真の教会

「マタイによる福音書」16章13節から20節までを朗読。

 16節「シモン・ペテロが答えて言った、『あなたこそ、生ける神の子キリストです』」。

イエス様はピリポ・カイザリヤの地方に弟子たちと共に出かけられました。もっとも「ピリポ・カイザリヤの地方」と言われても、私たちにはピンときません。「東京」とか「北海道」と言われれば、「そうか、あの辺だな」と地図が思い浮かびますが、「ピリポ・カイザリヤ」と言われても、意味のない言葉に聞こえますが、イエス様の時代には、この言葉を聞くだけで「こういう所なのだ」と、すぐに思い浮かぶことでしょう。だから、敢(あ)えて「ピリポ・カイザリヤの地方に行かれた」と語られているのは、それなりに語ろうとしている意味があるわけであります。ピリポ・カイザリヤの地方はヨルダン川の水源に近いところで、偶像神“パン神”の聖所パネイヨンが置かれていました。ヘロデ大王が皇帝アウグストから与えられた町でもありましたので、そのために皇帝を祭った廟も造られていたそうです。そういう所に弟子たちと共に行かれて、ペテロの「あなたこそ生ける神の子、キリストです」との信仰告白を聞くことができたのですから、イエス様が大層喜ばれたのです。

 まず、イエス様は弟子たちに尋ねて言われました。13節「人々は人の子をだれと言っているか」と。「人々」とは、世間の人です。世の中の人々は、「人の子」、イエス様ご自身のことを指している言葉でありますが、イエス様は世の中の人々は、「わたしのことを誰だと言っているか」と尋ねました。世間の人々のうわさ、世間ではどういわれているのか、と問われました。弟子たちは、自分が聞いたこと、伝えられている話などを伝えました。14節「ある人々はバプテスマのヨハネだ」「エリヤだ」「エレミヤだ」と「かつて名をはせた有名な預言者の一人だ」と言っている人がいる。その当時、イエス様についていろいろなうわさがありました。「あの人はこうだ」とか「あの人はああだ」と、「イエス様は預言者ではないか」あるいは「バブテスマのヨハネの再来だ」といううわさ話がある。弟子たちは「わたしはこう聞きました」「こう言っています」「ああ言っています」と伝えました。イエス様はそのような話を黙って聞いておられた。弟子たちも聞いた話を伝えるだけですから、無責任です。「ああですよ」「こう聞きました」と。ところが15節「そこでイエスは彼らに言われた、『それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか』」と、イエス様が話題を振ったのです。それまで弟子たちは聞いたこと、見たこと、あるいは人の話を伝えるだけですから、責任がありません。ところが、突然イエス様が「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」と言われて、「え!」と弟子たちはびっくりしたでしょう。まさか話がこちらに振られるとは思いません。突然の話です。皆さんもご経験のように学校時代、朝、教室に行ったら、突然「今日テストするぞ」と、大慌てをしたことを思い出されると思いますが、このときの弟子たちはまさにそうなのです。何の気なしに思い切って言いたい放題言っていたところへ、イエス様は「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」と。その時、皆は沈黙したに違いない。答えようがない。「そんなもの簡単だ、イエス様といつも一緒なんだから、すぐに答えられそうなもの」と思いますが、身近にいればいるほど難しい。

家族や夫婦であって、長年同じ屋根の下で生活している。奥さんが突然ご主人の前で「あなたは、私を誰と思っているの」と、そんなことをポンと問われてご覧なさい。「お前は俺の妻だ、妻以外にない」と言う。時には何と答えるべきかと迷う。恐らく問いかけた人にとってはある期待している答えがあるに違いない。それを思うと余計口に出てこない。下手なことを言ったら逆襲(ぎゃくしゅう)されますから、考えてしまいます。「どう言えばいいんだろう」と。子供の時からそのように学校生活で、正解は何か、答える以上間違ってはいけない、と強迫観念(きょうはくかんねん)があります。問われると、すぐ「相手は何を期待しているのか。どう言えば正解なのだろうか」と思い測る。相手を考えるものですから、グッと言葉が出てこなくなる。

