神の民の自覚

 「イザヤ書」41章8節から16節までを朗読。

 10節「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」。


 これはイスラエルの民に、神様がご自身の御思い、ご愛の思いを語ってくださった恵みの言葉です。8節に「わがしもべイスラエルよ、わたしの選んだヤコブわが友アブラハムの子孫よ」と語られていますが、これは私たちのことです。私たちはイスラエルやヤコブ、アブラハムといわれるような肉親や、血縁的、民族的つながりは何もありませんが、信仰によって「神の選びの民」とされました。イエス様の救いにあずかるとは、そういうことだったのです。私たちは神様と縁もゆかりもなかった者ですが、尊いひとり子、イエス・キリストのあがない、十字架のいさおしによって神様の子供とされる。こんな素晴らしい名誉なことはありません。しかも、私たちは選ばれるべき何ほどの値打ちも価値もないのです。全くなきに等しい者、愚かな者といわれています。そういう私たちをあえて選んでくださった。そして、神の民としてくださったのです。いうならば、イスラエルであり、ヤコブであり、アブラハムの子孫なのです。

 ある伝道者の方が、昔イスラエルに旅行をしました。パスポートを見せて「入国審査」を受けます。「あなたはどこの人か?」と訊(き)かれたのです。彼は「Son of Abraham (サン オブ エイブラハム)アブラハムの子だ」、子孫だと言ったのです。するとイスラエルの係官が「オー、グレイト」「素晴らしい」と言って握手して、サッと通してくれたという逸話(いつわ)がありますが、私たちはいつもアブラハムの子孫、アブラハムの子であること、神様の民であることをどれ程有難いと思っているでしょうか。「私は何々家の子孫である」とか「わが先祖には何とか天皇の血が流れている」とか、そんなことを自慢して、家系図を床の間に掲げて誇るかもしれませんが、私どもにはそんなものは何もない。皆さんの中には、やんごとなき方のご子孫がいるかもしれませんが、いずれにしても私たちはそういうもの以上に「神の民」「神の子」であること、これは痩せても枯れても忘れてはいけません。私は神様にあがなわれた神の子なのだ。そこをしっかりと握っていますならば恐れることはいらない。何も怖いものはない。それがないものですから、そこがあやふやなものですから、弱いのです。

 神様はここの8節に「わがしもべイスラエルよ、わたしの選んだヤコブ、わが友アブラハムの子孫よ」と繰り返してそのことを語っているのです。「あなたはイスラエルではないか」「あなたがヤコブではないか」「あなたはアブラハムの子孫ではないか」と、この言葉によって、旧約のアブラハムから続く神の民をどれ程神様が愛してくださったかを一瞬にして語り尽くしています。「わがしもべイスラエルよ」と言われるだけで、この言葉の奥にある神様の恵みとご愛と力を受け止めることができるはずです。私たちはいつも「私はイスラエル、神の民である」と自覚しましょう。人前で誇ることはない。「私はあんたたちと違うからね。私はイスラエルだから」と言わなくてもいい。言わなくてもいいけれども、心の中で感謝するのです。外側は日本人であっても心はイスラエル、神の民です。そしてヤコブであり、アブラハムの子孫。しかもここに「わが友アブラハムの子孫よ」と。神様がご自分の友としてアブラハムを呼んでくださる。こんなすごいことはないでしょう。神様がご自分の親しい友としてアブラハムを選んだ。私たちはその友の子孫である。私どもの所に時々親しい友達の息子さんや娘さんが来られる。「彼の息子なのね」と一気に親しくなります、親を知っていますから。だから、アブラハムが神様の友であるならば、そのアブラハムの子孫である私たちも神様に遠慮することはいりません。

