御旨はいかに

「エペソ人への手紙」5章15節から21節までを朗読。

 17節「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい」。

イエス様はよみがえられた後、四十日にわたって、ご自身が確かによみがえって今も生きておられることを多くの人々に証しなさいました。弟子たちにも度々いろんな場合にあらわしてくださって、「わたしがあなた方と共にいるではないか」と確かな約束を与えてくださいました。その一つに「ヨハネによる福音書」21章の、ガリラヤ湖畔で朝早くイエス様が弟子たちにお会いになった記事があります。弟子たちは一晩ガリラヤ湖で漁をしましたが何も獲(と)れませんでした。夜が明け始めたとき、岸に立っている人から「何か獲物があるか?」と聞かれました。そのとき、その人が「船の右の方に網を下ろしてみなさい」と言ったのです。それで弟子たちが網を下ろしてみると、大変多くの魚をとることができた。改めて岸に立っている人を見直すと、それはイエス様であったという記事です。イエス様は、その後弟子たちを迎えて、朝食を食べさせてくださいました。火をおこして、魚を焼き、パンを食べさせました。食後、イエス様はペテロに「あなたはこの者に勝ってわたしを愛するか?」と、「あなたはわたしを愛するか?」と、三度もしつこく尋ねました。ペテロは「そのことはあなたがご存じではありませんか!」と、ちょっと憤慨した気持ちで答えました。最後にイエス様が「あなたは、わたしに従ってきなさい」と言われたのです。ヨハネがそばにいましたから、「この人はどうなのですか?」と訊きました。なんだか自分ばかりに言われたような気がしたのです。そのとき、イエス様は「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」(22節)と言われました。

ペンテコステから後のことが使徒行伝に語られていますが、そこに至る一つの前提条件として、イエス様がこれだけは是非ともすべての人に知ってほしいと願ったことが21章の記事ではないかと私は思っています。ここでペテロに対して「あなたは、わたしを愛するか?」と問われました。またペテロに「あなたは、わたしに従ってきなさい」と言われました。何かペテロだけに神様が格別課題を与えられたように思いますが、実はそうではなくて、この地上に残された私たちの生き方、歩み方はどうあるべきか、その一つが「イエス様を愛する」ことであり、「イエス様に従う」ことに尽きるのです。それは今も私たちに求められているただ一つの事です。

教会にイエス様を求め、信仰を求めて来ます。やがて、イエス様を信じるようになり、神様の憐(あわ)れみを受けて信仰を持たせていただく。洗礼を受けて新しいクリスチャンとしての生涯を始めようとするとき、「先生、洗礼を受けてクリスチャンになったら、どういう義務がありますか。何かしなければならないことがありますか?」と尋ねられます。大抵の教会だと教会員として果たすべき義務がある。「まず礼拝は守りなさい」とか「聖書を読み、お祈りすること」、それから「献金をちゃんとすること」。多くの教会は月定献金という、一人一人決まった額、私はこれだけをしますと約束をした月々の献金をしなければいけない。そのほか婦人会とか青年会とかそういう「各部会に入りなさい」。そして教会のために働く。教会のために働くことは、すなわちキリストのために働くこと。「まず伝道をしなさい」、そのためにトラクトを配る、あるいは友人知人を教会に誘うこと、一人が一人を誘いなさい。すると日本のクリスチャン人口はもっと増えるはずだというように、保険会社のセールスマンのような勧めをされます。そうすると「なるほど、クリスチャンになったらそういうことを熱心にするのか」と、中にはそれが楽しみで、「よし、ひとつやってやろう!」と励む方もあります。教会によってはグラフがあって教会員の名前ごとに礼拝出席率が表示されます。この人はこのくらい達成したとか、この方は100%、この方は50%とありますから、休めなくなる。だから、教会員になるのは一大決心がいる。「私はクリスチャンになって何をすべきでしょうか?」と。「何ができるの?」「いや、言われたらできる限りのことを……」と。でも、そもそも私たちはできないのです。できないからイエス様にすがらなければおられないわけです。いつも申し上げることですが、「イエス様に従うこと、これ一つだけ守ればもうあとは何もいりません」。これはクリスチャンの大原則と言いますか、必要にして、かつ十分な条件です。クリスチャンとはイエス様に従う者なのです。キリストのものとなることです。だから、イエス様は「あなたは、わたしに従ってきなさい」と言われる。しかも「あなた方」ではなく、「あなたは」と。私たち一人一人に「あなたは、わたしに従ってきなさい」と言われる。主に従うということ、これがクリスチャンがまず徹底して求める事であり、自分自身を振り返るべき事もそこにあるのです。「今年は礼拝も休まずに、木曜会も大体八割がたは行っているし、毎朝お祈りも欠かしたことはないし、これで90点ぐらい、優等生のクリスチャンだ」と思っている。それは駄目です。主に従っているかどうかが問題です。私はイエス様に今日従っているかを問うことです。「それじゃ、教会に行かんでもいいんですか?」と。「それは、あなたが主に従って、イエス様の御心が『行くな』とおっしゃるならば、それは来るべきではないでしょう」「え!礼拝は義務じゃないですか?」「義務ではありません。イエス様がそれを願っているから、御心だから、私は今日も主のみ前に近づいて礼拝をささげたいと、感謝する心があって来るべきで、行かないとあの人から何か言われるかもしれないから、また教会員の人から『なんであんた、来なかったの!』と言われそうだから、仕方がない、終わりがけでもいいからちょっと顔だけ出そうか」と。それはイエス様が喜ばれない。そうでしょう。イエス様が喜ばれることは何か?私たちが「今イエス様の御心に従っています」と言えるかどうかです。

