神を愛する者

「ローマ人への手紙」826節から30節までを朗読。

 

28節「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」。

ここに「神を愛する者たち」と語られていますが、つい自分を振り返ると、「自分は神様を愛しているのかな?」と疑問を抱きます。聖書を読んで印象に残るのは、神様が私たちを愛してくださっていることです。神様からの一方的なご愛の告白を絶えず聞きます。「わたしはあなたを愛しているよ」「わたしはあなたをあがなったよ」「あなたはわたしの大切な者だよ」などと。いうならば、一方的に神様は私たちに愛を注いで、何とかこれを知ってほしい、と畳み掛けるように語り続けているのが聖書の言葉であります。どこにも「あなた方がわたしをこんなに愛してくれているので」と、神様がおっしゃっている所はありません。「ヨハネの第一の手紙」にも「わたしたちが神を愛したのではなく」(4:10)とはっきり言われている。「神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった」とあります。「ああそうか。私たちは神様を愛したことはないよな」と思います。そのとおりでありまして、私どもは神様を愛するどころか、「ローマ人への手紙」5章にありますように「わたしたちが敵であった」、また「罪人であった」と言われるように、決して神様を愛したことは一度もない。愛したのは、自分を愛する自己愛ばかりの人間であります。


28節のように「神を愛する者たち」といわれてしまうと、「これは私のことではないぞ。もっと他(ほか)の人に違いない」と、周辺を見回して「あの人ならばそうかもしれない」と、人のことを思います。ところが、ここで「神を愛する者たち、すなわち」と言い換えられています。私たちが神様を愛するといって、どれ程のこともできません。ましてや、神様のひとり子を賜ったほどの限りない大きなご愛を頂いている私たちが、何をもって神様を愛するか?「私は愛しています」と言えるようなものは何もない。少々私たちの命を捨てて、「神様、あなたを愛して私の命を捨てます」と言っても、神様にとって、汚れ果てた箸(はし)にも棒にも掛らない者が、命を捨てたとしても、何の価値もありません。私たちは神様を愛することもできない者です。だから「神を愛する者たち」といわれていながら、「すなわち」と、もう一度言い換えて、それは「ご計画に従って召された者たち」、ご計画に従って召された、招かれた者たちであると。神様を信じる者にしていただいた、招かれた。その事が「エペソ人への手紙」1章に語られています。


「エペソ人への手紙」1章3節から5節までを朗読。


ここに素晴らしい神様の恵みが語られています。3節には「神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し」と言われます。しかも、かろうじてチョロチョロの水が滴(したた)るような祝福ではなくて、「天上で霊のもろもろの祝福をもって」とあるように、ありとあらゆるものを動員して私たちを祝福してくださった、とおっしゃるのです。自分は祝福を受けていると思って、現実の自分を見てみると「どこが祝福されているかな」と思ってしまいますが、神様が祝福を与えてくださったと、無条件に信じる以外にありません。信じると、神様の約束が一つ一つ私たちの内に具体化され、悟らせてくださいます。これは聖書全体がそうです。聖書そのものが、私たちが信じる以外にないのであります。ですから、3節のお言葉一つを取り上げてみても、神様がもろもろの祝福をもって祝福した、とおっしゃってくださる。「私は祝福された人間なのだ」と信じることが大切です。ところが、私どもは何か結果を見て信じようとするから、なかなかそのことが分からないし、また、具体的に神様がしてくださることを、祝福であると認めることができない。私どもは御言葉を信じて、そのお言葉を掛け値なく、丸ままに信じる。「私は祝福された人間なのだ」。といって、現実を見ていると、辛いこともある、悲しいことも苦しいこともある。しかし、たとえ何があっても、どんな状況に置かれていても、神様に祝福された者がここに立っている、置かれていることを認め、信じて行く。そうすると、神様のほうで具体的に祝福が何たるかを教えてくださる。「本当にこれも神様がこんなことをして私を祝福してくださっている」と悟って、喜ばせてくださるのです。だから、信仰とは、出来上がった、何もかもそろったものを見て、信じるのではなくて、何にもない所で神様の約束のお言葉を信じて、そこに自分を委ねる。いま苦しいことがある、悲しい出来事がある、あるいは辛いことがある。自分自身の健康の問題、生活のいろいろな問題もある。あるいは、あの人この人、家族の問題もある。いろいろな問題の中にあっても、そこでなお「もろもろの祝福をもって神様が祝福してくださった」と言われる神様のお言葉を信じて、「私はこの世でいちばん幸せな人間だ。祝福にあずかった者なのだ」と信じるのです。そうしますと、困難と見えた、苦しいと思えた、辛いと思えた、重荷といわれることが喜びに変わる。あるいは、まさにそこに祝福があることを神様のほうが教えてくださる。私たちに悟らせてくださる。だから、信仰生活は非常に痛快といいますか、楽しみでもあります。私たちは目の前にきちっと結果を見て喜ぼうとしますが、それは確かにうれしいことに違いないけれども、結果を見て喜んだら、見た結果以外に増えないのです。それでおしまいです。


