主にあって強し

 「イザヤ書」40章27節から31節までを朗読。

 31節「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」。

8月は記録的な猛暑が続きまして、繰り返してニュースで「観測史上、初めて……」と何度聞いたか分からない。そのくらい暑い日が続き、いささか身体的に疲労困ぱい、疲れを覚えます。「疲れる」のは、生きているかぎり、当然のことです。

ところが、日本人は極めて勤勉な民族でありますから、疲れて休むことは罪悪だと、そういう責めを心に感じる悪い習慣があります。頑張ろうと励ますのが一般的です。人に会うと口癖(くちぐせ)のように「頑張ってね」、「頑張ろう」とよく言いますが、これは日本人の好きな言葉の一つではないかと思います。何を頑張るのか、よく分からないのですが、とにかく「元気を出しなさい」、「へばっておっては駄目だよ」、「弱音を吐(は)くな」ということだと思います。私どもはロボットのように、何か機械のごとく休む間もなく動き続けることは、不可能であります。殊に肉体の弱さを持っていますから、暑ければグタッとなりますし、寒ければ震(ふる)え上がって体が動かなくなります。暑さ、寒さ、どんなことにもすぐに負けやすい者であります。誠に私たちはそういう意味で極めて弱い者であることを自覚しておきたい。それを自覚しませんから、「どうして、こんなにきついんやろうか」「何でこんなに体がだるいんやろうか」とか、「どこか、悪い所があるんじゃないか」と言います。

昨日も家内が「このところ体がだるいし、夜も眠られないし、何か悪い病気があるかもしれない」と、そうしましたら、ある方が「気管支炎かもしれない。そういう症状がありますよ」と言われ、びっくりしてホームドクターのところへ行きました。いろいろと調べてもらったら、「どこも悪い所はない。これはただ暑気あたり、夏疲れだ」という診断です。一つの結論を得たことで本人も納得したようで、帰ってくるなり明るい顔をしておりましたから、余程心配しておったのだと思いました。疲れる、体がだるくなる、弱ることは当然なのだとまず知らなければなりません。私たちは弱い存在なのです。ところが、強いもの、強くあるべきだという価値観、そういう一般的な考え方がはびこっていますから、弱音を吐くのは弱者といいますか、敗者、負けた人間なのだ、という負い目が常にある。特にここにいらっしゃる年代の方はそういう考えで生きてきた。疲れて休むことは「家族に悪い」とか「皆に悪い」とか、あるいは「自分は怠(なま)けているんじゃないだろうか」と、そのように思いやすいのですが、実はそうではなくて、私たちは弱い者であって、いつ何時(なんどき)倒れても不思議はない。そういう者が今日も神様が力を与えてくださって、こうやって元気でおられる、あるいは、家庭の仕事ができ、家族の世話ができているのは、私が頑張っているからでも、強いからでもなくて、本来弱い者であって、もうとっくに倒れて寝込んでいるか、起き上がれないでいるのが本来の自分なのだ、ということです。これをまず私たちはしっかりつかんでおきたい。そして、私たちの力は私たちの内にあるのではないのです。神様が私たちに力を与えてくださることを知っておきたいと思います。

体温を測ると、常に一定の36度前後でしょうか、お年を召した方は35度台になる方もあるし、子供の場合は37度近くまで上がりますが、平常の体温は決まっています。ズーッと一定です。ところが、外側の気温は大きく変動します。考えてみると昨日は熊谷市など内陸部のほうは、日中37度38度近くまで上がった。私たちの体が38度になってご覧なさい。氷を頭に載(の)せてフウフウ言っています。ところが、外気がいくら38度でも、自分の体はいつも36度に絶えず保たれている。昼夜分かたず管理しながら「私の体温はこのくらい。もう少し上げよう」とか、「下げよう」とか、そんなことは何もしない。気がつかないうちに私たちの体温はきちっと保たれています。これがまた冬場になってご覧なさい。ズーッと気温が下がってきて、5度とか、あるいは0度近くまでになる。いうならば、私たちの生活している環境は0度ぐらいの所から37,8度、すごい温度差の中に生きているのです。その中で私たちは常に一定の体温、36度前後の体温をキープしている。誰がそんなことをしている? これは神様が私たちにそういう力を与えてくださっているからです。そのように仕組んでくださっておられるのです。だから、神様が私たちの体のどこかをちょっとひねられる、スイッチを変えられると、途端にシューッと体温が上がります。私たちの心臓がストップしたら、体温がスーッと下がって2,3時間したら冷たくなります。

