負けるが勝ち

ペテロの第一の手紙5章6節から11節までを朗読。

 

 

 6節「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう」。

この年も11月に入り、あと2ヶ月しかなくなって、時間がこんなにも早く過ぎるものかな、と思います。振り返ってみると、結構盛りたくさんといいますか、この短い時間にこれだけのものが入っていたなというぐらい、いろんなことが詰まった10ヶ月でした。教会学校ではクリスマスにはどうしようか、という話になっていますが、そのうち正月になる、新年聖会がくる、気がついたら死んでいたとなります。この10ヶ月を振り返ってみても、いろいろなことがありました。「悲喜こもごも」という言葉がありますが、人生はやはり楽しいこともあり、悲しいこともあり、つらいこともあり、うれしいこともあるのが人生だと言われます。ところが、人生をトータルにまとめて喜ぶことができません。個別的に、この問題、あの問題、あの事柄、この悩み、この心配と取り上げて、良かった、悪かった、うれしい、悲しいにつながっていきます。しかし、私たちは自分の力で生きているのではないと度々申し上げているとおりです。自分の計画どおりでなかった、あるいは自分が予定していたことがうまくいかなかったことがたくさんある。その度にハラハラドキドキして浮いたり沈んだりしてきた。しかし、振り返って考えてみると、ほとんどのことが自分の思ったとおりでなかった。だから、生まれてから今に至るまで、70年80年90年の人生を振り返って、自分の計画どおり、思いどおりだったものはほとんど無い。事が終わったあとで、やっぱり私が思ったとおりだったという言い方はしますが、前もって分かっていたはずはない。だから、いろいろな事が全く自分の予定したものとは違う、あるいは考えもしなかったこと、思いもしなかったことの中に生きているのです。

 

先週、私はニューヨークへ行ってきました。今、Mさんが留学しているので、様子を見に行ってきました。彼女は高校を卒業してからうちに来ていました。受験に失敗して、一年間予備校に通いました。その頃は成績があまりよくない。それでいて偉そうに九大に行きたいなんて言い出す。「これから先どうなるかいな」と思っていましたが、彼女は一生懸命に勉強をしました。神様の憐みで大学に通ったのです。それから4年間の大学を終わって、それでおしまいかと思ったら、「大学院に行きたい」と言うでしょう。それで大学院に行って修士課程を終わって、これで就職でもしてくれるかと思ったら、「もうちょっと勉強をしたい」と言う。それで博士課程に進みました。三年間の課程があと半年で卒業というときになって、「留学したい」と言い出しました。それで「受け入れてくれるところがあれば……、お金も無いのだから、奨学金なり何なりを確保しなさい」と言いました。そうしましたら、あちらこちら申し込みをして、奨学金をもらうことに決まったのです。そして今ニューヨーク市立大学の大学院の博士課程に入ったのです。振り返ってみると、よくまぁ、こんなことになったものだと思って、誰がそのようなことを計画したか。

 

そのお陰で、私も久し振りにニューヨークに行くことができました。私にとってはうれしい話でした。行ったはいいけれども、どんな生活をしているのか。ワンルームマンションなんてあるわけではないし、誰かと共同で部屋を借りて下宿をするわけですから、どのようなことをしているのか、家賃も高いし、こちらはただ祈るしかないのです。手も出ない、口も出ない、もちろん足も出ませんから、それでお祈りをしていました。不思議なように神様は一つ一つ整えてくださいました。先週の月曜に行きましたら迎えに来てくれて、彼女の住んでいる所から大学やいろいろな所を見せてもらって、「神様がこんな事をしてくださったのだ。これはまさに主の御わざだ」と思いました。

 

そのようなことを振り返ってみると、私たちはいったい何を計画して、何を知っていたのだろうかと思います。この子がこのようになるだろうとか、あれはこうなるだろうなんて、前もって予測できません。思い掛けないこと、とんでもないと思えるような事態や事柄がある。だから、これから先のことも私は心配しない。心配したような悪いことにはならないし、こちらが願ったような具合にいくかどうか、これも分からないし、結局のところ私どもは何をしているのだろうかと思います。だから、皆さんも自分がああでなければいけないとか、こうなりたいとか、こうあるべきだ。あるいはこれがいちばんいいのだ、と考えているかもしれないが、それもこれも実は何にひとつ私たちの力の及ぶものではないのです。

 

詩篇139篇13節から16節までを朗読。

 

