キリストのかたち

 「ピリピ人への手紙」3章17節から21節までを朗読。

 20,21節「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。21 彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑(いや)しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう」。

ここに「わたしたちの国籍は天にある」と語られています。これは教会の庭にあります納骨堂の正面にも記されています。どちらかというと、お墓の墓碑名によく使われる御言葉の一つではないかと思います。

 福岡の教会の墓地が市営の霊園にあり、その周辺はキリスト教関係のものが多いのです。イースターなどになりますと、墓前礼拝が一斉(いっせい)に行われますから、広い霊園のあちらこちらで讃美歌が聞こえます。自分はどこの国にいるのか、と思うぐらいにガラッと様子が変わります。私は墓地を見て回るのが好きでありまして、いろいろな教会の墓碑名を見るのです。そうすると一番多いのは「われらの国籍は天にあり」です。二番目に多いのは「わたしはよみがえりであり、命である」と、これは断トツに1位と2位であります。そのほかには「われはキリスト」とか「主はわが牧者」というのもあります。これらはマイナーなところです。10年ぐらい前に納骨堂を造り替えたのです。以前からあったものはずいぶん老朽化(ろうきゅうか)して、傾きかけていました。福岡の教会には戦前「浜の町伝道館」といわれた時代に造った教会の墓地があったのです。その墓碑名は文語訳の言葉で、しかも古い漢字を使っていました。「終(おは)りのラッパ鳴らん時 みな忽(たちま)ち瞬間(またたくま)に化(くわ)せん」という御言葉でした。これを聞いて「そうか。そうだよね」と納得できる方は、よほど古い方で、大概(たいがい)の方は分からないのです。今度新しくするにあたってどうしようかと祈っておりました。私たちの信仰を一言で言い表すものがないだろうかと。それを与えてくださいと、祈っておりました。与えられたお言葉が、先ほどお読みいたしました21節のお言葉です。20節は「わたしたちの国籍は天にある」とありますから、これにしようかな、と思ったのですが、もっとはっきり自分たちの信仰を言い表すものにできないだろうかと。そのときに与えられたのが21節で「彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう」です。このお言葉を新しい石に刻(きざ)みました。見事に素晴らしい墓地に変身したのであります。励まされるいい墓地になりました。

 どういう意味でそれを選んだかということですが、それが今日お話ししたいことでもあるわけです。まず、その前段階として、20節に「わたしたちの国籍は天にある」と。これは確かにそのとおりで、これは大きな望みであり、私たちにとっての今を考える大切なキーワードであります。私たちは今この地上に生きています。いつまでもこの地上に生き続ける者ではありません。「テモテへの手紙」を読みますと、「わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く」(Ⅰテモテ6:7)と記されています。いろいろな物を持ちたい、そのような欲に捉(とら)われてはならない、ということが警告されています。このお言葉もやはりそうです。「私たちのこの地上の生活は消えてしまうわけです。私どもは、人生はそれでおしまいなのだ、と思う。見えるところは確かにそうであります。皆さんもこうやって元気にしていらっしゃいますが、やがて身体的、生理的な機能がストップしたり、心臓がストップして血液の循環がなくなってしまうと、私たちの細胞が動かなくなります。その状態を死といいます。すると、その人はもう終わりなのか? もし、それで終わりだったら、何のために苦労してあくせくしながらこの地上の生活を生きなければならないのだろうかと。いくら頑張ってみてもやがて終わって消えておしまい。日本人の古来からの考え方には、どこかそのような思いがあります。

 日本には古くから「神道(しんとう)イズム」というものがあります。「神道」という伝統的な神社の信仰がありますが、神道の根本は、結局は無です。いわゆる汎神論(はんしんろん)といいますか、すべてのものの中に命が宿って、それはやがて消えて、それが終わったらおしまいだ。自然界の営(いとな)みを見ているとそうです。木々が枯れて死んでしまう。あるいは動物はある年数生きて、それで死んでおしまい。そのような自然界の営みの中の一つとして人間も同じように、どういうわけか生を受けて、地上に肉体を与えられて生きて、やがて、何十年かしたら、人生が終わって、葬式をしておしまい。それで消えてしまう。この考えが根本にあり、それから先はもうない、無なのだ、という考え方。これが日本人のいちばん根底にある精神的な風土であると思います。

