美しい時の中で

「伝道の書」3章1節から15節までを朗読。

 11節「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」。

何か事を始めようとするとき、今がその時なのだろうか、もう少し待ったほうがいいのだろうか、あるいはひょっとしたら手遅れじゃないだろうかとあれこれ考えます。殊に「時」ということを推し量ろうとします。チャンスという言葉を使いますが、グッド・チャンス、いちばんよい時を人は願い、求めます。ところが、それが分からないのです。ですから、いろいろな人に聞いて、今が時期だと判断します。自分に確信がありません。「これで良かった」と言えない。「ちょっと早すぎたのではないか。もう少し遅く言えばよかった」とか「すればよかった」と悔やみます。

この1節に「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」と言われています。どんなことでも季節があり、時がある。確かにそれは私たちも知っています。ただその時がいつであるかが分からない。そのため不安といいますか、恐れが絶えず伴うのです。しかし、時は神様が握っておられるのです。これが11節の「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と言われていることです。時にかなうこと、必要なタイミングがぴったり合う。これは最高のことです。私たちもそれを願うのです。願いながら、どうもずれているような、タイミングがうまく合わないような、合ったか合わないか自信がない。その原因は、私たちが神様を信じないからです。

聖書では「神を信じなさい」としばしば言われますが、神様を信じるって、どうすることなのか? 神様がいらっしゃると信じているが、それと今の生活とどう関係しているのか。これがつながらなければ、「神を信じた」とはならないのです。「私は神を信じています」と言いながら、片方で懸命に「ああしようか」「どうしようか」「ああなったらどうしようか」「こうなったらどうしようか」と思案する。「神を信じています」と言いながら、思い煩うのであれば、「神を信じる」ことが成り立たない。スローガンといいますか、掛け声だけは「神を信じる」「神様を信じています」と言いながら、実際に神を信じるとはどうすることか?それはもっと具体的な事柄であります。その一つが「時」を神様が握っていると信じることです。「すべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」とあります。2節には「生るるに時があり、死ぬるに時があり」と。確かに生まれるに時がある。人が生まれるとき、十月十日(とつきとおか)とか言いますが、それだっていつ生まれるか分かりません。

教会のある若い方が出産にあたって、私どもも出産に立ち会いたいと思っていました。「先生、もうすぐ生まれそうですよ」と言うから、「出かけよう」と病院に行き、病室の横で待っていたのです。産婦さんの横にモニターがあって、陣痛が来るタイミングが全部見えている。だんだん近づいて、「もうすぐだ、もうすぐだ」と待っていました。家族が集まってワーワーやっていると、お母さんが楽しくなってしまったのでしょう。胎児が眠ってしまった。陣痛が延びまして、2時間、3時間待ったのですけれども、翌日が聖日だったので、「いつ生まれるか分からん」と言われまして、仕方なくあきらめて帰りましたら、朝方の3時か4時くらいに生まれました。こればかりは分からない。まさに「生るるに時があり」、その時を握っているのは神様です。ところが、医学が進歩して、なんでも思い通りに出来るかのように思ってしまう。陣痛がだんだんと短くなってきて、破水があってすぐに生まれるに違いない。段取りは分かるのですが、それがいつなのか、これはあくまでも神様の領域です。ところが、私どもはそれを忘れてしまう。意識しないものですから、自分が時を握っているように思いあがる。この時にこうしなければいけないんだと、自分が神様に取って代わる。そこが問題です。