これはダビデが自分の人生、地上の命の不思議さを歌ったものです。いったい自分は何者によってここに在らしめられているのかということです。これは大切なことだと思います。自分が今ここに生きている。この自分はいったい何によって、誰によってここに置かれているのか。私たちの内臓をつくり、母の胎内で組み立て、隠れた所で骨を全部つづり合わせ、肉を付けて、私たちが生きることができるように全部整えてくださったのは神様です。16節に「あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた」と。神様はまだ完成していない、有るか無いか分からない、姿形もなかったときに、既に私たちがどういうものであるかを全部知り尽くしておられる。しかもその次に「わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき」、地上にオギャーと生まれていない、地上での生活が一日もなかったとき、「その日はことごとくあなたの書にしるされた」。神様は私たちの人生を全部ご自分のご計画の中に置いてくださった。人生を旅であるとか、あるいは一つの演劇だと例える人もいますが、ここにありますように、神様が全部そのスケジュールを立ててくださった。だから、私たちがこうやって今日生かされているのも、実は神様のご計画によるのです。16節に「その日はことごとくあなたの書にしるされた」と。

 

最近はあまり来ませんが、以前名古屋に居たころ、生命保険の勧誘の方が来られました。「こういう生命保険のプランはいかがですか」と。家内はそういういろいろな勧誘してくる人とあまり話したがらないのですが、私は時間があるときはできるだけ話を聞くのです。あるとき、保険のセールスの方が私の所に来まして、「ご主人様、お幾つですか」と。まだ40ぐらいのときですね。年齢を言ったのです。すると「これからですね、人生は」と言うのです。「生涯プランというのがありますから、ご主人のこれからのことを計画してみてはいかがでしょうか」と言う。私は興味があって、いろいろと根掘り葉掘り聞く。「50歳になったらこうなって、60歳になったらこうなってこういうことが起こってくるでしょうし、80歳くらいになったら……、老後になったらこうなってこうなる。そのうち病気でこうして、ああしてと、そのときにはこういう保障があって……」と、私のことを予言してくれました。私はその方に「あなたは神様みたいですね。私のこれからを全部分かってくれて。あなたはご自分のことを心配したらどうですか」と言ったのです。「あなたの人生はどうなるのです、これから」と尋ねました。こういう意地悪な客は恐らく嫌な相手だろうと思います。テレビの保険の広告もそうでしょう。50歳代、60歳代には事故に遭って、70歳代には入院をして、80歳代では認知症になってと……。そういう人生は保険会社が決めるわけではありません。

 

ここにちゃんと書いてあります。16節に「まだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた」と。神様が私たちのことを全部知っていらっしゃるのです。神様は全能者です。私たちを造ってくださった御方です。もう一つは全知、「全知」とはすべての事を知っている御方だということです。神様のご性質について、「全能」でいらっしゃるというのはもちろんのこと、それから「全知」ということです。もう一つ申しますならば、「遍在」ということです。「偏在」とはどこにでもいらっしゃることです。どんな所にも、神様は臨在している。

 

139篇1節から4節までを朗読。

 

なんと神様はすべてのことを知っている。私たちの頭の先から足の先まで、すわるをも、立つをも、思いも歩みもどのようなことも全部神様は知っていらっしゃるというのです。だから、私たちは安心できるのです。隠す必要がない。神様に何もかも知られているのです。「これは神様に知られたら困るぞ」と思うから、一生懸命に隠そうとしていた。しかし、もうその必要はない。神様は知っていらっしゃる。神様は知っているから、安心だと思う。もっとも、逆に言うならば、怖いともいえます。知られているから隠し様がない。だったら、手っ取り早いのは降参することです。ここが神様を信頼することの大切な原点です。すべての事を知ってくださって、その上で、私たちに地上の命を与えてくださった。だから、いろいろな事が分からなくても神様は知っていらっしゃる。だから信頼するのです。

 

