み言葉を聴く姿勢

「詩篇」130篇1節から8節までを朗読。


 5節「わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます」。


1節に「主よ、わたしは深い淵(ふち)からあなたに呼ばわる」と歌っています。「深い淵」といいますのは、いうならば谷底のような所であります。険しい山に囲まれて、あるいは切り立った断崖に取り囲まれたような場所。淵というのはそういう切り込まれた溝のような形をした地形、そのような場所を表しますが、どうにも身動きならない、出るに出られない、という事態であります。預言者ヨナが大きな魚、鯨だったと思いますけれども飲み込まれたときに、やはりこのような詩篇を歌っています。「淵は私を取り囲み」(ヨナ書2:5)と彼は言っていますけれども、まさにそのような出口のない、望みがない、閉じ込められた状態の中にあって、ではどうするかというと、ここに「あなたに呼ばわる」と。幸い、この詩篇を歌った人は神様を信じることができたのです。


これは私たちも同じであります。「もうこれは駄目かな」「もうこれはおしまいかな」という、そういう深いふち、追い込まれた望みのない行き詰まりのような事態や事柄、状態の中に置かれます。周囲を取り囲まれて出口がない状態です。でも、そこにもう一つ、私たちには出口が開かれている。それは天に向かってです。私たちは、いつも神様は上から臨んでくださると信じます。これは大きな望みであります。なぜならば、私たちはいつも平べったい平面上で物事を見ていますから、あそこがふさがれた、ここが駄目になった、ここがもう通られなくなったと、いろいろな壁を見ます。そして失望します。確かに四面楚歌(そか)といいますか、周囲が全部取り囲まれると望みを失いますが、もうひとつ神様を信じるとは、見える周辺の水平上の場面ではなくて、今度は垂直の形ですね。上にいらっしゃる神様に目を留めていく。エレミヤが「監視の庭に閉じ込められている時、主の言葉はふたたび彼に臨んだ」(エレミヤ33:1)と語られています。彼は「神様の言葉を語ってはならない」と言われて、ろう屋の中に閉じ込められた。軟禁されてしまった。人と自由に会えなかったかどうか分かりませんが、いずれにしても身動きならない状態のなかに置かれていた。それでは、神様との関係も切れてしまったかというと、そうではない。彼は監視の庭に閉じ込められているそのときに、主のお言葉が上からエレミヤに臨んだ。水平に見える状況の中から何も望みがなくても、上に目を留めることが私たちの望みです。だから、ここで「主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる」。上を見上げるのです。そして、その神様に対して望みを抱くことができる。


2節に「主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください」。私の悩みを聞いてくださる御方、知ってくださる御方がおられることを知るのです。これは私たちにとって大きな慰めであり、望みであります。見える状態や事柄、取り囲まれた状況がどうであっても、私たちの願い、思いを知ってくださる御方は上から臨んでくださる。そこには何一つ妨げるものはありません。ただ、私たちが目を上に向けるのかどうかです。常に水平の目線で、自分の目に見える部分だけを一生懸命に見ていますから、そこには何一つ出口がない、救いがない。しかし、目を上に上げる。それが詩篇130篇を歌った記者のした事です。2節にありますように、「主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください」と。私の声を聞いてくださいと、彼は神様を呼び求めることができた。その神様は私たちの願いを必ず聞いてくださる御方です。4節に「しかしあなたには、ゆるしがあるので」とあります。というのは、3節に歌われているように、神様が私たちの不義に目を留められるならば、神様が目を凝(こ)らして、私たちの頭の先から足の先までつぶさに、罪を犯したところ、穢(けが)れたところがないかどうかを確かめられるならば、私たちは不合格であります。はねられてしまいます。「願いを聞いてください」と言って、「よしきた。聞いてやろう」と言われるような神様と私たちとの関係、神様に近づける潔(きよ)い自分であるか、と言われると、心もとない。


