一日、一時、一瞬を

2節「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」。

新しい年を迎え、一ヶ月が過ぎようとしています。新しいカレンダーを見ますと、12月までたくさん日数があるように思います。先だってもある方が「先生、ちょっと10月の予定をお聞きしたいけれども10月のこの日はいかがでしょうか」と、「え!10月の話ですか」「いや、もう決めておかなければなりませんから」と、びっくりしまして、こちらは10月まで生きているかしら、とぐらいに思っているのですが、私たちを含めて世間一般は、秋になったらどうしようとか、あるいは来年のことを考えたりする。しかし、考えてみると、そのような時があるかないか分かりません。あるものと思って生きていますが、私たちに許されている生きる時は、「今」、この瞬間しかありません。もちろん、今という瞬間は、1秒間か1秒の何分の1なのか、と問われると、はっきりしていませんが、大まかに瞬間という言い方をしますが、1時間なり2時間かもしれません。この集会の後で交通事故に遭って亡くなる方があるかもしれないし、これから先のことは分からない。だから、常に今の時、今どのように生きるかを考えるほかありません。明日になったら頑張るからとか、来月は頑張ってしようとか、いろいろなことを考えたところで、それは分かりません。「ヤコブの手紙」に、「あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ」(4:14)とはっきりいわれています。それは知っていますが、現実に生活していると、どうしても明日がある、明後日がある、来年がある、と思ってしまいます。しかし、常に私どもが自覚しなければならないのは、「今」という時です。今、私はどういう時にいるのか。なぜなら未来は分からない。これは不確実なものであります。あるかないか、あればあったでいいし……、けれども、今はどういう時なのか?過去という過ぎ去った時、良かったとか悪かったと、いろいろ考えますが、これもあまり意味がない。もちろん、神様の恵みを感謝するにおいて、昔のことを思い起こして感謝することはあります。しかし、だからといって過去を変えることはできません。これは過ぎ去ったものです。となると、私たちに許されている時間は、「今」という時しかありません。

そして、「今」はどういう時かといいますと、2節に「恵みの時」「救いの日」とあります。今は恵みの時であり、救いの日だと。実際の生活を見ると、今、直面している悩みがあり、心配があり、恐れがあり、不安があるなかで、「何がこれが恵みだ。これさえなくなったら、あと一ヶ月たってこの悩みを通り過ぎたら……」という希望を持ちながら生きています。今という時はできれば避けていきたい。あるいは今のこの時は本当に嫌だな、明日こそ変わるに違いない、と期待をしたいのが人情です。しかし、聖書には「あすのことを思いわずらうな」(マタイ 6:34)と言われています。「いや、明日どころか自分は今が大変なのだ」と思います。ところが、聖書にははっきりと「今は恵みの時、救いの日」だと。そのすぐ前に「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」とあります。「恵みの時」「救の日」とは、どういう意味か? 思いどおりの生活、事もなく順調であるから恵みなのか、というと、そうではなくて、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ」と。今、私たちは神様を呼び求めることができ、今、神様からの答えを味わうことができ、体験することができる。神様との交わりに入れていただくこと、これが恵みです。だから、「助けた」と過去形になっております。今すでに神様が助けてくださったのだ。だから、これほどの恵みの時、救いの日はないではないかと。確かに悩みがない、苦しいことがないほうがいい、と思います。それが恵みだと思いますが、神様から言わせるならば「いや、そうではないよ。悩みがあるかもしれない。困難があるかもしれない。しかしもっと素晴らしいわたしが付いているではないか」と。あなたが呼べば応えてくださる、助ける力のある全能の神が「わたしがあなたと共におるではないか」と。今は恵みの時とは、そういう意味です。神様が私たちと共にいてくださる。そして、私たちが悲しみにあるとき、苦しみにあるとき、思い煩いのなかにあるときに呼ぶことができる。「悩みの日にわたしを呼べ」と主はおっしゃいます。神様を呼び求めることができるのは、「今」です。今、目の前のこの問題、このことがあるから忙しい。だから「今、神様の前に出て呼び求めることはいいかもしれないけれども、それはちょっと時間がないから、後からにします」となりやすいのです。しかし、神様は「そうではない」と言われるのです。今、願いを聞いて、助けてくださる御方が、あなたのそばにいるではないかと。これを忘れているのです。だから、今が恵みの時だと思えない。救いの日だと思えない。あれがある、これがある、この悩みがあり、この苦しみがある。このつらいことがあるから明日になったらよくなるに違いない。来年には何とか道が開けるだろう。そんな先のことを一生懸命に求めますが、それは決して確かなものではない。それに対して、今、目に見えない主はよみがえって「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ 28:20)とおっしゃっている。これが私たちに与えられている神様の大きな恵みです。

