キリストの平安

 27節「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」。

私たちにとって、平安であること、安心は大きな感謝であり、喜ばしいことであります。ですから、何とか平安を得たい、安心を得たいと日々努めている、と言っても過言ではありません。常に安心が得られるように、また平安でおられるように、あれをしたりこれをしたりと、いろいろな業に励んでいます。ところが、現実はなかなかその平安に至らない、安心が得られないで思い煩(わずら)ったり悩んだり悲しんだり嘆(なげ)いたり、あるいは失望したり、実に喜怒哀楽というか、浮いたり沈んだりしながら日々を生きているのが現実ではないでしょうか。しかし、神様は悩みと不安、恐れと失望、落胆、悲しみの中でうめきながら生きるようにと造られたのではありません。


平安が失われるとはどういうことでしょうか。不安とか、恐れ、心配はいったいどこから来るのか。よくよく考えてみると、これは決して私たちの外側から来るものではない。私どもは不安とか恐れさせるもの、心配は自分の手の届かない外部から来ると思っています。人間関係がうまくいかない、あるいは、自分の健康上の問題がある、家族の中に思いがけない事件や事が起こって心配であるとかそういうことです。自分にかかわる事柄にしろ、事件や事柄、事態、状況、そういうものが自分を不安に陥(おとしい)れるのだ、と思っています。だから、何とかして外側の状況を変えれば自分も安心できると感じる。例えば、自分が病気になる。病気になると心配で不安ですから、早くこの病気を癒されたい、何とかこれを治療しよう。そのために焦る、いろいろな医者を歩きまわる結果になります。健康の不安があるから、あれをし、これをし、こうしている自分は安心かというと、そうではない。やがて、自分の病気、健康上の問題が取り除かれて、「やれやれ良かった」と安心しますが、私たちの健康はまた損(そこ)なわれます。風邪を引いただとか、熱が出たとか、理由の分からないいろいろなことで、日常生活が阻害(そがい)される、普通に生活できなくなってしまうとまた不安になる。いつまでたっても死ぬまで、生きているかぎりそういう悩みに遭います。そういうことを考えてみると、病気であるとか、あるいは問題になっている事柄、悩みごとを早く解消してもらいたい。だから、家内安全、無事息災、交通安全、自分の不安になるもの、不安と思える事態や事柄を取り除く神様が次から次へと出来るわけです。受験期になると大学に通るかどうかが心配だからと言って、だから、学問の神様が出来てくる。交通戦争にいつ何時(なんどき)巻き込まれるか分からない、自分も事故を起こすか分からないから、神社に出かけて行きます。とにかく、安心を得たいのです。


病気治癒という祈願もあります。以前愛知県に住んでいたとき、近くに弘法大師を祀(まつ)ったお寺がありました。そこでは“弘法様”の日という、毎月小さな祭りがあります。そのほか半年か1年の間に「大祭」という祭りが何回かあります。そのときは近在近郷からたくさんの人がやって来る。これは三河地方でも有名なお寺です。私どもはそのお寺の正式な名前は知りません。ただ「弘法さん」と言っています。そのお寺は周囲が田んぼの田園地帯にある。そこには弘法大師の座像が祀られています。拝殿の傍に紙の札がある。それにはお医者さんの描くような人体の絵が印刷されています。治(なお)してもらいたい所に丸印をする。頭の悪い人は頭に、ひざの悪い人はひざに、腰の悪い人は腰に付けます。何箇所でもいいのです。その紙片を弘法さんのどこかに貼(は)り付ける。どこでもいい、足の先だろうとどこだろうと。だから、その弘法さんの坐像にはいろいろな所にその紙がくっ付いている。でも、それが雨にぬれたりして剥(は)がれますから適度に入れ替わって……、よくしたものだと思うのです。何百年と続いているのです。普段はちらほらと参拝者がある程度ですが、そういう命日、縁日とか、大祭のあるときは、殊に御利益が濃くなるのでしょうか、たくさんの人が来ます。大体、ここにいらっしゃるくらいの年代の方です。その期間は臨時電車が走るのです。駅から歩いてもそんなに距離はないのです。田んぼのあぜ道を途切れもなく続いていました。自分の病気治癒のために、心配が取り除かれたら安心、平安になると思って一生懸命に励んでいる。