ですから、ペテロの第一の手紙5章6節に「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい」。「神の力強い御手」と、神様が力ある、全能の力、どんなことでもおできになる力を持ち、またどんなことをも知り尽くしている。すべてのものを知り尽くした神様が私たちを造ってくださった。そして地上の生涯の一日一日をすべて計画し、備えてくださって、今の私たちがある。だから、振り返ってみて、思いどおりにいかなかったことばかりだというのは当然です。なぜなら神様がなさるのですから、私たちが知らないのは当たり前です。ちっぽけな頭で、浅はかな知恵で、いろいろと計画したとおりに事がいく人生だったら、神様がいないと言えます。60年間、ほとんど90パーセント 私が思ったとおり、願ったとおりに来たという人にとって、神様はいりません。そうでしょう。自分のことを振り返ってみて、「自分は計画どおり、思ったとおり、きちんと全部私が取り仕切ってやってきた」と言えますか?まずもってこの年まで生きていること自体が不思議だと思うのです。あと何年なんて、誰も計画していません。だから神様がいらっしゃると言うほかない。そのような神様の力強い御手の下に自分を低くする。どんなことでも、私がしているのではない。あるいは、何か思いがけない不幸があっても、それでおしまいではない。それが決定的なものではない。神様が私たちを握って持ち運んでくださる。これを信じなければ安心はありません。今、どんなに心配と思える事柄、不安と思えること、思い煩うことがあったとしても、それでもなおその先に、その事の背後に、すべてのものを造り、生かし、知り尽くして、ご計画に従って導いてくださる揺るがない永遠の腕がある。もちろん、だからといって何にも思い煩わないかというと、そんなことはありません。心配なこともあります。また、ハラハラドキドキしたり、「これはもう駄目かな」と思って、失望落胆することもあります。しかし、それはあくまでも表面に現れたさざ波のようなものです。私たちはもっと大胆に神様に信頼していく。「力強い御手の下に、自らを低くしていく」。神様の手に私たちは握られている。今、目の前にハラハラドキドキするようなことが起こっても、それで時折目をくらませられて、フラフラよろよろと、よろけるようなことがあろうとも、しかし、常に神様は私たちを支えてくださる。そこに目を、思いを留めていく。確かに数え上げれば幾らでも心配の種はある、思い煩いの種はあります。しかし、どれもこれも、神様の知らないことではない。神様がご存じのうえで、私たちにその事を託しておられるのです。これが「大能の手の下に己を卑(ひくく)すべし」(元訳)ということです。神様が私のような者に目を留めてくださって、一人一人に生きる命を与え、力を与え、生活の糧(かて)を与えて、支えてくださっている。自分で生きているのではない。神様の御わざがあって、私たちが生きることができる。

 

詩篇92篇4、5節を朗読。

 

4節「主よ、あなたはみわざをもってわたしを楽しませられました」。神様は私たちをこの地上に造って、置いて何をさせようというのでしょうか。それはただ一つです。私たちを喜び、楽しみ、感謝し、主を褒めたたえる者にしようとしてくださる。メソメソ泣いて暗い心になって、みけんにしわを寄せて、青い顔をしてうつむいて生きる人生ではなくて、私たちを楽しみ喜ばせようとしてくださる。そのためにこの地上に置いてくださっている。だから、「こんな問題に当たってどうしてやろうか。私は何でこんなことになった」と嘆くようなことでも、実は、神様は全部ご存じのことです。そのうえで、私たちを楽しませてくださる。だから、泣いたり笑ったりいろいろなことがありますが、それは神様のわざの中で私たちが楽しむためです。4節「主よ、あなたはみわざをもってわたしを楽しませられました。わたしはあなたのみ手のわざを喜び歌います」とあります。この一週間を振り返って、いろいろなことがあったかもしれない。今もなお悩みの中、問題の中に置かれているかもしれません。しかし、そのことも、どのことも、すべて神様がご存じで、それを起こしていらっしゃる。私たちの地上の日々の生活をことごとく、主がシナリオを書いてくださっている。それは、私たちが楽しみ、喜び、神様を褒めたたえるためです。それを考えるならば、どんなことでも喜びの種です。うれしいことです。

 

旅行をすると、そういうことがありますね。自分の思わないこと、願わないことが多いのです。思いどおりにいかない。殊に言葉が通じないと訳が分からない。先週も家内と二人でニューヨークの町を歩いていまして、お昼を食べようと食堂に入った。ハンバーガーを食べようと頼んだはいいけれども、大きなのが出てきまして、周りを見るとみんな平気で食べている。家内と私とは二つも取って大変困ったのです。でも旅先だから、「これもまた楽しいね」と言うことで、食べきれないものをそっと持ち帰ってホテルで夜食べたり、そういうことができます。人生は、まさに楽しむためにあるのではないでしょうか。けれども人は、どういうわけか暗い人生を生きようとする。

 