弟子たちがガリラヤ湖を船で渡っておりましたとき、突風が吹いてきて船が大波に翻(ほん)ろうされました。そのときイエス様は艫(とも)の方で手枕をして寝ていた。弟子たちは大慌てで「イエス様、死にそうです」と言った。弟子たちはそもそもガリラヤ湖で生活した漁師ですから、そのくらいのことは対処できそうに思いますが、彼らすらも恐れるぐらいの大嵐だったのです。それでイエス様を起こしました。そのときイエス様は「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」(マタイ 8:24)といわれました。なぜならば、イエス様がそこにいる。でも、彼らはイエス様を救い主であると信じていなかった。イエス様を頼りにして、呼び求めました。その後、イエス様が風と波とをしかられると静かになった。その時、弟子たちはびっくりして「このかたはどういう人なのだろう」と語られています。船が大波をかぶって沈みそうになっているから、何とかして助かろうと一生懸命に水をかき出しているが、人手が足りない。ところが、イエス様は寝ている。手伝ってもらおうと思ったのでしょう。すると、そんなことよりも根本の波と風を鎮(しず)めることができる。私たちのしていることは、どこかそういうところがあるのです。問題が起こると、対処療法といいますか、早くこちらの火と消そうとか、こちらに水をかけてとか、あるいはこれをくみ出してとか、あれをこれを……と。ところが神様は私たちを救うことのできる御方、私たちを助けることができる恵みの御方です。その御方は、問題の根本、根っこを根こそぎに断ち切ってくださる。ガリラヤ湖の嵐のなかで一生懸命に命を長らえようといろいろな事をします。恐らく帆をたたんだり、上手に船を操(あやつ)ったり、水をかき出したりして、沈まないようにと一生懸命やります。まさか風や波を鎮(しず)めることは考えられない。これはもう仕方がない、これはできないことだと思っているから、イエス様を起こして「主よ、お助けください」と助力をたのむ。ところがイエス様はそうではなくて、波をしかり、風をとどめて問題の根本を取り除いてくださった。
36年間ベテスダの池のそばで寝ていた病人もそうでしょう。イエス様が「なおりたいのか」と言われて「ええ、なおりたい。水が動くとき最初に入った人が治るのですが、私には入れてくれる人がいないから、イエス様、手伝ってほしい」と言った。イエス様が「起きて、あなたの床を取り上げ、そして歩きなさい」(ヨハネ5:8)と命じました。まさか自分が立って歩けるようになるとは、想定もしない、思いもしない。今、自分が話しているこの方が、私を造り替えることができると信じないからです。イエス様はその人が願っているように、「よし、分かった。じゃ、水が動いたときお前を入れてやるから、そのときわたしをすぐに呼びなさい。携帯番号はこれこれだよ」と言わない。それどころか、こんな所にいなくていいように、パシッと根本を取り除く。これが救いです。私たちが求めているのは「ここが痛いから早くシップ薬を買ってきて」というものです。ところが、イエス様はその根っこである痛みの元を取り除いてくださる。これが救いです、恵みです。私たちを絶望から救い出してくださる御方がおられるのです。

2節に「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』」。では、救ってくださる、助けてくださる、恵んでくださる、願いを聞いてくださるのはいつかと?「今だよ」、今、あなたのために主が耳を傾け、聞いてくださる、そして答えてくださるから「わたしに呼び求めなさい。わたしの所へ来なさい」とイエス様が絶えず求めている。「今は恵みの時、見よ、今は救の日」に何をすべきか。ホセアに神様が「今は主を求むべき時である」と語られています。いま私たちがすることは、まず、神様の前に出ることです。ガリラヤ湖の嵐の記事もそうですが、幸いだったのは、弟子たちがイエス様を呼んだのです。寝ているイエス様を起こして、「私たちは死にそうです。もう沈みそうですから、早く」と言ったときに、イエス様がすぐにそれに答えてくださった。まず、問題が起こったときに主を求めるということ、神様の前に出ることです。今こそ私たちは熱心に主を求めること、神様を求めていく。