「死ぬるに時があり」とありますが、これも皆さんがよくご存じのとおりです。あるとき、教会員のご高齢の方が危篤状態になられました。今日か明日かというような状況が2,3日続いていたのです。その日はたまたま土曜日でした。午前中に教会員の若い方の結婚式があり、「披露宴まで来てくれ」と言われ、出かけて夕方3時過ぎか4時くらいに戻って来たのです。その日の夜はまた別の方が感謝会をしたいから来てくれと言われていましたから、引き続いて行かなければならない。ただ危篤の方がおられたので、ちょっと心配になり、「ひょっとしたら、今晩が山かもしれない」と言われていましたので、「ちょっと、様子を見て来よう」と思って、病室へお祈りをしに行きました。見ると、また呼吸も乱れてはいないし、そばにあるモニターの血圧もそこそこで、上のほうは120ぐらいありましたし、下は70いくつありましたから、「これで大丈夫だろう。このままで今晩はもてるに違いない。今晩の感謝会には出られるな」と思って、「それじゃ、また来ますね」と帰ったのです。夜10時ぐらいに教会に戻ってきました。その日は7月でしたから梅雨で雨がザーザー降っていまして、鍵を開けようとしたら足元に白い紙切れが水の上に浮いているのです。見たら「8時何分でしたか、この方が召されました。連絡がつかないので取りあえずお知らせしておきます」と。そのころは携帯電話も持っていませんし、電話の転送もできなかったのです。後で聞いてみたら、教会に電話すれども出ない。だからそのご家族は先生に連絡しようとあちらにこちら、教会員の方々に「先生はどこに行ったのですか」と聞いて回ったのです。私たちはプライベートというか、個人的に招かれていましたから、別にちゃんと言ってなかったのです。ある方が教会に電話したが、応答がないので、「これはひょっとしたら、先生たち、何か事故があったに違いない。」と、それでわざわざ来てみたら鍵が掛かっていた。車もないから「お出かけなんだ」と思って、書置きをしておきましたと。それですぐに10時ぐらいでしたが、そのご家族に電話をして「今からちょっとお伺いします」。ご遺体は自宅に運ばれていましたので、そこで家族と共にお祈りをして帰ってきたのです。そのとき、しみじみ「時があるな」と思いました。夕方に行って確認したのですが、私の思ったようにならなかった。それは神様の手に握られている事だからです。

2節に「生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり」と。誠にそうです。農家の方々が種を撒いたり、苗を植えたりする「時」は、一年の農業の暦といいますか、年間を通じて昔から決まっている手順があるのです。この日この時、その期間にそれをしないと駄目なのです。教会に小さな庭がありますが、以前は自分で剪定をやっていました。伸び放題になっていた生垣をバサッと切っていく。切ってから「すっきりした」と思ったら、ある方が「先生、こんな時に切っちゃ駄目ですよ」と。「さざんかは今つぼみが付いていたでしょう」と言われて、切ったやつを見ると付いている。「切るのに時がある」と。農業をする人は「植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり」と。手入れをするにもこちらの都合で切っては駄目です。そんなにしたら次の年には花が咲かない。私たちは自分で時を選ぶこと、定めることができません。では、誰が?それは神様です。神様は一つ一つ導いてくださっている。大きなことについてはそう思うのです。生まれる、死ぬ、あるいは進学、結婚、就職するとか、そういう時は「神様が導いてくださった。でも、今日、食事する「時」はおれが決める」と思っている。そこが神様から離れていく原因です。

日常生活の細々した小さなこと、何時に起きるか、洗濯する時はいつか、いつ買い物に行くかなどは自分で決めようとします。朝起きて、「今日は何をしようかしら、午前中、ちょっとスーパーに行っておこう。午後は人が来るから、あれをして、これをして……」と、自分なりにスケジュールを立てます。しかし「一つ一つ神様が今この時を備えてこれをさせてくださっている」と感謝しているでしょうか。案外していません。自分が決めたのだから、そのとおりになるべきだと思う。「出かけよう」と思って準備をして、出ようとしたとき電話が掛かる。昔の友達が「久しぶりね……」なんて言い出して、30分40分、1時間ぐらいしゃべってくたびれ、受話器をガチャンと置いて、ホッと時計を見たらタイムセールに間に合わない。カッカとくる。そういう小さなことも「いま神様がこのことを起こして、この時にこのことをさせなさるのだ」と言えるかどうか。これが神を信じるということです。それを抜きにして「私は神様を信じています」と言うのは、あくまでも言葉だけです。だから、いま読みましたところに、ごく小さなことが書かれています。4節に「泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり」と。「え!そんなことに時があるのか。いつだって笑えばいい」と思います。「葬式のときに笑うわけにはいかないでしょう」。私はこうやってお話しするときには、皆さんの気持ちをほぐすためにおかしなことも言いますが、葬式のときはこちらも笑いを取ることはできません。だから、「笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時がある」。実に日常生活の小さな細かい一つ一つの中にも、神様の定められた時があるのです。

