神様の家に住む

「詩篇」84篇1節から12節までを朗読。

 4節「あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人はさいわいです」。

 私たちが「救われて良かった」と言うとき、その「良かった」という理由はどこにあるでしょうか。イエス様を信じて「心の平安が与えられた」「心配事があるとすぐにお祈りができるようになった」あるいは「事情、境遇、いろいろな悩みが解消した」と、様々な良かったことを探せばいろいろと出てくるに違いありません。しかし、神様が私たちに与えようとしてくださった最高のプレゼントはこの詩篇に歌われていることです。その中心は4節「あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人」です。神様が私たちに与えてくださる最高の祝福と恵みは、主が私たちと共におられることです。

メソジスト派の始まりとなったジョン・ウェスレーという人は亡くなるとき、「あなたの生涯にとっていちばん良かったことは何ですか」と尋ねられ、「神、我らと共にいます、これ最も善きことなり」と言い残したそうです。「これだけの事業ができて良かった」「こんな家族がいて良かった」とは、一言も言わない。彼はそのとき、既に大きな教団の創始者であったわけですから、誇(ほこ)ろうとすれば、「こんなことができた」「あんなことができた」と言えたと思います。ところが、彼は人生の最後にあたって「神様が私と共におられること、これ以上の幸いは私にはなかった」と。どうでしょうか?これがいま私たちに与えられている最高の恵みなのです。ところが、なかなかそれが恵みだ、と思えない、感謝できないでいる。それは私たちがいつも事情や境遇、事柄に心が捕らわれているからです。

1節に「万軍の主よ、あなたのすまいはいかに麗(うるわ)しいことでしょう」とあります。神様のすまい、と神様の住んでいらっしゃる場所、それは天国ではないだろうか。神様の国だから余程豪華なきらびやかな神殿、そういう建物、そういう豪華マンションに住みたいな、という話ではない。すまいがいと麗しいというのは、そこに住んでいる御方なのです。求めているのはそのことです。だから2節に「わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌います」と。神様にいちばん近いところにおりたい、その住まいが素晴らしく見える。そこに神様がいらっしゃるから、あなたの住まいだからです。他人から見たらぼろ家であるかもしれない。何の変哲(へんてつ)も魅力(みりょく)もない建物であったとしても、そこに主がいること、これがそこを麗(うるわ)しいものと、素晴らしいものとしているのです。だから、1節「あなたのすまいはいかに麗(うるわ)しいことでしょう」と、神様の住んでいる所はそんなに豪華なマンションなのか、という話ではない。麗しいというのは、神様が住んでいるから、そこに近づいていたい、そこは本当に素晴らしい所なのだ、とたたえているのです。ですから、2節「わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌う」と。身も心も全身全霊をもって神様を褒(ほ)めたたえ、感謝賛美する。神様が私たちと共にいてくださることを味わうなら、それ以上の喜びはない。だから2節「わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い」と、神様の住まいにある大庭、これは神殿のこと、恐らくこのイスラエルの人々はそのとき神殿の前庭(まえにわ)のことを想像したに違いありませんが、いうならば、それは神様の住み給う場所、「神の臨在」という言葉を使いますが、そこにとどまる、ということです。神と共に生きることがこの詩篇の記者にとっては最高の恵みだ、と感謝賛美している。3節「すずめがすみかを得、つばめがそのひなをいれる巣を得るように、万軍の主、わが王、わが神よ、あなたの祭壇のかたわらにわがすまいを得させてください」。素晴らしいですね。わがすまい、いうならば、私が常に住むべき場所をどこに置くか。ここに「すずめやツバメがすみかを持つように」、どこにか? 「あなたの祭壇のかたわらに」、神様を褒めたたえるその場所の真っただ中に自分を常に置く者としてください、ということです。絶えず主が共におられ、主が私のそばにいらっしゃることの喜び、これは本当に素晴らしいことです。何が無くても、何の楽しみがなくても、生活状況がどうであっても、主が私と今ここに共にいてくださる。そして、その主と交わりを持ち、主の慰(なぐさ)めと力をいただき、感謝賛美して主を褒めたたえることができる。これが実は私たちの最高の救いの恵みです。ところが、「それはそうだろうが、取りあえず、あれが欲しい、これが欲しい。ああなってほしい。こうなってほしい」と求めます。

