殻を破り捨て…

 「ヨハネによる福音書」12章20節から28節までを朗読。

 24節「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。

これは皆さんもよくご存じのお言葉であり、クリスチャンでない世間の多くの人々でもよく知っています。ここに「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである」と語られています。どんな種でも土の中に埋めてしまわなければ芽が出ません。形がよくて、色が気に入って、大切に取っておくならば、それはいつまでも増えません。一粒のままであります。種は何百年たっても変らないケースがあります。だから、大切な物だと厳重に保管していても、そこからは何一つ生まれてこない。では、どうするか。その種を土の中に埋めてしまう。いうならば、土に捨ててしまうようなものです。穴を掘ってじめじめした暗い中に埋めてしまうのは、嫌なことであり、「そんなことをしてどうなる?」というような事態、事柄です。だから「いや、それよりもこの形のままのほうがいいのではないか」と、そのまま置いておけば良さそうですが、それでは増えない。これは大原則です。とにかく嫌だけれども土の中に埋めてしまう。ここに「一粒の麦が地に落ちて死ななければ」、「しかし、もし死んだなら」とあります。「死ぬ」ということです。「じゃ、種が死んでしまったら元も子もないじゃないか」と思いますが、種の中に命が隠されています。「死」という言葉から、種をすりつぶし、燃やしてしまうことを連想しますが、ここでいう「死ぬ」とは、一つのたとえです。種を焼いて、粉々にしておしまいになることではなく、いうならば、自分という殻(から)、種という身分、それを離れて、地面の中に自分を置いてしまうことです。そうすると、やがて湿(しめ)り気と温度とによって分解が始まります。土の中に埋めた種を何週間かして掘り出すと、種に形や殻はありません。そこには新しい根が生えて、小さな芽が出てくる。それはもう「種」とは言えません。別の物に変わってしまう。やがてその根はドンドンと伸びて深くなり、芽は出てきて地表に現れる。それは大きな木になるかもしれない。また麦の種は麦の穂になるでしょう。稲は稲の穂になるでしょう。そうやってどんどんと新しい命が芽生える。やがて、一つであったものが何倍にも増えます。一粒の稲から出た芽がやがて秋になるとたわわに実って、一本の茎から何百となく新しい物が生まれてきます。いつまでも一つのままにしておくと、もうどうにもならない、増えません。だから、土の中に埋めてしまうこと、自分の状態が変わってしまうことです。自分を捨ててしまうことです。

この記事は、イエス様が十字架の御苦しみをお受けになる「過越の祭」のためにエルサレムに来られてからのことです。ご自分がこれから受けようとする事の意味、そのことをたとえてお話になったことでもあります。一粒の麦とは誰のことか?これは取りも直さずイエス様ご自身のことです。このときイエス様はご自分が間もなく捕らえられ、さばかれ、十字架にかけられて命を失うことを既にご存じでありました。