 また仏教などにしても、そうですけれども、根本的なところは死んでから先のことは分からないのであります。それはどうにもならないのだ、そこはないのだ、という考え方が根本にあります。ところが、仏教のお釈迦(しゃか)様はその無であることを悟ったのです。「では、極楽、地獄というようなものはいったい何なのだ」と言われると、それは本来仏陀(ぶっだ)の教えにはなかったことですが、日本へ伝承(でんしょう)されてくる、伝わってくるときに、大乗(だいじょう)仏教、小乗(しょうじょう)仏教と二つの大きな経路がありますが、その伝わってくる途中にあって、それぞれ土着のといいますか、その地方、民族が持っていた考え方がそこにくっ付いてきて、集大成されてきたのが後々の仏教、中国伝来の仏教というものだという。これは私が別に研究したわけではありませんで、仏教大学へ行っている一人の方が、私の所へ来て教えてくれたのです。その方は人間がどういうものかを調べたい、知りたいと思って、医学では到底測り知れない人間というものを研究したい、ということで、西南学院大学の神学部へ行きたかったのだけれども、入れてもらえなかったから、じゃ、仏教大学の通信課程に入ろうと、仏教大学へ行かれて、いろいろと調べられた。それで私の所へ「キリスト教の話も聞きたい」と言って来られました。私がキリスト教のことを話すのかと思ったら、何のことはない、ご自分が全部仏教の話をしたくて来られていました。私は随分いろいろと教えていただいて勉強になったのですが、その方が言われたことです。だから、仏教そのものも死んだ後の世界についてはあまりはっきりとしていない。

 更にその方は、キリスト教に自分が一つ魅力を感じるのは死後をしっかりと見詰めているところにある、ということを語っていました。彼は内科医ですから一生懸命に治療はするけれども、やがてどうしても身体的な治療には限界がある。やはり死というものに直面したときに、医者はどうにも手が出ない。後は信仰、宗教の領域がそこにあることを彼は知ったのです。そのためにそのような勉強を始めた。大学院に行っていましたから修士論文を書くために、いろいろな所へ調べに行っているのです。日本中のホスピスにいろいろなアンケートをとってみたり、あるいはタイにあるエイズ患者だけを集めるお寺さんの所へ行ってみたり、あるいはイギリスのホスピス発祥(はっしょう)の地の病院を訪ねたり、いろいろなことを努力して、その結果、仏教の場合は、どうしてもその行き着いたところの先は無だ。ところが、キリスト教にはもうひとつ復活、よみがえりということが語られているは大きな望みだ、と彼は言うのです。私はそれを聞きながら、自分自身がそういうことをあまり自覚していませんでしたから、目を覚まされる思いがしたのです。

