試みの中で主を知る

ヤコブの手紙1章12節から16節までを朗読。

 

 

 12節「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう」。

イエス様の救いにあずかるとはどういうことであるか?それは私たちが神様のものとなること、主のものであることに尽きるのです。しかし、ともするとイエス様の救いにあずかることによって、この世の生活、事情や境遇や事柄など目に見える様々な条件が変わってくるのではないかという期待を持ちやすい。なるほど、それはいちばん身近なことですから、目の前の食べること、着ること、飲むことなど、様々な生活のことがいちばん心配になる。それはわかります。神様もそのことはご存じです。だから「まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ 6:33)と言われます。「そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられる」と。そのように何を食べ、何を着、何を飲もうかと、生活の一切は神様が握ってくださっている。だから、主のものになるほうが幸いなのです。「主は王となられた。世界は堅く立って、動かされることはない」(詩篇96:10)とあるように、主が王となって、私たちを神の国の民としてくださる。だから、神の国の住民である私たちが飢えたり渇いたり、乏しい中にいるとすれば、それは国の政治が悪いわけです。その国の政府が責任を持っていないから乏しくなる。神の国の責任は神様が持っているのです。私どもがしっかりと神様の国の民になりきっているならば、神様はその民を飢えたり渇いたり乏しいことに遭わせ給うことはありません。ましてや神の国は人の造った国ではありません。神様が造られた国です。神様はどんなことでもおできになります。ですから、「まず神の国と神の義とを」ピシッと求めて、神様の前に一切をささげて神のものとなりきってしまうこと、これがイエス様の救いです。そうするならば、神様が私たちを顧(かえり)みてくださいます。ところが、神様の国の民になる前に、自分で何とかしようと焦ったり慌てたり苛立ったりする。だから、神様の前に立ち返ることが、何よりも先決です。何をさておいても、「病気になった、さあ医者に」というよりも、まず主に立ち返ること。神様の御言葉に帰ること、これが私たちのいのちです。

 

 ルカによる福音書10章38節から42節までを朗読。

 

 これはマルタ、マリヤ、ラザロという3兄弟姉妹の家庭のことです。この家族とイエス様は大変親しい関係にありました。イエス様がエルサレムに来られるときには必ず彼らのうちに滞在しました。このときもイエス様が来られて、大変喜んでマルタさんは何とかイエス様をもてなしたいと接待します。ごちそうを差し上げたり、くつろいでもらったり、いろいろなことを計画していた。バタバタと忙しくしておりました。しかも、イエス様がお一人だったらまだしも、イエス様はいつも弟子たちと一緒ですから、大人数で来られたのかもしれません。だからマルタさんは忙しかった。いろいろなことに思いがいき、心が乱れていた。ふと見るとマリヤさんはイエス様の足元にいて御言葉を聞いている。腹が立ったのです。自分だけが忙しくして、それでとうとうイエス様の所へ来て、40節「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか」と言いました。「イエス様、この忙しい私を見てください。妹はこんな所でじっとしていて!」と。「何とか言ってください。手伝うように言ってください」と言う。そのときにイエス様は、41節「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。42 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」と言われた。「そんなに心配することはない。大切なのは一つだけで、これはマリヤから取ってはならないものであるよ」と言われた。

 

この記事はマルタさんとマリヤさんのどちらが良いかという、二分法といいますか、二者択一と理解されがちです。しかし、イエス様がここで言われるのは、事の順序なのです。事の在り方の順序を語っている。どちらが良くてどちらが悪いではなくて、どちらも大切なんだが、その優先順位、第一にすべきことを第一にしなさいということです。そのあとで、次のことも必ずきちんと整ってくるのだから……。ここでマルタさんをイエス様は非難しているのではない。マルタさんが一生懸命にイエス様を何とかしてもてなしたい気持ちもイエス様は分かりすぎるほど分かっている。だから、そのことを有難いとも思っている、しかし、今あなたがいちばんしなければならない第一のことは何だろうか?だから「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」。まず、何よりもいちばん大切な第一のものを第一にすれば、第二のものはおのずから決まってくる。そういうことでしょう。洋服のボタンでもいちばん上をきちっと留めればあとは目をつぶっていても出来てしまう。ところが、いちばん最初のものが最初のところへ来なければ、「ボタンの掛け違い」という話になり、いくらやっていてもきちんとできません。だから、どんなことでもいちばん大切なこと、基本、それをまずきちっと整えていくこと。今マリヤさんがそのことを求めているのは、彼女にとってそれがいちばん大切だからです。大切なものをまず第一にしなさいと、ここでイエス様はおっしゃっている。

