被造物の立ち位置

「ペテロの第一の手紙」5章6節から11節までを朗読。


 6,7節「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。7 神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」。

「ペテロの第一の手紙」5章6節から11節までを朗読。


 6,7節「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。7 神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」。


 日常生活の中で日々感じることは、いろんな意味で力がないことです。殊に、年を重ねてきますと、余計にそのことが痛切に感じられます。若い頃は、「何、これくらいは自分がやれる」、「私が何とか頑張ればできる。徹夜でも何でも平気だ」という時代がありました。ところが、“馬歳(ばれい)を重ねる”という言葉がありますが、年を取ってきますと、自分の限界、できなさ加減を痛切に覚えます。それで諦(あきら)めが付くかというと、なかなかそうも行かない。「何とかしなければいけない」「これもしなければ、あれもしなければ……」という、焦(あせ)る思い、苛立(いらだ)ち、もどかしい思いが常に心の中にあります。それが日々の心配、思い煩いの原因です。自分はできない、ということは認めてはいるのですが、「それでも何とか自分でできやしないか」、「ああもできるんじゃないか」「こうもできるんじゃないか」と言って、そこでトカゲの切られた尻尾のようにのた打ち回っているのです。ところが、神様が私どもに求めておられることは、決して私たちが強くなって自分の力でバリバリやって行けること、私たちが強くなることを願っておられるのではありません。神様が求めておられるのは、私たちが神様にすがること、より頼むことを願っておられるのです。だから、神様は私たちを弱くしていると言い換えてもいいと思います。私たちは知恵がない、力がない、またあれもできない、これもできない、と無い無いずくしであります。どれを取ってしてもまともなものは何もない。「こんな私は駄目だ」と、悲観したり嘆いたり、自己憐憫(れんびん)に陥(おちい)ったりします。劣等感にさいなまれて「あの人みたいになりたい」、「この人みたいになりたい」と人をうらやんでみたりしますが、神様はそこから神様に連なる者、頼る者となってほしいのです。


世間では“苦しい時の神頼み”とよく言います。以前私はそれを非常に否定的な意味で理解していましたが、最近はむしろ積極的に良いことではないかと思うのです。考えてみたら、苦しいときに神頼みができるのは、幸いです。いろんな方々を見ていると、苦しいときには神様を離れますから、苦しいときこそ神様に頼らなければおられないのであります。だから、願わくば、苦しいときばかりでなくて、常時神様に頼ってほしいというのが、聖書を通して神様が常に語っておられるのであります。なぜならば、神様が人を造られたとき、人が一人で生きることができるようにとお造りになったのではありません。神様からの命を頂いて人は初めて生きる者となったのです。この神様との結び付き、これが人を生かす力です。神様に結び付くこと、言い換えると、神様にすがること、より頼むこと、信頼すること、これが人の力です。人が得られる惠みであります。だから、神様はそれをまず私たちに与えたくてたまらないのであります。だから、初めから人を神様のように造られたのではないのです。神様よりも低い者として、神様に似た者として造られたのではありますけれども、神様と同じ力を持っているわけではない。いや、それどころか、むしろ神様は私たちを弱い者として造ってくださった。不足がある者として造って、神様は「それでよろしい」とおっしゃったのです。私どもはある意味において神様の造られたものの中で不完全なものです。じゃ、なぜ神様は全てご自分の造ったものをご覧になって「良し」、「これは良く出来た」とおっしゃったか。それは私たちが神様のご目的にかなう者として造られたからです。私たち自身、造られた者の立場から言うと「それはちょっと不都合や」と「もうちょっとこうあってほしい」「ああなってほしい」「こうであってほしい」ということはいくらでもある。「私は中途半端な欠けだらけの者でしかないじゃないか」、「神様は完全な御方、一つとして欠ける所のない欠点のない御方が、どうしてこんなへまなことをするのだろうか」。自分を見て「どうして私はこんな風に生れついたのかしら。私の性情性格を見ると、もう少しあの人のように、この人のように……」と思う。見かけは言うに及ばず、自分の心もねじくれて「どうしてこんな境遇に生まれ育ったのか。神様が私を造ってくださったのなら、もう少し美人で、もう少し才能豊かな人間にどうしてできなかったのだろうか。神様はやっぱり力がなかったのではないか」と、神様に対して文句を言いたくなりますが、神様のほうからご覧になったら「それでよろしい」とおっしゃるのです。足らない所、欠けた所、不足していることこそ、神様が敢えてそのようになさっておられるのです。もし私どもがパーフェクトで、どこを取っても欠けた所のない者であったならば、神様は必要ないことになります。神様抜きで勝手にあっちこっちに飛び跳ねてしまうでしょう。そうならないように人を神様よりも低い者として、欠けた者として、足らない者として造られた。それゆえに、神様に結び付くことによって、私どもは完全になり得る。神様は私たちをそういう者として造っておられるのです。私たちが一人で全てに充足する、いうならば、完成されたものではない。神様と共にあることによって初めて完成された者となるのです。だから、神様は私たちを不足のある者、足らない者、欠けた所のある者として造られたのです。ところが、人は高慢といいますか、傲慢(ごうまん)といいますか、高ぶった者でありますから、どうしても納得がいかない。「どうしてだ!」と言って、私どもは神様を離れて、自分の力でそれを達成しようとします。