9節に「わたしは地の果から、あなたを連れてき、地のすみずみから、あなたを召して」とありますが、「地の果」「地のすみずみ」、こういう言い方をされると、箱の隅にへばりついた黒っぽいごみのようなものに思われます。「地の果」とか「地のすみずみ」とは、目にも留まらないいと小さき者たち、という意味です。隅々にあるものとは、私たちのことです。お菓子などを食べたとき、ケースの隅っこにこびりついたものを気に掛ける人はいません。 “重箱の隅を楊枝(ようじ)でほじくる”という言葉がありますが、大抵は食べ終わったら、空の容器は「これは捨てよう」となります。「まだ付いてるではないか」と、そんなことは気になりません。だから「地の果」とか「地のすみずみ」とは、目にも留まらない存在、なくて当たり前の存在ということです。そのような「あなたを召して」という意味です。私たちは地の果てにあって、神様の目にも留まらないような陰に隠れていた。そういう所から私たちを救い出してくださった。考えてみるとそうですね。こうやってイエス様の救いにあずかって、神様を「アバ父よ」「天のお父様」と祈ることができるなんて、私はいったいどこでどう間違ったのかしらと不思議に思います。自分の何が良くて神様はこのようにしてくださったのかしらと。今置かれている自分の境遇、与えられているこの信仰をもう一度振り返ってみるならば、本当に不思議としか言い様がない。これは神様が一方的に私たちになしてくださったみわざ以外の何物でもない。もっというならば、私たちよりも選ばれて当然の人が周囲にたくさんいます。品行方正、人徳も豊かで人から賞賛され、人柄も良くて「あの人は立派な人だ」と言われる人はごろごろと掃いて捨てるほどいる。それに比べて私どもはかたくなでひねくれて取り柄はなくて、人から憎まれ、嫌われる存在でしかない。あのザアカイの様なものです。しかし、そういう地の果てにある、地の隅々にいた私たちを「あなたを召して」と9節にあります。そして「あなたに言った」と。「あなたは、わたしのしもべ、わたしは、あなたを選んで捨てなかった」。神様は私たちを「あなたは、わたしのしもべ」、わたしのそばにいる仕えるべき者、そして神様は私たちを選んで捨てなかった。「ひとたび我に就(きた)る者は我かならず之を棄(すて)ず」(ヨハネ6:37元訳)と約束してくださった。神様は、ご自分の許(もと)に来た人を一人として捨てないと。というのは、神様は期待して私たちを選んだかもしれないが、期待はずれで捨てられやしないかと、そのような心配の方が先立ちます。ひょっとしたら神様のご期待に応えられない。

スーパーで買い物をして、「これは……」と期待して買って帰ったら、「あれ、ちょっと悪かった、返しに行こう」と言うでしょう。「賞味期限が切れていた」と返しに行く。そうやって神様から私たちが捨てられやしないかと恐れますが、そうではないのです。「わたしは、あなたを選んで捨てなかった」と。しかも、神様は仕方がない、気が付いたら残り物だったから、仕方ないから選んだ、というのではない。神様のほうが「あなたを選んで」というのは、積極的に神様が仕掛けてくださったのです。消去法でとうとう最後に残ったものしかなかったから、「仕方がない、これで我慢するか」という意味で選んだのでなくて、神様は私たちのことを全部知り尽くして、何もかも知ったうえで、「これがわたしの必要」と、大切なものだ、と決めてくださった。そして、選んでくださった。選んだ以上捨てなかった。今も神様は私たちをご自分のものとして握ってくださっている。私たちはこのことをまず知っておきたいと思う。

そして、10節に「恐れてはならない」。ここですね、「恐れてはならない」と。8節から16節までの間に繰り返して「恐れてはならない」と語られています。10節に「恐れてはならない」、13節に「恐れてはならない」、また14節に「恐れてはならない」と、何度も何度も神様は「恐れてはならない」とおっしゃるのです。というのは、私たちは恐れやすいのです。確かにそうです。一日を振り返ってみても、何かをいつも恐れています。「ああなったらどうしようか」「こうなったらどうしようか」「もしああなったら、そのときはこうして、じゃ、その後はどうなるだろうか」と、常に事に当たる度に恐れが伴います。仕方ないというか、これはもう生まれながらの自分の習い性のように、性状性格のように染み付いてしまって、恐れている自分が当たり前のようになっています。いつも何かを恐れては縮(ちぢ)こまっている。手も出ない、足も出ない、ジーッとして、沈み込んでしまう自分に慣れきっているのではないでしょうか。そうではなくて、神様は「恐れてはならない」と言われます。なぜ「恐れるな」とおっしゃるのか。恐れると力を失う。恐れが心に生じますと、とんでもないことをしでかすのです。恐れのために突拍子もないこと、普段しない様なことまでしてしまいます。だから、ある意味でほかにもいろいろと敵はありますが、一つのはっきりした警戒すべき事柄は、心に恐れが生じることです。恐れると力がなくなってしおれてしまいます。