 

それと同時に、もう一つはこの大切なものは、39節「この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた」とあります。これは主の足もとにすわってイエス様の語る言葉を聞いていたという程度のことではない。これはその後にヨハネによる福音書6章にイエス様が語っているように、「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」(63節)。言うならば、聞き入っていた御言葉は、イエス様が語ってくださる神の言葉としてマリヤさんは聞いている。マリヤさんにとって、食べることも着ることももちろん必要でしょうが、何よりもイエス様の御言葉によらなければ人は生きることができない。人のいのちは主の言葉から来るのだ。だから、マリヤさんからこれを取るわけにはいかないとイエス様は言われます。「マリヤはその良い方を選んだのだ」、言うならば、いのちを選んだのです。地上の生活で必要なものがありますが、私たちがいちばん大切にしなければならないのは、いのちです。「生きている」と言っているが、肉体の命ではなくて、心から日々の生活の中に喜びがあり、満足があり、望みがあり、感謝がわいているか?心が乏しくなっていのちに欠けてくると、輝きを失います。喜べなくなり、感謝が乏しくなっていく。不平不満、つぶやき、苛立ち、そういう闇の中に入って行く。そこに輝くいのちを、光を与えてくれるのが、「御言」です。光はエネルギー、力です。エネルギーを与えてくれるのは御言です。私たちは御言を握って行かないと、いのちがありません。だから、いつも主の言葉にきちっと立っていくことです。そうすると、いのちに輝いて、心は穏やかになるし、落ち着いておられ、いろいろなことがあってもそれを耐え忍んでいくことができる。力が与えられる。だから、マリヤさんはまずいのちを求めたのです。マルタさんが用意してくれる、準備していたものは食べるもの、飲むもの、そういう目に見えるパン、食事です。もう一つ大切な食事として御言を食べること、主のお言葉を聞くということ、これが人を生かすいのちです。だから、マルタさんが台所で作ってくれるごちそうも悪くはない。それが悪いわけではないが、人にいのちを与えてくれるものを先ず求めること。それを第一にしていくとき、おのずから日ごとの生活の糧すらも、神様は備えてくださる。いのちの言葉に連なる、これがなくてはならない大切なことです。

 

先だってもある方にお会いしましたが、その方は毎朝神様と交わる時間、いわゆる静まる時を必ず持つようにしている。それをすると、その一日が力にあふれてくる。その方は6年ぐらい前に救いにあずかったのですが、それまで大変な悩みの中におられたのです。いろんな病気や障害で苦しんでおられました。そして、イエス様の救いにあずかって、全く造り替えられたのです。先日、お話をしておりましたら、「先生、私は洗礼を受け、イエス様の救いにあずかって、病院と縁がなくなってしまった。この間、病気一つしないで……」と言われました。もう70歳前後の方ですが、「こんな素晴らしい救いを感謝してもしきれません」と言って喜んでいます。毎日まず神様との交わりを持つ。説教テープを聞きながらノートに取り、説教プリントを読んでは感謝し、御言を自分のものとしている。そして、家族のため、自分のため、また友人知人のために祈る。祈りつつ神様と交わっているから、いろいろなことがあってもうろたえない。スッと神様のほうに心がいきますから、すぐに祈ることができる。祈りから知恵を与えられ、神様の御心を悟りますから、思い煩い、心配することがなくなった。といって、心配なことが無いのではない。有るには有るが、ことごとくが感謝でならない。私はその方にお会いするたび、「神様の素晴らしいみわざだ」と、驚きを感じます。だから、第一にすべきものを第一にしていく。「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」と、しっかり私どもは神様に結びつくことです。皆さん一人一人が本当に神様のものとなりきっていく。これがイエス様の救いです。そうすると、私たちの具体的な生活の条件も神様がきちっと整えてくださる。