そのとき、16節「シモン・ペテロが答えて言った、『あなたこそ、生ける神の子キリストです』」と。あなたこそ、神の子でいらっしゃると。しかも「生ける」というのですから、人となり給うた神でいらっしゃる、と告白したのです。「キリスト」とは、救う人、救い主、私たちを救ってくださる御方だと。これは100点満点の正解でした。だから、その後イエス様は17節「すると、イエスは彼にむかって言われた、『バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである』」と、イエス様はペテロの答えを大変喜んで、褒(ほ)めてくださったのです。「あなたはさいわいである」、あなたは何て幸せな人ではないかと。というのは、その後に「あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である」。ペテロが告白した信仰、これはイエス様が切に願っていたものです。それをはっきりとペテロが告白することができたから「あなたは本当に幸せな人だよ」と。しかし、ここでイエス様は必ずしもペテロを褒めたわけではないのです。「お前は、いい子だ、よく頑張ったな」とか「お前はよく努力したよ。どうやって勉強したのだ」と言われたのではありません。「あなたはさいわいな人」「幸(しあわ)せだよ」とおっしゃったのです。なぜ幸せかというと、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と言い表すことができたのは「血肉によるのではない」と。「血肉による」とは、人の努力や業や何かによって、という意味です。ペテロがイエス様の知らない間に徹夜で勉強したと、あるいはどこかの学校へ行って卒業したからそれを身に付けたんだとか、そのような血肉、あるいは先祖伝来教えられてきたから身に付いたんだ、という、人の知恵や力によるのではなくて、「天にいますわたしの父」、神様があなたにこのことを教えてくださったのだ。これは神様からの賜物(たまもの)といいますか、恵みです。これが、ペテロに「さいわいだよ、あなたはしあわせだったね」と言われた理由です。もし人が自分の力で、自分の努力でそれを得たのであれば「よく、頑張ったね。あんたは立派だよ」と褒められるに違いない。ところが、イエス様はここでペテロを褒めたのではなくて、どんなにペテロが神様から恵まれた人であるか、幸いな人であるか、確信を与えられたのです。

いま私たちはこうやって神様を信じることができ、救いに引き入れられて、イエス・キリストを救い主と信じる者としていただきましたが、それは私たちの努力や何かによるのではないのです。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である」(2:8)と「エペソ人への手紙」にあります。私たちが徹夜してねじり鉢巻きで勉強したから、山の中にこもって物断ちして斎戒沐浴(さいかいもくよく)したとか、長年かかって努力したから得られた、というのではないのです。そうでしょう。聖書には「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(マタイ 22:14)と語られています。世の中の人々はイエス様の話を聞く機会はいくらでもあるのですが、しかし、皆が皆、信じるか、というと、そうはいきません。信じることは、人の力や、業でできるのではなくて、神様が信じさせてくださるのです。だから教会に「信仰をもたせていただきたい。信仰させていただきたい」と言って来られますが、「先生、なかなか信じられません。どうやったら信じられますか?」、「何かいい方法はありませんか」、「信仰入門の本はありませんか」と言われる。私は「ありません」と言うと、がっかりされます。「私は信じられません。救われません」と言われる。私は「そうではなくて、神様があなたに信じさせてくださるのだから、神様に求めなさい」と。聖書に「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(マタイ 7:7)とあります。「『神様、どうぞ、私に信じる信仰を与えてください。私に信じさせてください』と求めてご覧なさい。そうしたら、神様があなたにその心を与えてくださいます。魂に神様の力を与えて『ああなるほど、神様がいらっしゃるのだな』と、あなた自身が深く悟ることができる。そのように神様がしてくださる」。ある方は神様を信じるために聖書を全部丸暗記しようかというくらいの意気込みの方がおられましたが、いくら聖書を丸暗記してみたって信じることにはならないのです。