ところが、よくよく考えてみると、平安とか不安は、私たちの心の問題です。外側に問題があるから、私が不安になる、あるいは、心配になる。この事柄が解消したら安心になる、と思いやすい。しかし、それは大きな間違いです。問題は、いろいろなことを自分が受け入れられない、あるいはそのことを切っ掛けにして将来に対する思い煩い、心配です。だから、不安、思い煩い、心配の中身をよくよく見ると、今のことではない。今この瞬間が心配なのではなく、今与えられたこの事柄が明日も明後日も来年もなお続いて行ったらどうしようかと、不安になるのです。あるいは、今こうあるのは仕方がない。今、現在はどうにもならないから……。たとえば、病気をして熱が出ますか。カーッと39度も熱が出たら、それはとにかく早く熱を冷ますこと、あるいは、静かに寝ている以外にありません。そのとき何が不安かというと、いま熱が出ているのが不安なのではなく、この熱がひょっとしたらまた悪さをして肺炎になるのではないか、あるいは、この熱が下がらなかったら私の体力がもてなくて別の重大な病になるかもしれない、死ぬかもしれないなどと、次から次へと不安が広がって行きます。体温計で38度5分とかいう数字自体は、これは動かしようがない目の前の現実でありますから、これはやむを得ないで受け入れるのですが、問題はその見ている事実からありもしないいろいろなことへとつながって行く。その原因は、心なのです。現実の一つの事柄を切っ掛けに、ひょっとしたら、ああなるかもしれない、こうなるに違いないと、私たちの心が激しく動揺するのです。聞きかじった様々な情報とか、知識が悪さをして、ああなるんじゃないか、こうなるんじゃないか、こうなったらどうしようか、ああなったらどうしようか。それでだんだんと頭の中がカッカ、カッカする。それで夜が眠られない。夜中に起きてもすぐ考える。


私自身もそのような経験があります。考えてみたら、まだなりもしない、有りもしないことを考える。そのうち自分の葬式の様子まで想像する。そうすると、翌朝まだ熱があるのに片付けが始まって「これは死んだときはいらん」とか何とか……。まだ、そこまで行きもしないのに、自分の気持ちが……、肝心なのは私たちの心がそこに引っ掛かってしまう。だから、私たちにとって何が必要かというと、目の前の問題や事柄、測ったら熱がある。それはとにかく熱を下げる治療をすればそれでいい。痛い所があれば、我慢できなければ、痛みを取る処置をすればいいわけです。ところが、痛いと「ああ、痛い、痛い!」、そのうち「ああ、痛い。ひょっとしたらこれは何か悪い物があるのかしら。ガンかな」と、あるいは「このままこの痛みが続くのだったら、私の生活はどうなるだろうか」と、そちらの方へ私たちの心が引っ張られていく。そして、不安になり恐れる。

ところが、ここにイエス様は、27節に「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」と。この世が与えてくれる平安は、今申し上げたように、いろいろな状況、事柄が変わることです。前にもお話したと思いますが、子供が受験になり、高校3年生のこの時期になって3者面談に行く。すると、担当の先生から「お母さん、この大学は無理でしょう。本人の希望はこうだけれども、もう少しランクを下げて……」と言われる。しかし、娘、あるいは息子ががっくりしている姿を見ると親としてはたまらないから、何とか先生を説得して受験をさせてもらう。それで「娘が、息子がこの大学をと願っていますから、何とか入れてやって……、神様にお祈りしてください」と頼まれる。「お祈りするけど、でもお祈りする前に勉強しなさい」と言ったのです。すると親は「心配です」という。「もし、これが駄目だったら、息子が失望して、道を踏み外して、親を泣かせるようなことにならないだろうか」「それはならんでしょう。あなたのお子さんだから大丈夫、何もしきらんよ」と言っても、「そんなことはない。うちの子は……」と思っている。それで心配になる。お祈りして、神様は憐れんで「到底合格しない」と思った大学に入学できた。親は合格通知を持って飛んで来まして大喜びです。「良かった、良かった、お祈りのお陰です。」と言っている。私どももうれしくなって、「神様は本当に善いことをしてくださった」と喜んでいる。すると、しばらくして「先生、大変なことになった」「どうしたの?」「入学したのは良いけれども、後のお金はどうするかと心配になる」。合格通知と共に「入学金いくら」と、それを見たらガックリ来て、「先生、こんなにお金が掛るとは思わなかった」「志望するときにちゃんと調べたでしょう」「そのときは合格することばかりを考えていて、こんなに要るとは知らなかった」と。「どうしましょうか?」「お祈りするしかないでしょう」「でも、お金が無いわけではないけれども、これは私の老後の資金だし、…」と、「合格、大喜び!」と言ったのはつかの間ですよ。1週間か10日です。合格通知と納付書が来た途端にシュンとなる。「こんな大学に通らなければ良かったのに」と言う。心のありようが変わるのです。いま自分は何を不安に覚えているのか? 何が心配なのか?もう一度よくよく考えてみていただきたい。そうしますと、それは外側の問題ではなくて、実は私のこころの問題です。