納棺するとき、「先生、抱えてください」と言われて、足を抱えると、冷たいですね。人間の体は保冷材以上に冷たくなります。「こういうものがどうして暖かい体になって生きているのだろうか」と不思議です。そのすべてのわざをつかさどっているものって、いったい何なんだろうか?人間の体にある生理的な仕組み、生体的な脳の働きとか、あるいはそれに伴う付随(ふずい)的なすべての器官がうまく動作しているから、といいますが、その一つ一つの動きを定めて、導いておられるのは誰か? これは神様以外にないのであります。そのことが詩篇の139篇に歌われています。15節に「わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされたとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった」と、また13節に「あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました」と。それはそうでしょう。私たちは自分の中を何もかも知っていますか? 私の肝臓はこんな色をしているとか、心臓はこのくらいの大きさでこういう形をしていて、いま胸がキューンだから、心臓が少し縮こまってとか、自分の体だからといっても、いつも見ているわけではないのです。私たちの体は自分のものであって自分のものではない。だから、ほかの人に頼んで診てもらう。お医者さんに行って、「痛いけれども」とか、「熱があるけれども、どうしてだろうか、ああだろうか」と訴える。お医者さんはいろいろ調べて「うーん、これは神経ですね」と言われておしまいでしょう。時には「お年ですからね」と。そうすると納得がいかないので医者に八つ当たりしますが、自分の体ですら分からないのに、どうして他人様が診て分かりますか? 「あの医者はやぶ医者だ」とか、「この人は、ちっとも訳が分らないお医者さんだ」とか言いますが、言われるお医者さんのほうが気の毒です。そんなことに責任を持てないのですから。お医者さん自身も自分の体のことはよく分からない。

 先だっても、ホームドクターと話をしていました。彼は私が狭心症であったのを知っていますから、「榎本さん、実は、私も大変なことがあったのです。夜中に胸がキューッとして、圧迫されるような痛みを感じて、榎本さんと同じ狭心症だと思って、急いで自分の診療所にいって血圧を測ってみると、血圧もかなり上がっていたし、心拍数も上がっていた」。これはいかんと思って、急いでそこにあった薬を幾つか飲んだそうです。後になってよく調べてみたら、それは心臓ではなくて、ぜん息だったと言うのです。考えてみたら両親もそうだったし、血族的な、体質遺伝のぜん息で50代に発症して、それっきり時折そういうことがあったが、自分は重篤(じゅうとく)なものではないと思っていたそうです。それくらい医者だって分からない。自分の体でも自分が分からないのだから、医者が分かるわけはないでしょう。だから、病院に行ったとき、あまりお医者さんに期待しないように。病気を与えるのも神様であり、癒してくださるのも神様です。お医者さんを用いておられるのも神様です。それをしっかりと心に留めておきたい。わずかな気温差ですらも、私たちの体が受け付けないようにきちっと常温に保っておられる神様が、私たちに力を与えて、今日も生きるものとしてくださっておられる。だから、「今日も主が命を与え、生きるものとしてくださった」と感謝したのです。ところが、時々神様は「休みなさい」と疲れを与えてくださる。すると、私たちは不満になる。「どうして、こんなに疲れるのだろう。何か悪い病気があるのではないか」と、すぐそちらに走る。そうではなくて、疲れるとき、弱るとき、「神様が『休め』とおっしゃっている」と受け止めることが必要です。