しかし、詩篇の記者は4節「あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人はさいわいです」と告白しています。「あなたの家に住み」、いうならば、「祭壇のかたわらにわがすまいを得させてください」。神様の神殿、「祭壇」は神様に礼拝をささげる場所です。そこに自分が常に住むことは、神様の住まいの中に自分が絶えずとどまることでもあります。詩篇の記者はこれを喜び求めているのです。常に神様を褒(ほ)めたたえ、賛美し、神様との交わりを絶やさない、欠かさない生活。これは私たちに神様が与えてくださった最高の恵みです。自分に与えられている恵みが何であるか? それを本当に恵みとして味わっているかどうか、点検しておきたいと思います。もし、そうでないならば、是非そのことに心を向けていただきたい。4節に「あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人はさいわいです」とありますが、幸いは神様を賛美し褒めたたえることができる。ところが、現実の私たちの生活は「あれはどうなるだろうか」「これはこうなるだろうか」「ああなったら嫌だな、こうなったらいいのだが」と、様々な思いに心が振り回されて「神様を褒めたたえる」ことが消えていく。今、目の前のこのことのなかにも、この問題のなかにも、神様がいらっしゃる。その主に触れることです。主に出会うこと、これなくして私たちは救いの恵みを体験することができません。

また、5節に「その力があなたにあり、その心がシオンの大路にある人はさいわいです」とあります。私たちの力が「あなたにあり」とあります。「神はひとたび言われた、わたしはふたたびこれを聞いた、力は神に属することを」と詩篇 62篇に歌われていますが、私たちに力はありません。肉の力は本当に限りがあります、弱いものです。知恵も力もありません。しかし、私たちの力の源(みなもと)となってくださる神様が絶えずそばにいてくださるならば、これは鬼に金棒です。決して「弱い」とか「力がない」と嘆(なげ)くことはいらなくなります。だからパウロはそう言っています。「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ4:13)。私は弱いけれども、足らないけれども、しかし神様が私の力なのだから、この神様と共におりさえすれば、神様は必要な知恵も必要な力も必要な物もどんなものも満たしてくださる。その代わり、神様がそれは必要がない、と言われれば、「貧に処する道を知っており、富におる道も」、弱きにも強きにもどんな状況にも、どんな境遇にも耐えることができる力を神様は与えてくださる。これは本当に何の障害もないといいますか、妨(さまた)げるものがありません。私どもは、どうでしょうか?日常生活を考えてみますと、「あれがないから駄目やろうな」「これがないから無理に違いない」「これはもうこのくらいのものかもしれない。あきらめておこうか」と言いながら、いろいろなことで心を閉ざしてしまう。「この扉も無理」「ここも開かない」と。ところが、神様はすべてのことで私たちを強くすることができ、どんなことでもおできになる御方です。だから、失望することはいらない。また嘆(なげ)くこともいらない。ここからどのように神様は用いてくださるか、導いてくださるか、道を備えられるか、絶えず主に期待していくことができる。それがこの「その力があなたにあり」ということです。私の力は私にあるのではなくて、神様が握っていてくださる、与えてくださる。だから「汝の能力(ちから)は汝が日々に需(もと)むるところに循(したが)はん」(申命記33:25文語訳)と申命記にありますが、あなたの力は日々あなたが求めるところによって、神様が与えてくださるのだ。私どもは自分の力だけで何とかやり抜こうとするから、できないことだらけになる。オールマイティーの「できないことがない」とおっしゃる御方が、私たちに力を与えなさるのでありますから、その力を握って立つ。こうすれば、私たちはどんなものにでも打ち勝って、勝利していくことができます。