「サムエル記上」21章10節から15節までを朗読。

これはダビデがサウル王様に命を狙(ねら)われて逃げていたときであります。このとき10節に「ダビデはその日サウルを恐れて」とあります。それまではサウル王様に命を狙われて逃げてはいましたが、恐れていたわけではありません。彼は神様を信頼していましたから、神様がきちんと私のことを処遇してくださる、といいますか、取り扱ってくださる、と信頼していました。サウル王様と同じ洞穴(ほらあな)でひと時を過ごしたときも、彼は手を出さなかったのです。その瞬間一突きで殺せば、この嫌な逃亡生活から逃れられる、と思ったのですが、部下たちもそれを願いましたが、彼は手を出しませんでした。神様が立てられた以上、神様がこれを取り除かれるときがある、と信じていたからです。そのときは彼の心に何一つ恐れがないのです。逃げてはいますが、サウル王様を恐れたわけではない、神様を畏(おそ)れていました。ところが10節に「ダビデはその日サウルを恐れて」と、神様を畏れ、大切にしていたときは、人のことなど気にならないのです。これは私たちもそうです。心に恐れが生じるのは何か、というと、神様から目をそらすときです。神様だけを見上げて、「神様が善にして善をなし給う御方です、神様はひとり子を賜うほどに限りない愛をもって私を愛してくださっているから、今こんな状態、心配なことがある中にあっても、神様、あなたが共にいてくださいますから大丈夫です」と言えている間は、恐れがありません。ところが、ちょっと横を見る。様子を見る、人の言葉を聞く。あの人、このことを、という具体的な問題や人が目に入ってきて恐れが生じる。「え!大丈夫かしら」。私もよくそういうことで失敗します。だからよく分かるのです。だから、常に神様を畏れることが、人を恐れたり物事や事情、境遇を恐れたりしないで生きるための秘けつです。

このときダビデは「サウルを恐れた」のです。その結果、「立ってガテの王アキシのところへ逃げて行った」と。「ガテの王」というのは、実はペリシテ人の一族です。ペリシテ人はご存じのようにイスラエルの宿敵であります、そのペリシテ人のガテという民族、あるいは部族といいますか、そこにアキシという王様がいました。そこへ彼は逃げ込んだのです。ところがガテの人たちがダビデを見まして、「どうも、あれはイスラエルの次なる王様に任命されたダビデに似ているじゃないか」と。そして、イスラエルの国ではダビデが王になることを皆が願っているはやり歌がはやっていた。「サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した」という、その当時の流行歌の歌詞だと思いますが、歌に歌われるほどの人物、「あれがこの人ではないか」と言う言葉を聞いたとたん、恐れが心に入った。それがまた次なる恐れにつながる。その言葉を聞いたときに12節に「ダビデは、これらの言葉を心におき」とありますが、ここをしっかり注意をしておきたいと思います。「これらの言葉を心におく」と、よく言い得た言葉ですね。

人の何かちょっとした一言でボッと、それが心にへばり付く。すると、そのことから一気に闇が心を支配してくる。そういう経験がよくあります。言葉というのは怖いです。だから、聞くことを選ばなければならない。10節でダビデは「人」を恐れました。そして、12節では「人の言葉」を恐れました。これが私たちの恐れのトップ・ツーです。人を恐れる。「あの人がヒョッとしたら、何か言いはしないか」「こんなことをしたら、あの人が……」と人を恐れる。あるいは「聞いた?あんた、あの人がこう言っていたけれども」と聞いたら、「そんな、いや平気よ、私」と言いながら、しょぼんとなってしょ気返る。人の言葉が私たちの心に入るのです。これは非常に警戒しなければいけません。

とうとうダビデは、12節に「ダビデは、これらの言葉を心におき、ガテの王アキシを、ひじょうに恐れた」と。この「ひじょうに」という副詞が付いていますが、今までの恐れがもっとひどい恐れに変わっていく。13節に「人々の前で、わざと挙動を変え、捕えられて気が変になったふりをし」と、気が変になった、気違いになった振りをする。実に哀れで惨(みじ)めです。そして捕らえられてアキシ王の所に連れて来られた。そして、検分されるのです。本当にダビデかどうか。アキシが見るとよだれはたらして訳の分からないうわ言を言っている。そんな男を目の前にして、「お前たちはおれを馬鹿にしているのか。こんな気違いがおれに必要だというのか」としかられる。それで無罪放免になりました。これは神様の憐(あわ)れみです。私たちも恐れが高じてくると、普段しなくてもいい様なこと、言わなくてもいい様なことを言い出したりしますから、余程注意しなければなりません。恐れることが私たちのいちばんの弱点です。