8節には「愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある」と。殊に「和らぐに時がある」とあります。これは皆さんもよくご存じですね。家族で意見が違う。夫婦げんかや親子げんかをする。そうすると「しまった」と思って、「ごめんなさい」と言えばいいのだが、ちょっとそのタイミングを外してしまう。言えばよかったのに、言い損なうと後にズルズルッと尾を引きます。「和らぐに時がある」。神様が「いま言いなさい」と促(うなが)してくださる時がありますが、どういうわけか「いま言ったらこっちが下手に出るような感じで嫌だ」と、意固地になって、気がついてみたら一日過ぎている。一日過ぎてしまうと、もう言いようがない。どこかに切っ掛けを探すのですが、相手もシラッとして、和解できない。神様は「和らぐに時」を備えておられるのですから、神様の時を認めるのです。常に思いをそこに向けて「いま言うべきなのでしょうか?」「いま何をすべきなのでしょうか?」と、絶えず主に問わなければならない。私たちは自分の思いでパッパッと右から左、言われたからチャチャッとやっていると、神様を抜きにして生きることになる。一つ一つについて心の中で祈るのです。「神様、いま言うべきでしょうか?」「何をすべきでしょうか?」「ここでこうしたいのですが、どうなのでしょうか?」と常に問う。なぜならば、神様がその時を握っているからです。自分で「よし、今が時だ」と勝手に思い込んでやってしまうと、後で失敗します。それでうまく事がいったとしても、その後、また違う問題にぶつかって新しい悩みが生まれてきます。ところが、一つ一つ祈りつつ「主が導いてくださった時だ。神様が備えられた時が今なのだ」と信じて、信仰に立って踏み出していきますと、それがうまくいったら感謝、失敗したとしてもまたそこで「神様がこれを造りかえる、新しくし、また善(よ)きこと、益と変えてくださる」と信仰が持てるのです。ところが、自分でやってしまったとき、そのような信仰にいかない。自分の好きなとき、自分の欲得で「今が時だ」「この時を外しては……」とやりますと、うまくいったら有頂天になってお天狗になるだけです。失敗したら悔やんで自分を責めるだけ。次なる問題が出来たらつぶやいて、嘆いて、当り散らすのが、私たちの現状でしょう。そこでは神様とつながってこない。「失敗したけれども、神様がきっと善きにしてくださるに違いない」と言えるには、その前段階から、その出発点から常に神様の「時」に自分を委ねていなければ、その信仰を持ち得ないのです。

だから1節に「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」と。「すべての事」、それはどんなことでも、事の大小を問わず小さいことも大きなことも相談する。病気をするにも時があります。またそれを癒してくださるのも神様の手によるのです。だから、私は自分の病気を通してしみじみそう思いました。がんを患いました。自覚症状としては排尿の回数が多くなって、頻尿(ひんにょう)の傾向になりました。「これはきっと前立腺肥大かもしれない」と、年齢的にもそう思って、ホームドクターの所へ行きました。「血液検査をしてみましょう」と言われて、検査をしてもらったら2,3日後の8時過ぎに電話がありまして、「榎本さん、ちょっとご相談したいことがありまして……」と言われる。お医者さんから「ご相談したいことが……」と、「何事かな? 」と思って、そのときは何も感じないで「今から行きます」と。「実は、前立腺がんのマーカーであるPSA検査をさせていただいた。するとその数値が……」(正常範囲は4以下、4から10ぐらいまでの間はグレーゾーンといって、がんの恐れもあるけれどもそうでないことのほうが多い)。ところが「榎本さんの場合は38です。もうこれは明らかに、そうとしか言いようがありません」と。私はそのとき「大変なことになった。手遅れだ」と思いました。「あと何年かな」とすぐに死を思いました。「取りあえず精密検査をするために総合病院へ行ってください」と言う。すぐに紹介状をもらいまして医療センターに行きました。そして、診察を受けたのです。超音波で検査をして直腸診をし、そしてもう一度血液検査をしてもらいました。その結果は1週間後という。「1週間も放っておいていいのかな」と焦(あせ)るのです。今度はその検査結果を見て、担当の先生が「確かにどうも怪しい。大抵は前立腺ガンは表面と言いますか、外側にできやすいのだが、榎本さんの場合は内側に集中しているようなので、外へ出にくいタイプだと思う。だから転移とか、その周辺に出ている可能性は今のところ少ないと思います。だから、手術でできると思うが、その前にまず生検、組織を採(と)ってみたい」と言うので、組織検査をしてもらいました。すると、明らかにがん細胞が見つかった。「どうしますか?」と。どうしますかって、切るしかない。だから、全摘除手術ということになりました。とった組織を全部調べました結果、ほかには転移がないということで終わりました。