 20節に「しかし、わたしたちの国籍は天にある」。これはまさに私たちのこの地上の生涯が終わったら、ゼロになる、無になるというのではなくて、私たちの国籍、私たちが本来おるべき所は神様の所、天にその国籍がある。誰でもそれぞれの国の国籍を持っております。国内にいるかぎりはそんなことは自覚しませんが、ひとたび海外旅行などでパスポートを持って出ますと、自分がどこの国の者か、国籍については非常に意識します。また、海外にいますと、やがて自分の帰るべき所はどこか、やはりふる里であり、自分の母国といいますか、国に帰ろう、という思いがあります。それと同じように私たちすべての者の心の中に、神様は、ふる里、天にある私たちの帰るべき場所を憧れる思いを与えておられる。と同時に、私たちにそのふる里に帰る魂、霊といいますか、そういうものを神様は私たちの内に置いてくださっている。このことを私たちは自覚しておきたいと思います。普段の生活の中ではあまり魂であるとか、霊であるとか、そういうことを自覚することはありません。しかし、私たちは肉体が存在しているから、それがすべてではないのであります。肉体があると同時にそこには自覚できない、神様から与えられたいのちがある。創世記に「命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(2:7)と。人が生きるのは神様の力、神様のいのち、霊によって、あるいは霊魂という言い方をしてもいいと思いますが、それが一人一人の心の内にあるのだ、ということです。これはどんな検査をしてみても、物質的な物ではありませんから、見えません。証明はできないのです。「だったら、ないのではないか」、「それはちょっとおかしいのではないか。分からないものがあるなんて言えるか」と。確かにレントゲンやCTで撮って見える、というようなものではありません。しかし、私たちの魂の中にそういう力といいますか、能力といいますか、それが備わっていることは確かです。どうしてそうだと言えるか。「伝道の書」に「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」(3:11)と語られています。神様を求める心、そういう願いといいますか、そういう力を与えておられるのだ、ということです。人はどうしても自分だけの力ではない、もっと大きな人を超えたものがあるに違いない。それを神様と呼ぼうと何と呼ぼうとかまいませんが、何か大きな人を超えた力があるものだ、と感じ取る心。それは知識や、何か勉強したとか、あるいは文明が進んだからそうなったのではない。人間のそういう文化文明といわれるものは確かに進歩しましたし、新しく次々と変わっていきますが、しかし、未開の、あるいはそういう文明が育っていない地区の人たちの中にもそういう神様を求める思いがあるのです。だから、いろいろな宗教ができるのは、まさにそこなのです。人が集まると、必ずそこで神様が造り出されるのです。なぜかというと、人間が弱いものであることを自覚し、それを超えた大きな力が働いて、いま自分の存在がどういうものであるかを知ります。その大きな力があって初めて自分というものが理解できる、あるいはそれを把握(はあく)できるのです。だから、人の心の中に「永遠を思う思い」、神様を求める思いがあるのです。ところが、多くの人々はそれが正しい、真の神様だ、と分からないから、いろいろなものを拝んでみたり、いろいろなことをします。しかし、何をするにしてもやはりそこに、魂というものが、渇き求めているものがあることは確かであります。その次にもう一つ言えることは、私たちの中にそういう魂、霊というものがあって、それによって私たちは神様を知ることができる、信じることができるのです。聖書を読んでそこから喜びを見出し、聖書のお言葉を通して望みを得ることができる。信じることができ、「本当に神様がいらっしゃるんだな」と、一瞬のひらめきのごとく私たちの心に感じるのは、私たちの中にそれを受け止める魂があればこそ、それができるのです。それがなければ私たちはそういうものを求めようとはしません。

よく世の中でサルであるとかチンパンジーであるとか、あるいはゴリラとか、人間の知能に近いものがいると言います。京都大学の研究によると、人間の3歳児位の言語能力がり、発音はできなくてもそれを理解できる。だから、人間と同じようなものだ、と言いますが、たとえそういう機能的な目に見える力がどうであれ、いくら人間に似たものであってもチンパンジーやゴリラは、神様を求める心はありません。万物の霊長といわれる人間と他の動物との大きな違いは、どんなに人間に似たものであっても、まだ未開で文明のない民であっても、やはり何かを恐れる思い、神を求める心がそこにあるのです。それが魂です。だから、皆さんも今こうやって神様を求めることができ、神様のお言葉を聞いて喜びを感じる。あるいは望みを与えられて、「そうだ」と目の前が明るくなっていくのは、私たちの内にある魂が目覚めて私たちに力を与えてくれるからにほかなりません。その魂は私たちの肉体が滅んだら共に滅ぶのかというと、そうではない。「伝道の書」にありますように「霊はこれを授けた神に帰る」(12:7)のです。地上の人生が終わり、命が消えるとき、肉体を脱ぎ捨てて、私たちの魂は神様のもとに帰っていく。これは確かなことです。だから、私たちはただ単にすべてのものが消え去るのではなくて、私たちは肉体を脱ぎ捨てて神様の所へ帰っていく。しかも、私たちは今こうやってイエス様のあがない、罪の赦しにあずかって神様の前に立つことができる者としていただいた。

