キリストを食す

 「ヨハネによる福音書」6章60節から65節までを朗読。

 63節「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」。

60節に「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」と弟子たちがつぶやいたことが語られています。これは6章のはじめのほうから続いている話であります。

イエス様がガリラヤ湖畔(こはん)に集まった人々を五つのパンと二匹の魚で満腹させた驚くべき出来事がありました。その後、群衆は夕食を食べたということで、喜んで帰って行ったのです。ところが、その後またやってきました。「もう一度、またイエス様の所へ行こうじゃないか」と言って、イエス様を求めて来たのです。イエス様は、その奇跡が行われた所から向かい岸まで、ガリラヤ湖の反対側の方に来ていました。そこへみんながやって来る。そのときにイエス様が「あなた方は、わたしを訪ねて来たのか、それともパンを求めて来たのか」と、明らかに魂胆は分かっていました。「またイエス様の所へ行って、ひとつただ飯を食おうじゃないか」という気持ちで来たのです。そこでイエス様は「あなた方は朽(く)ちる食物のためではなく、朽ちない食物のために働きなさい」とおっしゃって、「イスラエルの民があの荒野の旅路を歩んでいたときに、どうやって養われてきたかを思い起こしなさい。そのとき、天からマナ、神様の食べ物をもってイスラエルの民は養われたではないか。わたしこそが、その命のパンであるよ」とおっしゃったのです。誠にそのとおりであります。イエス様はここでかつてイスラエルの民が経験したマナの具体的な出来事と、ご自身がこの世に来られたこと、これが深いかかわりのある事だと、語っているのです。それに続いて「その命のパンであるわたしを食べなければ」と言われる。それはそうです。パンを眺めていたって満腹しません。パン屋のショー・ウィンドーを眺めて、「サンドイッチがある」とか、「こんなパンがあるのか」と、見ていただけ、においだけでは、空腹になってよだれが出ておしまいです。食べないと意味がない。そのことをもう一歩踏み込んでイエス様が言われたのがこの52節以下です。

52節に「そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、『この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか』」と。イエス様が「わたしは命のパンである。わたしを食べなければ命がない。わたしを食べる者は生きることができる」と言われたのです。とんでもない話です。いったい自分のことをどう思っているのか。「自分を食べろ」なんて、どうやって食べさせることができるかと、つぶやき始めたのです。お互いに「何をイエス様は言われるのだろうか」となったとき、53節以下に「イエスは彼らに言われた、『よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる』」。これだけ聞いて「いい話を聞きました」とはならない。とんでもない話です。「わたしの肉を食べ」と、イエス様の肉を食べると、「どうやって食べるか」、「ステーキにするのか。すき焼きにするのか」と、それこそ「ベニスの商人」のごとく何グラムかに切ってそぎ落とすのか、そういう発想です。この言葉だけを聞いていると「肉を食べる」なんて「大変なことだ。生で食べるのだろうか、焼くのだろうか」と。しかもその後に「その血を飲まなければ」と、血を飲むなんて生臭い、聞いただけでもゾッとします。でもイエス様はそう言われる。「わたしの血を飲む者には、永遠の命がある」、ついその前には「わたしが命のパンである」と。パンならまだしも、「わたしはパンのようなものだから」という話ならば、「ああ、なるほど」と、パンはきれいですから、香ばしいにおいもするし「いいかな」とも思いますが、もう一歩踏み込んで直接的に「わたしの肉を食べよ」と言われる。こうなると「ちょっと付いていけない」と、みなそう思ってしまった。