そのことをイエス様はペテロを通して語られたのです。「あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である」。天にいます、私たちの父なる神様があなたにこのことを教えてくださった。さいわいだ、何とあなたは幸いな人ではないか。だから、私たちもまた幸いな人なのです。今こうしてイエス様を救い主、私をあがなって生きる者としてくださった、と信じることができるのは、私たちの努力の賜物(たまもの)ではありません。ただ一重に神様が私たちに与えてくださる恵み、一方的なご配慮、あわれみです。だから、私たちは、この信仰をおろそかにできないのであります。ダイヤモンドという、女性の方は大変好きな宝石がありますが、ダイヤモンドは、鉱山で1トンとか2トンのたくさんの石を掘り出した中からほんのわずかしか得られません。だから、貴重なのです。値段も高くなり、ほんのわずかしか採(と)れない。貴重で大切な物ということになります。イエス様の救いにあずかった私たち、殊に日本ではクリスチャン人口は総人口の0.5%とか1%未満だとか言われています。クリスチャンが集まりますと、「何とかして、クリスチャンを増やす方法はないか」、「信者を増やす方法はないだろうか」、「あれもしようか」「こういう特別伝道会をしましょうか」、「人を呼び集めるのには、何をしたらいいだろうか」と、いろいろな協議をして一生懸命に頑張りますが、これは無理であります。そんなことをして人が救われることはできません。救ってくださるのは神様です。神様が「この人は」と、選んで召してくださる。招いてくださる。だから、イエス様も「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。14 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」(マタイ 7:13~)と言われます。だから、日本でクリスチャンが少ないのは、極めて聖書的であります。国中の人々がみなクリスチャンだったら、「命にいたる門は狭い」とはなりません。イエス様は「狭い門からはいれ」とおっしゃいます。そこを行く人は少ない、その少ない中にある私たちです。だから、私たちはこうやって毎週礼拝を守ることができ、また聖書を日々読むことができ、祈ることができる。どんなときにでも神様と共にいるという、幸いな恵みの中に置かれています。信仰を与えられています。だんだんと慣れてしまって、「そんなのは、当たり前だ」と思ってしまう。時には「お祈りはやめとこうか」という話になったりしますが、もったいない話です。私たちは大変貴重な、掛け替えのない賜物を頂いている。イエス様を信じる者とされた、これだけでも私たちは神様の大きな恵みを頂いている。幸いな者とされているのです。これをまず感謝したい。だから、私どもは「いまこうして日々にイエス様を心に信じて、祈り求め、神様の力に守られて、そのことを感謝することができる自分は本当に掛け替えのない、数少ない貴重な存在なのだ」と、自覚していただきたい。「誰でもそうなれるよ」と思いがちですが、なれないのです。神様の許しがあり、神様の憐れみがあって、この救いに引き入れられたのです。だから、クリスチャンホームに生まれたからとか、そういう環境に育ったら信じられるかというと、そうではありません。私たちは今こうして神様の大きな恵み、この救いにあずかったことを感謝したいと思います。

18節以下に「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉(よみ)の力もそれに打ち勝つことはない」。「ペテロ」とは、「岩」という意味だと言われています。真偽(しんぎ)は分かりませんが、そういうことだと理解していただいたら、と思います。「わたしはこの岩の上に」とは「ペテロの上に教会を、『わたしの教会』、キリストの教会を建てよう」と言われたと。それから後、ペテロが教会の始まりといいますか、土台だと伝承(でんしょう)され、受け継がれた話になってしまいました。それを元にできたのがカトリック教会です。ペテロはネロ皇帝時代のローマで殉教(じゅんきょう)いたしました。そのペテロの墓の上にサンピエトロ寺院という今のバチカンの大聖堂が建てられています。だから、ペテロの墓の上に教会が建っている。まさにこの聖書の言葉のとおりに「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう」と、ペテロの上に立っているからローマ・カトリック教会が「俺たちこそが、正真正銘の教会なのだ」と言っていますが、そんなことをここでイエス様は言われたのではない。「この岩の上に」とは、ペテロの語った告白、信仰の上に教会が建つのだ、とイエス様はおっしゃいました。ペテロの信仰は「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と告白するものです。これがペテロの信仰であり、またその信仰によって教会が存在するのです。