子供たちがクリスマスプレゼントをもらうのを喜びます。待っている間が幸せです。もらうまではいろいろと夢が膨(ふく)らみますから、「何をもらうかしら、あれかもしれない、これかもしれない」と、いろいろなことを子供は夢に見ながら待つわけです。そして、いよいよ具体的にプレゼントももらいます。もらった途端に「あ、これ!」と言って、子供は喜びますが、もうそれでおしまいです。


ところが、信仰生活は、まだ手にしていないものを期待しつつ生きるのです。しかも、「天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福した」という言葉を信じ、その祝福の実を具体的に次から次へと収穫しながらですから、これは楽しみです。次に何が起こるか、どのように神様が祝してくださるだろうか、「祝福した」との言葉を信じて、いま目の前にどんな問題があっても、事柄があっても、きっと神様は祝福を与えてくださる。あのことも、このこともと、期待が大きくなる。希望に膨らんでくるのです。早く具体的にその結果を得たいと思われるかもしれませんが、結果を早くもらったら、それでおしまいですから、まだ、まだ神様は祝福してくださるのだったら、子供がプレゼントを待つがごとくいろいろな夢を持って、主を待ち望みましょう。


ここで「天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び」とありますが、4節に神様は「天地の造られる前から」、まだ天も地も何もなかった時代から「キリストにあってわたしたちを選んでくださった」のです。神様が私たちを選んでくださった。「みまえにきよく傷のない者となるように」、私たちが神様の前に完璧(かんぺき)な者となるように、いうならば、神様の姿かたちになるように、その後に、もう一つ5節に「神の子たる身分を授けるようにと」とあります。「みまえにきよく傷のない者」とは、神の子としてくださるというのです。神のご性質、御子のご性質に似る者と私たちを造り替えてくださる。私をそのために選んでくださった。皆さんをそうやって選んでくださった、とおっしゃるのです。


イエス様の救いに導かれるにはいろいろ具体的なきっかけがあったり事があったりします。私は自分の望む望まないにかかわらず、無理やりキリスト教の牧師の家庭に生まれてしまいましたから、これは諦(あきら)めなければならない宿命だったわけです。でも、今はそれを本当に感謝しておりますが、そういうケースもあります。また、全く神様のこともキリストことも知らない世の中に生きていた方が、あるとき問題、悩みにぶち当たって相談した結果、たまたま導かれたのがキリスト教であった、イエス様の所であったという人もいるでしょう。あるいは、若い時にミッションスクールに行ったから、イエス様を信じたという人もいるでしょう。イエス様に導かれ、出会うきっかけはそれぞれ違います。しかし、だからといって、自分で選んで来たのではない。私たちの具体的な事情を考えてみると「私が苦しかった時、何とか救いを求めて、何か人生を生きる慰めはないかと求めて行った。私が求めたからイエス様に出会えた」と、表面的にはそう見えますが、実はその背後に神様のきちんとしたご計画があったのです。それがここに語られています。天地が造られるはるか以前から、まだ私たちの姿かたちすらもなかったときから、神様は時を定め、事を定め、また私たち一人一人に目を留めてくださって、この救いに引き入れてくださった。これが「わたしたちを選び」という4節のお言葉であります。神様が私たちを選んでくださった。「どうして、あの人ではなくて、この人でもなくて、私を選んでくださったのだ」と疑問に思いますが、その理由はただ一つ。私を愛してくださったからです。では、あの方は愛されていなかったのか。この方はまだ愛されていないから、救われていないのかと言うと、そうではありません。それぞれの人に対しての神様の御思いは、私たちには知りえません。ただ言えるのは、私の場合はこうだったということです。だから、私たちの信仰とは、人のことがどうこうではない。まず、自らが神様の前に選ばれた者であることを認めること。「私が選ばれてあの人が選ばれないのは、私の出来がいいからだ」と言うのではありません。「コリント人への第一手紙」にありますように、「この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである」(1:28)と。いうならば、あの人よりもこの人よりも愚かだから選んでくださった、という意味であります。だから、私どもは人と比べてはならないのです。私たち一人一人に神様が思いを定めてくださって、「子たる身分を授けるように」と、また「みまえにきよく傷のない者となるように」選んでくださった。