60節に「弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、『これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか』」。「弟子たちのうち」とありますから、イエス様の周囲にはたくさんの弟子たちがいました。自称弟子という人たちも含めてだろうと思いますが、そういう人たちがその話を聞いて直接イエス様には言わない。イエス様に「どういうことでしょうか。その意味は何でしょうか」と問う人はいません。お互い同士が「聞いたかい、あの話を」「とんでもないことだ、聞いておられんよ、ひどい話だ」と、ぶつぶつとお互いで言っているわけです。61節に「しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに言われた、『このことがあなたがたのつまずきになるのか。62 それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか』」。この程度のことでガタガタ揺(ゆ)れているようではいったいどうなるのだ。わたしが天に携(たずさ)え上げられる姿を見たら、ましてやあなた方は「到底信じがたい」と言って卒倒してしまうに違いないというのです。その後の63節に「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」。ここで一つの問題があります。それは生きるということは何なのか?ということをイエス様は語っているのです。「人を生かすもの」、私たちが本当に生きるとはどうすることなのか? いまイエス様がたとえられたパン、あるいは肉にしろ、血にしろ、食べる物です。彼ら自身がイエス様に求めて来たのは前日にただ飯を食べた、満腹したという経験があるから来たのです。彼らの思いはもっぱら目に見える食料品、パンであったり肉であったり、あるいは魚であったり、そういう物があれば自分は生きることができる。これは世の中のすべての人がそうだと思うのですが、生きるためには食べなければならない。食べるためには稼(かせ)がなければならない。稼ぐためには仕事がいる。このように不景気になって仕事がなくなったら食べる物がないから生きられないと、生きることと食べることが、密接につながっている。またそれがすべてだ、と思っているのです。ところが、イエス様がここで言われるのは、私たちが本当に生きる者となる、いうならば、ただに肉体が健康であるとか、五体満足であるとか、生活に事欠かないとか、住む場所、着る物がある、生活環境が整っていることが、生きることなのか、それがここで問われているのです。

最近殊に感じる事柄ですが、私どもの住んでいる社会が大変恵まれた、物質的に豊かな社会となってきました。最近は物が売れない、という話がよく出ます。行き渡ってあふれているのです。先だってもあるテレビの番組をちょっと見ておりましたら、『草食系男子』とか、もう一方は肉食でしょうか、今の若者たちが変わってきてしまった。しかも、自分が生きていける範囲の仕事をしていたらいいのではなかろうか、余分なお金はいらない、住む場所があって食べられて、後はできる限り自分の自由な時間で趣味や、自分のしたいことができれば、それで満足だ。最近は車もいらない、あるいは残業までして働かなくてもいい、結婚もしないならしないでもいい、そんなややこしいことをして苦労をする必要はないと、自分独りで楽しく好きな音楽でも聴いたり、パソコンでもやったり、自分だけの世界、個の世界に生活する。それでいて孤独ではない。インターネットでいろいろな人とつながって、チャットといいますか、おしゃべりをする。それに時間を費(つい)やしている。最近は道を歩きながらでも携帯メールをやっている人がいますよ。かつては、今日よりも明日、明日よりもその先、もっと上を目指してと、上があったのです。ところが、今は上に張り付いてしまって、それ以上、上を目指さなくてもいいと。だから意欲がない。その典型がアメリカに留学する若者が減ってしまった。というのは、アメリカの大学とか研究機関は競争が非常に厳しい。ある意味で日本よりもよく鍛(きた)えますから、しっかり勉強しないとついていけない。そうなると、そんなに苦労する必要はないのではないか、だんだんと海外へ行く留学生が減ってきた。片や韓国や中国の若者が今ではたくさんアメリカへ留学するそうです。私はそのテレビ番組を見ながら、そこに集まった評論家たちも「このままだったら、日本は滅びるぞ」という話になりました。確かに今の日本の社会は物が豊かになり、生活するに困らない。欲を言わなければ、ぜいたくを求めなければ、そこそこに生活していくことはできる。そのような社会になって、生きる目的を失う。何のために自分が生きているかが分らなくなってきた。ここがいちばんの問題点です。
私は以前から今こそが実はいちばん人間にとって幸いな恵みの時なのだと思っています。私たちが戦後の何も物資のないとき、とにかく物が豊かになること、便利になることを願いました。井戸水が水道に変わったり、七輪やかまどで煮炊きしたものがガスや電気でできるようになったり、たらいと洗濯板でやっていたものが、洗濯機が出来たとき、うれしくて、洗濯機に付きっきりで眺めていた。その上、ローラーのようなものをグルーッと回して、洗濯物がせんべいのようになって出てくる。それだけでも手で絞(しぼ)らなくていいから、どんなにうれしかったか分からない。そのころは、一歩でも半歩でも豊かになることが生きることとつながっていた時代でありました。ところが、今はそれがないだけに、実は本当の意味で生きるとはどういうことなのかを考えるべき時に来ているのです。それまでは物を求めることにかき消されて、本来考えるべきことを後回しにして、ただひたすらに豊かなること、働いて、働いて、「教会なんかに行っている暇(ひま)はない」というぐらいに思っていた。ところが、今はいくらでも作ろうと思えば時間はある。それでいて物も豊かにある。今更自分はいったい何のために生きているのだろうか? だからこそ、今は救いに近い時代に入ってきたと私は思っているのです。それはまさに、生きるとはどういうことなのか、問われているのです。