 今読みました29節以下に、「弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。30 年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる」とあります。「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる」とは、まさに私たちのことです。暑い夏を通り越して来て、やがて、秋風が吹いて朝夕涼しくなってくるに違いない。そうすると、夏疲れが一気に出てきますから、そのとき「どうしてこんなになった。私も年やなぁ」と、そんなに嘆(なげ)かないで、「これは神様が『休め』と、休息を与えてくださるのだ」と、そうとしか言いようがないのです。なぜならば、神様は力を与えることも、倒すこともまた立たせることも自由自在です。神様はどんなことでもおできになる御方です。その神様が休むべき時を備えてくださることを覚えておきたい。常に力が与えられて、ハイスピードでこまネズミのようにぐるぐる働き続けることが善であり、善いことだと思い込んでいるのではないでしょうか。それだって、神様が許してくださらなければ、人は何にもできないのであります。だから詩篇の62篇に、「力は神にあり」(11節文語訳)と歌われています。神様に力があるのであって、私たちにはないのであります。私たちは神様に造られた土の器にすぎません。だから、私たちの内に神様が力を注いで、肉体的な力も精神的な力もそうでありますが、魂、心、霊の力をも、神様は私たちに与えてくださる。肉体が弱ってきますと、魂も力を失くします、衰えてきます。あるいは、魂が衰えると、肉体も弱ります。心身症などはその典型的なものです。だから、肉体的な力も精神的な魂の力も、霊的な力も、共にこれは神様のものです。自分の体、肉体的な力は自分で食事療法をしたり、トレーニングをしたり、訓練をして強くなろうとします。ある程度そういう身体の健康を保つことはできるけれども、しかし、それはほんのわずかなことであります。「テモテへの第一の手紙」には「からだの訓練は少しは益するところがあるが」(4:8)とあるように、少しは役に立つと書いています。しかし「信心は」、いわゆる信仰、心の力は、「今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる」。こちらのほうがもっと大きな力だと。だから、いつも魂が力にあふれていること、そして身体的な力も必要なだけ神様が備えてくださるのだと信じていきたい。31節に「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる」。主を待ち望んでいく。神様からの力を期待していく。弱ることは、私たちの専売特許のようなものです。それはまたすべての人に共通するものです。だから、どんなに信仰の勇者といわれる人でも弱ります。

 「列王紀上」19章1節から4節までを朗読。

 これはエリヤの記事でありますが、この前の18章にエリヤの華々しい活躍が語られています。バアルの預言者450人とカルメル山で一騎打ちをしたのです。「火をもって答える神を神としましょう」と、エリヤは神様に信頼して祈って、天から火を下して燔祭のすべてを焼き尽くす。一方450人ものバアルに仕える預言者たちは体に傷を付けて、一日中祈り続けたのですが、うんともすんとも何にも起こらなかった。そのためとうとうエリヤは、バアルに仕える預言者たちを全部殺してしまう。ところが、今読みました19章に「アハブはエリヤのしたすべての事、また彼がすべての預言者を刀で殺したことをイゼベルに告げた」。アハブ王様は悔しくなって、自分の妃(きさき)であるイゼベル、悪妻ですが、彼女に告げました。すると、妃イゼベルは使者をエリヤに遣わして、「わたしがあなたに会ったら、あなたが殺した預言者同様にもはや命はない。そう思え」と言(こと)づてをしたのです。エリヤはそれを聞いて震え上がった。これはすごくおかしいと思いませんか。バアルの預言者たちとあれ程力強い対決をして、勝利して、相手をやっつけた彼が、イゼベルのたった一言で震え上がるのです。このエリヤは信仰の勇者とも言われますが、実に私たちと同類です。私たちも信仰に立っていろいろなことに戦い抜いてきても、奥さんか家族の誰かから、ちょっと一言言われたら、コトッとなって一気に心がなえてしまう。弱いのです。イゼベルという人は、なかなか強い奥さんで、アハブ王様すらも自由自在に操縦(そうじゅう)する人ですから、怖い人であることは確かです。だから、エリヤはそのイゼベルを恐れた。そして、どうしたかというと、逃げ出すのです。3節に「そこでエリヤは恐れて、自分の命を救うために立って逃げ」と。「自分の命を救うため」、何とか自分でしようと思い、彼は逃げ出して行く。そして荒野に入って行きまして、4節「れだまの木の下に座し、自分の死を求めて言った、『主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません』」。いうならば、「もう早く死にたい。殺してください、神様。わたしはそんな立派な人間ではありません。もう充分です」。スランプです。皆さんもそういうときがありますね。「神様、神様と、しんどいな。聖書も読まないかん。お祈りもせなならん。もうやめとこうか」と。「神様、もう充分です。私はここまで生きてきたら、もうそろそろ引き上げてください」。「じゃ、引き上げる」と言われたら、途端に落ち込むでしょうが、ここでエリヤはそう言ったのです。自分の死を求めた。彼は疲れていたのです。だから、ちょっとした人の言葉で揺(ゆれ)れる。また「こうなったら仕方がない。死ぬほかはない。もう死にたい、死にたい」と言って、彼は神様の前に駄々をこねる。