でも、そのことを通してしみじみ教えられることは、一つ一つの「時」を神様が備えてくださる。病気になると「早く何とかしなきゃ」と焦(あせ)る。「タイミングを逃したら手遅れになるのじゃないか」。だから、常日ごろから検査、検査をしていれば、うまい具合に早期発見、早期治療に至るに違いないと医者は言いますから、検査を受けますが、案外そうでもない。ある方は半年に一度ずつ検査を受けていた。その年もちゃんと検査を受けたのだが、夏ぐらいからどうもおなかの調子がおかしい。調べてみたら大腸がんだった。しかもそれは手遅れだったと。大腸のほとんどにがんが広がっていて、病院に搬送されてそこで抗がん剤投与の治療を受けましたが、「手がない」となって、とうとうホスピスに入られました。神様の「時」の中に人は生きているのです。だから、どんなことをしてみても、主が備えられることから逃げることはできません。いくら医学が発達しているからと言っても、神様のなさることであって、医学も神様の手にある一つです。

だから、ちょっとおなかが痛いとすぐ「がんではないかしら」と不安になったり、頭がボーッとしたら「私はもうボケ始めたかしら」と病気を恐れる。「ボケるにも時があり」です。神様はその時をちゃんと備えてくださって、それにふさわしいように整えてくださる。もちろん検査なんかしなくていいとは思いませんが、それが神様に取って代わるわけではない。よく父が言っていましたが、「人は病気で死ぬのではなくて、神様が『人の子よ、帰れ』と定められたときに帰るのだ」と。本当にそのとおりです。すべてのことにその時を備えてくださっている神様がおられるのです。ただ神様が「いま、お前は病院に行きなさい、検査を受けなさい」と促(うなが)してくださる時に、きちんとそれに従わなければ駄目です。「おれは、医者は嫌いや」とか「検査なんか、おれは受けんぞ!」と言うのは間違いです。だからといって、検査しているから大丈夫と、血液検査表を必ず持って回る方がいますが、いくらそれをしたって神様の手があり、時があるのです。11節に「神のなされることは皆その時にかなって美しい」。神様がなさることが善にして最高の事であり、その時です。だから、常に神様に聞くこと、神様の導かれることを信じていく以外にない。

私は今年(2009年)4月に狭心症を患いました。これもまたそうです。下手をすると今ごろは記念会をしてもらっていたかもしれない。そんなにひどくはなかったのですが、外に出て歩いていると、どうしても胸に痛みを感じる。でも家の中で動いているには何の変化もない。だから「肋間(ろっかん)神経痛かな?」とか、「何かほかのことが原因」と思っていたのです。それでホームドクターに心電図もとってもらったのです。それも異常がないから、取りあえず内科的な狭心症の予防の薬をもらって、1ヵ月ぐらい様子を見たのです。どうも痛みが強くなってくる感じがする。「それじゃ、一度精密に診てもらってください」と言われて紹介された。それで病院に行きました。そのときも「症状はどういう状態ですか?」と担当の先生が聞かれるから、「こういうことです」と言ったら「まぁ、取りあえず調べてみましょう」と言う。それで心臓のエコーであるとか、ジョギングマシーンのようなものの上で少し負荷を掛けながら心電図をとった。その波形のどこが乱れているかによって、心臓のどの部分に問題があるかが分かるそうです。今はそこまで分かる。私もそれを受けまして、ベルトの上を歩いているとだんだん胸が痛くなるのです。それで「これは明らかにちょっと血流が滞(とどこお)っているようで、問題があります」と言われた。「検査入院をしてください」ということですぐに検査入院になりました。時間的には30分そこそこで検査は終わりました。終わった後、結果を見せてくれました。モニターを見ると血管がある所で、まるでウインナーソーセージのくびれのようにくびれている。その後プッとまた広がるのです。「この一箇所だけ、これが問題ですね」と。検査だけで退院するはずでしたが、先生がちょっと首をかしげまして「この状態は90%ふさがっています。今すぐ手術したほうがいいから、退院しないで引き続いてこのままでお願いします」と言われたのです。「金、土、日と3日おいて、月曜日に手術をします」と言う。えらい早いのです。先生のほうが心配された。このまま置いておいたら完全にふさがって、そのさきの心臓の筋肉、本体が痛んでしまう。そうなると、元に戻りません。痛んだ心臓の筋肉は壊死(えし)してしまうから、緊急だったのだと思います。そして手術を受けたのです。今では全く自覚症状もありません。すっかり元気な健康状態に神様は変えてくださいました。本当にいいタイミングで、もう一歩ですよ。あと1カ月でも遅れていたら、死んでいたか、あるいはもっと重大な故障を抱えることになったに違いない。