63節に「人を生かすものは霊であって」とあります。これまで若いころから求め続けてきた生きることの目標は、何とか生活様式が変わるように、便利なものを手に入れたい、家を持ちたい、こんな生活が願いだということが目標になり、そのために努力する、そのために生きていくことを努(つと)めた。しかし、それが実は人を生かすのではないと、そこにあります。「肉はなんの役にも立たない」。肉というのは、まさにそういう物質的なもの、生活のいろいろな道具や仕組み、そういうものが人を生かすものではないのです。では、何が人を生かすのか? 「霊であって」とありますが、「霊」と言ってもよく分からない。それは、「創世記」の一番最初にありますように、私たち人が生きるのは、神様が「命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(2:7)と、このお言葉に尽きるのです。人が生きるのは神様からの命によって、神様につながることです。神様とつながって、神様の力によって生かされていく者と変わること、これが命です。私たちが神様と結びついて、神様との関係がきちんと整ったとき、初めて人は生きる者となる。創世記にあるように、人が造られて神と共にある、神様の命の息によって生かされて、エデンの生活が備えられました。しかし、そこから切り離されたといいますか、神様の前に人が罪を犯した結果、そこから切り離されてしまって、エデンの園から追放されました。これは人の不幸な悲劇の始まりです。エデンの園から離れてしまうことは取りもなおさず命を失ってしまったということです。私たちが生きる命を失って死んだ者となった。だから、「エペソ人への手紙」に「自分の罪過(ざいか)と罪とによって死んでいた者であって」(2:1)とありますが、誠に私たちは死んでしまって、何で生きていたかというと、いま申し上げましたように、肉の力で肉にすがって生きていた。食べる糧(かて)のパンであったり、あるいは着る物であったり、生活の場です。それによって生きてきた私たちであります。ところが、先ほど申し上げたように、いま私たちの社会はそういうものを求めなくてもいい程にあふれかえるばかりになってしまった。今は当惑している。人は何のために生きているのだろうか? 何が私を生かしているのだろうか? そこでもう一度立ち返らなければならないのが、神様に帰ることです。私たちが神様との関係、神様の前に人がどういう者であるのか?いま私がこの地上に生きている、この生かされている目的が何なのか? 自分が求めるべきものは何なのか? 私に命が与えられているのは何のためなのか?を知る。その道は神様に私たちが結び付かなければ知り得ない。神様のもとに立ち返って、神様の霊に満たされる。いうならば、神様からの力を私たちが頂く。そのためにイエス様はこの世に来てくださったのです。神の御子でいらっしゃるイエス様が、神の位を離れて、敢(あ)えて人となってこの世に来てくださった。十字架にご自分の命を捨てて、私たちの罪のあがないの供え物となってくださった。今そのイエス様の十字架のあがないを信じる私たちは、神様の前に罪を赦され、義なる者として認めていただく。そして、今度は神様との関係をもう一度回復していく。これが私たちの生きるためのまず大前提です。生きることの根本はそこにあるのです。だから、いま私たちは神様の霊によって、神様から注がれる力を日々受けて生きる者です。だから、イスラエルの民が荒野の旅をしているとき、神様は天からのマナをもって養ってくださいました。具体的にはそれは食べるパンで、口に入れる肉体を養う物ではありましたが、実はそれはただに肉体を養う、彼らがおなかがすいているからそれを満たしてやろう、という目的ではなくて、人が誰によって生かされているかを明らかにする事だったのです。神様はイスラエルの民を何もない所で40年にわたって日ごとに朝ごとに、新しいマナを与えて養い育ててくださった。今はイエス様が私たちのマナとなって天から下ってくださった。そして私たちを養う御方となっている。