27節に「今わたしは心が騒いでいる」と語っています。「心が騒いでいる」、何か心配事でもあったのか。あったどころじゃない、大ありであります。ご自分の死を知っておられました。イエス様はこの日この時、この事のために、この世に遣わされているので、「大丈夫、何の心配もない」と言われたのではない。私たちと同じ肉体を持って、弱い者となってくださったイエス様は、恐れ、不安、そういうものを十分にご自身が感じておられました。そのような中で、ご自分のことを語った言葉が24節以下であります。一粒のままで、弟子たちと共に過ごせるならば、それが願わしいに違いない。しかし、そうであるならば新しいものは生まれてこない。だから、どうしても「一粒の麦が地に落ちて死ななければ」、「もし死んだなら」と、死ぬということがどうしても不可欠であります。その後、25節に「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう」と言い換えられていますが、その一粒の麦のたとえを25節では「自分の命を愛する者」と言い換えられています。私たちが自分の命を愛する、自分というものを大切にする。このときの命は、ただに肉体が健康であるとか、心臓がきちんとうって血液が循環してどこにも病気がない、健康である、命があるという意味ではありません。もちろんそれも含まれるでしょうが、この場合の命とは自分にとって掛け替えのないもの、これは譲(ゆず)れないという大切に思っているもの、それを「命」といっているのです。ですから「命を愛する」とは、どうしても捨てがたい、これだけは絶対に譲れないものを大事にすることです。これだけは何があっても絶対譲れない、これは私の命だ、というものを握っています。ある人にとっては名誉であったり、自分の持っている物であったり、財産であったり、家族や友人であったりします。それを何とか失うまいとして、一生懸命にしがみつく。それらを総称して、まとめて「命」と語られているのです。そういうものを一生懸命に何とかこれは失うまい、失うまいとしているならば、ということが、25節の「自分の命を愛する者」です。そうするとそれを失ってしまう。ところが「この世で自分の命を憎む者」とあります。「憎む」とは、強い言い方ですが、それを捨てることです。「死んでしまう」ことと共通することですが、「これは譲れない」「これはどうしても私の大切なものです」と思っているものを捨てる、離れることです。これは大変苦しい、「死んだほうがましや」と言いたくなることです。「憎む」とは、それを惜しみなく捨てる、そこから離れる。そうすると、むしろ捨てたと思ったものを、豊かに……「保って永遠の命に至る」、新しい命につながっていくことができる。イエス様が私たちに与えてくださった命につながる道です。私どもはいまイエス様を信じて新しい命に生きる者と造り替えられています。しかし、イエス様に全く命を握られているかというと、「イエス様」と言いながら、「自分が……」、「これは大切、いくらイエス様と言っても、イエス様よりもこれの方が大切だ」というものがまだ私たちの内にある。そうである限り、私たちはいつまでも中途半端です。しがみついていると、それを失うことになるとイエス様は警告なさっている。

「一粒の麦」となって、私たちが「地に落ちて死ぬ」とはどうすることか?それはイエス様がご自分の生涯を通して証詞してくださったことであります。イエス様は神の位に居(い)給うた神の御子です。

「ピリピ人への手紙」2章6節から8節までを朗読。

6節「キリストは、神のかたちであられたが」とあります。「神のかたちであられる」とは、「神と等しい御方」ということ。いうならば、神ご自身、神様の分身のようなものです。だから、イエス様は、神と等しくある御方、神なる御方でいらっしゃる。上なる、いと高き所に住み給う潔(きよ)き御方、聖なる義なる御方でいらっしゃる。イエス様がいつまでも「わたしは神の子だから、ここを離れるわけにはいかない。わたしは父なる神様と共にあるのだ」と、いつまでも天におられたならば、父なる神様のそばにおられたならば、私たちの救いはありえません。ところが、「神と等しくあることを固守(こしゅ)すべき事とは思わず」、イエス様は神と共にあること、わたしは神の位にあるものである、神と等しいものである、という自分の命のようなものを、「固守すべきこと」、それにしがみついて譲れないものとは思わなかったのです。いや「かえって、おのれをむなしうして」と7節にあります。自分を無にする、むなしくする。無くしてしまうことです。自分というものを捨ててしまう。イエス様が、神の子であり、神であることをやめてしまうことです。その後にありますように「おのれをむなしうして僕(しもべ)のかたちをとり、人間の姿になられた」。人になってくださいました。人の世にくだって私たちと全く同じ弱き肉体を持ったイエス・キリスト、大工ヨセフとマリヤの子供として生まれてくださった。これはとんでもない事態です。神なる御方がいちばん低い者として、造り主でいらっしゃる御方が造られた者となってしまう。そこまで自分を捨ててしまう。これがまさに「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」ことです。譲れない自分、固守すべきものがあって、「これだけは譲れない」とやっている限り、イエス様と同じ祝福と恵みを受けることができません。永遠の命を得ることができない、と言われます。私たちは自分が固守しているものを捨てていかなければ、「これは大切」「これは譲れない」「そんなことはできない」と言っている限り、私たちはイエス様のいのちにつながっていくことができません。