「ホセア書」10章11、12節を朗読。

12節に「あなたがたは自分のために正義をまき、いつくしみの実を刈り取り、あなたがたの新田を耕せ。今は主を求むべき時である」と。ここに「今は主を求むべき時である」とあります。「今は恵みの時、救いの日。願いを聞きいれ、また助けてくださる時である」。「主を求める」とは、どういうことなのでしょうか?「主よ」、「主よ」と求めていくこと、それは具体的な生活のなかでどういうことを言っているのだろうか。そこがつながりにくい。言葉は分かるのだけれども、いったいどうすることなのか? 12節に「あなたがたは自分のために正義をまき、いつくしみの実を刈り取り、あなたがたの新田を耕せ」と、たとえをもって語られています。「自分のために正義をまき」とは、私たちが神様の義を信じて神様の報いを望み見ることです。毎日の生活のなかで私たちはすぐ世の中、世間の正しいこと、世間の基準、道徳的な、といいますか、日本の社会の伝統的な価値観やそういうものに自分を合わせようとします。あるいは自分で自分の義を全うする。人を裁いたり、自分が正しいと思うことを頑なに主張したり、相手を言い負かしたり、言われた一言に対して二言三言、更に倍にして言い返すことをして、自分の義を全うしようとする、自分を貫こうとします。ところが、ここでは「自分のために正義をまき」とあります。「正義をまき」というのは、神様の義を信じていくこと。「まく」というのは、種をまくたとえですが、それはやがて実を結ぶのです。それはすぐには答えが出ないかもしれない。種をまいて、次の日に実が実るかというと、そうはいきません。ある一定の年月がたって、やがて忘れたころに芽が出て、それが成長し、花が咲き、実を実らせる。神様の報い、神様の義を求めていくこと、これが「あなたがたは自分のために正義をまき、いつくしみの実を刈り取り」「いつくしみ、慈愛の実」、これは神様のご愛の恵み、愛の御業を期待していくことです。それを求めることです。自分の才覚で、自分の知恵で、世の人がするように、何とかこの問題を切り抜けよう、この事柄を何とかやり抜こうと、そういう決断や努力は涙ぐましいところがありますが、それは決して神様のご愛の恵みに結び付きません。自分の誇りであり、自分の成果、業績ではあるけれども、神様のご愛の御業を体験することにはなりません。では、どうするか。日々の一つ一つの事柄のなかに神様のご愛を求めていくこと。神様の憐(あわ)れみによって日々生かされていることを認めていくこと、これが「いつくしみの実を刈る」ことです。私たちは「人のお陰によって」とか、あるいは「これがうまくいったから、こういうラッキーなことがあったから……」「うまい具合に事がいったから良かった」と言いますが、うまくいったときはそれでいいでしょうが、思わない、願わない、つらいことや苦しいことに遭うと、私たちはつぶやきます。しかし、そこで十字架のご愛、かぎりないひとり子を賜ったほどの愛をもって私たちを顧(かえり)みてくださる神様が一つ一つのことを備えておられるのです。それを認める。これが「いつくしみの実を刈る」ことです。自分の好き嫌いにかかわらず、今、与えられている一つ一つの事柄のなかに、神様のご愛、かぎりないひとり子を賜うほどの愛を私たちが信じること。その愛のゆえに今この事態、この事柄のなかに神様がわたしを置いてくださっていると認める。これが「いつくしみの実を刈る」ことです。