まさにイエス様もそうでありました。イエス様も決して強い御方ではありません。スーパーマンではありません。「ヘブル人への手紙」に「 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである」(4:15)とあるように、ご自身が弱いものであることをご存じでした。だからこそ、絶えず父なる神様に求めざるを得なかったのです。福音書を読みますと、イエス様は事あるごとに弟子たちから離れて、父なる神様の御許(みもと)に行って祈り、神様の力を頂いて踏み出して行くのです。ゲツセマネの園で祈っているように、目の前に自分の死が迫(せま)ってきて、力のないご自分であることをイエス様は痛切に知っていました。恐れと不安と悲しみに沈んでおられたのも事実であります。しかし、繰り返し祈って神様の力に満たされたとき、「立て、さあ行こう」(マタイ 26:46)と、大胆に踏み出して十字架の道すらもいとわないで神様に従って行く。これが私たちに与えられている恵みであります。神様は私たちと共にいてくださる、主が常に私たちと共に住んでくださる。

だから4節にあるように「あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人」、常に神様の家に住むことです。それを体験することはどんなに大きな恵みであるか分かりません。6節に「彼らはバカの谷を通っても、そこを泉のある所とします。また前の雨は池をもってそこをおおいます」。「バカの谷」とは、日本語で考えますと「バカの谷」って、私のことかしら、と思ったりして、これは地名でありますから、恐らく何一つない荒野の中の谷間、谷底であるに違いありません。「そこを泉のある所」、池をもって神様はその潤(うるお)いのない、干からびて乾燥しきった谷間である、その「バカ」と言われるような所ですらも水があふれ、池に覆(おお)われる場所に造り替えてくださる。

私はこのように牧会伝道していますと、いろいろな方々がイエス様のこの恵みにあずかって、バカの谷が泉のある所に変わっていく様子を見ることができます。人生に疲れて、自分の心がズタズタになっている者が本当に変わって、潤いに満ちたつややかな生活を営む姿を見ていると、誠に神様は力あるわざをなさる御方だと思う。

一人の兄弟のことを私はいつも忘れませんけれども、その兄弟は自分の性格的な問題で戦いの連続だったのです。次から次へとズーッと十数年になりますか、それはもう具体的にいろいろなことがありましたが、彼はそのようにいろいろと迷っているなかでも、常に神様を求め続けたのです。不思議なように神様はその兄弟を憐(あわ)れんでくださって、今は生活も安定して、神様を感謝賛美しています。昨日も彼から葉書をもらいましたが、喜んでいる姿を見て、本当に神様はすごいな、と思う。バカの谷を泉のある所と変えてくださいました。たびたび私にいろいろなことを訴(うった)えてきたことがあります。また、彼と激しく言い合うこともあったのですが、どういうわけか神様から離れない。生活が落ち着いたという以上に、彼の魂が神様と共にあることの喜びを味わっておられる。それに対して神様は報いてくださっている。具体的な生活でも不思議としか言いようのないことの連続でした。まさに神と共にある生活、これを絶えず求め続けていくことがすべての問題の解決でもあるし、またそれこそが私たちの喜びであり、恵みなのです。

10節に「あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守(かどもり)となることを願います」。素晴らしい……、「あなたの大庭にいる一日」、神様の間近な臨在のなかで一日を過ごすならば、それはどんな月日にも比べられない最高のものだ、と歌っている。「よそにいる千日」、神様の臨在を離れてどんな恵まれた生活があろうとも、それはむなしい。ただ神様のそばにいること。それから「悪の天幕にいるよりは」、この世に付ける生活、悪の天幕というと、何か罪の世界と聞こえそうですが、確かに、世間とはそういうものです。神様を認めない人の欲得、情欲の渦巻(うずま)く世界であります。そういう所にいるよりも「神の家の門守(かどもり)となる」、いうならば、神様の近くに、少しでも近くに、たとえ祭壇の傍のように神様の間近でなくても、神の家の門守、いうならば門番、番人となることでも幸い、それだけでもいいと。それでも神様のそばに少しでも近づくことができる恵みこそが私のものだと歌っています。