4節「主よ、あなたはみわざをもってわたしを楽しませられました。わたしはあなたのみ手のわざを喜び歌います」と。喜んで神様を褒めたたえ、賛美する者と変えてくださる。5節に「主よ、あなたのみわざはいかに大いなることでしょう」。神様のわざ、ご計画は何と大きなことでしょう。私たちはそれを到底計り知ることはできません。そのあとに「あなたのもろもろの思いは、いとも深く、6 鈍い者は知ることができず、愚かな者はこれを悟ることができません」。本当にそうです。私どもは鈍くて愚かです。だから、神様のご計画、神様の御思いを初めから終わりまで見極めることはできない、知り尽くすことはできません。それを認めること、これが「神の大能の手の下に自分を低くする」ことです。神様は私たちを楽しませてくださる。自分がどこに立つべきか、どこに生きるべきか、しっかりと知っておきたいと思います。

 

ペテロの第一の手紙5章6節「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい」。私どもは愚かで悟りのない鈍い者ですと認める。自分の力は何にもないのだと認めていく。そして「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコ 10:27)。神様はできないことのない御方で、すべての事をご存じの上で、私に今、この悩みと思える楽しみ、この悲しみと思える楽しみを、備えてくださっている。その事を心にとどめておきたいと思います。あとになると分かるのです。でも、あとでは困ります。神様を信頼するとは、あとになってではない。事が終わって、何年かたって、振り返って「あの時ああいう苦しいことがあった。懐かしい」。戦後の苦しかった時のことを、食うや食わずだった時のことを、年を取った今、しばしば思い出す。つい今しがたのことは忘れますが、昔のことは思い出して、「懐かしいな。あのころは一生懸命に必死になって生きておったな」と。では、今同じ事をするかというと、それはできない。神様はその問題の真っただ中にあって楽しませようとしているのです。振り返って、あれこれと考えてみて「やっぱりこの道がよかった」「やっぱり嫌だと思ったけれどもこれが良かった」と、「後に悟るべし」(ヨハネ13:7文語訳)と確かにイエス様はおっしゃいますが、あとになって分かることも、これはこれで幸いですが、願わくば事の起こる前から喜ぼうではありませんか。「大能の手の下に、自らを低くして」、神様が私たちのために一つ一つのわざを備えてくださっていると受ける。

 

そこまで神様の力を信じて、そのあとに「時が来れば神はあなたがたを高くして下さる」と。「時が来れば」とあります。伝道の書に、皆さんもよくご存じの「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」(3:1)との御言葉があります。「すべてのわざには時がある」。いちばん良い時を備えているのは神様です。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(3:11)と。いちばん良い時とは幸いです。ちょっとでもタイミングがずれると、こっけいになります。どんぴしゃりといういいタイミングはいろんなことにありますが、それを決めているのは神様です。神様がその時を定めて、事を起こしてくださる。だから、神様の大能の手、言い換えますと、時を握っている神様の手に自分を置いていく。私たちのスケジュールではない。いろんなことをカレンダーに書き込まれるに違いない。このときはこうして、あのときはどうしてと。しかし、それが決定ではなくて、神様が許してくださって、その時が来たときに事が成る。それまでは神様を待つ。これが私たちの信仰です。神様がことを始める、そしてそれを終わらせる。「アルパであり、オメガである」(黙示録 1:8)、始めであり終わりである御方が、一つ一つの時を備えてくださる。これを信じていくとき、神様が私たちを高くしてくださる。

 

 ルカによる福音書1章19,20節を朗読。

 

 これはザカリヤとエリザベツという老夫婦のことですが、祭司の務めをしていました。神殿でその当番の務めをしていたときに、御使がザカリヤの所へ来ました。「あなたたちに男の子が与えられる」と伝えたのです。そのときザカリヤは、年を取っていましたし、「まさか、こんな年を取った夫婦に子供が与えられるなんて、それはもう無理だろう」と思った。それで「そんなことはありません」と否定した。18節を読みますと「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と言って、御使の言葉を信じようとしない。そのときに御使が、20節「時が来れば成就する」と言ったのです。「神様がそのスケジュール、時を導いて成就なさるのであるから、わたしの言葉をどうして信じないのですか」。とうとう口がきけなくなった。やがてその時が満ちて、バプテスマのヨハネとなるべき子供が誕生しました。その時、物が言えなかったザカリヤは筆談でした。生まれた子供の名前を付けるのに、「お父さん、名前を何にしますか」と言ったら、「ヨ・ハ・ネ」と書いた。ヨハネという名は親族の過去を振り返っても無い。昔は、よく名前をお父さん、おじいさん、ひいじいさんとか、先祖代々の名前を受け継いでいく習慣だったと思いますから、恐らく家族の者も大体予想していた名前があったに違いない。ところが、「その名はヨハネ」とザカリヤが書いた途端に、口が解けて神様を褒めたたえるのです。20節に「時が来れば成就する」。この「時が来る」という、その時を支配しているのは神様です。神様は私たちに「待ちなさい」と「わたしがするんだから」とおっしゃるのです。ところが、私どもは神様を跳ねのけて、自分の力で、自分のスケジュールで早くしようとする、そこが私たちのいちばんの問題。どうぞ、焦らないで、苛立たないで、「時が来れば成就する」、その時を待ちましょう。やがて時が来て、彼らに男の子が与えられました。