教会とは決して建物ではありません。時にある方が「先生、最近新しい教会が桜坂の坂の上にできていますが、ご存じですか」と言われ、「いや、そんな新しい教会は知りませんよ」、「え!一度先生、見てください。モダンで立派な教会ですよ」と。それで、ある時どういう教会かと私は見に行ってみましたら「○○チャーチ」と横文字の名前が付いている。「よく見ると、結婚式場だったのです。「結婚式場の教会か」と。本城の先に立派な尖塔(せんとう)が立って十字架が付いている教会があります。「あれはどこの教会かね」と尋ねたら、「いや、先生、あれは結婚式場です」、「え!すごいね。あんな教会があるの」と。尖塔が立って十字架が屋根に付いていれば、何でも教会かというと、そうではない。同じ言葉を使いますが、聖書が言うところの「教会」は、外側から見てこれが教会と分かるものではない。信仰の上に立つことです。では、それはどこにあるかと言うと、実は私たち一人一人が教会なのです。私たちがペテロとなり、私たちが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と、主イエス・キリストを神のひとり子、神様が人となってこの世に来てくださった御方で、私の罪のゆえに十字架に命を捨てて、私たちの罪を清め、そして、私たちと神様の間に何の妨(さまた)げも壁もなくしてくださった。そして、神と私とがいつも共におることができる関係に造り替えてくださった。これがキリスト・救い主です。私たちは滅ぼされて当然であった者、失われていた者です。神も知らない、キリストとも縁がなく、そういう生き方をしていた私たちを憐(あわ)れんでくださった父なる神様が私のためにご自分のひとり子、キリスト、イエス様を人の世に遣(つか)わしてくださった。そして、イエス様は33年半近くの地上での御生涯の後、最後はゴルゴダの十字架に釘づけられて、呪(のろ)われた者となり、本来私たちが神様から受けなければならない刑罰の一切をイエス様が負うてくださったのです。私たちはイエス様を信じる者となり、パウロのように「我キリストと偕(とも)に十字架につけられたり」(ガラテヤ2:20文語訳)、もはや私たちが生きているのではない。私はキリストと共に死んだ者である。いま生きているのは、よみがえってくださったイエス様が私を生かしてくださっている。このことを信じているところが教会です。

 「コリント人への第一の手紙」6章19,20節を朗読。

 19節に「自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって」とあります。「聖霊の宮」、聖霊といいますのは、イエス様が神様の所へお帰りになった後、私たちにイエス・キリストの霊、神様の霊を与えてくださいました。その御霊が私たちの内に宿ってくださる。だから、いま皆さんお一人お一人に神様の霊が注がれている。キリストの霊、聖霊が与えられているから神様を信じることができるのです。私たちにイエス様は救い主、キリストは私の主ですと、信じさせてくださるのは御霊によるのであります。その御霊は神なる御方、神ご自身でいらっしゃる。聖霊が私たちの内に宿っている。だから私たちは神様の宮です。

 日本でも至る所に神社があります。戸畑も夏祭りで法被(はっぴ)を着た人が今朝も歩いていました。神社に行きますと御神体があります。大きな屋根があって奥のほうが見えないように御簾(みす)が掛っている。その奥のほうに御神体のような物がある。本体がどんなであるのか誰も知らない。見たことがない。そういう場所だから、かたじけなくて、何か厳(おごそ)かな感じになるような雰囲気に作られている。そこへ行くと普段行儀の悪い人も「ちょっと、行儀を良くしないといかんなぁ」という雰囲気になります。まさに宮とは「そこに御神体が祀(まつ)られ、神様がそこに宿っていますよ」ということでしょう。その神様が夏の祭りのときは神輿(みこし)に乗り移って、人々に担(かつ)がれて町内を回り、家内安全、無病息災、何かいいことをしてくれるに違いない、と練りまわります。御神体を担いで回りますから、法被を着て水でもかぶって「清めな、いかん」という話になります。私たちは皆「神の宮」ですから、私たちの内に神様の霊が宿って、神様が住んでくださっている。