 旧約聖書に、バベルの塔について書かれています。神様の造られた民が集まって「神様の所に達する塔を自分たちで造ろうではないか」と。それで高い塔を造った。そのとき神様はそれを壊してしまわれました。そして、人々を散り散りバラバラにされて、言葉が通じなくなったと。これは人が自分の力で神になろうとする思いがあるからです。人は「神になろう」、「自分の力で立とう」、「自分の知恵で事を進めよう」と、神様抜きでしようとするのです。それに対して神様は「ノー」とおっしゃる。「駄目だ」と。そのことがバベルの塔の記事を通して語られているのです。人がどんなことをしても神様に並ぶ者となり得ない。神様抜きで、自分たちでそれを立ち上げていくことはできない。自分を神とすることは駄目だ、とはっきりと宣言しておられるのであります。それまで一つの言葉で心が通じ合っていた。それに対して神様は言葉を全部散り散りにされた。象徴的な話ですが、世界にはどのくらい言語があるのか、結構たくさんあるのは確かであります。考えてみたら「どうしてそんなに言葉が違うのか。一緒だったらもっと便利なのに」と思うでしょう。でも、神様はそれを全部バラバラされました。それは人が人を支配することができない。神様の力によらなければ人が立つことができないことを象徴した事柄です。言葉をバラバラにすることによって、人が神様に対抗することができないようにしてしまわれた。


 その後、ペンテコステの記事が使徒行伝にありますが、弟子たちがイエス様の約束に従って、神様からの聖霊を求めて祈っておりましたとき、五旬節の日に聖霊が下ります。そのとき、そこに集まった人々が他の国の言葉を語り始めるのです。その言葉を自由に操(あやつ)ることができるようになった。バベルの塔が破壊されて、言葉が通じなくなった事態が新しい霊の力によって人が共に生きる者へと造り替えられたのです。そのように神様は私たち、人が自分だけでは生きることができない弱い者、欠けた者、足らない者に造っておられるのです。


ある方が「先生、私はこんなにいつも心配ばかりして、次から次へと同じようなことを心配します。私は信仰がないのではないか」、そう言って尋ねられました。「同じ所を行ったり来たりしています。神様を信じて安心したと思ったら、また同じような……。本当に弱い自分、徹底して自分というのは弱い。私は救われないのではないか」と言う。確かに、いつも同じようなことを悩んで、おなじ様なことをつぶやいている事があります。しかし、これは同じではなくて、ら旋階段を上るように、見える景色は変わりなくても絶えず上がっているのです。「自分としては同じことを繰り返している」と思いますが、決してそうではない。神様がいつも自分の弱さを自覚することができるようにいろいろな事柄を置いているのです。だから、神様の力を得なければ、神様のいのちに満たされなければ、人は独りで生きることはできません。