だから、よくそういいます。「先生、私のような者の祈りを神様は聞いてくださるでしょうか」と。まさに、そういう不安を神様に対していつも感じるのではないでしょうか。「こんな私がお祈りしたって、神様は聞いてくださるだろうか。私にはああいうところがある、こんなところがある。こういうまだ足らないところがある。神様の目から見たら、私などは箸(はし)にも棒にも掛からないよ」と思ってしまう。確かに自分を見るならば、神様の前に何一つ認められるべきもの、あるいは神様の顧(かえり)みを受ける値打ちも価値もありません。だから、いくら「神様、私の願いを聞いてください。私の声に耳を傾けてください」と言おうとも、どんなに熱心に祈っても、主が聞いてくださるという確信はどこから生まれてくるのでしょうか。人と人との関係では、あの人に昔こんなことをしてやったのだからと、恩を売って、「少しぐらい私の言う事も聞いてよ。あなたが困ったときにあんなにしたじゃないの。今度は私の番よ、あなたがやってよ」と、要求するかもしれませんが、その代わり、あきらめなければならないこともあります。ところが、神様に対して私たちは何をしたかというと、何もないのです。だから、神様が私の願いを必ず聞いてくださるのだ、私の祈りを受け入れてくださるのだと、何によって確信をするか。昔、神様に何か恩を売ったとか、神様は私たちの祈りを聞かなければならない義理があるわけでもありません。


この詩篇の記者は3節に「主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか」と語っていますが、そのとおりです。神様にいくら身を低くして求めようとも、私たちの不義を、汚(けが)れたもの、罪をつぶさにあげつらう、指摘なさるならば、私たちは逃れようがありません。ここに「だれが立つことができましょうか」とあるように、神様の前に立つすべはないのです。ところが、4節に、「しかしあなたには、ゆるしがあるので」と、神様が私たちを愛してくださっていると。「ゆるし」とは、「愛してくださる」とのことです。神様がひとり子を賜うほどに限りないご愛をもって、私を愛してくださっている。ここにただ一つの望みがあるのです。だから「それ神はその獨子(ひとりご)を賜ふほどに世を愛し給へり」(ヨハネ3:16文語訳)といわれている御言葉は、実に私たちに対する大きな慰めであり、また励ましと力を与えてくれます。神様に近づく確信を与えてくださる。自分には神様の前に立つ値打ちも資格もありません。自分を見るならばそんなものは何一つありません。しかしそういう私たちを知り尽くしたうえで、十字架にご自分の愛するひとり子を下して、「おまえをこんなに愛しているよ」と、神様が愛を証詞してくださっている。だから「憚(はばか)らずして惠の御座に來(きた)るべし」(ヘブル4:16文語訳)といわれる。今、私たちはその十字架のいさおしによって神様の前に立つことができる。ですから、3節以下に「主よ、だれが立つことができましょうか。4 しかしあなたには、ゆるしがあるので」とあるように、遠慮なく神様に信頼することができる。神様を呼び求めることができる。これは私たちが常に覚えておかなければならないといいますか、覚えておく幸いな恵みです。神様は何があっても、私たちが事情や境遇、事柄がどんな状況に置かれていても、愛してくださっている。主のご愛を信じていく。そして、その愛のゆえに、この祈りも、私の願いも、私の思いも神様は拒むことをなさらないで、ちゃんと受けいれてくださる。


ですから、5節に「わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます」と、ここに繰り返して「主を待ち望みます」「わが魂は待ち望みます」と歌っています。自分にとって唯一のよりどころ、最後の道はどこにあるか。この詩篇を歌った記者は「神様、あなたによる以外にありません」と、「主を待ち望む」ことです。神様に期待していく。神様に期待するとは、言い換えて「そのみ言葉によって」とあります。神様のお言葉、聖書の言葉に期待をすること、望みを抱くことです。これが神様を待ち望んでいくこと。日々の生活のなかでもそうでありますが、見える状態や人の言葉やいろいろな状況を見て、「これでうまく行きそうである」とか、「こうなったらもういよいよ駄目だな」とか、「下り坂」だとか「上り坂」だとか、見える状態で常に動かされます。しかし、そこには決して平安はありません。十字架に証詞された神様のご愛に目を留めること。大きな限りないご愛をもって私たちに臨んでくださる神様が、与えてくださる御言葉、聖書のお言葉は真実であって、私たちはただそれにより頼む以外にない。これが私たちの持っているただ一つの望みです。どうぞ、私どもは見える状態や事柄によって望みを抱くのではない。「そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます」。あるいは自分の力、自分のわざに期待して、そこに望みを持つのではなくて、「主がこうおっしゃるから」「神様がこう約束していらっしゃるから」と、そこに私たちが立つべきただ一つの場所がある。ですから、5節にありますように、「わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます」。まことに神様のお言葉は真実であります。「真実」ということは、それが必ずそのとおりに実行されるということです。「真実」とは、その語った言葉のとおりを行うということ、うそをつかないということです。神様は決してうそをおっしゃらない。語ったら語ったとおりのことを行われる。だから、その御言葉に私たちが懸けていくこと。これが私たちのただ一つの望みであります。