「サムエル記上」18章12節を朗読。

これはサウル王様が神様の言葉に従わなかったことで、神様が「あなたがわたしを捨てたから、わたしもあなたを捨てた」と、はっきりと訣別(けつべつ)されたのです。だからといって次の日から彼が王の位を退けられたのではなくて、王様として君臨はしておりましたが、神様の祝福が途絶えてしまった。それからというもの、サウル王様の心に不安と疑心暗鬼、恐れが絶えず心を悩ませるようになってきます。今お読みいたしましたすぐ前の10節以下には、神様からサウルに悪霊が激しく臨むとあります。ダビデが何とかその心を静めるために竪琴を弾くのですが、それとても聞いておられないと言って、そばにあったやりでダビデを殺そうとする。幸いダビデは二度ほど身をかわしてその難を逃れるのですが、その後12節に「主がサウルを離れて」とあるように、サウル王の心には神様を畏れる思いがなくなったのです。主の霊が彼から取り去られてしまった。そうすると、彼は人を恐れ、事情、境遇、事柄を恐れ、神様の厳しい裁きの中に生きる日々に変わる。ところが、12節に「主がサウルを離れて、ダビデと共におられたので、サウルはダビデを恐れた」。神様の力がダビデに臨んでおった。それだけにサウルはダビデを恐れたのです。ダビデが自分の地位を狙っているのではないか、自分の王の位を奪い取るのではないか、という恐れは、実はダビデに神様が味方しておられることを恐れたのです。サウル王様の恐れは大変深い闇でした。それはサウル王様だけではなく、先ほどのダビデもそうです。神様の霊に満たされ、神様一筋に思いが定まったとき、ダビデは平安でおられましたが、いったん神様から離れると、たとえダビデであっても、恐れに支配されたとき、彼は弱くなりました。

だから、「私は何十年来の信者だから、神様は守ってくださるはずだ」と思っていても、そうはいかない。私たちの信仰は、干物ではなく、生ものですから、一日、一日、新鮮にフレッシュでないと駄目です。だから、絶えず思いを新しくして、神様のほうに心と思いの一切を向けていくこと。

「イザヤ書」に戻りますが、41章10節に、「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる」。「恐れてはならない」と。なぜ恐れてはならないかと、「わたしはあなたと共にいるではないか」と。神様が私たちと共にいるのだから、あなたは何を恐れるのですか。そうです。恐れるとき、神様を忘れているのです。あるいは神様を頭では知っているけれども、心で信じない。そのために恐れが生じる。しかし、神様は「わたしはあなたと共にいる」とおっしゃってくださる。だから「恐れてはならない」。また「驚いてはならない、わたしはあなたの神である」。あなたの神なのだから、驚いたり恐れたりすることはないと。本当にそうです。まず朝起きて「今日一日も主が私と共におられます」と、このことをしっかりと心に定めて歩みますならば、どんなことが起こっても、どんな人の声を聞いても、決して動かされない、揺れません。ところが、私たちは主が共におられることを忘れる。人に心が向いていたり、いろいろな病気であるとか、自分の心配事のほうに心が支配されてしまって、神様が共におられることを忘れるから、いつも恐れるのです。どんなときにも「わたしはあなたと共にいる」と言われる神様がいま私と一緒におられるのだと、そこにいつも思いを向ける。そして「驚いてはならない、わたしはあなたの神である」。神とは全能の神であり、創造の神であり、すべての知恵に満ち給う全知全能の御方です。しかも、そこに「あなたの神」といわれています。他人の神様ではない。皆で共有している神様ではない。「私の神」です。いま聖書に証詞されている神様は他人の神様ではなくて、私の神です、と信じていますか?これがなければ教会の神様にちょっと私も間借りさせてもらっている、ちょっと部屋を借りている、その一部分を使わせてもらっている、そういう思いだったら力がありません。遠慮することはないのです。「私は結構です。隅っこで……、この末席で結構です」なんて、そんなことを言っているから神様を信頼できない。しっかり、厚かましく「あなたは私の神です」と信じていく。そうすると、神様のほうもそこまで信頼されたら答えないわけにはいかない。「少しでいいです」と言ったら、神様は少ししか出さないでしょう。だからお祈りをするとき「あなたは私の神ですから、神様、あなたがすべてをご存じではないですか。このことについてはどうぞ、神様、あなたの力をあらわしてください」と、大胆に求めるのです。求める、といって、私どもはどうも自信がない。「あなたは私の神」と信じきれないものだから、「あの人の様な信仰ならいいのだが、私はそこまでちょっと言えないから、厚かましいことを言ったら嫌われるかもしれない」と。神様はそのような御方ではありません。神様は私たちが求めれば求めるほど、それに答えてくださるのです。だから、私どもは「あなたは私の神です。いま私がこういう状態の中におりますからどうぞ、憐れんでください。この様子はすべてあなたがご存じであります」と、思いきって神様に求めていく、信頼する。これは神様が喜んでくださる道です。