実はこの御言葉は私にとって忘れられない御言葉の一つです。といいますのは、この4月で献身して25年になりますが、今そのときのことを、またそれからのことをズーッと振り返りますと、「ここまで神様は恵んでくださった、導いてくださったなぁ」としみじみと思います。それと同時に「どういう所から救い出されてきたか。どういう導きを経(へ)て今ここにあるのか」ということを自分自身深く教えられ、また「今ある自分は本当にその主のご期待に応(こた)えられているだろうか」という深い反省を迫(せま)られます。

たびたび皆さんにお証詞しているとおりですが、献身に導かれて、そのころは大学で教えていましたので、このまま続けていくべきではない。本当に神様が私に求めているのは「あなたは、わたしに従ってきなさい」という、「ヨハネによる福音書」21章のお言葉を……、「あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」と問われたのです。「主よ、あなたを愛します」と言いながら、自分の好きなこと、自分の勝手なことばかりを求めてきた人生であった。しかし、神様は耐えに耐え、忍耐に忍耐をもってこの時を待ってくださったのだ、と痛切に教えられたとき、もう何にもいらない。ただ主と共にある生活、これが私にいま神様が与えようとしてくださる恵みであることを教えられました。その時に与えられた御言葉がこの10節です。「あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです」。まぁ、それは大学に勤めて地位も名誉もあり収入もあり、ファッショナブルな生活ができたでしょうが、しかし、そんなことよりも何よりも「主の大庭にいる一日」、本当に神様の臨在にぴったりくっついて、一つとなって生きることができる、それが一日であったとしても、これに勝(まさ)る喜びはない。このことを深く教えられます。そして、その後に「神の家の門守となることを願う」。そのとき「自分はこの仕事だ」「これは私の天職だ」と思って勤めていたわけですが、考えてみたらそんなものは誰だって取って代わられるわけです。私よりも能力の豊かな人はいくらでも掃(は)いて捨てるほどいる、私が辞(や)めたからといって、その学校がつぶれるわけじゃない。偉そうに私は何がしかの値打ちがあって「私がいなければこの教育は成り立たん」と自負(じふ)しておったのですが、ふともう一度考え直してみると、いま私にとって何が大切か? 神様が私を必要としてくださっている。それどころか、私にとって神の家に住む者として、たとえそれが門守であろうと下足番であろうと、主と共にあることのほうが幸い。これはまことに「そうだ」と、私の魂に痛切に刻(きざ)まれたお言葉なのです。それ以来、今振り返ってみて、では、本当にそのことを自分は喜びとしてきたか? この25年の生涯を振り返ると、「まだまだ主のご期待されるところには及ばない自分である」ことを思います。しかし、そんな者を主はなお憐(あわ)れんで、このように用いていただけることは何よりも幸いなことであります。そして神様は私と共にいてくださいました。

それから仕事を辞めまして、3月の末であったと思いますが、この八幡に来たのです。3月24,5日であったと思います。そして3月の最後の聖日にこの場所で献身式をしていただきました。その次の日に私どもは福岡へ遣(つか)わされたのです。4月の第一の聖日に福岡で今度は「実務担当者」という、そういう名前を急きょ付けられました。何と説明していいか分からんだろうから人に説明しやすいようにそういう名前をくれました。そこで初めて見も知らない、西も東も分からない福岡に家内と二人放り出されてしまったのです。しかし、それは誠に幸いな、まさに「神の家に住む者」としていただいたのです。文字どおり私どもは朝に夕に絶えず主と共にある恵みのなかに置かれて、今もそうでありますが、皆さんもご存知のとおり福岡の教会は2階が私どもの住まいでありますから、出かけるときは必ず会堂を通ります、「主の大庭に住む」どころか、主の中に住んでおりまして、それは形ですが、大切なのは心だと思うのです。主が私と共におられると信じるとき、たとえ体が教会になくても、「主の家に住むものは幸いである」と言えます。