人の言葉は不真実です。自分を考えればわかるように、心はあっても実際そうはいかないことがたくさんあります。あの人この人に「ああもしようね」「こうもしようね」「クリスマスがきたらあれもしてあげよう、これもしてあげよう」と、口で言っても、そのとおりにできるかというと、したくはあってもできないことはいくらでもある。いうならば、私たちは口で言うは何とでも言います。そういういい加減で不真実な者です。だからつい神様の御言葉もそのくらいに軽く受けているのではないでしょうか?人と人との間の言葉がそうだからです。「転居のお知らせのハガキ」などを見ると、「近くに来たら寄ってください」と書いています。そんなものを信じて行ってご覧なさい。嫌われるだけです。それは「あいさつ言葉だ」と知っていますから。だから、聖書だってそのくらいに思って読んでいる。神様は「わたしの所へ来なさい。求めなさい、そうすれば与えられる」「なんか格好いいことを言っちゃって……、分かりました」と、ポッとこちらに置いてしまう。人と人との間だったら、自分がいい加減ですから、相手もいい加減。だから、言葉をあまり信用しない。年を取れば取るほど信用しなくなります。子供の頃はまだいいですよ。子供は素直にスーッと信じます。でも、もう我々くらいになるとコケも生えてきて、少々いいことを言われたって、「そんなの、あるわけがない」と思ってしまう。神様のお言葉にも真剣さが薄らいでいく。これは非常に危険というか、大きな損失です。なぜならば、神様のお言葉、そこにしか私たちの望みはないのです。医者が何と言おうと、あるいは家族が何と言おうと、あるいは友達が何と言おうと、経験者や専門家である人が何と言おうと、それはあくまで人の言葉です。神様のお言葉に私たちは望みを抱くのです。だから5節に「そのみ言葉によって」とあります。「そのみ言葉」とは、主の、神様の言葉です。それによって「わたしは望みをいだきます」。そして、神様の約束のお言葉が成就するのを待つ。これが「主を待ち望む」ことです。神様が必ずそのようにしてくださるときがくる。


6節に「わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます」。「夜回り」なんていうのは、最近は見かけませんが、夜回りどころか24時間世の中は動いていますから、格別そういう思いがありません。夜中中ズーッと起きて番をするような人たちです。以前、福岡の教会の前に中国領事館が出来たことがあります。今は場所が変わりましたが、領事館の周囲には警察官が24時間張り付いていました。道路の角ごとに警察官が立って警戒している。夜中でもそうです。時折、右翼の宣伝カーが来たりしてにぎやかになります。そうすると即座に警察官が止めに入ります。昼間も夜もそうやっているのです。私は見ていて気の毒になりました。雨の日も、風の日も、雪の日も、そこにジッと立っているのです。時々夜中にガラーンと音がする。何事かと思って見ると立ったまま寝ていたので、警棒を落とすのです。ガードレールがそばにあるので、それにガーンと当たって響き渡る。「気の毒に、眠っていたな」と思います。朝が待ち遠しい。これは皆さんも経験していると思いますが、病気をしたときなどがそうですね。入院して夜寝ているとき、夜中の2時、3時ごろに目が覚める。そうするとあとが眠られない。今何時、あと何時間、窓が白んで明るくなるのが待ち遠しい。まさに「夜回りが暁を待つにまさって」と、そのように神様の御言葉が具体化していくときを信じて待つことです。神様のお言葉に私たちが望みを抱いていく。これが私たちの大きな恵みです。


今年もクリスマスのお祝いをさせていただきますが、クリスマス、救い主でいらっしゃるイエス・キリストがこの世に来てくださった。このこと自体もあの3人の博士が語っているように、旧約時代の預言の言葉が成就したことです。神様が約束してくださった。やがてこのイスラエルの民のなかに救い主を起こしてくださる、という約束を、何百年も前からいただいて、やがてそのように具体化したのです。だから「マタイによる福音書」を読んでみますと、繰り返して「預言の言葉が成就したのである」と語られています。神様の約束した言葉がこのように具体化したのです。