これが20節の「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる」状態です。イエス様はやがてすべての終末の時、天も地もすべてのものが消え去るときがやがて来ると。そのとき再びイエス様はさばき主として、天からこの世に来てくださって、今度はすべてのものをさばくために来られる、と記されています。終末の時がやがて来るというのです。ではそれまで私たちはどうなるのかと? それよりも先にこの地上の生涯を終わったすべての者は、魂が神様の御許(みもと)に帰って、そこで終末の時まで眠りに就(つ)くと約束されています。

「コリント人への第一の手紙」15章50節から53節までを朗読。

51節に「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない」と。よく死んだ人のことを「永眠しました」、ながく眠ると言います。ところがここには、そうではないと。それはひとときの眠りであると。「終りのラッパの響きと共に」、これが先ほど申し上げました「終(おはり)りのラッパ鳴らん時 みな忽(たちま)ち瞬間(またたくま)に化(くわ)せん」とは、このお言葉です。やがて終末のラッパが鳴り渡るとき、この世が終わるとき、イエス様がもう一度さばき主としてこの世に来てくださる。その時には「またたく間に、一瞬にして変えられる」。その眠っていた魂は呼び覚まされて、栄光の姿に、キリストと同じ栄光の姿に私たちを造り変えてくださる。52節に「というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされる」と。私たちはやがてこの地上の生涯を終わって、眠りに就きます。私たちの魂は神様のもとにいて、そこで眠ります。それはほんのわずかな瞬(またた)く間、瞬間的なことであります。やがて「終りのラッパの響く時」終末の時、すべての魂は呼び覚まされると語られています。黙示録20章にもそのことが語られています。山で死んだ者は山から、海で死んだ者は海から、すべての所から大なる者も小なる者もすべての魂は呼び覚まされて神様の前に立って、いのちの書に名を記(しる)された者は永遠の御国に移され、そうでない者は第二の死に投げ込まれる。それは永遠の滅びだ、と記されています。それまで私たちは神様の御許でひとときの眠りに就きます。しかし、終わりのラッパの響くとき、すべての者はもう一度よみがえらされる。これが私たちの希望であり、望みであります。私たちは死んでよみがえるときが来る。そのとき、いま皆さんが着ているこの肉体をもってよみがえるのではないのです。今は、そのように願うかもしれませんが、考えてみたら嫌ではないですか。自分のこの顔を見て、これと同じによみがえって、またこの顔かと……。では、何によみがえるのか、そのことがその少し前に書いてあります。

「コリント人への第一の手紙」15章42節から44節までを朗読。

44節に「霊のからだもあるわけである」と、また「肉のからだがあるのだから」と言われています。今この地上にあって、私たちの魂は肉の体をもって生きている。しかし、この肉の体はやがて滅びます。そして「霊はこれを授けた神」、私たちの国籍である天に移されます。そのとき、新しいキリストの栄光のからだに似たものとなった霊のからだを与えられると。そのときはもはや誰彼という姿かたちではなくて「天の御使いのようなものだ」(マタイ22:30)とイエス様は語っておられます。その当時、長男に子供がなくて死んでしまったら、奥さんは次男、三男、四男と次々と再婚して、自分の家の家督(かとく)を継ぐものを作るという習慣がありました。サドカイ人は復活はない、と信じていたのですが、イエス様の所へちょっと因縁を付けに来たのです。「イエス様、ある人がいて、子供がなくて死にました。弟と結婚して、次男も三男も、ついに7人とも同じことになりました。今度よみがえったときにこの女の人はいったい誰の妻になるのでしょうか」と尋ねたとき、イエス様は「あなたは思い違いをしている。よみがえったとき、人は神の御使いのようなものであって、もはやめとったりとついだりすることはない」とおっしゃいました。いうならば、いま地上で人間の肉にあっての親子関係であるとか、孫とおじいちゃん、おばあちゃんとか、そういう関係はもはやリセットされるといいますか、消えてしまう。そして、すべてが霊のからだを与えられて神様に仕える民として、御国での永遠のいのちの生涯がそこにはじまる。このことをイエス様は「天の御使いのようなものである」とおっしゃいました。そして、「神は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼ばれた。神は生きている者の神である」と言われました。これは謎めいた言葉ですが、いうならば、アブラハムもイサクもヤコブも肉体は消えていまは死んだ、と言われているけれども、神様はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と言われているように、それぞれ神は生きた者の神であるから、いうならば、アブラハムもイサクもヤコブも死んだのではない、生きている。生きているから神様はアブラハムの神と呼ばれ、イサクの神と呼ばれる。そのようなことをイエス様はおっしゃっています。すべて死んだ者の肉体は滅びるけれども、死んではいない。その魂は神様の御許にひとときの休みを与えられ、やがて終りのラッパの響くとき私たちは栄光の姿に、霊のからだをもって、再び死ぬことのない者とせられる。これは私たちがはっきりとしておくべき大切な事であります。だから、私どもは霊によって生きる者、霊的なものとしてこの地上に置かれている。