 イエス様は27節に「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」と言われます。イエス様が持っていた平安を私たちに与えてくださる。間もなくクリスマスを迎えますが、イエス様が救い主として私たちの所に来てくださった。その目的はまさにこれです。私たちに平安を与えてくださる。それは私たちの中にイエス様が住んでくださって、私たちの平安そのものとなってくださること。ここにあるように、イエス様が「わたしの平安をあなたがたに与える」とおっしゃっていますが、イエス様が持っていた平安は何だったか、もう一度思い返していただきたい。イエス様は神の位を捨てこの世に降り、人となって来てくださいました。「ピリピ人への手紙」にありますように、「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守(こしゅ)すべき事とは思わず」(2:6)と語られています。いうならば、わたしは神の子であり、神の位にいるのだから、ここから離れたくない。わたしはここから動かない。「固守する」とはそういうことでしょう。皆さんが年を取って一人暮らしをして、家族の者が「お母さん、ちょっと施設にでも入って安心させて」と言う。「いいや、私は死ぬまで一人でここにいる」と言い張る。これを「固守する」というのです。イエス様は、そこにしがみつくわけではなくて、父なる神様の御心に従って、神の位に居給うた御方が人となる。これは驚くべき事態です。なぜなら、造り主でいらっしゃる御方が被造物、造られた者である人の姿になってくださるのは、とんでもない事態です。そして、人の世に下ってくださったイエス様は、イザヤ書53章に語られているに「悲しみの人で病を知っていた」(3)と。この地上に置かれた三十数年の旅路は次から次へと悩み多き、苦しみと様々な問題に遭遇したご生涯でありました。しかし、イエス様はその中でひと言も不安だとか、心配だとかおっしゃったわけではない。何がイエス様をしてこの地上にあって絶えず平安であらしめたか? イエス様が持っていたものは何だったか? それは、父なる神様の御心に従っているという安心。父なる神様と何の障害もなく、妨げもなく交わることができ、それによって心から安心しておること、父なる神様との関係、これをしっかりと持っておられたのです。神様とイエス様が父と子という関係で、しかもその父と子は仲たがいしたり、けんかしているわけではなくて、実に一体となる、一つとなるほどの交わり。父なる神様もご自分のひとり子イエス様を大変信頼して、その御方に全てのことを委ねておられる。また、イエス様も父なる神様の信頼に応えていらっしゃる。この父と子、神とひとり子、神とキリストとの交わり、これが実はイエス様の持っていた平安です。だから、何が起こってもいつも「父よ」「父よ」と父なる神様との交わりによって慰めを得、励ましを得、望みを与えられる。そして、心を、魂を常に神様につないでいく。父なる神様に結び付いていく日々をイエス様が送っておられた。これがイエス様の持っていた平安です。それを私たちに与えてくださる。そのためにイエス様は神の位を捨て、人となって私どもの所へ来てくださった。先ほど申し上げたように、私どもが次から次へといろいろな事態や事柄、目の前の問題に翻弄(ほんろう)されて心が大あらしに遭ったときの船のように上に下に揺れ動いているその所に、イエス様は来て下さって、それをしっかりと揺るがないものにしてくださる。これがいま私たちに与えられている救いであり、祝福であり、恵みです。私どもは、イエス様によって何を頂いたのか?イエス様が神の位を捨てて人となってこの世に来てくださった。このクリスマス、それはいったい私にとってどういう意味なのか? 