そして、そこで眠ってしまうのです。5節以下に「彼はれだまの木の下に伏して眠ったが、天の使が彼にさわり、『起きて食べなさい』と言ったので、6 起きて見ると、頭のそばに、焼け石の上で焼いたパン一個と、一びんの水があった。彼は食べ、かつ飲んでまた寝た。7 主の使は再びきて、彼にさわって言った、『起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから』。8 彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた」。ところが、彼が寝ていると、神様は本当に懇(ねんご)ろに、彼を養ってくださる。神の使い、天使がやって来て、「焼いたパン一個と、一びんの水を置いてくださった」。これは後のイエス様のことです。イエス様はご自分のことを「わたしは命のパンである」(ヨハネ6:48)、またイエス様はご自分のことを「生ける水である」(ヨハネ7:38)、命の水であるとおっしゃいました。エリヤは神様の御言葉をしっかりとそこで味わい、反すうして頂くのです。彼は疲れていて、生きる望みを失って、死をあこがれている状態です。私たちも時にそういう状態に置かれますが、その時に何をするか? 休むのです。どうぞ、大いに休んでいただきたい。「こんなに寝ているわけにはいかない。私がいないと、この家族はどうなる」と言って、無理して起きるから、とがった声であちらをしかり、こちらをしかり、つぶやいて家族皆に不愉快を振りまいて回ります。そうならないために、まず自分が休む。そして、神様の力に、神様の霊に魂が満たされること。その秘けつは、ただ眠っているだけではなくて、先ほどのお言葉にありましたように、「主を待ち望む」、神様に思いを向けて、よく静まって、聖書のお言葉を心に抱く。だから、疲れるとき、忙しいことがあったならば、一まずそこですべてを退(しりぞ)いて自分の部屋なり、あるいは、家族から離れて静まる。じっくりと神様の前に心を休める。それは、横になって眠ることも必要だし、また、独りで聖書の言葉を聞くことも、それを味わうことも大切です。あるいは、これまでに与えられた主の恵みを一つ一つ数えて感謝することも大切です。

5節以下にありますように、天の使いがパンと水を持って来て、エリヤを養ってくださったというのは、まさにそこなのです。そうしているうちに、彼の内に神様の力が満ちて来る。その後8節に「彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた」。そうやって、神様から力を与えられたら、彼は40日間ザーッと走り抜いて神の山に行く。神様の臨在に近づく。そのとき9節以下を読みますと、「その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、『エリヤよ、あなたはここで何をしているのか』。10 彼は言った、『わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀をもってあなたの預言者たちを殺したのです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています』」。エリヤは神の山、ホレブの山にやって来て、ほら穴の中に取りあえず身を置いた。そこへ神様が声をかけた。「エリヤよ!お前はそこで何をしている」とおっしゃったのです。するとエリヤは「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました」と。熱心どころか、死にたいと言っていた。ところが、彼は神様の力に満たされたときに本当に勢いにあふれてくる。「神様、本当にあなたのために熱心でした」と言い得る力を与えられた。確かにそのとおりで、カルメル山でバアルの預言者たちと一騎打ちをしたときに、彼は本当に熱心でありました。まさにそのとおりです。そのことに、もう一度その所へ心と思いを取り戻していく。原点に立ち返る。私たちも弱るとき、そんなことがあるのです。どんなに大きな神様からの恵みを頂いたか、神様のどんなに大きな御愛を頂いたか、そのことを忘れてしまう。そして、その神様の御愛に触れ、神様の力に満たされて、喜び、感謝し、力づいて、主に仕えていた自分であったはずの私たちが、肉体も弱ってくる。また暑さに負けて心がなえてくるとき、私たちはスランプに落ち込みます。しかし、スランプに落ち込んでそのまま消えてなくなるのでは誠にもったいない。そうではなくて、そこでもう一度、「主を待ち望む者は新たなる力を得」と、エリヤはそこで神様からのパンと水を頂いて、イエス様のお言葉を本当に心に頂いて魂に力を得る。そうすると、勢いよくまた走りだして行くことができる。これは私たちの大切ないのちであり、また、力を受ける秘けつであります。