そして「あなたがたの新田を耕せ」と、「新田」というのは、新しく開墾(かいこん)する、開拓することです。今まで自分が代々受け継いできた田畑、長年にわたってきちんと手入れされた田畑はそこからの収穫は楽といえば楽、それはそれなりに苦労もあるでしょうが、一応ほかの所よりも楽です。しかし「新田を耕す」には、荒地を耕し、作物を植えて、収穫できるまでの作業は大変苦労があります。最近は減反政策などで農家はむしろ作るな、作るなと言われていますが、かつて戦争後食糧増産のときはいろいろな所で新しい開墾(かいこん)をさせられました。入植者があちらこちらに行きました。私の知っている方もそうです。山奥に行って、開拓したという体験話を聞いたことがあります。そこは原野です。土地はやせているし、雑木も生えている。そういうものを全部根っこから取り除いて、耕して肥料を入れてと、苦労の多い仕事をします。やがてそこが一つの立派な畑に変わっていく。「あなたがたの新田を耕せ」というのは、私たちが新しいものに踏み出していくことです。これは躊躇(ちゅうちょ)します。「もうこんな年だから」とか、あるいは「私はもうこうなっているから、これでいいのだ」。「いままでやってきたとおり、昨日の今日、今日の明日、変わらないでくれ」というのが私たちの思いであります。しかし、神様は私たちの顔を見ながら「お前もだいぶ年を取ったな、じゃ、このくらいにしておこう」と言われる方ではない。生活年齢が幾つであろうと、神様が求めていることは、神様に従って踏み出していくことです。イスラエルの民がヨルダン川を渡ってカナンの地を獲得していくこと、まさにそれは「新田を耕す」わざです。そのときにヨシュアは「恐れてはならない、おののいてはならない」(ヨシュア 1:9 )「勇気を出して行きなさい」と押し出されて行きました。私たちに対して神様は「あなたがたの新田を耕せ」とおっしゃいます。「そんなややこしいこと、新しいことは私にできません。この年ですからもうやめときます」ではない。あなたはもっと取るべき地が多いと。なぜならば「今は主を求むべき時」、神様が私たちと共におられるから、その御前に自分の歩みを整えていく。これが「主を求める」ことです。神様を求めていくとは、私たちの日々の生活のすべてのことに、「正義をまき、いつくしみの実を刈り取り、あなたがたの新田を耕す」のです。いうならば、神様の報いを望み見て、神様のご愛の御業であることを絶えず信じて、今まで経験しなかったいろいろな新しい所へと踏み出していく力。それを神様が私たちに与えてくださるのです。

だから、主を絶えず求めて、主の力に私たちがしっかりと結びついていくことです。そして「恵みの時、救いの日」、今、私たちの願いを聞いてくださる御方がおられ、私たちを助けてくださる。だから、「新田を耕せ」と。何かとてつもなく新しいことを神様がさせようとなさるわけではありません。私たちは日々に新しい人生、新しい体験に引き入れられています。毎日の日常生活は、昨日の今日、今日の明日のように変化もなく過ごしているように思いますが、確実に、昨日の私は過去のもの、今日は新しい私です。年も取ります、いろいろなことが変わってきます。毎日見ていると、自分はちっとも変わってないようですが、写真を見てご覧なさい。10年前の写真、教会で毎年お正月に写真を撮っていたでしょう。「10年前の自分はどこにいるかしら」と。「あら、このきれいな人誰かしら、私だ」と思うに違いない。変化していないようですけれども、大変大きな違いです。だから、今日の一日、今日、朝起きて今に至るまで、これは人生初めての体験です。「いや、そんなことはない。昨日と同じだ」と思う。そうではないのです。いろいろな意味で見えない小さな変化のなかにあります。一年一年、年も取ります。年を取ることは、いろいろな生活条件が変わってくるのです。それが積もり積もってある瞬間ぽんと出てくる。「あれ、どうしたんやろう、何か普段と違うな、体が……」と、朝起きたら足が痛い、腰が痛い、目がしょぼしょぼしている。今まで経験しなかったことが出てきた。突然起こった。「先生、急にですよ。こんなふうになって、どうしたのでしょう」と言われますが、突然のことではない。じわじわなってきたのに知らなかっただけです。体力が下降線でズーッと減少してくる。だから、今日、こうやって元気でここに座っているけれども、来週ここにいるかどうかは分からない。