「ルカによる福音書」1章18節から21節までを朗読。


これはイエス様のお生まれになるに先立ってザカリヤという祭司、その奥さんのエリサベツに起こった出来事であります。祭司ザカリヤが神殿で香をたいておりましたときに、御使ガブリエルが彼に臨んだのです。彼らに男の子が与えられるとの預言です。というのは、この二人には子供がなくて、長い間そのことを祈り願っておったのです。いい加減あきらめておったのでしょう。随分と年を取ってきましたから、到底子供を産む見込みがなくなっていました。そのザカリヤに対して御使が現れて、「男の子を産むであろう」と言われた。これはびっくりです。そのときにザカリヤさんが答えたのが、18節の言葉「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。自分たちは子供を産むことは不可能だと。確かに彼の目の前にある事態や事柄、状況はそのとおりであったと思います。しかし、ここで神様がそのことを約束してくださった、神様のお言葉です。ですから19節に、「御使が答えて言った、『わたしは神のみまえに立つガブリエルであって、この喜ばしい知らせをあなたに語り伝えるために、つかわされたものである』」。これは喜ばしい、うれしいニュースではないかと。でもザカリヤさんにとってはびっくりであり、喜べる事態ではなかったのです。「こんなに年を取って、今から子育てをしてどうするか」と「将来大学へ行くようになったときにおれはもういないぞ」と、恐らくいろいろなことを、将来を考えたら「えらいことになったぞ」。結婚してすぐの若いカップルだったら、「うれしい。じゃ、今日はひとつお祝いをしよう」という話になるでしょうが、ザカリヤさんとエリサベツさんにとっては、「え!どうする? えらいことやね」と、そういう思いです。だから喜びのおとずれではない。彼も「どうして」と言っているでしょう。「どうしてそんなことが……」。これは迷惑至極(しごく)だと、願いとして夢としては、そういうことはあるかもしれない。そういう願いがあったかもしれないけれども、まさか、それが実現するなんて思わない。ところが20節に「時が来れば成就するわたしの言葉」と神様が語っている。神様のお言葉、主の御言葉は必ず成就する。ただ「時が来れば」と、神様の備えられた時になると必ず成就する、実行される。ザカリヤさんはそれを信じなかったのです。そのためにとうとう彼は「ものが言えなくなる」、一言も言葉を発することができなくなったのです。同じように神様のお言葉を聞いたのがマリヤさんです。


1章34,35節を朗読。


マリヤさんに御使いガブリエルが、やはり同じようなことを伝えたのです。「あなたは身ごもって男の子を産むでしょう」と。「それはいと高き者の力があなたをおおって、生まれ出る子は神の子と呼ばれる」という。考えてみると、とんでもない大災難を神様から宣言された。このとき、ザカリヤさんもマリヤさんも同じく、神様のお言葉を受けたのです。ただ、その御言葉に対して受け止め方が極めて対照的です。神様のお言葉を聞いたとき、ザカリヤさんは「どうしてそんなことが分かるでしょうか」と、マリヤさんも「どうして、そんな事があり得ましょうか」と言う。ところが、その後で一つ違う所は、マリヤさんは37節以下に、「『神には、なんでもできないことはありません』。38 そこでマリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』。そして御使は彼女から離れて行った」。ザカリヤさんに欠けていたのはこの一言だったのです。マリヤさんがザカリヤさんと違う所があるとすれば、ここです。「神には、なんでもできないことはありません。神様は真実な御方、語ったことをそのように行うことができます」と、御使に言われたときに、マリヤさんは「そうです。私は主のはしためです。神様、お言葉どおりこの身に成りますように」。いうならば「神様のお言葉を信じます」と告白したのです。神様の御言葉に望みを置くことを彼女は選択したのです。ザカリヤさんとマリヤさんとの大きな違いはそこにあります。もちろん、ザカリヤさんの場合も、やがて後にバプテスマのヨハネとなる人物を育てることになるわけです。しかし、神様のお言葉に対する姿勢は明らかに違っていたのです。その後、マリヤさんはザカリヤさんのうちへやって来ます。