 このすぐ前の所、5章5節に「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また、みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである」とあります。「高ぶる者」とは、「神様なんかいらない。おれの力で頑張ればできる」と言う人たち。「高ぶる」とは、そういう人たちです。神様をないがしろにする人。神様を畏(おそ)れようとしないこと。これらの人々を神様が退けられる。そういう人に対して神様は「お前はもう関係ない」と突き放されてしまう。ところが「へりくだる者」、いうならば、自分の弱さを認めて、自分の足らない所を認めて神様にすがって来る者、神様を呼び求める者、これが「へりくだる者」、謙遜(けんそん)な者です。その者に神様は恵みを与えてくださる。神様のいのちと力とを与える、と約束してくださる。これは大原則といいますか、神様の揺るぎない一つの黄金律であります。神様の力を得たい、自分の弱さ、足らなさを知って、「本当にこんな私は何の役にも立たない」と思うならば、そこでこそへりくだる。謙遜になるのです。これは私たちのいのちであります。なぜならば、へりくだって神様からの恵みを頂かなければ、到底自分では何もできないのであります。


 だから、6節「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい」。神様の大能の力、どんなことでもおできになる、全能者でいらっしゃる神様の手に自分を委ねる。低くする。手の下で謙遜になる。自分の弱さを認めること、自分の足らなさを認めて、神様に委ねていく、信頼する。これが私たちの幸いな恵み、いのちです。そうするとき、神様は私たちにその道を導いてくださる。神様はできないことのない力強い御方です。また、どんな風にでも私たちを変えてくださる御方です。6節にあります「神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい」。だから、自分が足らないと思うとき、寂しいと思うとき、あるいは行き詰ったと思うとき、自分じゃどうにもならないときこそ、私たちは真剣にへりくだって主を求めて行きたい。神様は私たち一人一人をご存じなのです。知っていてくださる。何がどう足りないかも、またなにが必要かも全てを知っていらっしゃる。私たちが自らを低くして求めて行くならば、神様は必ずそれに応えてくださる。私たちにその力をあらわしてくださるのです。だから、どんなときでもまず神様の手に自分を委ねる。しかもそれは大能の手です。力ある御手に握って私たちを持ち運んでくださるのです。


 「創世記」16章7節から14節まで朗読。


 これはアブラムとサライの記事であります。アブラムとサライには子供がいませんでした。しかし、神様は約束してくださって「あなたの子孫を星の数のように、また浜辺の砂のように多くしよう」と約束してくださった。「多くの国民の父となる」と言ってくださった。ところが一向に兆候は現れない。神様の約束が果たされない。焦るわけです。というのは、どんどん年を取ってきましたからです。彼らが神様から最初にその約束を頂いたのが75歳の時であります。結構な年齢だったと思います。それから神様は何とも、うんともすんともおっしゃらない。そして「神様、どうしていますか、どうなっていますか」と言うと「大丈夫、あなたを祝福するから」と言うだけで、具体的に事が起こらない。とうとうしびれを切らして奥さんのサライが自分に仕えている僕であるハガルという女の人、その人によって子供をもうけたら、これが世継ぎになる、自分たちの跡取りになる、と勧める。なかなか賢い女性であったと思います。ひとつの知恵を働かせています。ご主人のアブラムは「ああ、そうか」と思いまして、ハガルは身ごもった。そうしましたら、つかえめがご主人の子供を宿したので、ハガルの態度が変わり、大きな顔をするようになった。それでとうとうサライと女同志の戦いになった。6節に「アブラムはサライに言った、『あなたのつかえめはあなたの手のうちにある。あなたの好きなように彼女にしなさい』」。そしてサライがハガルを苦しめたので、「彼女はサライの顔を避けて逃げた」と。耐えきれなくなってハガルは逃げ出します。荒野に出て行って放浪して、ある泉のほとり、いうならば、オアシスと思いますが、そういう所にたどり着いて、思案しておったのです。彼女としてこれから身の振り方をどうしたらいいか分からない。そこへ神様の使いが彼女に出会った。神様はちゃんと彼女を見ておられたのです。神様は全てのことをご存じです。私たちが足らないことも知っています。私たちができないことも知っておられます。私たちが能力のないことも知っているのです。そこで私たちがすがって来ることを待っておられる。このときも、奥さんサライとその仕え女であるハガルとの間の確執(かくしつ)、考えてみたら自分で種をまいて……、という、人間的に考えればそうなんですが、それもこれも実は神様の大きなご計画の中で起こっている。神様がそのことを起こしていらっしゃる。なぜか? ハガルがそこでもう一度神様を知ることができる。また、アブラムもサライもへりくだる者となることを神様は求めておられる。