 

 ヤコブの手紙1章12節「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう」とあります。イエス様の救いにあずかったら、何もかもハッピーになって、問題がなくなるのではありません。現実の生活では確かにいろいろなことがあります。イエス様もそう言われるように、「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)と。私たちがいろいろな試練に遭うこと、これは神様の御心なのです。「どうしてそんなことを神様はなさるのか?そんなことはないのがいい」と言いますが、ヤコブの手紙1章2節に、「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」と、ここでは「耐え忍びなさい」どころではない、「喜びなさい」というのですから、試練を喜ぶことができたら、人生に嘆くことはなくなります。うれしいこと、楽しいことは喜びます。そのうえ、試練も喜ぶなら人生は一から十まで全部喜びになる。私たちが喜べないのは試練が嫌だからでしょう。「こんなつらいことになって」「こんな心配なこと」「思い煩いの中に何で私が置かれるのだろうか」「こんなことがどうして起こってくるのだろうか」と、そのような苛立ち、憤りばかりだから喜べない。ところが、神様は私たちをいろいろな中に通しなさる。イエス様の救いにあずかったから、事がなくてパラダイスとなる、カプセルか温室にでも入れられるかというと、そうではない。神様の御心に従って行こうとするものには悩みがあると、はっきり語られています。日本のように、こういう異教社会と言いますか、イエス様のことも神様のことも知らない社会にあっては、私どものすること言うことが他のものと違って、地球以外の生物のように見られるに違いない。誤解も受けますし、非難されることもあるでしょう。そのような試練を私たちに神様が備えてくださるのです。

 

 コリント人の第二の手紙7章8節から10節までを朗読。

 

 これはパウロがコリントの教会に書いた手紙です。手紙を書くにいたった理由がありました。コリントの教会が神様から離れて、とんでもないことをしていた。それを知って、パウロは悔い改めて新しくなるようにと、叱責の手紙としてこれを書きました。コリント人への第二の手紙もそうなのです。その当時の具体的な事柄とつき合わせていくと、彼はかなり厳しいことをここで語っています。その具体的なことは必要ありませんが、神様に立ち返ること、悔い改めるべきことを指摘したのです。8節に「あの手紙であなたがたを悲しませたとしても」とあります。「あの手紙で」とはこの「第二の手紙」ではなくて、第三の手紙があったと言われていますが、恐らくそのことではないかと思います。その手紙はもっと厳しく、痛切に、コリントの人々を叱責するような内容だったに違いありません。その手紙で彼らは意気消沈してしまった。それを伝え聞いたパウロが「しまった。あんなものを書かなければよかった」と思ったのです。我々にもよくあることです。「言いすぎたかな」と思った。ところが、9節に「今は喜んでいる」と彼は語っている。なぜ喜んでいるか。「それは、あなたがたが悲しんだからではなく」と言っています。悲しんだから喜んでいるのではなく、あなたがたがそこから悔い改めて新しくされたことを聞いて、喜んでいるのだというのです。神様の私たちに対する思いもそうなのです。今いろいろな試練の中、問題や事柄の中に置かれますが、これは神様が私たちを恵もうとしてくださるのです。それらの事柄を通して私たちの心を清め整え、更にもっとキリストの姿かたちに似る者となるように、名実共に神の民、神の子としてふさわしい、内外側ことごとくが清められた者になるようにと、神様が求めておられる。だから、何か思いがけない試錬、苦しみや悲しみや困難な事態や事柄に遭うとき、その背後に見えない神様の深いご計画があり、御思いがあり、私たちに知ってほしいこと、あるいは悔い改め、新しくなるべきことがある。だから、その問題を神様からのこととして受け止めるのが大切です。9節に「今は喜んでいる。それは、あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めるに至ったからである。あなたがたがそのように悲しんだのは、神のみこころに添うたことであって、」と。言うならば、パウロが厳しく激しい言葉でコリントの人々を責めた。そのために彼らは意気消沈して悲しんだ。しかし、そのあとコリントの人々が悔い改めて、神様に立ち返ってくれたから、喜んでいる。その姿を見て自分もうれしいのだと。それは、神様が私にそう言わせて、あなたがたの心を造り替え、神様があなたがたを悔い改めさせて新しい道に立たせてくださった。すべてがこれは神様の御心だったと、パウロは告白したのです。