ですから、63節に「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」。いま私たちは神様からの力、霊によって生きる者となること、これが私たちの命です。神様に結び付いて、神様の罪の赦しにあずかって神様と親子の関係、父なる神様、神の子としての関係に立ち返ること。そして、神様から日ごとに頂く神様の霊に私たちの魂が養われ、潤(うるお)され、また満たされて、神様が私たち一人一人に与えてくださった生きる目的にかなう者となることです。これが私たちの生きる喜びであり、また生かされていく目的でもあります。

私たちが年を取ってきて、体が言うことを聞かない、肉体のあちらこちらが満足に動かなくなる。そうすると「何のために私は生きているのだろうか。思うように事も進まないし……」と嘆きます。家内の母がいま介護施設にお世話になっていますが、だんだん年を取ってくると食べる物もいろいろと制約をされます。殊に義母(はは)は胆のうを取っていますので、胆汁の流れの問題もあり、脂(あぶら)っこい物を食べてはいけないとか、甘い物を食べてはいけないとか、糖尿病にならないためなど、制限を受けます。介護施設の方々は、いろいろと気を使ってくださる。義母に「それはだめですよ、こうしなさい」と言われる。ところが、義母は食べたくて仕方がない。施設で食事もおやつも出してくださるのですが、どうもそれだけでは物足りない、あれも食べたい、これも食べたい、果物も欲しい、ぼた餅も食べたいと、いろいろなことを言う。それまで私どもも言われるままに、可哀想だからと思って持って行きました。そうしましたら去年の夏ぐらいから体調をくずして、一カ月ほど入院するはめになった。その原因はやはり食べ過ぎる。それでまた食事制限をされてしまった。外出も禁止になったのです。というのは、外出するとつい食べたくなります。あるいはおやつを買いたくなるのです。デパートにでも連れて行ってやると喜びますから、連れて行ってやりたいのですが、施設の方が「もうしばらく、やめておいてください」と言われるから、お従いする。それが我慢ならない。自由がないと言う。とうとう義母が「こんなに食べられないなら、死んだ方がまし」と憤慨する。
ともすると、そのような思いになるのです。あれもできなくなる、これもできなくなる。「こんなんだったら、死んだ方がまし。生きていて何の価値があるか」と、皆さんでも一度や二度ならず思ったことがあるでしょう。では、本当に生きるとは、食べたり飲んだり自分の思いどおりに体が動くから、そのために生きているのか?そのために生きているのでしたら、それができなくなったら生きている意味がなくなります。ここが大切なところです。私たちは生きる目的、あるいは生きる動機といいますか、エネルギーをどこに置いているか。私はこのことをするためですとか、こうなるためですとか、このような自分でありたい、そうなるために生きているのだ、というのなら、ただそれだけならば肉の事です。いわゆる目に見える条件が整ったら、もう生きる意欲を失う。まさに日本の社会のように、戦後の60年ぐらい前の焼け野原で何にもない、無一物になった中から次か次へと物があふれる時代になってしまったら、もう生きる目標がない。働く意欲を失う。生きていても仕方がない。どこに目標を置いているか。実は私たちが食べたり飲んだり着たり、生活すること、それはあくまでも付録(ふろく)です。イエス様は「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ6:33)と言われます。「これらのもの」とは「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようか」と「体のこと」とです。ところが、その付録を私たちは一生懸命に求めて、肝心の本体のほうをおろそかにしてしまった。それが今の私たちの社会であり、私たちの置かれているところです。私どももそれに引きずられて、そういう生き方に倣(なら)ってしまいやすい。そうすると「今日も一日何もすることもないし、サンデー毎日、どうするか」なんて、退職はしたし、朝起きるなり、このまま寝ておこうかと、昼ぐらいまで寝ていて意欲がなくなる。それは目標としているものが消えてしまうからです。だから「肉はなんの役にも立たない」、人を生かすことができないのです。