 このとき、神様の使いはハガルにそこで会いまして、「あなたはどこからきたのですか、またどこへ行くのですか」と尋ねた。そのとき「わたしは女主人サライの顔を避けて逃げているのです」と答えた。9節に「主の使は彼女に言った、『あなたは女主人のもとに帰って、その手に身を任せなさい』」。これは大変厳しい事態であります。今、家庭内暴力が起こっていて、いじめられて逃げ出したのです。その人に向かって神様は「もう一度その女主人の許(もと)に帰れ」と。これは厳しい。まさにここが神様の前にへりくだるかどうか、ということです。神様が求めているのは、神様に信頼する者となること。そして、そこで神様の力と恵みをもらってほしい。というのは、それがいちばん幸いな恵みだからです。でも、私どもはこういう事態に当たると、「いや、何とかそれを逃げたい。その場所から遠ざかって、そんなものから私を救い出してほしい」と思いますが、神様はその目の前に起こっている事態や事柄を避けるのではなくて、まさにそのただ中で神様に会うことを教えておられるのであります。確かにこれはハガルにとっては死を覚悟するほどのことだと思います。まさにここは死を覚悟しなければ帰れません。「よし、もうこうなったら女主人サライの手に掛って自分は死んでも構わない。命を取られましょう」と。「神様がそうおっしゃるんだったら……」、そこまで彼女は覚悟をしなければならない。そのとき大切なことが一つあります。彼女はそこでサライの許へ帰って行くのですが、帰るにあたって神様は、その子供をイシマエルと名付けなさい。またその子供についても神様はちゃんと後々まで面倒を見ることを約束したのです。そればかりか、13節でありますが「そこで、ハガルは自分に語られた主の名を呼んで、『あなたはエル・ロイです』と言った」。「エル・ロイ」という言葉の意味は「汝は我を見給う神」、あなたは私を見ておられる神様ですという意味です。「私を見ていてくださる神様」。これはハガルにとって大きな力強い助けです。どんなところに置かれても、私を見ていてくださる御方がおられる。しかも、その御方が「サライの許へ帰れ」と言われるのですから、これは覚悟をするに大きな力になる。彼女を後押ししたのはこのことだったのです。「あなたはエル・ロイ、私を見給う御方です」。今もそうです。私どもは自分だけの世界で考えますから「私の持っている力はないし、あれもない、これもない、無い無いずくしだ」と思います。しかし、その全てを見ておられる神様がおられる。   

神様は私たち一人一人を見て何が足らないか、何が不足しているかを全部知りつくしていらっしゃる。そのうえでなお私たちに「女主人の許へ帰れ」とおっしゃる。なぜならば「そこでわたしの恵みにあずかる」。神様に出会うことができる。これがいま私たちに与えられている神様の約束であります。イエス様を信じて日々の生活の中でいろいろな嫌なことや辛いこと、しかもそれが自分の不足していること、足らないこと、あるいは力のない故に不安や恐れを感じます。しかし、神様はいま置かれている状況、事柄の中で私たちを見てくださっている。私たちに目を留めておられる方がいる。そして、その御方はいま私たちが受けている悩み、辛いと思うこと、苦しいことをもご存じで、「あなたは女主人の許へ帰ってその手に身をまかせなさい」。いうならば、その相手であるサライも実は神様の手に握られている。神様の許しがなくては何一つ起こらない。「神の大能の手の下に自らを低くする」とはここです。神様の絶大な力によって全てのものが握られているから、その御手に委ねていく。女主人サライの手に自分を委ねるとは、女主人に委ねるようで有りますが、その背後にある神様の大能の手にゆだねることです。「下には永遠の腕がある」(申命記 33:27)と、神様が支えておられることを信じるのです。これが神様に出会う秘けつ、神様の力を受ける秘けつです。このときハガルは神様の恵みにあずかって力を与えられて帰って行きます。しかし、事はこれで終わりませんでした。