1章39節から45節までを朗読。


ここですね。ザカリヤさんとマリヤさんは遠い親戚にあたる関係ですから、マリヤさんも自分の胎内にキリストを宿すものとなったことを喜んで報告に行ったに違いない。そのとき、既にエリサベツは身ごもって、6ヶ月以上たっていたという。エリサベツさんはマリヤさんのことを「主の母上」と呼んでいます。主イエス・キリストの来られることを信じていたのです。エリサベツさんのほうがザカリヤさんよりも信仰が良かったのかなとも思います。信じていたのです。ですからマリヤさんを喜んで迎えました。そのとき、エリサベツさんが45節に、「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は」幸いな人だと言っています。恐らくエリサベツさんもそれを信じたのだと思います。ザカリヤさんはびっくり仰天して、「どうしてわたしにそんなことが分かりますか」と、迷惑至極、という思いであったかもしれませんが、それを聞いたエリサベツさんは、きっとそうなるに違いない、と信じたのです。だから老年ながら自分に子供ができたということをエリサベツさんは大変誇りに思っています。25節には「主は、今わたしを心にかけてくださって、人々の間からわたしの恥を取り除くために、こうしてくださいました」とあります。喜んでいるのです。というのは、その時代には子供がいないことは大変肩身の狭い思いをしました。祭司サムエルのお母さん、ハンナさんもそうでしたが、エリサベツさんも長年肩身の狭い思いをして、人々の中で恥ずかしいという思いで過ごしてきた。それに対して神様は答えてくださったと、主のお言葉を信じたのです。そして、そのとおりに彼女は身ごもった。それと同じように、マリヤさんが神様のお言葉を受け入れて、喜んでエリサベツさんを訪ねてきたとき、この二人の出会いは実に美しい楽しい出来事です。彼女たちにとって何がそうしたか? それは45節の「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた」ことです。「み言葉によって望みをいだく」とはこのことです。「時が来れば成就する神様の言葉を信じなかった」人がいる。ザカリヤさんです。とうとうものが言えなくなってしまいました。でもザカリヤさんもやがてヨハネが生まれたときにその口が開けて、舌がゆるみ、本当に喜び感謝し、主を褒めたたえました。


そのことは別の意味がありますから、機会を改めますけれども、私たちにとってもいま求められていることはただ一つです。主の御言葉によって望みを抱いていくこと。神様の約束の聖書の言葉は、一つ一つ時を備えられてそのごとくに成就していく。だから、私どもは世の様々な言葉やあるいは事態や目に見える状態や状況によって、そこに望みを得ようとするのではなくて、神様の御言葉に期待する者となりたい。


詩篇130篇5節に戻りますが、「わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます」。主を待ち望んでいく、み言葉によってです。なぜならば、み言葉は時が来れば必ず成就する。主がお語りになったお言葉は必ずそのとおりに具体化するのだ、と信じて、その時を待つことです。これがいま私たちの最大の力であり、望みであり、また慰めでもあります。たとえ目に見えることが何であれ、どんなことであれ、常に御言葉に立ち返って、しかも主は私たちを限りないご愛をもって愛してくださっている。この御言葉もまたそのとおりであります。神様は私たちにひとり子を賜ったほどに愛しておられる、と言われる。つい事情や境遇や事柄を見ては、「どこに神様の愛があるか」などとごう慢なことを言いますが、十字架の主を見上げて、今日も主が私どものために執り成してくださっている。よみがえった主が私と共におられる。このことを主の御言葉を信じて望みを抱いていく。


7節に、「イスラエルよ、主によって望みをいだけ。主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです」。4節には「ゆるしがあるので」と語られています。7節には、「豊かなあがないがある」と、そして8節には、「もろもろの不義からあがなわれます」と。神様が私たちを見るならば、どこをとってもいい所なしです。不義に目を留められるならば、神様の前に立つことができませんが、それらの一切を「あがなってくださる」。その不義を取り除いて、許しを与え、ご愛をもって顧(かえり)みてくださる御方が、約束のお言葉を成就してくださる。御言葉に固く立って主を信頼し、主に望みを持とうではありませんか。そして主を待ち望んでいく。必ずそのように神様は答えてくださいます。


5節、「わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます」。どうぞ、御言葉に私たちは絶えず心と思いを懸けて、主のお語りになったことは必ず成就するのだ、時が来れば必ずそのことが具体化するのだ、ということを信じて、主の御言葉に望みを置いていきたいと思います。


ご一緒にお祈りをいたしましょう。