では、何が人を生かすのか? 「霊であって」と、その霊というのは何かというと、その後に「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」。イエス様の言葉、言い換えると、神様の言葉、聖書の御言葉を通して、私たちの内に、魂に注がれてくる命、力、神様と結びついて交わること、これが実は生きる命なのです。毎朝、神様に祈り、御言葉を通して心と思いを神様に結び付けて、「今日すべきことは何でしょうか」「神様、あなたが今日私に求めておられることは何でしょうか」、私は神様によって生かされている者であることを絶えず認めて、そこで神様の備えられた業、私たちに求められていることを今日も果たしていく。それが終われば、神様の使命が終われば、私たちのこの地上の生涯は終わって、神様の御許(みもと)に帰って行く。神様と私、霊の交わり、神様から頂く命と力に絶えず生かされていくこと、これこそが人の生きることなのです。

ですから63節に、「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」。そして「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」。イエス様のお言葉、聖書のお言葉、神様のお言葉を一つ一つ心に抱いて、それを自分のものとしていく。だから、イエス様は53節に「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」と言われたのです。私たちはいろいろな物を食べます。今朝も皆さん、朝食をなさったに違いない。和食であるか、パンであるか、食べたら食べた物は形がなくなります。そして私たちのエネルギー、力になるでしょう。食べたものは消えてしまうのです。取り出そうとしても取れません。食べた物というのはそういうものです。だから、イエス様は「わたしを食べなさい」という。イエス様のお言葉を私たちが食べるのです。覚えなくてもいいのです。私たちがイエス様のお言葉を絶えず、繰り返し読み味わっていると、気がつかないうちに忘れてしまうでしょう。ところが、忘れてしまっても、その御言葉が私たちの心の奥深くに溶け込んで、自分の語る言葉や手の業や足の歩む一つ一つの歩み方の中に現れてくる。食物によって健康になったり、あるいは体をこわしたりします。それと同じでイエス様のお言葉をしっかりと味わって身に付けることです。どこにそれがあるか分からないけれども、何か違ったものに私たちを造り変えてくれる。これが食べた結果です。

だから、私たちは常に霊によって生かされていく。神様のお言葉、イエス様が話してくださったお言葉を心に絶えず置いていくことです。ここにあると分かっているのも幸いですが、忘れてもいいのです。そのうちにそれが体の中から形を変えて、エネルギーとなって、力となって、私たちの行動に、具体的な歩みのなかに現れてくる。いつもイエス様と一つになっていくこと。「わたしの肉を食べ、血を飲む」とは、そのことなのです。イエス様といよいよ一体になってしまうこと。どこがイエス様でどこからが私だなんてない。一つになっていくこと、これが私たちの生きるための大切な力です。そして人を生かす霊がとどまってくださるのです。

「私は記憶力が悪くなって」とおっしゃいますが、それでも構わないのです。聴いていること、聴き続けて行くことが大切です。だから、こうやって集会に出てメッセージを聴くことも大きな力です。何を聴いたか玄関を出たらポロッと忘れても構わないのです、ちゃんと残っていますから。だから、繰り返し聴いて心に蓄えていく。普段の生活の中でもテープを聴いたり、あるいは説教プリントを読んだりして、常に御言葉に接しておりますと、何か事があったとき、あるいは何かしようとしたときに、その御言葉が力になり、また進むべき道を教えてくれる。知恵を与えてくれる。「なる程こういう道を神様が備えてくださった」、思いもかけないことを神様はそこから私たちの内に働いてくださる。まさにこれが人を生かしていくのです。だから、神様との交わりをまず第一にしっかりと築いていくこと。これが人の命です。

63節「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」。私たちは生活のあれを整え、これをして便利なように、こうなるようにと願ってきた人生でしたが、いま私を生かしているものはいったい何なのか? 自分は何によって生きているのか? このことをしっかりと自覚して、イエス様を食べ、飲み、そして、自分のものとしておきたい。キリストと一つになって、これはパウロも「キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」(ピリピ 3:9)と言っていますが、私どもも徹底してイエス様と一つになるまで、肉を食べ、血を飲もうではありませんか。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。