 というのは、93か4になられる方ですが、非常にかくしゃくとしてお元気です。若いときから信仰に導かれて熱心な方で、信仰もはっきりしっかりしていた。生活もクリスチャンに恥じないように、きれいな生活をなさっていました。健康においてもご自身は酒も飲まない、タバコも吸わない。夜更かしもしない、甘いものも控える、徹底して。だから、教会でお茶会をするときに紅茶を出しますと、ご自分だけ胸のポケットからノンカロリーのシュガーを取り出して使う。糖尿病とかではないのです。健康体です。「いや、もうこの年になったら砂糖はやめます」と。聖餐式のとき「私はこのぶどう酒はいただきません。アルコールは今まで口にしたことはありません」。そのくらい健康を大切にし、信仰に立って歩んでおられた。一度も礼拝を休んだことがない。どこか遠くへ出かけるときは、「先生、これから出かけます。来週はお休みしますけれども、どこどこの教会に出ますのでお許しください」と言われる。ところが、その方が昨年の11月ですが、突然何の前触れもなく礼拝をお休みになった。「きっとどこかに行かれたのだろう」と思いました。次の週も次の週も来られない。「何があったのだろうかな」と思っていました。そうしましたらご家族の方から連絡がありました。郷里で兄弟の記念会があるために11月の初めに出かけたのです。そのときも一人で行っている。ちゃんと一人で帰ってきた。ところが「そこから帰った後、急に認知症が発症して、自分で生活ができなくなりました。そのために本人の了解もなく、今はこれこれの施設にお願いして、そこで生活をしていますので、教会にはもう来られないと思います」とのこと。お召されになったのではないですよ。健康体だけれども記憶がさだかではない。そんな急に……、と思いますが、そういうことってあるのですね。だから「健康だから、私は礼拝に出られる。集会に出られる」というのはうそです。神様の許しがあって、今は恵みの時だから、私たちの願いを聞いてくださる。「今日は木曜会に行きたい」と願ったから、皆さんの思いを知って神様が押し出してくださるのです。だから、許されて今ここにある。それを認めることが「主を求めること」です。

 またある一人の姉妹は、90歳を超えています。だんだん足が弱ってこられて、一人で歩かれなくなったのです。どこか老人ホームにでも入りたいと思ったのですが、それだけの費用がないので、息子さんが引き取ってくれた。息子さんの家に同居しました。ところが、そこから教会まで出てくることができなくなってしまった。本人は来たくてたまらないのですが、息子さんも忙しくて、なかなか送ってきてくれない。とうとう、礼拝にも集会にも来られません。これまでは欠かさず礼拝に、また火曜会にも来ておられましたが、今は全く来られなくなりました。今はどういう時なのか?そういう方々を見ていると、元気だから、健康体だからできることではない、としみじみ思います。「今は主を求むべき時である」。

 「コリント人への第二の手紙」6章2節に「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」。恵みの時、救いの日だ。それは今、あなたの願いを聞いてくださる、あなたを助けてくださる御方がおられる。その主を求めるべき時、そして私どもが神様の報いを望みみて、今、御心を行うこと。「正義をまき」とは、まさにそうです。私たちが神様の御心に従って、それがどういう結果を生むのか先のことは分かりません。しかし、今日、今この時、私がすべきことは何なのか?真剣に主を求めて、そして「主のいつくしみの実を刈り取る」。一つ一つの業のなかに神様のご愛に触れること、神様のあわれみと恵みを体験する。このことを日々求めていく。明日はどうなるか分かりませんが、もし主が許してくださるなら、その明日は私たちにとって未知の世界です。「新田を耕せ」とおっしゃるでしょう。おじ気つかないで、たじろがないで、ちゅうちょしないで主を信じて明日に踏み出していく。「ああなりたくない。こうなりたくない」「先生の話を聞いたら可哀想に、私も認知症にならなければいいが……」とおじ気つかないで、先へ、もっとその先へ、神様は私たちを導かれる。「今は主を求むべき時」、だから、今真剣に主を求めて、主と共に生きること、主と共にあることを求めていくのです。これが「主を求めること」であり、「恵みの時、救いの日」の具体的な生き方です。

 日々の一つ一つの今という瞬間、瞬間を常に主と共にあることを自覚して、そして主を求めて、主の御心に全く従っていきたいと思う。神様が今、私をここに導き、このことを通して神様が何を語ってくださるか、絶えず主を求め、主に信頼していきたいと思う。2節を読みます。「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」。「今は恵みの時、救いの日」、主が私たちの願いを聞いてくださる、助けてくださる、とおっしゃる日。そしてその主は今、私たちと共にいてくださるのです。その主を求め、主の御心に全く従って、主のご愛に触れ、新しい神様の力に満たされて先へ踏み出していきたいと思います。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。