5節に「わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い」、すごいことです。私たちをして神様の子供にふさわしい者にするというのです。「神の子たる身分」という言い方をしていますが、これは「神の子」と言っても間違いではありません。厳密なことを言うと、神様と同質、神の子、イエス様は神の御子でいらっしゃった御方、そして、人となってくださった。ところが、私たちはそもそも神様の御子ではありません。だから、「神の子になる」、いうならば、神様になるのではない。ある方が「キリスト教では信仰に入るとやがて神の子になる。神道(しんとう)と同じですよね」と言う。「え!どうしてですか?」「キリスト教は神の子になるのでしょう。神道の場合でも神になるのですよ。だから、同じようなものではないですか」。私は「いや、大違い。あなたは間違っています。聖書には『神の子となる』とはありますけれども、神の子の身分にするということであって、神の子そのものは、イエス様以外にいない」。私どもはどこか曖昧(あいまい)になりやすいのです。だから、私たちは「神の子として頂いた」と言いますが、いうならば、神様のご性質に似る者ではあるが、神その者ではない。そういう身分にしてくださった、ということです。ダビデが詩篇8篇に歌っているように「ただ少しく人を神よりも低く造って」(5節)とありますが、神と同等のものと私たちを変えてくださるのとは違います。日本古来の神道と言いますか、神社の考え方は、人が死ねば神になる。それで神として祀(まつ)られるという。だから、5節「神の子たる身分を授けるように」とは、神自身になるのではない。そういう身分としてくださる。しかも「御旨のよしとするところに従い」とあります。神様がそれをご自分の喜びである、としてくださったのです。「よしとする」とは、「私の思う願い」がかなった、ということです。私たちを神の子の身分にすることを神様は喜びとしたのです。そして「愛のうちにあらかじめ定めて下さった」。私たちを愛して、その愛のうちに定めてくださった。私たちに愛を注いで、そのように「あらかじめ」、前もって定めてくださった。これが、選ばれ、召された私たちの身分であります。


「ローマ人への手紙」8章28節に、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて」とありますが、「神を愛する者たち」とはどういう者であるか、今お読みいたしました「エペソ人への手紙」のとおりであります。そして、そういう者たちこそが神を愛する者であるというのです。イエス様がこんな私のために命まで捨てて、あがないを成し遂げてくださった。本当に救いにあずかって罪を赦された者となり、感謝です、喜びです。その恵みに応えて、主の御愛に応答して、私もまた主を愛する者となりたい。これが召された者たちの生き方です。だから、いま、「神を愛する者たち」といわれると、自分のことでないように思いますが、そういう召された者、ご計画によって滅びるべき者が罪を赦され、あがなわれた者である。その事のゆえに私たちもほんのわずか有るか無いか分からないような愛であるけれども、その愛をもってイエス様に、神様に応えて行きたい。これが「神を愛する者たち」という意味であります。そして「万事を益となるようにして下さる」。「共に働いて」とありますが、イエス様の救いにあずかり、この新しい神の子たる身分を頂いた私たちと共に、よみがえってくださった主が、世の終わりまでいつも共にいると宣言してくださった。