だから、今読みました記事に、15節「そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き」と記されています。ここで「歩きかた」とありますが、これは度々申し上げるように「生活」です。日々の日常生活、朝起きてから夜寝るまでの生活のあり方を「よく注意して」と。どういう注意をするのか?病気にならないように食べるものに注意をする」とか、そういうことではなくて、その後に「賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き」とあります。「賢い」とか「賢くない」と言われると、すぐ学校教育の弊害(へいがい)で偏差値がどうだとか、学校での成績が良かったとか悪かったとかすぐ思う。自分の子供のころを振り返って、「私の成績は中の下やったしな」と。しかし、そんなことは関係がない。「賢くない者」あるいは「賢い者」とは、聖書に語られているように「神を恐れる者」という意味です。「賢い者」というのは、神様を恐れ敬い、神様を信じる人のことです。だから17節に「愚かな者」と記されています。これは「賢くない者」です。「愚かな者」とは詩篇に「愚かなる者は神なしと言へり」(14:1文語訳)とあるように、「神様なんかいるはずがない」という思いを持っている人は「愚かな人だと」。だから「賢い人」は「神様は見ていらっしゃる。私を造り、私を生かしてくださった御方がおられる。すべてのものを支配している神様がいらっしゃる」と認めて、自分の今日の一日を神様の御旨に従う、御心に従わせていくこと、これを努めていくことがクリスチャンです。そして、それが救われた私たちのなすべき全てです。15節以下に「あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、16 今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである」。言うならば、神様を離れて、人々が自分勝手な人の思い、人間の欲望、情欲に従って生きている時代。この悪い時代にこそ私たちは、だからこそいよいよ熱心に私たちは神様の御心に従うことを努めていこうではないか。これは私たちが絶えず求めていくべき事です。

 ですから、何が神様に求められていることかをはっきりと知っておきたい。そして、絶えずそのごとくに自分は歩いているのだろうか、いま私はこの「賢い者」のように、神を畏(おそ)れる者のごとくに歩いているだろうかと、生活を点検していただきたいと思います。そうでなければ、私たちはクリスチャンと言えない、救われた者とは言えないからです。17節に「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい」。ここです。「主に従う」とはいうものの、神様は私に何を求めておられるかを知らなければ従えません。「従います」「従います」と言いながら、「何を神様は求めていらっしゃるのか。何かよう分からんけれども、もう従っていることにしておこう」とか、勝手にそんなことを決めたって仕方がない。本当に従ったかどうか、神様は点検なさいますから、いつも「主の御旨がなんであるかを悟りなさい」と言われるのです。