自分の体のように勝手なことはできないのであります。大切にしなければなりません。ここにあるように「自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである」。私たちは自分の内に宿っている神様の所有、持ち物、聖霊が私たちの内に宿ってくださるのだから、自分勝手なことはできません。夜更かしをして、翌日は頭が痛くなったり、食べすぎておなかをこわしたり、好き放題して風邪をひいてしまったとか、体をこわすなど、もってのほかではあります。神様のからだである私たちは自分を大切にしなければいけません。健康ブームでいろいろな健康食品が出回り、健康第一といいますが、それとは目的が違います。自分の体は神様が宿っている聖霊の宮であって、これは大切なものだから、食べるにおいても何をするにおいても大切に扱う。逆に何か体に不都合なことが起こったら、神様がちゃんとそれを癒してくださる。それは当然です。神様は私たちの内に宿ってくださるのですから、祈っていると、神様は病をも癒すことがおできになるのです。私たちは何と幸いな恵みのなかに置かれているか分からない。神様がいつもどんなときにも共にいてくださる。まさに、ここが教会なのです。だから、私たち一人一人が神様を礼拝する場となり、私たちが教会、神の住まい、キリストの霊が宿る場所となっていく。では、目に見える教会という建物は教会ではないかというと、これも教会です。私たち一人一人が教会、その小さな教会が集まるから、ここが教会なのです。建物だけあって教会とはなりません。そこに集(つど)う人たち一人一人が教会です。皆さんが地上にあるかぎり「あなたが教会なのです」。そして、その教会にキリストが宿ってくださっている。20節「自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」とあります。神様の栄光をあらわす所、これが教会です。「栄光をあらわす」と言われると、「何をすればいいのかな」と思いますが、簡単です。聖書には「私たちの感謝が満ちあふれて神の栄光となる」(Ⅱコリント 4:15)と書いてあります。神様の栄光をあらわすとは、私たちが感謝賛美し喜ぶことなのです。私たちはつぶやいて不安になって、怒りにかられている状態です。つぶやいたり悪口を言ったり、人を批判したり、嘆(なげ)いたり悲しんだり、失望したりしている。それは神様の栄光どころか、神様の栄光を汚す結果になります。神様はどうして私たちを選び、救いに引き入れてくださったのか。それは神様がご自分の栄光をあらわす、言い換えると、私たちをして感謝賛美、毎日朝から晩まで喜んで感謝する者と変える。このために私たちを選ばれた。イエス様が私たちの罪のあがないとなって十字架に死んでくださったのは、私たちがイエス様を信じて、日常生活の日々のいいことも悪いことも、どんなことの中にも、そこに神様がいて、私を愛し、一つ一つ善にして善をなし給う御方です、と感謝賛美するようにです。世の中の人々は、善いことがあれば有頂天になって大喜びをする。悪いことがあったら「ああ、ああ……」と沈んでしまって、生きているのやら死んでいるのか訳が分からないようになります。浮いたり沈んだりする。これが世間の行き方です。神様は救いにあずかったらどのように変わるか。いつも喜んでおれ、祈りによって力を与えられ、また、すべてのことに感謝できる者と変えられる。だから、神様の栄光をあらわすのは、実に簡単なのです。「いつも喜んでいなさい。17 絶えず祈りなさい。18 すべての事について、感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5:16~)この3つです。これができれば、何にもほかにいらない。自分が喜んでいない、あるいは悲しんでいる、嘆いている、つぶやいている、と思ったら、「これはいかん。これは神様の栄光をないがしろにしている」と思っていただいたらいい。喜び感謝し、神様を褒めたたえる、それが神の栄光です。それこそが教会です。だから、私どもはこうやって教会に集まって、讃美歌を歌ったりお祈りをしたり、喜びます。一週間の過ぎて来た日々を振り返って、「本当に神様の恵みでしたね」と感謝します。それが神様の栄光であり、それをあらわす場所が教会である。教会は、自分自身がイエス様の御愛と恵みに本当に喜んで感謝して、礼拝をする。またそういう場所、そこに人が来る。一人一人救われた者が集う所、そこが教会です。私たちはキリストの霊を宿している者、その霊によって私どもは喜び感謝し、神様を褒めたたえていくこと。これが日々の生活です。それが積み重ねられていくところに私たちの生きる使命、目的があるのです。

「マタイによる福音書」16章16節に「シモン・ペテロが答えて言った、『あなたこそ、生ける神の子キリストです』」。どうぞ、この信仰に絶えず立って行きたいと思います。「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。イエス様が人となってこの世に来てくださいました。神の子たる御方、神なる御方が人となって、そしてゴルゴダの十字架に命を捨ててくださった御方。その御方は私のあがないとなって、私の罪を清め、新しい命によみがえって、いま私の内に宿っておられる。これがペテロの告白した信仰です。