イエス様の所に「永遠の生命(せいめい)を受けるために何をしたらよいでしょうか」と尋ねて来た人がいました(マルコ10:17)。イエス様が「まず、いましめを守れ」と言われたとき、その人は「幼いときから全部守っております」と言うのです。まことに立派な人物です。ところが、それに対してイエス様が「じゃ、あなたの持っているものをみな売り払って貧しい人に施(ほどこ)して天に宝を持つようになりなさい。そして、わたしに従ってきなさい」と言われました。いうならば、「彼の命を、彼が大切に思っているものを捨てなさい」と勧めたのです。そうでないと、イエス様には従うことができません。自分の考えや自分の計画、これはどうしても譲れない、これは私が大切にしているもの、これは……、というものをしっかり握っていたら、イエス様に従うことはできません。永遠の命を得ることはできない。永遠の命とは何か?イエス様ご自身です。だから、イエス様にくっつくことをしないで、永遠の命はあり得ない。だから、イエス様に従うことを求められたとき、彼は「顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った」。イエス様に従えなかったのです。永遠の命でいらっしゃるイエス様を自分のものとすることができない。

イエス様は父なる神様の御心に従って、「神と等しくあることを」潔(いさぎよ)く捨てて、ご自分が人となってこの世に下ってくださった。造られた者となってくださった。そして、7節以下に「人間の姿になられた。その有様(ありさま)は人と異ならず、8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」と。しかも、人となり給うたイエス様は、この世にあって高い地位に就いたとか、王様にでもなったとか、人々の賞賛を受けるような身分になったのではなく、罪人とせられて、ついに極刑(きょっけい)である十字架の刑を受ける者とされてしまった。そこまで自分を捨ててかかる、自分が死にきってしまう。これがイエス様のご生涯です。私たちもまた同じようにイエス様に従っていかなければ永遠の命を受けることができません。一粒の麦が死なないで、そのままでいればいつまでも一粒です。しかし、一粒の麦である私たちが自分を捨て、「イエス様に従っていこう」とすると、私たちは新しい命に、豊かな永遠の命の生涯に生きる者となります。ところが、私たちは自分の手で捨てることができにくい。「そうか。『捨てろ』と言われれば、はい、分かった、分かった。はい、もう喜んで捨てますわ」と言って、捨てられるものはいらないものばかり。いらないものでも私たちはため込んでしまいますが、自分のいちばん大切なものを捨てなければイエス様に従うことはできません。

「マタイによる福音書」26章36節から39節までを朗読。

イエス様は最後の晩餐(ばんさん)、過越の祭の食事の後、弟子たちと一緒にゲツセマネという園で祈るために出かけられました。この場所は普段からも機会があるごとに祈っておられた場所であります。ですから、弟子たちも慣れた場所ではあった。このときイエス様はご自分独りが離れて、祈られました。弟子たちにも「目を覚まして祈っていなさい」と勧めましたが、彼らは昼間の疲れでしょうか、眠りこけてしまう。でも、イエス様には大変苦しい戦いのときでありました。この後すぐにイエス様は捕らえられて、十字架の処刑をお受けになる。そのことをよくご存じのイエス様は、大変苦しむわけです。それはそうでしょう。何時間後かに殺されることを知っていたら、そんなのんきなことをいって、眠っておられません。もし、私たちがイエス様の立場に立っていたら、気が狂います。「死ぬかもしれない」、『かも』と言われただけで、文字通り死んでしまうほどです。ここではそのとおりに事態は進んでいくのですから、このときのイエス様の御苦しみたるや、どんなにつらかったことでしょう。

ここで真剣にイエス様は祈っておられます。39節に「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯(さかずき)をわたしから過ぎ去らせてください」と。イエス様は「この日、この時に、このために来たのだから、へっちゃらだよ」と言いません。「死ぬぐらい簡単(かんたん)だよ」というのではありません。まさにここがイエス様が、一粒の麦が地に落ちて死ぬことがどういうことか、身を持って示しておられます。イエス様はその苦しみが何たるかをご存じであります。しかし「だからやめとく」というのではない。その苦しみを通り抜いて初めて、私たちは永遠の命の生涯へ引き入れて頂くのです。