 その少し前、5章10節「主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい」と記されています。これは「御旨がなんであるかを悟りなさい」というのと同じです。「主に喜ばれるもの」、神様が喜んでくださることは何だろうか? その「喜ぶこと」とは、「御心に従う」ことでしょう。親でもそうですが、子供が親の心を知って、思いを知って、親の意向に沿ってくれるときはうれしいですよ。ところが“親の心、子知らず”で、親は一生懸命に子供のことを思いながら、あれもし、これもし、先、先を見通して注意をしてくれたり、しかってもくれます。忠告もしてくれます。しかし、子供にとってはうるさい。そういう時期があります。それで勝手なことをする。そうすると、親はいちばん不安です、心配です、喜べません。たとえどんなことをするにしても、親が願っていることを知って、それに沿うてくれる子供はうれしいですね。神様もそうです。神様が私に今求められていること知って、それに従うとき、神様もまた喜ばれます。私たちは今この地上に神様によって生かされているわけで、自分が好きで生きているわけではない。自分の夢を実現し、自分の欲望を達成するために生きているのではなくて、造り主でいらっしゃる神様の使命、私たち一人一人に求められるところ、その御旨に従って生きる者として生かされているのです。だから私たちは自分の体であってももはや自分のものではないのです。今日一日、24時間、私の自由ができる時間ではなくて、それは主のものです。私たちがイエス様を信じる救いはまさにそこであります。自分のものではなくて、すべてが主のものであって、神様にささげたものです。だから、私たちは何をするにしても、主の御心に従わなければ……でしょう?

 高齢化社会になって人が年を取ってきます。そうすると、認知症であるとか、身体的に不自由になって独り立ちができない、人の世話を受けなければならなくなります。しかも、家族も遠く離れていたり、家族がいなくて独りきりになります。そうすると、成人後見人制度というのがあります。家内の叔母もそうですが、生涯独身です。76歳になり、兄弟姉妹も年を取っています。姪や甥でいちばん身近なのは私の家内です。いちばん上の兄で信頼していた義父が亡くなり、大変心細くなりまして、自分の老後を誰が管理してくれるか、誰が責任を持ってくれるか心配する。それで成人後見人制度を利用しようと、公証人役場に行きまして、後見人に関する公正証書を作成しました。預貯金の管理であるとか、入退院の世話であるとか、介護にかかわる様々な決定権をこの方に委ねますという、公正証書を作るのです。家内が引き受けて叔母の後見人になったのです。なったからといって、自分のしたいようにはできません。「これから叔母さんのことは自分が全部面倒を見るから、もう預金通帳から現金まで私が管理してあげましょう」というわけにもいかない。そして、「あるから私が好きに自分のために使いましょう」と言うわけにはいかない。ちゃんと相手の意思に従うということが義務付けられています。後見人は、あくまでもそれを委託した当事者の意向に沿うべきであることがはっきりと謳(うた)われています。言うならば、御心に従えということです。

私たちはイエス様の後見人ではありませんが、イエス様は私たちの所有者、責任者です。だから、私たちの時間も体も健康も、実はイエス様のものなのです。ところが、イエス様のものをあずかって責任を持って管理しなければいけないのに、自分の好き放題、したい放題、自分勝手に使っているとしたら、これはとんでもないことです。これは背任罪という犯罪です。神様から信頼されて預かったものをほかのものに使ってしまったのです。これは罪ですよ。私たちはすべて主のものです。だから、今朝起きて、今日の一日の時間をどうするか、これはその持ち主であるイエス様に尋ねなければいけない。主の御旨が何であるかを。17節に「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい」と。主が何とおっしゃるか。朝起きて「今日は何をすべきでしょうか」、24時間の時間を神様が与えてくださって、いつ何をすべきか、一つ一つどんなことでも「主の御旨はいかに?」、神様が私に求めていることはどういうことであるかを知らなければできません。イエス様もそのような生き方をなさったのです。

「ヨハネによる福音書」5章19、20節の前半までを朗読。

19節に「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない」と。この「子」というのは、イエス様ご自身です。子供であるわたしは父なる神様のなさることを見て、それに従う以外に自分からは何にもできないというのです。これは驚くことです。イエス様はこの地上に人となって宿ってくださいました。人の姿をとって生きてくださった。人の世の中に生きたのですが、しかし、イエス様は常にご自分を遣わされた父なる神様の命ずるままに、それ以外のことは何にもできないという。このことは驚くべきことです。私たちもいまイエス・キリストに倣(なら)う者とされている。イエス様と同じように生きるようにと求められています。イエス様が父なる神様に徹底してお従いなさった。そのように、私たちも今、「主の御旨はいかに……」と、神様に徹底して従う以外に道はないのです。