イエス様はいろいろな事の中に共にいてくださる、共に働いてくださる。そして「万事を益となるように」と、「万事」、全てのことです。例外なく、どんなことの中にも神様は働いてくださる。共にいてくださって、「益となるようにして下さる」。「益となる」というのは、決して私たちの思いどおり願いどおりに事が行くという意味ではありません。「益」とは、神様の御心にかなう、あるいは、私たちにとって最も善きことにしてくださる。私たちは、自分のことはいちばん自分が知っていて、「私にとって善いことはこれに違いない。これが私にとって幸いなことです」と言いますが、それが本当に私にとって幸いなことかどうかは、実は自分では分からないのです。私たちが自分のことが何でも分かるのだったら、自分の体のどこか故障があったらすぐ分かるじゃないですか。私は分からなかったのです。自分の心臓が詰まりかけてストップしかけているとは分かりませんでした。分かっていれば、自分でちゃんと治しますよ。分からないから「何か痛いな、痛いな」と、それで病院に行っていろいろ調べてもらったら、「ここが問題ですよ」と言われた。自分のものであって自分のものではない。私どもはしっかりとそのことを受け止めなければなりません。私たちの人生は私のものだ、と言いながら、自分では何にもできない。自分ではどうにもならない。ここがもどかしい所であると同時に、また、大切なことでもあります。私たちの体のことも、心のことも、見える所、見えない所、ことごとく何もかも知り尽くしているのは神様だけです。だから、私たちは自分のことを知っているなんて、偉そうなことは言えません。知らないのです、何にも知りません。しかし、神様は私たちの裏も表も知り尽くしていらっしゃる。あるいは欠点も良い所も何もかも知っている。そのうえで私たちに必要な物を与え、私たちをいろいろなことのなかにおいて、神様はご自分のご目的のために私たちを生かしてくださっている。私たちは自分のために、自分の目的のために生きているのではなくて、私たちを造ってくださった神様のご目的にかなう者として生きるように仕組まれているのであります。だから、人生を振り返ってみると、自分が思うものとは違う人生になってしまう。実は、そうであって当たり前です。なぜならば、それは神様が私たちに定められたといいますか、備えられた道だからです。自分の人生だから、自分の思いどおり、好きなように作れるかというと、作れないのであります。それは、神様が私たち一人一人に神様のご目的にかなう生き方を求められるからです。ですから、私たちは常に自分のことは何も知らない者であることを認めましょう。


神様が共に働いて全てのことを益にしてくださる。善いことにしてくださる。それは、神様にとって最善な事柄です。では、私にとっては役にも立たないかと、そうではありません。私たちにとってもいちばん善いことが、実は神様にとっても善いことです。神様の御思いと私たちの最善の事柄とがピタッと一つになる所があります。それは神様が造り出してくださる以外にないのであります。私たちは自分では分からないのです。だから、私たちの思わないこと、願わないいろいろな試練と言われる事柄の中に置かれますが、実は、それは私たちにとっていま必要なことだからです。また、それを通して更にもっと大きな神様のご計画があるからです。私たちは、明日のことも来年のことも分かりません。しかし、神様は全部ご存じだから、折に触れ、事に触れ、何一つ無駄のないようにきちっと仕組んでおられるのです。


だから、28節「共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」と言われます。全てのことをいちばん善いことに、いちばん善いという意味は、私にとっても神様にとっても最善のことを神様は備えてくださる、と知っている。それをはっきりと確信していると、何があっても恐れない、動揺しない、うろたえない。「さて、神様は何をここからやってくださるだろうか」、「今こういうことに神様は私を導いてくださった。きっと次は大きな祝福と恵みの中に置いてくださるために違いない」と、期待こそすれ、「どうしてこんな嫌な辛い人生を送らなければならない。70年か80年の生涯のうち、この数年は無駄な年月であった」と、嘆くことはいらないのです。なぜならば、それこそが、神様の「よし」とおっしゃってくださる、益としてくださった日々であり、また事柄だからであります。


私たちはいろいろなことに出会うと思います。思いがけないことに遭う、でもその時、しっかりとその事柄を受け止めて、そこで神様の御思いを知り、また、神様が私たちに求めてくださるところに応えて行きますならば、きっと次なる段階、更にもっと先にいろいろな思いがけないことを神様が用意しておられます。それは後になって気がつくのです。「わが為すことを汝いまは知らず、後に悟るべし」(ヨハネ13:7文語訳)と言われます。神様が全部知り尽くしていらっしゃる。私たちに見えるのはただ今、今というこの瞬間のことしか分からない。明日のことすらも分かりませんが、神様はご存じでいらっしゃる。だから、今このことが何のためか分からない。こんなことがどうして今になって起こったのだろうか、分からない。分からないのが当然ですから、それで悩んでも無駄です。分からないのは「これは神様がきっと後になって教えてくださるに違いない」と保留するのです。「後に悟るべし」と、後になったら分かるであろうとイエス様はおっしゃいました。なるほど、あの時このためにあのことを起こしてくださったのだ。こういうことがあったから、今があるのだと。私どもはこれまでそんな事の中をズーッと通って来ました。振り返ってみてご覧なさい。あのときにあれがなかったら、今のこれはなかっただろう。こういうことが起こらなかったら、私にとってこれはなかっただろうね、ということが、必ずあります。