 「創世記」21章8節から11節まで朗読。


 やがて、ハガルに子供が生まれてイシマエルと名付けられたのですが、その子供が少し大きくなった頃に、神様は約束のようにアブラハムとサラにイサクという子供を与えてくださった。これは本当に大きな喜びであります。そのときアブラハムは100歳近く、サラも99歳近く、到底子どもなんか諦(あきら)めていたところに生まれたのですから、8節にありますように「盛んなふるまいを設けた」のです。大感謝会をやった。そして、そのハガルが生んだイシマエルが義理ではありますがお兄ちゃんになりますから、イサクと遊んでくれます。ところが、それが気に食わないのがサラです。これも身近に感じ取ることができると思うのです。カッカくるわけです。その矛先(ほこさき)がご主人アブラハムに向かいます。10節に「このはしためとその子を追い出してください。このはしための子はわたしの子イサクと共に、世継となるべき者ではありません」。そう言われて。アブラハムは11節に「この事で、アブラハムはその子のために非常に心配した」。ご主人はやられっぱなしでありますから、奥さんからそのようにせっ付かれたら「これはどうしようか」といって、自分の子供でもありますから、大変心配をしました。ところが12節に「神はアブラハムに言われた、『あのわらべのため、またあなたのはしためのために心配することはない。サラがあなたに言うことはすべて聞きいれなさい』」。夫は妻に従順であれ、ということです。神様はここでちゃんとアブラハムに「奥さんの言うとおりにしてやりなさい」と、「わたしが面倒を見るよ」と。いくら主人だ、何だ、と言っても、いちばんの大切な主人は神様以外にいないのです。神様が「よし」と言われることしかできないのであります。このときのアブラハムは神様にそれを委ねるのです。いくら自分が心配したって彼はできないのであります。「イシマエルはこれからどうなるだろうか」。この子が自分の奥さんであるサラから憎まれて「これから行く末どうなるだろうか」と心配したら、夜も眠られなかったのです。ところが、それに対して神様が「心配するな。わたしが付いているじゃないか」。アブラハムはそこで自分の弱さを認めるのです。「できない」。そして、神様に委ねたときに神様は「大丈夫、心配するな」と。


それでサラの心が変わって、優しい奥さんになったかというと、そうではなくてハガルたちは出されます。14節に「そこでアブラハムは明くる朝はやく起きて、パンと水の皮袋とを取り、ハガルに与えて、肩に負わせ、その子を連れて去らせた。ハガルは去ってベエルシバの荒野にさまよった」。このときのアブラハムは、神様が約束して「大丈夫、わたしが面倒を見る」と言ってくれはしたが、しかし、実際目の前にその子をハガルと一緒にわずかばかりの水袋に水を入れて、少々の食料を与えて追い出してしまうのです。このときのアブラハムの心は、張り裂けるような思いがしたでしょう。でも、ここは神様を信じる以外にないのです。私たちもそういう事態の中にいつも置かれているのです。ところが、そこで神様に行かないで、あちらに行き、こちらに行き、あの人この人に心を迷わせるから、なかなか神様の恵みに会うことができない。アブラハムは神様を信頼してこの二人を、幼い子供と母親とを荒野に追放する。