 世の中はクリスマスというと、プレゼントをしたり、ごちそうを食べたり、あるいはケーキなどを食べたりして、自分を楽しませることをしますが、私にとっての、皆さんにとってのクリスマスとは何だろうか? その一つはこのことです。私たちに平安を与えてくださる。神様から私たちに与えられるプレゼント、大きなプレゼントは「平安」です。そして、その平安は何なのかというと、イエス様が父なる神様との交わりをいつも持っていたように私たちも神の子供として、神様につないでくださる。私たちを神様の御許(みもと)に連れて行ってくださる。神様と私たちとを新しい親子の関係に変えてくださったのがイエス様です。だから、イエス様は十字架におかかりになられたとき、最後の晩餐の席で弟子たちと食事を共にして、ゲツセマネの園で祈られました。苦しいつらい事態の中にイエス様は置かれた。父なる神様は愛するひとり子イエス様に十字架の死を求められたのです。これは誠にむごたらしい話です。愛されていながらも、父なる神様がイエス様に求めたことは十字架の死であった。それに対してやはり人の子として、人として、私たちと同じ悩みを悩んでくださり、恐れを感じてくださる。だから、イエス様はゲツセマネで弟子たちに「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」(マタイ 26:38)と語っておられます。だから「ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」と言われたのですが、弟子たちはそんな事とはつゆ知らず眠りこけてしまった。でも、イエス様は繰り返し父なる神様に祈られた。そして、ついにご自分の一切を父なる神様に明け渡した。「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」(マタイ 26:42)と、父なる神様に全てをそこでささげられました。そのときイエス様の思い煩いも不安も消えました。「これは神様の御心なのだ。父なる神様がわたしにこのことを備えてくださったから、それに従って行こう」と、イエス様がそれを引き受けたとき、イエス様に新しいいのちと霊が注がれたのです。そして、ゴルゴダの丘にまで黙々とほふり場にひかれる子羊のごとく、(使徒 8:32)と語られていますが、ひと言もつぶやかず、激しい言葉をい出さず、呪うこともせず、従順にされるがまま、身を委ねきって歩まれた。最後の十字架の刑罰を受け、ついには父なる神様から罪人として断罪され、刑罰を受けますが、その時までイエス様は絶えず父なる神様との交わりを持ち続けました。これこそが平安です。十字架の上にあっても、「父よ」、「父よ」と父なる神様との交わりにありました。しかし、最後の最後、父なる神様はイエス様と交わりを絶たれた。その時のイエス様は黄泉(よみ)の深みに、闇の中に沈んだ。イエス様が「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)(マタイ27:46)と叫ばれた。この時、イエス様にとっていちばん大きな悲しみでありました。これ以上の闇はないという中にイエス様は置かれました。その苦しみのいちばんは、やりで刺されて痛かったとか、そんな話ではない。神様から呪われた者となる。神様から交わりを絶たれ、滅ぼされてしまった。この苦しみほどイエス様は耐え難いものはなかった。しかし、それは神様の深い大きなご計画だったのです。主はそこから黄泉にまで下って、三日目の朝、ついに墓からよみがえってくださった。それはイエス様が私たちに神様との交わりを取り戻してくださるためです。それによって、いま私たちは平安を頂いているのです。


いまどんな問題、事柄、目の前の事情、境遇、いろいろなことがあるに違いない。「あれがなかったら、私はもっと安心だ。もっと楽になる」と思い、いくらやっても私たちの心は変わらない。イエス様がどんなことを私にしてくださったか。イエス様が私のために十字架にまで命を捨てて、いま神様と私たちを親子の関係に入れて下さった。イエス様は「あなた方の天にいます父なる神は」と、繰り返して語っています。このお父さんといつも一緒におること、これが平安。これをイエス様が与えてくださる。なぜなら、イエス様もその平安を味わい、それに生きてきたからです。だから、いま目の前にいろいろなことがあって、眠られない日を過ごされるかもしれませんが、それはもう終わっているのです。私たちの思いを主に向ける。神様が私をこの問題の中で、この事の中に置いていらっしゃる。どれ一つとっても、誰がしたとか、あの人が、この人が……、ではなく、父なる神様がご愛の御思いをもって、私に託しておられる。これは神様の御心、神様が「よし」として、私に備えてくださることですと、受け入れる。そうすると、神様のほうが具体的な問題や事柄を取り除かれる。