その後に「わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」。神様は私たちと共にいて「あなたを強くする」のです。私たち弱い者を強くしてくださる。神様が共にいてくださるから、私たちは弱いけれども強いのです。パウロが「われ弱き時、強ければなり」と「コリント人への第二の手紙」に語っているように、神様が私たちを強くしてくださる。「ピリピ人への手紙」には「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(4:13)と言ったでしょう。クリスチャンといいますか、神様の救いにあずかった私たちにとって不可能ということはありません。駄目だ、できない、ということはあり得ない。「でも、できないことはいくらでもあるではないか」と言われますが、それは「今、しなくてもいい」と、神様がとどめておられるのであって、必要なときはどんなことでもできる。だから、財布の中を見たり、あるいは自分の健康状態を見たり、家族の様子を見て、「これは駄目だ」「これもできん」「これも無理」「これはやめておこう」「あれもやめておこう」と、そのような事情や境遇や事柄ばかりを見ている。私たちはできるのです。なぜならば、神様は全能の神、神にはできないことがない御方です。その方が私たちと共にいて、「わたしはあなたを強くし、あなたを助け」と、神様のほうが知恵を与え、力を与え、健康を与え、必要を満たして、助けてくださる。折にかなう助けを与えてくださる。自分では不可能な、想像のつかないことを神様はなさいます。「え!こんなことがあるの?」と思うことを神様はちゃんと備えてくださる。自分の知識や想像を超えたことです。だから、私たちはどんなときにも失望しません。常に神様はどうなさるか。神様はどんなことでもおできになる。そして、「私はできなくても、神様がさせてくださるなら、できないことはありません」と、絶えずそこに立っていく。自分を見たらできないことばかりです。無能無力ですから、知恵も力もありません。体力もない、健康もない、お金もない、何もない。でも、神様が共におられるからできないことはない。必要なことはどんなことでもできる。

10節に「わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」と。私たちはいま自分で立っているつもりですが、それは大間違いです。神様が支えて立たせてくださっているのです。神様が私たちを持ち運んでくださっているから、大きな顔をしていられる。神様が私を支えてくださる。その支えがなくなったら、「人の子よ、帰れ」と、神様が天国、御国に召してくださるのですから、何も心配はいらない。全部準備万端整っているのです。神様はどんなときにでも「わたしはあなたと共にいる」とおっしゃる。そこに思いを向けておきたい。そうすると、恐れは近寄ることができない。私たちの心を支配できないで退散します。ところが、うっかり忘れると、瞬時に恐れが忍び込んできます。平安である心が大嵐になります。

10節に「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」、神様の絶大な勝利の手をもって「あなたをささえる」とおっしゃる。大船に乗った気持ちで神様に委ねきって信頼し、主の求め給うところ、主の願っておられる御思いに従って行く。そうするなら、私たちをして脱穀機のようにして、山を砕いてもみがらのごとく吹き飛ばす力のある者へと造り替えてくださるのです。

御言葉にありますように「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる」という、この「恐れてはならない」という言葉と、「わたしはあなたと共にいる」という言葉はワンセットで、聖書の至る所に出てきます。素晴らしい神様の約束です。私たちはいつも恐れやすい。そういう自分であることを認めて、絶えず共にいてくださる主を手触る様に、実感する毎日でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。