「ヨハネによる福音書」5章30節を朗読。

イエス様の根本的な生き方、この地上での生活の歩み方の原則はここにあるのです。「自分からは何事もすることができない」。どうでしょうか?私たちは「自分からは何事もすることができない」。「昨日も一日、私はわたしを遣わされた父なる神様の御心にだけ従いました」と言える方は、手を上げてみてください。「考えたら昨日一日私は私の思うがままに生きてきた。主人のこと放ったらかし、子供たちのことも忘れて、私のしたいように生きた。万々歳」と。それは万々歳ではありません。ここに「自分からは何事もすることができない」。そして、「わたしをつかわされたかたの、み旨を求めている」。父なる神様の御心はいかに、御思いはどこにあるか。イエス様はご生涯を通してそれだけに一点集中です。キリストに倣うとはここです。イエス様の優しさとか、イエス様のなさったことを真似することは出来ません。イエス様がどのような生き方をなさったか、そこに自分を重ね合わせていくこと。これがいま私たちクリスチャンのなすべきすべてであります。これができていたら、ほかは何もできなくても結構です。主に倣うとは、キリストがそうであったように父なる神様の御旨を求めていくことです。

「ヨハネによる福音書」6章38節を朗読。

ここに「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく」とあります。イエス様が父なる神様から遣わされてこの世に来てくださったのは、ご自分の心のままを行うのではない。ご自分の願いを実現するのではない。ご自分の思いどおりに生きるのではなくて、「つかわされたかたのみこころを行う」。これはイエス様だけではなくて、イエス様の救いにあずかっている私たちもそうであります。私たちも自分のしたいことをするのではなくて、自分の欲望に従うのではなくて、一つ一つどんな小さなことも大きなことも主の御旨はいかに、御心はどこにあるか。そのことを求めていくこと。これがクリスチャンのクリスチャンたる由縁であります。それ以外にないのです。

「エペソ人への手紙」5章17節に「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい」。「主の御旨がなんであるかを悟りなさい」、そう言われて、「さて、どうすればいいんだろう。主の御旨を悟るってどうすることなのか?」と言われますが、それはただ一つ、祈る以外にありません。私たちがどんなことも神様の前に持ち出して祈らなければ、御心を知ることができないのです。私たちは絶えずいろいろなことの選択と決断を迫られます。「あれしようか」「これしようか」「こっち行こうか」「ああしようか」。一つのことでも幾つかの選択肢があります。その中でどれが御心なのか?つい私たちはそろばんをはじいて「こっちがもうかる」とか、「こちらが損をする」とか、あるいは「こっちが楽だ」とか「こっちが何とかだ」とか、効率的功利主義で「できるだけ手間が掛からないほうがいいだろう」とか、そんなことで決めようとしますが、そうであったらクリスチャンとは言えません。私たちが求めるべきことは、「神様は今このことを何とおっしゃるか」、祈ること。これを欠かしては神様の御旨を知ることができません。「先生、しょっちゅう祈っていなければいかんじゃないですか」と。そのとおりです。ことごとく祈らなければ何も動けない、できないのです。もしできるとしたら、それは主に従っていないときです。どんなことでも、小さなことも大きなことも、スーパーに行って買い物をし、夕食の支度をするとき、「今日は何の献立をしましょうか?」。チラシを見て「安売りだからこれにする」と決めるのではなくて、「主よ、御心はどこに?」、これを求めることが大切です。また何かするにしても、友達から電話が掛かってきて誘われても、そのときにすぐに返事をしない。「ちょっと待て」。「主よ、今こういう誘いがありましたが、ここにいくべきでしょうか?」。どうぞ、祈ってください。どんなことでも、すぐにピンカンと、打てばパッパッと動くのは間違いです。御心を求めるのですから、「しばし待て」です。御心を求めるのに「ちょっと待て」です。そうしてご覧なさい、生活が変わります。ちょっと待つのです。腹が立って言い返してやろうと思って「主よ、御心は?」と、ちょっと待って祈ってご覧なさい。言わなくて済むのです。では、祈ればすぐに分かるかと問われますが、これがまた厄介です。お祈りして、「これはどうなんだろう」と分からないことがあります。そうすると「ま、いいか。後で分かればいいや、取りあえずこれをしとこう」と。それは駄目ですよ。分かるまで動かない。「そんなことしたら手遅れになる。後で始末が負えなくなったらどうする」と。どうするもこうするも神様が知っていらっしゃるのですから、徹底して神様と討ち死にする覚悟で行かなければこれは達成できません。だから、クリスチャンはみなイエス様に命をささげる者です。そうでなければ、私たちは生きることができない。お祈りしても分からない、だったらまた祈ればいい。御心がはっきりとするまで動かない。待つのです。すると家族が言いますよ。「お母さん、早くしてよ、時間がないんだから!」と。「いや、待ちなさい」、時間切れになった。「どうする、手付け金を打ったのに話が流れてしまう。お母さん、弁償してよ」と。そのとき神様にまた求めればいい。神様はちゃんと答えてくださる。大切なのは、どんなことよりも御心に従うことを求めていくこと。御旨を知るために力を尽くさなければ、祈らなければ駄目です。祈っていますと、私たちの内に神様の力が必ず働きます。そして心をだんだんと整えてくださって、いままで考えていたことより、到底思いもつかないことを思い起こさせてくださる。