いつでしたか昔、父がこの御言葉でメッセージを取り次ぎましたら、集会が終わって牧師館に訪ねて来られた方がありました。「先生、今日はいいお話を聞きました。『あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人はさいわいです』と言われました。先生が、主の家に住む者となれ、とおっしゃいましたから、今日から先生の所へ住まわしてください」と言われて、私どもはびっくりして「いや、そういう意味ではない」と、お引取りを願ったことがありましたが、そのような目に見える形での教会に住むとか、家に住むのではありません。常に主を前に置き、主と共に生きる生活です。

ブラザー・ローレンスという一人のカトリックの修道僧がいました。彼が書き残した『敬虔の生涯』という一冊の本、書き残したのではないのですが、後にある人がそれをまとめたのでありますが、ローレンスは体が弱くて不自由なところもあったのです。しかし、彼はイエス様のご愛に感じてといいますか、感謝感激して献身修養の生活に入りました。ある修道会に所属することになったのです。彼はそこで常に神と共に生きる、ということを自分の生活の身上にしたのです。どんなときにも、私は神様のことを常に心に覚えていく。そのことを彼が話したことを記録したものがまとめられていますが、1600年代の人でありますから随分(ずいぶん)昔の方です。その方は40数年修道僧として勤めましたが、彼は生涯台所で神様に仕えました。どこにあっても私は主と共にあるのだ、自分の生活のなかにそこに主が共におられるのだ、ということを証詞した生涯です。だから、彼が語っていますが、密室の祈りの時間も幸いだけれども、自分にとってそのように静まって特別な時間を作ることと、それでない時間と何の違いもない、ということを言っています。私は台所で何かしている作業のときでも、いつも主のことばかりを思って、主を褒めたたえ感謝して、主を思っているから、殊更(ことさら)に「この時間だけ神様に近づいてという思いはありません」と語っています。そして、愛に応(こた)えることを努めていく。神様の愛のゆえにこのことをさせていただくのだ、神様が愛してくださったから、私はこのことをさせていただくのだと、与えられる一つ一つの勤めを神様のために、主のために、どうやったら神様が喜んでくださるだろうか。どう言えば神様はそれを喜んでくださるか、そのことばかりにいつも心を向けているから、いつも主と共におることができるのです、と語っています。あるとき、彼はその修道院で使うぶどう酒を仕入れにいくことを命じられたのです。彼はそんなことをしたことはないし、大変な作業です。遠くの生産地に行ってかなりの量のものを仕入れてくる。その交渉をし、値段を決め、その運搬の手はずを整える。しかも彼は足が不自由なところがあって長旅には到底耐えられない自分であった。しかし、主が私を愛してこのことを求めておられるなら、主に応えていきたい。そうやって自分の身はどうなっても構わないからと、祈って出かけました。すると、何とあれよ、あれよと、思いもかけない形で全部滞(とどこお)りなくその使命を果たし終えたのです。これはもう私ではなくて私と共にいらっしゃった神様がこのことをさせてくださったと思って、ただ感謝するだけです。そのような証詞を語っています。

「あなたの家に住む」とは、ただジッとしているのではない。生活のただ中で共にいてくださる主を見上げて、主のご愛に応答していくこと、このことを努めていくとき、主が私と共におられますと心から味わい知ることができます。

だから4節に「あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人はさいわいです」。絶えず神様を感謝し褒めたたえ、そして、また神様のご愛に何としても応えて、こんな者を愛してくださった主をどうにかして喜ばせたい。神様に喜ばれるものとなりたい。それはどうしたらいいのだろうか、何をすることなのだろうか、と絶えず思い巡(めぐ)らしていくとき、神様と共にあることを体験することができる。これがローレンスの語っている言葉でもあります。私たちも「あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人」、「その力があなたにあり、その心がシオンの大路にある人」、神様に常に心を向けて、主が私と共におられる、というこの恵みを味わい知りたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。