このとき、イエス様は、39節に「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯(さかずき)をわたしから過ぎ去らせてください」と祈っておられます。イエス様の願いとしては「これは嫌です。こんな苦しいことはもう結構。神様、何とかこれはやめにしてください」と言うのが、イエス様の思い。でもそれを押し通したならば、自分の思いを貫(つらぬ)いていくならば、イエス様の十字架はあり得ない。またイエス様のあがないにあずかることもできません。ところが、ここで激しい戦いを戦っている。この後、「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈ります。イエス様がご自分の希望を言うならば、願いを言うならば、「この杯(さかずき)を取り除けてほしい」のです。「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と、ここで自分を捨てます。死んで生きるというのはここです。「自分はこうありたい」「こう願いたい」「いや、どうにもこれはこうでなければ嫌だ」と思うことを、「しかし」と、もう一度神様の側に自分を置く。「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままに」と、神様の願っていること、神様が備えられることに自分を委ねる。これが死ぬということです。このことが、常に問われているのです。それは「昔一回死んだからよかろうか」というのではない。死んでもまたよみがえっていますから、「死んだはずだ」が、死んでないのです。だから、事あるたびに、私たちは一粒の麦になる。イエス様のゲツセマネの祈りは、私たちを代表してくださったのです。私たちも「父よ、この杯を取り除けてください」と言いたいことが、いくらでもあるでしょう。あれもこれも、これもあれもと十本の指では足(た)らないぐらいにあります。でも、そこで「それをどうしても……」と神様にしつこく強要するのではなく、「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と、自分を捨てる。自分が死ぬとは「私の思いのままにではなく、神様、みこころのままに」ということです。先ほど申し上げましたように、一度死んだらおしまいかというと、そうではなくて、私たちが出会う日常の問題や事柄のたびごとに、このことを問われるのです。パウロは「わたしは日々死んでいる」(Ⅰコリント 15:31)と語っています。毎日です。朝、目が覚めると自分が生きていますから、「よし、今日はあれをしてやろう、これをしてやろう」と、「私が……」というものがありますから、そこで死ぬのです。「主の御心はどこに」と、父なる神様の御心に従う。イエス様が「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈り、「神様の御心に従います」と、明け渡す。自分を捨てるとは、ここです。言えばいとも簡単ですが、実際は苦しいことです、事実。私も体験があります。しょっちゅう体験していますが、本当に苦しい。でも「苦しいから」と言って逃げては駄目です。

イエス様もこのときここでお祈りをしました。イエス様だから立派なものだ、一回祈ったらそれでスパッと決まったとはならない。イエス様は二度も三度も同じ言葉で祈っている。祈ることが死ぬための大切な力です。私どもは「どうしてもこうであってほしい」と、自分の願い、思いがあります。「これはこうでなければ嫌だ」としがみついている限り、私たちは永遠の命を体験することができません。しかし、それを捨てて、「神様はこのことを求めておられる。これは神様の御心に違いない」と分かっていることがある。そのためには自分が犠牲(ぎせい)にならなければならないことがある。財を費やすこともある、時間を費やすこともある。時には健康を損なうような事態や事柄が待ち受けるかもしれない。でも、それは神様の御心だ、と知りつつも、どうしても従えない。そのために心の中が大荒れに荒れますが、大切なのは祈ることです。神様の前に出て、「主よ、この杯(さかずき)をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままに」と、繰り返し祈る。はっきりと心が定まるまで、私たちの思いがきちっと「そうでした。神様、あなたに従います」と、喜んで言えるようになるまで祈るのです。イエス様もそうです。44節に「三度目に同じ言葉で祈られた」とありますが、3回祈るという意味ではありません。繰り返し主が祈られたことを語られています。祈っているうちにだんだんとイエス様の心の中にはっきりとした確信と新しい力が与えられる。