「ルカによる福音書」1章34節から38節までを朗読。


これはマリヤさんにとってのゲツセマネの祈りであります。「どうして、そんな事があり得ましょうか」と。大抵そう思いますね。いろいろな問題にあたって「どうしてこんなことになった」「何でこんなに……、何が悪かった」。私もそう思ったことがあります。病気をしますと「何が悪かったのだろう、私の何が悪くてこんな病気を受けなければならない。私が病気になるぐらいだったら、あの人はもっとなるべきだ」と。「私はどこが悪くて狭心症になったのかな」と思ったのです。するとお医者さんが言うには「コレステロールが高いとか、脂質問題があるからだ」と言う。でも、よく考えてみたら「コレステロールが高いと言えば高いけれども、正常値のちょっと上ぐらいの所であり、高い人はもっと他(ほか)にもいる」と思った。そう言われるから私は一生懸命に減らしましたら、体重も減って痩(や)せました。「健康には良かったな」と今は感謝しています。しかし、その時は納得できない。それで、ある方と話していましたら、その方は体質的に高脂血症なのです。それで治療を受けている。私は「あなたのコレステロール値って高いと言うけれども、普段はどのくらいあるの」と「いや、私は大体280ぐらいあります」、「治療しなかったら、300は優に超えます」と。悪玉のコレステロールは私の倍どころか、3倍ぐらいある。だから、その方に「あなたこそ、私の代わりに病気になるべきだ!どうして神様は、あなたには健康を与えて、私には……」と言って大笑いしました。お医者さんは検査結果を見て「こうだから、こうなった」と。それはそうかもしれないけれども、その背後に神様がその事を導いておられる。「そうだったのか。あの方は私よりも条件が悪いけれども、病気にならないで、私のような者が病気になったことは、神様のご計画があったのだ」と、改めて今ある自分を素直に感謝して受け入れられるのです。そこに至るまで、苦しいのです。


この時のマリヤさんもそうです。「どうして、そんな事があり得ましょうか」。「何で私が選ばれなければいけない。そんないい話だったら、あの人にやってください、この人にやってください」と言いたい。ところが、そのマリヤさんに対して37節に「神には、なんでもできないことはありません」。神様がしようといわれるのに、何を文句言うことがありますか。イエス様が与えてくださる平安は、まさにここです。誰かがしているのではない。あの人がしているのではない。この人がしているのではない。私の何かが悪かったのではない。ことごとくが「神には、なんでもできないことはありません」。神様が事の主でいらっしゃる。その御方は、あなたを、私を、皆さん一人一人を、ひとり子を賜うほどに大きな御愛をもって愛してくださるが故に、今この事の中に置いておられる。この問題の中に、この事件や事態、状況の中に私たちは置かれている。「そうでした。神様、あなたがこのことをしてくださっているのです」と、神様の手に自分を委ねる。そこでへりくだると、一瞬にして今まで不安だった、あるいは心配と暗い雨雲のようなものが心を覆っていた心が、一瞬にして晴れていく。38節に「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。「お言葉どおり」、言い換えると、御心のままになさってください。神様、あなたのご計画どおりにこのことを導いてください。その先は分かりませんから、神様がご存じですから、明日のことも来年のことも、このことがどのようになるのか分からないけれども、神様、どうぞ、あなたの御心のままに。イエス様がゲツセマネの園で「どうか、みこころが行われますように」と、ついにご自分を神様にささげる。そのとき平安がくる。この後のマリヤさんは大変喜んで「自分が恵まれた女と呼ばれるでしょう」と「世界一私は恵まれた女です」と、感謝しています。


どうですか、皆さん、今そう言えますか?「私の人生、今年は最高に恵まれた人生でした。私はここにいる誰よりも恵まれた者です」と是非言ってください。そういう平安を私たちに神様が造り出してくださる。こんな幸いなことはないじゃありませんか。


もう一度初めに戻りまして、「ヨハネによる福音書」14章27節に「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」。本当にそうです。この世が与えてくれる平安とは全く違うものです。しかし、これこそが誠の平安です。あのマリヤさんのように、またイエス様のように、神様の御愛の御手を信じることができるように、イエス様は命を捨てて罪を赦し、私たちが何の遠慮もなく、はばかることなく父なる神様を信頼する者と変えてくださる。ここに平安があるのです。常にこの御方の所に思いを委ねて、力を、勇気を与えられて、残された地上の旅路を歩もうではありませんか。「あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」。どうぞ、勇気をもって、どんなことにも上を見上げて歩んで行こうではありませんか。


ご一緒にお祈りをいたしましょう。