 「創世記」21章15節から20節まで朗読。


 これは非常にドラマチックであります。これは決して昔物語ではなくて、いま私たちの現実の生活の中にもこのことが起こっている。皆さんの抱えている問題や事柄の中でどのように神様が導いてくださるか? 確かにいま見える所、聞くおとずれ、あるいは自分が考える所によれば、まさにお先真っ暗、荒野の中をさまよう道しかありません。しかし、そこにも神様は彼女たちを見ているのです。いま読みましたように、ハガルとイシマエルは荒野をさまよいますが、持っていた水は尽きます。食べるものもなくなったでしょう。死ぬほかない。そばで見ているには忍びないと、ハガルはイシマエルをそこに置いて遠く離れて、その子の死ぬのをじっと見守っていた。これは大変なことです。彼女の絶望もどれほどであったかと思います。その子が泣き叫ぶ声を神様は聞いてくださる。どんなに私たちが小さな者であっても、イシマエルという小さな子供の泣き声にすら、答えてくださる神様です。まして私たちが本当にへりくだって大能の手を信じて神様に呼び求めるならば、それに応えてくださらないはずがありません。このとき神様はその幼子の声を聞いてくださった。17節に「神の使は天からハガルを呼んで言った、『ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた』」。神様は幼子の泣き声に応えてくださった。泣くほどに涙を流して主に訴えてください。「まぁ、聞かれたらいいか。聞かれなくてもいいから、とにかく祈っておきましょう」と、保険代わりに祈っておこう、それでは神様は見ているだけで、手を出しません。しかし、私どもが涙を流して祈る祈りに神様は応えてくださいます。大能の手の下に自らを低くして、「自分じゃできない。もうお手上げです。何もない」。そのときこそ「私には出来なくても、神様はできないことはない」。「人にはできないが神にはできる。神は何でもできる」(マルコ10:27)。そして神様のご計画の中に自分を委ねきってしまう。いま私たちが受けている事柄や問題、その事だけで終わるのではなく、実はもっと大きな神様の御思い、ご計画の中の一コマでしかないのです。神様に自分を委ねるとは、その神様の経綸(けいりん)、計り知ることのできない大きなご計画に自分を当てはめていくこと、そこに自分をおいて行くことです。皆さんが受ける苦しみや悩み、悲しみを通してどういうことが起こってくるか分かりません。


 福岡にいらっしゃる一人の兄弟は15年前にガンを患(わずら)いました。そして、手術を受けたのです。そのとき最初の状況は非常に悪い状況でありました。そのとき担当したお医者さんが「5年生存できるかどうかは5分5分だ」と言われたのです。手術をし、放射線治療を受けました。そのとき同じ時期にがんの手術をその先生によって受けた方々で生存しているのは彼一人です。担当の先生が「不思議だ、これはもう分からない」と、「まさにこれこそ神様のなさることですよね」と。彼は痛みを受けました。ところが、彼が病気をすることによって二人の息子が順番に神様の救いにあずかったのです。お父さんは痛い思いをしたけれども、しかし、息子たちが神様につながったのです。神様はそのお父さんにがんを与えて、子供たちを救いに引き入れる。「そんなことをせんでもいいのに」と思われますが、手術を受けたお父さんは神様のわざを心から喜び感謝する者と変えられました。神様のなさることはあちらにもこちらにも、思いがけない手を打っていらっしゃるのです。


 将棋や碁を打つ方々は先手とか、あるいは先読みをします。ここにコマを進めれば次はああなって、こうなってと、何十手か先を見越したうえで思いがけないところにポンと置く。神様のわざはまさにそういうわざです。将棋士やあるいは、碁を打つ人以上に、神様は勝負師ですよ。いま皆さんが受けている問題や悩みがこのことだけ、と思っているけれども、そうじゃないですよ。ひょっとしたらもっと大きな、いや、もっと違った、「え!あのことでこんなことになったのか」と驚くようなことを神様はなさいます。


 もう一度初めに戻りまして「ペテロの第一の手紙」5章6節に「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう」。「時が来れば」と、ここです。神様の時の中に私たちは導かれている。あのことは早く、このことはもっと早くと、明日に明後日にと焦ります。しかし、そういうことは一切神様の手に委ねる。神様の時があって、その時はベストです。過不足のない絶対最善の時があるのです。だから、どんな事があっても神様の下に自分を低くすること。しかも7節に「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから」と。私どもを見ておってくださる。神様は見ていてくださって、求めるところ、願うところに応えてくださるから、「自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」。全てを神様の手に委ねて行く。これは私たちの大きな恵みであります。神様は私たちを生きる者としてくださるのですから、どうぞ、どんなことの中にも神の大能の手の下に自分を低くして、謙遜に主にすがって行きたいと思います。


 ご一緒にお祈りをいたしましょう。