 私が献身に導かれたのが25年ぐらい前ですが、なぜそうなったのか、それを振り返ってみると、ちょうど一年足らず前に一つの出来事があった。私が交通事故を起こしたのです。事故の時、雪が降って、ちょうど城崎温泉まで車で走っていたのですが、後わずかという所でスリップして、橋にぶつかったのです。しかも、乗っていた車がその前年の11月に買ったばかりの新車だった。修理をしてもらったのですが、新車を買ったほうがよかったというぐらい掛りました。幸いに誰もけがしなくて車の費用は掛りましたが、取りあえずそれで終わりました。その時、しみじみと「これは神様が守ってくださった」という他(ほか)はなかった。そうなると、これから後の人生は付録だと。自分はここで人生を終わって当然だったのだ。その後、新聞のニュースで季節外れの雪のために交通事故が起きて、40キロぐらいで走っていた車でも死んだ人がいるのです。そういうニュースを聞くと、「本当に死んでいて当然だったな」と思いました。それから自分の生き方が変わったのです。今振り返ってみて、生活そのものはあまり大きな変化はなかったのですが、意識が変わった。生き方の思いが違うのです。「一日一日、今日も主が生かしてくださった」、神様の守りの御手の中でなければ人は生きることができないことを徹底して自覚する。生かされた自分であることを感謝していきる日々に変わって行ったのです。そうしたときの年末です。神様が「あなたはわたしに従ってきなさい」と呼びかけてくださった。考えてみると、その事故がなかったら、そこへ行かなかったかもしれない。神様はすごいことをしてくださいました。


何か大きな次なるステップへそこを通らなければならない過程があるのです。私は食べるのが好きですが、作るのも好きです。そういうテレビ番組を見ますが、料理には手順があります。きちんとこれをした後に次にこれをするという順序がある。それを飛ばしたら出来上がりの見栄えは変わらなくても味が違います。必ずこれがあって次がこれ、その次にこれという手順がある。もちろんいい加減にやっても上手くいくような料理もありますが、日本料理のような凝(こ)った料理は、きちんとその手順を踏まないとちゃんとした料理にはならない。人生もそうです。私たちの毎日の生活、チャランポランでやっているけれども、「それなりに生きているではないか」と言えばそのとおりです。しかし、神様が私たちに願っている人生を生きるには、きちんと手順を踏んで神様が調理してくださる。その手順、その中で「どうして今こんなことをしなければいけないの?」と思う事が多くあります。後になって分かる。「必要な隠し味、あの味付けがあるから、今これが生きてくる」というものがあるのです。だから「万事を益となるように」、神様が一つ一つ事を備え導いてくださっている。無駄はないのです。私はその事故のことを振り返ってみても、その時は「大変なことをしてしまった。大損をしてしまった」と思いましたが、確かにお金の面ではそれは無駄なようには見えるけれども、そんなものはどうでもいいのです。むしろ、その後に神様の大きな……、そんなもの損と思えるどころか、ものすごく大きな神様の祝福と恵みが注がれてくるのです。


だから、私たちはどんなことに当たっても「いま主が私と共に働いて、このことをして益としてくださるに違いない。神様はいちばん善いことを備えてくださる」と信じ続けましょう。これからどうなるか分からないけれども、神様に私たちは信頼して、より頼んで、一歩一歩与えられたその道を踏んで行きたいと思う。共に働いてくださる御方がおられるのだと絶えず覚えて、28節に「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」とあるように、はっきりと「わたしたちは知っている」と確信を持って主を待ち望み、希望に輝いて今年も過ごしたいと思います。


ご一緒にお祈りをいたしましょう。