イエス様はペテロを褒めて「あなたは、さいわいな人だね。良かったね。あなたの名前はペテロ・岩だから、岩の上に教会を建てよう」とまで言ってくださった。ところが、その後イエス様がこれから律法学者や祭司長たちに捕えられて十字架にかけられて死ぬけれども、三日目によみがえるとお話をなさった。22節以下に「すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、『主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません』と言った。23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、『サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている』」。あれほどイエス様から喜ばれ、そして、褒められたペテロが、何分もたたないうちに、「サタンよ」と言われるのです。イエス様が「わたしは捕えられて死ぬけれども、また三日後によみがえるから」と言われたとき、「ちょっと、ちょっと、先生」と呼んで「いさめはじめ」とありますが、いさめるとはしかりつけるのです。「そんなことを言っては駄目じゃないですか」「そんなことはあるはずがありません」と言ってイエス様を引き止める。人の気持ちとして分からないでもないですね。そう言いたくなるのは分かるのですが、これはイエス様の使命を妨(さまた)げる、邪魔をすることになってしまいます。だから、イエス様は「サタンよ」とペテロのことを呼びました。「サタンよ、引きさがれ」、そして「あなたはいったい誰のことを思っている。神のことを思わないで人のことを思っている」。つい先ほど「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と告白したペテロでありましたが、すぐに彼はサタンの力に捕えられて、人を思う、肉の思いといいますか、人間的な感情に支配されてしまった。そして、イエス様からしかられてしまいました。それはまだペテロのなかに神様の力、神様の霊がとどまっていなかったからであります。

大切なのは、神様の、キリストの霊が常に私たちの内に宿っておられることを信じて、その霊と共に生きていく。よみがえってくださったイエス様を絶えず覚えて、どんなことの中にも主と共にいます、ということを告白していく歩みをしていきたいと思います。そうしないと、うっかりするとサタンから引っ張られます。やがてペテロは、あのペンテコステの日に聖霊を受けました。それから彼の人生は180度変わったのです。ついに彼はローマにまで連れて行かれました。そして、先ほど申し上げましたようにネロ皇帝の大迫害のなかで彼は殉教するのです。

シェンキェヴィチという作家が書きました『クォ・ヴアディス』(主よ、いずこへ行き給う)という小説がありますが、ネロ皇帝がローマに放火をしまして、ローマの町が炎に包まれました。その時ペテロはローマのクリスチャンたちから「ペテロ先生、早く逃げてください。あなたが死んだらクリスチャンは絶えてしまいますから」と勧められて、ペテロはやむなくローマから逃げ出して行く。逃げて行く途中、向こうから白い衣を着た一人の人がやって来る。すれちがうときフッと見ると、それはイエス様だった。ペテロは「主よ、いずこへ行き給う・クォ・ヴアディス」と声をかける。そのときイエス様が「お前が捨てたあのローマにわたしは行くのだ」、そう言われたときに、フッと気がついたらもうそこにイエス様がいなかった。ペテロはその場に泣き崩れて悔んだ。それから、もう一度彼はローマに帰って行った。そしてついにローマで捕えられて、十字架にはりつけになりますが、イエス様は足を下にした縦の十字架でしたが、自分はイエス様の足元にも及ばないから、十字架をさかさまにしてくれと、頭を下にして十字架に架けられたという話があります。ペテロもそういう者に造り変えられた。それはこのときの信仰告白があったからです。ペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と言い表した信仰に神様はペテロを立たせてくださった。その生涯を神様は造り変えてくださいました。

私たちもこの堅い信仰、岩に立って行きたい。「あなたこそ、生ける神の子キリストです」「あなたは私の救い主、私の主です」と「どんなときにもその主が私と共におられます」と、「私の内にいまキリストが宿って、私が生きているのではないのです。キリスト、よみがえった主が私を今日も生きる者として生かしてくださっています」と、感謝賛美し、喜んで日々の生活を送りたいと思います。いや、それは私たちのためではなくて、キリストがそれによってあがめられるからです。神の栄光のためです。また、神様は私たちを喜ばせたい、感謝させたい、賛美させたいと切に願っているのですから、どうぞ、しょぼくれて下向きになって消え入るような人生ではなくて、もっと上を向いて、主に支えられてよみがえってくださったイエス様の命に生きて行こうではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。