45節以下を読んでみますと、「それから弟子たちの所に帰ってきて、言われた、『まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。46 立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた』」。すごいですね。私はいつもここを読むたびに大変教えられることでありますが、37節にイエス様が「悲しみを催(もよお)し、また悩みはじめられた」また38節に「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」とあります。イエス様はこんなんだったら、死んだほうがいい、と泣き言を言っているのです。ところが、祈った最後にイエス様のなかに新しい力が与えられる。それは潮が満ちてくるようにイエス様を包んでくる。祈っているうちにだんだんと父なる神様の愛に触れていくのです。イエス様は「ヨハネによる福音書」に、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである」(15:9)と語っています。父なる神様がどんなに自分を愛してくださったかを語っていますが、この祈りを通して深く神様のご愛に触れるのです。私たちもそうです。何かのことで譲れない自分があり、神様の御心を知りつつも従えない自分があるとき、悶々(もんもん)としますが、そのとき、実は神様のご愛に感じる心が乏しくなっているのです。それを取り戻すにはどうするか? これが祈りです。祈っているとき……、繰り返し、繰り返しそのことを祈ってください。そうしているうちに、主がどんなに大きなご愛を賜ったことか思いが膨らみます。神様はどんな恵みをもって顧(かえり)みてくださったか、主のご愛がズーッとあふれてくるのです。そうすると、今まで「どうしても嫌です、できません。駄目です」と言い続けていた自分の心が変わる。もちろん喜びに変わる。「本当に主よ、あなたの御心に従います」と言えるのです。ここに至らないと永遠の命はありません。だから、常にイエス様のみ足の跡に倣(なら)いたいと思う。主がこういうときどうなさったか。一粒の麦、私は今ここで一粒のままでいようとするのか、それとも永遠の命につながろうとしているのか、これはいつも、いろいろな事柄のなかで問われ続けています。そのたびごとに、主の前に自分を捨てて、死んだ者となって、「主よ、あなたの御心のままに」と、主に自分をささげ、明け渡してしまう。そこに行くと、どんな問題と思えた事柄も消えていくのです。「これでいい、大丈夫。今こんな状態であっても、きっと神様はご存じですから、最善をなしてくださる」と知ります。

私もいつもいろいろなことで「これはこうでなければ駄目だろうな。こうしなければいかんな」「こうであるべきだな」というように思う。でもよくよく考えると、それは自分の考え。でも、それがいちばんよさそうに思うとき、苦しむのです。それは神様を信用していない、信頼しないのです。「これがいいに違いない」と思う。誰が神様だ、ということです。そこで祈っているうちに、「そうだ。神様が『今より後もわたしは主である』とおっしゃるのです」。神であり、また主でいらっしゃる御方がそのことをなし給うのです。

ある方の証詞でそういう話を読ませていただきました。一人の牧師先生の息子さんが、あるとき突然、大学生のときにやって来て「お父さん、実は好きな人ができたから結婚させてほしい」と言う。お父さんは牧師ですが、腹が立って「何様だ、お前は!まだ学生の身なのにそんな……、結婚なんかできるものか!」と、怒鳴(どなり)り上げて息子をしかった。それだけ息子を愛しておったのです。腹が立って、会堂に入って悶々(もんもん)として「あいつがどうのこうの……」と思っておった。そうしたときに「この家の主人は誰か?」という声を聞いた。ハッとして「この家の主人て、おれやないか、おれだ」と思った瞬間に、また「この家の主人は誰か? 」と、そのときハッと目が覚めた。「主よ、あなたがここの主人です。私はあなたの僕(しもべ)です。そうでした、私はあなたの僕です。いま息子がこう言っていますが、このことはどうするべきでしょうか、神様」と、初めてそこで主に問うた。そのときに神様の愛がその先生の心にあふれてきた。「これは神様の御心ならば、私が止めることも何もないじゃないか。神様がよしとおっしゃってくださる。神様が責任を持ってくださる」。神様の前にひれ伏して悔い改めた。「神様、誠にこの家の主人はあなたです。あなたが私どもの主です。あなたの御心のままに」と祈って委(ゆだ)ねきったとき、一瞬にして心から喜びに変わった。そして「息子を祝福してやろう」。夜が白み始めて朝になって、「本当に良かった」と喜びに変わったのです。死んで生きる、自分を捨てて拾うのです。私たちは自分にしがみついていつまでも主の御心に従おうとしない。「みこころのまま」と、自分をイエス様の手に委ねる、これが死ぬことです。いろいろな事柄のなかに絶えず主の御心を求めていきたい。

「ヨハネによる福音書」12章24節に「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。イエス様が死んだのは、十字架で死んだのではありません。ゲツセマネの園で、既に死んだのです。だから、ピラトの法廷、カヤパの屋敷、どこに引かれて行っても一言も弁解しない。ただ真っすぐ十字架を見上げて、十字架の道を歩み続ける。これがゲツセマネで神様の前に死んだ結果です。

私たちも主のみ足の跡を踏み従っていきたい。「しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。永遠の命、イエス様の命に私たちもつながって、本当に喜び感謝し、望みに輝いて生きようではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。