でも、神様が「時」を導かれるのです。そのことを信じて……、私たちは「何か早くしなければ」「早くしなければ」と焦る。あるいは、「ひょっとしたら手遅れかもしれない」と後悔したり、悔やんだりしますけれども、そうならないためには常に「神のなされることは皆その時にかなって美しい」、いま神様が私のために備えられる時があることを信じていく。日々の生活、毎日の一つ一つの事柄の中にも、絶えずそのことを覚えていく。「いま神様がこのことをさせてくださるのだ」「今このことを神様が私に導いておられる時なのだ」と。その「時」をしっかりと自覚して、ただ昨日の今日、今日の明日、ダラダラッと流れていくような生き方ではなくて、神様の「時」をはっきりと自覚し、信じて生きていきたいと思う。そうしますと、失敗したように思えても、あるいは手遅れに思えても、神様のほうがきちんとその後の責任を、アフターケアーをなさいます。自分の計画と自分の思いで、心の思いのままにやりますと、最後のアフターケアーは自分でやらなければならない。それでは苦しい。だから、神様がやってくだされば、最後まで神様は手に握ってくださる。そういう信仰を私たちは持てるのです。信じていけるのです。「先生、こんな問題になりまして」と、聞いてみると、その出発点がそもそも間違っている。だから問題がごちゃごちゃになって、信仰が持てない。自分勝手にやってしまったものだから、そこで悔い改めて、主に立ち返る。神様の前に「間違っておりました。私が勝手なことをしましたのでこうなってしまいましたが、どうぞ哀れんで、あなたの御心にかなうものと変えてください」と、神様に信頼する信仰を復活させていくこと、これが主の恵みにあずかる大切な事です。

11節後半に「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」と。ここに「永遠を思う思いを授けられた」とありますが、言い換えると、神様のことを思う心を与えられている。「永遠」というのは神様のことです。私たちには神様のことを思う心があります。しかし、だからといって神様を超えることはできません。神様の御業を初めから終りまで見きわめる、それは無理です。ところが、私どもはそれを求めます。これからどうなるだろうか。ちゃんと最後まで見せてほしいと。見られないのです。神様はその終わりを隠しています。一日一日開いて見せてくださる。私どもは神様のことを思いますが、神様のわざをすべて知り尽くすことはできません。今どうなっているのか、つい私どもは大きな初めから終わりまでの一つのタイムスケジュールの中で、いま自分はどのあたりだろうか、このあたりだろうか、それに合わせてどうしようかと考えますが、神様のわざは神様の中にあるのであって、私たちの中にはありません。だから、「わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている」と言われます。「それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」(エレミヤ 29:11)と。神様は私たちに善きことを備えようとしてくださるのですから、神様の導かれる「時」の中に絶えず自分を置いていきたい。

そのためには日々の生活の一つ一つについて、このことも神様が備えてくださったことですと信じる信仰に立っていきたい。それが良くても悪くても、そこで感謝することができる。「神様が備えられたことですから」と。それを感謝して受けるとき捨てるべきものはない。万事を益としてくださる主がおられるのですから、そこに平安を頂くことができます。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。