 

そのあとに「わたしたちからはなんの損害も受けなかったのである。10 神のみこころに添うた悲しみは、」とあります。神様から出たことであるならば、悲しいことであろうと、つらいこと、どんなことであろうと、「悔いのない救を得させる悔改めに導き」、私たちを清め整えて、神様の救いにあずかる。私たちは救いにあずかっていますが、その救いを具体化していく。私たちのものとして獲得していく。イエス様の恵みを全部自分のものとして受け止めるために、いろいろな中を通る。だから、これは神様の御心なのだと知っておきたい。そして「みこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導いてくださる」。私たちの今までの歩みを悔い改めてやり直し、新しい方向へ自分を向ける力となります。クリスチャンには、いろいろな問題や悩み、苦しみ、試練に遭うことが大きな恵みのときなのです。だから、逃げないで、悲しまないで、嘆かないで、返ってむしろそこで主は何とおっしゃるか、神様はいま私に何を求めているか。神様はこの悲しいこと、つらい出来事を通して、私をどのように取り扱おうとしているのか、神様の御思いを知ること。「主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう」(6:3)とホセアは語っていますが、私たちがいよいよ深く主に信頼する者と造り変えられていく。だから、試練に遭うことは大きな恵みなのです。10節に「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き」、そのあとに「この世の悲しみは死をきたらせる」と。この世の肉にある悲しみ、あるいは神様からの試練を肉にあるもののごとく受け止めるならば、それはただ単なる肉であってそれは滅びにしかなりません。ところが、神様の霊に従って、その試練の中で神様を求め、神様に近づいて行くならば、そこから命に生きることができ、悔いのない救いを受ける大きな恵みとなります。試錬はそれをどう受け止めるかによって、私たちにいのちとなり、またそれによって滅んでいくことにもなります。だから、神様の御心によって、今ここに導かれ、この事柄が与えられ、この問題の中に私が置かれていることをまず認めていくこと。これが試練を耐え忍んでいくことの大切な使命、目的です。

 

 ヤコブの手紙1章12節に「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである」。「耐え忍ぶ」とは、ただジッと我慢して、通り過ぎるのを待つ、冬眠するがごとく潜り込んで事が過ぎ去るのを待つのではない。試練の中で「私は何をすべきか?」「私はどうあっただろうか?」「神様をどれほど信頼していただろうか」「私の信仰はどこにあるだろうか」と、いろいろなことを思わされます。何度もそのような中を通りますが、そのとき問われるのは自分なのです。試練の中にあると、すぐこの原因は、あの人があんなことを言ったから、この人がこう言ったから、あの時、私がああしたからと、人のことだったり、事情、事柄が原因であったり、先祖が原因だったりして、そちらばかりに心が行きますが、試錬の中でいちばん大切なのは、「私」なのです。人のことはどうでもいい。まずは、神様がいま私に求めておられること、私が悔い改めるべきことがあるに違いない。あるいは、私がここで変わるべきことがあるに違いない。私が神様の前に正しく歩むべき道があるに違いない。それを問い掛ける。そうしますと、見えてきます。「私が言いすぎた」とか「私がかたくなだったな」とか、「私が本当に神様の御言葉を信頼しないで勝手なことをしてしまったために……」と。そこで、もう一度神様の前に、私たちの姿勢、思いを清められ、整えられるのが、「耐え忍んでいく」大切な一点です。だから、試練に遭うとき、12節に「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう」。神様が約束してくださった永遠のいのちの冠を受ける者となる。パウロがテモテへの第二の手紙に語っているように、「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。8今や、義の冠がわたしを待っているばかりである」(Ⅱテモテ4章)と、彼は死を目の前にしながらも「もうこれで私は悔いがありません」、思い残すところなしと言い得る生涯を歩みました。それは神様から与えられた宿題、課題をきちっと果たした結果です。神様からこの中を通れ、お前はこのことをどうやって解決するか。お前にこの問題を与えるけれども、これをどのように解いていくのかと、神様が求められることがある。試練を通して耐え忍びつつ、一つ一つの事柄の中で主の力を与えられ、主の導かれるところに従って、心と思いを清めていただきたいと思う。そうしますと、生涯を終わるとき、パウロと同じように「走るべき行程、なすべき事全部を果たして、もう宿題は残っておりません」と言えます。ところが、そうでないと夏休み明けのように、大慌てで残っている宿題に追われる。宿題はたまっているし、学校に行くに行けず、翌朝になったら、病気になって熱でも出てくれないかとなるのです。そうならないために、試練を耐え忍んで受ける。