「ピリピ人への手紙」2章13,14節を朗読。

ここに「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ」とあります。私たちに神様の御思いをはっきりと教えてくださるのは神様ご自身です。祈っていますと、私たちの心に「これはやっぱりやめた方がいいに違いない」。初めは、やろう、やろう、と決めて、「神様、どうしましょうか?」と。ところがどうももうひとつ確信がない。そのうちまた祈る。祈っていると、確信を持てない心がズーッと大きくなってくる。「これはやっぱりやめるべきだな」と、神様は思いを与えてくださる。そしてやめて、「じゃ、どうしようか」と。神様は新しい願いを起させる。それは今まで自分では想像がつかない、考えもしなかった思いが神様によって作り出されてくる。「私はこんな自分だったのか」と思うような結論になる。そして同時に「これは確かに神様が私に備えられた歩むべき道筋。私がすべきことでした」と、はっきり確信が与えられる。そうしますと、喜びがわいてくる、安心が与えられる。たとえそれがうまくいこうと失敗しようとあまり気にならない。神様に従ったという喜びのほうが圧倒的に心を支配して来ますから、うれしくなる。更に、具体的にも人の想像を越え、思いを越えた、今まで自分では到底なし得なかった、考えられなかったことを神様はなさる。これは確かであります。だから、私たちはどんなことも祈る。祈ることによって神様の御旨を求める。祈らずして走り出しては駄目です。願いを起させた神様は「かつ実現に至らせる」。それを実現させてくださる。力のない者に力を与え、時間のない者には時間を与え、健康のない者には健康を与え、お金のない者にはお金を与え、それを実現するのに必要なものは全部神様が徹底して備えられる。だから、私たちが手の内を見て「ある」とか「ない」とか、「これで足りる」とか「これじゃ足りない」とか、そんなことにかかわらないで、神様が「よし」とおっしゃったならば、必ず神様は責任を持って必要を満たしてくださるから、大胆に御旨に従えばいい。ところが、すぐ自分の懐(ふところ)を見て、財布を開いて、貯金通帳を開いて残高を見て決めようとするから、いつも神様の喜びにあずかることができない。何か不満が残って、あんなにしたのに有難うの一言もない。ちょっと電話でもしてやろうかと感謝を催促します。自分の思いを遂げたという満足はあっても、神様に従ったという喜びがなければ、それはむなしいのです。どんなことでも絶えず祈って行こうではなりませんか。

もう亡くなられた四国におられたI先生、この教会に何度か来られましたが、先生が大阪でしたか、集会に行くときに新しいネクタイを買おうと、あるデパートに行ったのです。ネクタイ売り場にいくと店員さんが来て、「これはどうですか」「あれはどうですか」と言う。先生もどれにしようかと迷っていた。とうとう二つ候補が残った。どっちにしようか? 店員さんが「どちらも良いですよ。なんならお二ついかがですか」と言われて、でも二つも付ける首がないし、一回に一つしか付けないのだから一つでよかろうと。それでお祈りをした。店員さんの目の前で「ちょっとすみません。お祈りさせていただきます」と言った。店員さんはポカンとして「え!」。そこで「天のお父様、今二つのネクタイがあります。神様、あなたの御心はどちらを私にくださいますか。教えてください」と祈った。店員さんはそれを聞いていた。「主の聖名によって」と祈って「アーメン」。その瞬間に「じゃ、これをください」と決める。先生は常にどんなことも、小さな事も大きなことも祈っていました。私たちはそれが欠けてしまう。だから力を失い、喜びを失うのです。