「士師記」16章28節から30節までを朗読。

これは怪力サムソンといわれる人の記事であります。サムソンはそもそも怪力だったとか、相撲取りのように、白鵬のような人物だったというわけではないのであります。普通の、私たちと同じでありました。ただ、神様が力を注いでくださったとき、怪力を発揮(はっき)することができたのです。神様が必要な力を与えていろいろなことを起こしなさいました。このとき、サムソンは力を与えられていたはずでありますが、一つの大きな失敗をしたのです。そのことがその少し前の20節以下に「そして女が『サムソンよ、ペリシテびとがあなたに迫っています』と言ったので、彼は目をさまして言った、『わたしはいつものように出て行って、からだをゆすろう』。彼は主が自分を去られたことを知らなかった。21 そこでペリシテびとは彼を捕えて、両眼をえぐり、ガザに引いて行って、青銅の足かせをかけて彼をつないだ。こうしてサムソンは獄屋(ごくや)の中で、うすをひいていたが、22 その髪の毛はそり落された後、ふたたび伸び始めた」。サムソンは自分の力の秘密は神様の約束の言葉にある。その約束の言葉は 「長く伸びてきた彼の髪の毛を切ってはならない。これを切ったらあなたの力はなくなる」と言われた。ところが、一人の女性、デリラという女性を好きになりました。その女性は、実はたくらみを持ってサムソンに近づいたのです。ペリシテ人の手先でありました。何とか、憎きサムソンをやっつけたくて、その女の人を通して彼の力の秘密を探ろうとしたのです。手を変え、品を変え、いろいろなことでサムソンを攻め立てるけれども、言わなかった。しかし、とうとう愛する彼女から「どうして、そんなにうそばかりつくの。私を愛しているといいながら、そんなうそをつくなんて、知らんよ」と言われて、とうとう彼は「実は、私の秘密は髪の毛にある。これを切ってしまったら力がなくなる」と言ってしまったのです。それは神様の約束よりも、肉にあって愛する女の人に負けてしまったのです。そのために彼の力はそこから抜けていきました。確かに、髪の毛を切ることによって力がなくなるとここに語られています。読んでいると、サムソンの髪の毛が特殊の力を持っているかのように思いますが、実はそうではないのです。神様の約束を信じる。いうならば、神様が「そうせよ」とおっしゃったことを信じて、神様のお言葉に忠実に仕える。このことが大切なのです。髪の毛が長いか、短いかとか、切ったとか、切らないことよりも、実は約束された神様を第一にするのかどうか、ここが問われるのです。彼は神様よりもデリラという女性の言葉を第一にしてしまった。だから、髪の毛を切ったことは結果であって、髪の毛を切ったからどうこうというよりは、彼の心が既に神様から離れた。だから、20節の終わりに「彼は主が自分を去られたことを知らなかった」。彼は心にいつも神様を第一にしていたと思います。神様に結び付いていたはずの彼が、神様に替えてデリラという女の人に心を移した。そのとき既に主は彼を離れていたのです。だから、髪の毛を切る、切らないというのは、付随的なことであって、問題はそこです。そして、その後、彼は捕えられて、今読みましたように、ガザに引っ張られて行き、ろう屋につながれてうすを引いていたのです。両眼をえぐり取られて、目が見えなくなって、ただひたすらにうすを引いていた。22節に「その髪の毛はそり落された後、ふたたび伸び始めた」と。ろう屋にいる間にだんだんと髪の毛が伸びてきたというのです。これも髪の毛が何か不思議な力をもって伸びてきたから力を与えられたというのではありません。髪の毛が伸び始めて、何センチ伸びたらどのくらいの力になるかと10センチよりも20センチのほうが力があるんじゃないか。では、もう少し1メートルぐらい髪の毛を伸ばしたほうが良かったのではないかと、そんなさ末な話に引っ張り込まれますが、そういう意味ではありません。ここで「ふたたび伸び始めた」とは、獄屋の中で独り置かれ、そして、単純な作業である石うすを引き続けているときに、彼は自(みずか)ら悔い改めたのです。神様の前に自分を低くしたのです。本当に申し訳ない。神様を第一にすべき者が、神様を捨ててデリラの言葉に従ったことを悔いたのです。そして、神様に対する思いを整えていくにつれて、神様の霊が彼の内にどんどんと満たされてくる。とうとうダゴンという神様のお祭りの時です。サムソンを見せ物にしようとして、ダゴンの宮に引っ張り出されます。そのとき、先ほど読みました28節以下にありますように、神様に祈りました。「どうぞ、わたしに力を与えてこの取られた二つの目の一つの分でもいいからあだを報わせてください」と祈ったのです。そのとき、サムソンに神様は力を与えてくださった。そして、ダゴンの神殿の親柱、それを支えている柱に自分をくくりつけて、その柱と共に引っ張った。石造りの神殿は一気に崩れ落ちて、そこに集まっていたペリシテ人はすべて死んでしまう。もちろんサムソンも死んでしまいますが、神様の力によって彼は立つことができるのです。そうなるために、彼はガザに引っ張られて行き、ろう屋の中に置かれて、孤独な中で静まって神様の力を待ち望んでいく。