 

 そのあとに大切なことが一つ記されています。13節に「だれでも誘惑に会う場合、『この誘惑は、神からきたものだ』と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない」とあります。「誘惑」という言葉は、別の言い方をすれば「罪」ということです。だれでも誘惑に会う場合、罪を犯す。自分が肉の欲に引かれてやってしまったことを、それをあたかも、神様からの試錬だと入れ替えてしまう、責任を転嫁してしまうことは間違いだと言われます。これは私たちにもよくあることです。自分が好き勝手をした挙句、大変な問題に遭い、悩みの中にあると、「先生、こんな問題になりました。これはもう神様からのこととして我慢します」と。「そんな我慢することじゃない。あなたが責任を取らなければ」と。「あなたがしたのでしょう」と。自分がしたことを神様のせいにするのは良くない。時にそのような方がいます。だから、試練に遭ったとき、よくよくその試練がどういうものであるかを反省しなければならない。本当に主から出たものであるならば、「神のみこころに添うたこと」として受け止める。でも、自分が前夜遅くまでどんちゃん騒ぎをして、食べるだけ食べた挙句、翌朝気分が悪くなって胃が痛くなる。「胃が痛い。これも神様の試練です」というのは間違い。それは試練ではない。それは自分が悪かったのだから、悔い改めて「ごめんなさい、神様、もう二度とそのようなことをしません」と言うしかない。それと同じことがほかにもあります。言わないでもいいことを言った挙句、人から嫌われる。すると、自分が被害者のように思って、「試練だ」と言いますが、そうではありません。そうなるべき原因が自分にあるのです。これは大切なことです。13節に「だれでも誘惑に会う場合」、罪を犯す場合です。「この誘惑は、神からきたものだ」、「これは神様がわたしを試練に遭わせています」と、そんなことではありません。「神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない」。そのあとに「人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである」。そのとおりです。よくよく考えたら自分の欲から出たこと、自分がしなくてもいいお節介をしてしまったためにこうなったことはいくらでもあります。そういうとき「私が間違っていました」と、心から悔い改めて神様の前に姿勢を整え、その相手に対してもちゃんと「ごめんなさい。私が悪かった」と悔い改めることが必要です。

 

夜更かしをしたわけでもない。暴飲暴食をしたわけでもない、何かしたわけではないけれども、病気になることがあります。あるいは、災害に遭うかもしれない。車を運転して、自分は法規を守って法定速度で走って、きちんと左右を見ながら走っていても、向こうから飛び込んでこられるかもしれない。あるいは、歩いている人が飛び出して来てぶつかるかもしれない。どうにも避けようがないことはいくらでもありますが、そういう問題事柄によっては「これは神様が私に与えなさったこと」と言えます。そこで「私はどのようにこの問題を処理していくのが神様の前に正しいことだろうか」と考える。それを求める恵みのときなのです。だから、試練に遭ったとき、それをどうやって耐え忍んでいくか、それを解決していく道筋の中に神様が求めることがある。それを通る時、御心に従うと、試練が喜びに変わる。その試練をも感謝することができる。そこからいのちにつながっていく。「いのちの冠を受けるであろう」。

 

私たちはいろいろな問題に遭いますが、それが神様から出たことであるならば、感謝して受けていきたい。そのことを通して神様がなにを求められるかしっかりと受け止めて、耐え忍んで主のみ声に従っていきたい。そうしますならば、必ず大きな祝福と恵みにあずかります。そして、更にもっと深く主を知ることができる。主のご愛に触れることができるのです。

 

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。