないで、はっきりと神様の御愛を信じて、子供である自分をいま神様が清めて、整え、新しく造り替えてくださる時だと信じて、神様にどう従って行くか? 自分は神様とどのように歩んでいるか? と、真剣に自分自身を振り返って、神様との交わりの中に生きる日々でありたいと思います。


ご一緒にお祈りをいたしましょう。