初めに戻り、「ピリピ人への手紙」3章20節に「しかし、わたしたちの国籍は天にある」。私たちはこの地上に生きてはいますが、ここにいつまでもいる者ではない。国籍が天にあるとは、今ここは旅先です。私たちの帰るべき所は御国です。そして「そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる」とあります。なぜ待ち望むのでしょうか? これは終末の時、終りの時が早く来てほしい。それによって私たちは栄光の姿に造り替えられ、永遠のいのちの生涯に移ることができるからであります。私たちはいまイエス・キリストの救いにあずかって、永遠のいのちの生涯に既に入れられていますが、しかし、いかんせん、なおこの地上にあって肉体をもって生きています。その肉体を脱ぎ捨てて、霊のからだに造り変えられ、そして神と共に生きる礼拝の民としていただくこと、これが私たちの大きな望みであり、願いです。だから、その時の早く来ることを願って「主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる」。「いや、そんなに早く来られては困るわ。私はあれもしたい、これもしたい」と、後ろ髪を引かれる方もおられるかもしれませんが、しかし、こんな地上にいつまでものんのんと生きて、苦しみ悲しみ嘆(なげ)いて、どうなりますか? 明日が分からないのですから……。私どもは「黙示録」の最後に記されているように、「アァメン、主イエスよ、きたりませ」と待ち望みます。

以前、一人の兄弟はいつもお祈りするとき、「主イエスよ、すみやかに来たり給え」という一言を祈りの最初に絶えず繰り返しておられた方がいました。私はそのころ「どうしてこの人はそんなに早く来てほしいのか」と思いましたが、私も今はそのように思います。

主イエス・キリストが来てくださる。その時に、21節「彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑(いや)しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう」と。素晴らしい約束です。私たちがどんなに欠けだらけであり、できない者であり、足らない者であり、汚れた者であり、捨てられて当然であるような卑しい私たちのからだです。それすらも、ご自分の栄光の姿に、キリストと同じ、キリストに似る者へと私たちを造り替えて、神の御国の民に永遠に住まわせてくださる。この望みを絶えず持ち続けて、なお地上にあるかぎり私たちに神様が求め給う使命があり、果たすべき役割があるに違いありません。ですから、闇雲(やみくも)に「もう私は死ぬのだから、後は知らんよ」と無責任なことは言えませんが、しかし、いつまでもこの地上にいる者ではない。そして、やがて終わったとき、この肉体は脱ぎ捨てて、では、それでおしまいか、と言うと、そうではなくて、私たちの魂は霊のからだに造り変えられ、キリストの栄光の姿にまで私たちを新しくして、神と共に生きる生涯へ文字どおり、名実共に造り替えてくださる約束を信じて、今この地上にあって、その約束にふさわしく、その約束を望み見て生きる歩みをしたいと思うのです。

そうなりますと、いい加減な生き方はできません。私たちは御国に移され、そこで待ち受けてくださるイエス様に本当に喜ばれる、「善なるかつ忠なる僕よ」(マタイ25:21文語訳)と、受け入れていただけるように、与えられた地上の馳(は)せ場を主の御心に従い抜いて行きたいと思う。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。