「エペソ人への手紙」5章17節に「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい」。いつも「主の御心はいかに?」。ところが、ここで注意をしなければならない二つのことがあります。その一つは日本人の悪いくせです。“和を以(も)って貴(とうと)しとなす”ことです。すぐ横の人を見る。ペテロもそうでした。「この人はどうですか」。お祈りをして、「これは御心に違いない」と思います。しかし、すぐ横の人を見て、あの人は長年のクリスチャンで信仰深い人だし、お祈りもよくなさるようだから、あの方に聞いてみよう。「あなただったらどうする?」と、「いや、私だったらこうするよ」と、「やっぱりね。じゃそれが御心に違いない」。人に尋ねるのです。あの人は私よりも信仰暦が長い人だから、きっと神様の御心がすぐ分かるに違いないと、手軽なところで結論を出そうとするから失敗します。これは絶対駄目です。同じ問題であっても、同じ内容の事であっても、神様がその人に導かれることと、私に導かれることは違うのです。世の中の平等主義は、当てはまらない。「あなたは、わたしに従ってきなさい。この人のことは私が知っている」とイエス様はおっしゃる。常に神様の前に一人で立たなければいけない。たとえ100人が100人反対しようと、「これは私がすべきことです」と、御心であることを確信したならば、しっかりとそれに従って歩もうではありませんか。また100人が100人賛成してくれても、「自分はそこに導かれていない。いや、むしろ行かないことが御心だ」というのでしたら、きっぱりと断る勇気を持ちたい。つい横並び、これがクリスチャン生活の最大の敵です。

もう一つは前例主義というのがあります。過去の経験、自分がこれまで生きてきた。そうするといろいろな経験が積み重なってくる。振り返ってみると、あの時はああしてうまくいった。このときはうまくいかなかったと、いろいろなものがありますから、「さて、この問題はどうしよう」というとき、すぐ過去の事例を探す。「そういえばあのときああしていた。あの人に頼んでうまくいったから今度もあの人に聞いてみよう」と、そちらへ流れていく。これは駄目です。前と全く同じことがあっても、そこでもう一度「主の御旨はいかに」と聞く。サウル王様が亡くなった後、ダビデが王様になり、国がやや落ち着き始めたとき、ペリシテ人が戦いを挑(いど)んできました。レパイムの谷にペリシテ人が百万の軍をもって攻めて来ました。そのときダビデは祈ったのです。その祈りは「主よ、私はこの民と戦うべきでしょうか」と(サムエル下5章)。王様です。敵が来ているのですから戦うのは当然です。だから「勝利させてくれ」と祈るべきでしょう。しかし、彼はそうではない。「この敵が来ましたが、どうしましょうか」「逃げましょうか。戦いましょうか」と。徹底して神様の御旨を求める。つい「これはもうこうなるはずだから、その次のことを祈ろう」と言う。ところが、主の御心を求めるとは、いちばんの始まりからどのようにすべきか、御心に従って出発する。私どもは、このことは親としてすべきこと、母親としてすべきこと、いや妻として、主人として夫としてこれは当然やるべきことだとしたうえで、次にどうするか。じゃあ祈ろうか。それでは神様の正しい御心を悟ることができません。その前提条件をぶち壊して、空っぽになって神様の前に立つ。ダビデは常に自分をリセットする。いろいろなことの度ごとに初めに立ち返る。「戦いに行きましょうか」と祈ったとき、神様が「行きなさい。この戦いであなたに勝利を与える」と確信して、出かけていきました。そして大勝利を得た。それからまたしばらくして全く同じ状況になる。ペリシテ人です。しかも攻めてきた場所も同じ谷です。そのときダビデは「前回勝利をしたから、よし、今回もこれで行こう」と言ったのではない。もう一度神様に祈る。「敵が来ましたからどうしましょうか?」と。そのとき神様は「いま出るな」と止められた。「敵の後ろに回れ。潜(ひそ)んで隠れていなさい。バルサムの木に行進の音が聞こえたならば、言うならば、神様の時がきたら、そこから歓声を上げて敵に立ち向かいなさい」と、神様は細かく御心を示してくださった。ダビデはそれに従う。「前回あの手で勝ったのだから、今回もこれで行こう」と常に前例主義にのっとる。だから、どんなことも日々新しく常に御破算にして、過去は過去です。これまで神様が恵んでくださったことも感謝して終わったこと。さて、更に神様は以前に増してどんな恵みを私たちに注いでくださるか。日々、チャレンジです。だから、「主の御旨はいかに」と祈って、それに従っていきたいと思う。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。