 

 ペテロの第一の手紙5章6節に「時が来れば神はあなたがたを高くして下さる」。神様が私たちを持ち上げてくださる。私たちを喜び、楽しませて、心から主を褒めたたえて、感謝があふれる者と造り替えてくださる。だから、そのことを信じて、神様の手に自分を委ねるのです。そのあとに「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」。しかもその神様は、私たちを造って放ったらかしにしているのではない。私たちをそんなにまで愛をもって造って、ご自分の形にかたどって大切なものとしてくださる方が、私たちの日々の生活のこまごましたすべてのことをご計画のうちに置いてくださって、私たちを楽しませ、喜ばせ、神様を褒めたたえる器になそうとしておられる。神様は絶えず私たちに目を注いでくださって、顧(かえり)みてくださっている。顧みるとは、いつもそのことに心を配っていることです。

 

 大濠の教会のすぐ横に幼稚園があります。その幼稚園は送迎がないので、必ず親が送り迎えをする。朝8時過ぎから小さなお子さんを連れたお母さんたちが足早にやってきます。私は時々窓から見ていると、子供は眠い目をこすりながら、引っ張られ、お母さんにぶら下がった格好でついてくる。お母さんも忙しいと思うのです。だから「早く!」「早く!」と言いながら急いでいる。12時半か1時頃になると、今度は逆方向で帰ります。帰るときは、子供のほうが先頭です。ドンドン先へ行く。友達と一緒にしゃべりながら道草を食いながら。お母さんたちも2人3人集まって一緒に帰って行く。このときは歩くのがゆっくりです。朝とは大違い、ゆとりがある。そうすると、子供たちがちょっと道を外れる。幼稚園の子供は何かを見つけると、周囲を見ずにパッと行くでしょう。私も見ながら、お母さんはしゃべりに夢中になって、「危ないぞ、あの子は!」と思ったら、お母さんがパッと手を出す。お母さんたちはお母さんたち同士で話に夢中です。お子さんがチョロチョロしている。しかし、母親はやはり見ているのです。車が近づいたりすると、「何々ちゃん!」と、話しながらもパッと守る。私はそれを見ながら「やっぱり親はどこにいても子供のことを気に掛けるのだ」と感心します。

 

ここに「神はあなたがたをかえりみていて下さる」と言われます。顧みるというのはそういうことです。常に目をとめておられる。私たちがどんな状態か、泣きべそになっているかどうかを見ている。笑っているだろうか、楽しんでいるだろうか、神様は見ていらっしゃる。そして「自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」。だから、神様は私たちのことを顧みて、どんなことも神様はご存じで、その大能の手をもって私たちを持ち運んでくださるのです。だから何一つ思い煩うことはないよ、心配することはないじゃないかと。こんなうれしい話はありません。それでも心配することが楽しい方もいますから、一概には言えませんが、思い煩いが楽しみという方はそれもいいと思いますけれども、私たちは思い煩わないほうがいい。どうぞ、日々楽しもうではありませんか。神様が私たちを楽しませてくださる。その手に自らを低くして、主に信頼して、一切の思い煩いを神様の手に委ねる。私たちは自分で生きているわけではないし、自分で生まれてきたわけではないのですから、責任はありません。神様が勝手にと言っては悪いけれども、神様が私たちをこの地上に置かれたのですから、ある意味では「神様、あなたは責任者ですよ」と、「最後まで面倒を見てください」ということです。そのくらいしっかりと神様に信頼しようではありませんか。神様はトコトン私たちを死んだ先までも面倒を見るというのですから、こんなうれしい話はないでしょう。神様に私たちは「自らを低くし」、本当に知恵のない愚かなどうにもしようもない、何にもできない自分でありますと認めて、神様の御わざを、神様が備えてくださる一つ一つの日々のわざを感謝し、喜び、楽しもうではありませんか。

 

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。