いま私たちもいろいろな問題の中で力を失い、行き詰っているときにこそ、もう一度「主を待ち望む者は新たなる力を得る」。サムソンもそうでありました。また、この士師記には、そのほかにそういう神様の力に満たされた人々が語られています。ギデオンもそうであります。力は神様にあるのです。私たちには力がないのでありますから、常に主を待ち望んでいく。

イザヤ書40章31節に「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる」。わしという鳥は大きな鳥です。羽を広げれば優に1メートルは超えるに違いないほどの大きな鳥です。あのような鳥は雀のように羽根をばたばたさせるわけにはいかない。そんなことはできません。バタバタとやったら、何秒もしないうちに力が尽き、落ちてしまいます。だから、目に見えない気流、空気の流れを読むのです。谷底から吹き上げる風。あるいは山から吹き下ろしてくる風、その風に対して羽根をただ広げてその風をつかむのです。そして、上がったり下がったり、遠くへ遠くへと飛んでいくことができる。決してバタバタバタバタ自分の力を振うことはしません。大自然の力をわしはつかみ取って、飛び駆けて行きます。私たちも神様の力に持ち運ばれていく。聖霊、神様の霊が私たちの内に宿って、私たちを高く引き上げるし、また低く下ろされるかもしれない。また、はるか遠くへと持ち運んでくださる。常に神様の力を待ち望んでいく。自分の肉の力でやったら、すぐに弱ります、疲れます、倒れます。

だから、主を待ち望んで、神様の力に満たされて、主が「よし」とおっしゃるところ、神様が「せよ」とおっしゃるところに喜びをもって主に従っていきたいと思う。「翼をはって、のぼることができる」、神様の前に信仰の翼を、羽根を広げて、神様の力を日々待ち望み、神様の力に満たされて生きたい。申命記には「汝の能力(ちから)は汝が日々に需(もと)むるところに循(したが)はん」(33:25文語訳)と約束されている。毎日「今日も主よ、あなたの力によって持ち運んでください」と、主の手に委ねていきたいと思う。そうするとき「走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」。神様は私たちを弱い所もなく、疲れることもなく、ご自身の御心のままに、ご自在に私どもを持ち運んでくださる御方であります。神様の御手に、絶えず委ね、主を待ち望んで行こうではありませんか。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。