100%の信仰

ヨハネの黙示録2章8節から11節までを朗読。

 

 

 10節「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう」。

イエス様の救いにあずかって生きる生涯には卒業がありません。死んだら卒業かと言うとそうではなく、死はこの地上の生涯が終わって、また次なる新しいいのちの生涯の始まりです。だから、いつまでたってもイエス様と私たちは縁が切れません。このことを世間の人はよく間違います。教会に来ている方も、時にそういうことを尋ねます。「先生、信仰を一応身に付けるにはどのくらいの回数を来たらよいでしょうか。何年ぐらい通ったらよいでしょうか」と。私は「それは一生涯でしょう」と言うと。「え!そんなに長くですか」と言われる。世間ではどんなことにも期限があります。学校に入れば小学校は6年で終わりますし、中学、高校は各3年で終わります。大学も4年で終わります。中には長く行きたい人もいるでしょうが、いずれにしても一つの限りがあります。就職してもそうです。これは生涯の仕事だといって、20代の初めから始まって、やがて定年退職がきます。終わる時があります。人生でもやはりそうだと思います。始まりがあれば終わりがある。必ずどこかで終わるに違いない。

 

信仰生活もいつ終わるだろうか、すごろくのようにいつになったら上がりが来るだろうかと思いますが、終わりはありません。イエス様の救いとは人生の有り様(よう)が根本的に変わることです。生きる限り信仰を持ち続ける。殊に地上にある限りですね。と言いますのは、この肉体を脱ぎ捨てて霊の体に変えられ、新しい永遠のいのちの生涯に移される時、信仰が具体化して完成するのです。この地上にあって生きている今、様々な障害、欠けた所がどうしてもあります。肉体を持って生きているがゆえに、イエス様を見ることができません。また神様を手で触ることもできませんし、その声を聞くこともできません。だから何だか心もとないのです。それでいて肉体を持っていますから、疲れることもあります。また心は弱いですから、肉の心といいますか、生まれながらの私たちの性情、性格はそれぞれ違っています。だから、地上にあって信仰生活を続けることが実はいちばん難しい。この地上の生活、肉の体を脱ぎ捨てて、文字どおり永遠の御国の生涯に入れていただいたら、私たちを誘惑するものも、罪を犯させるもの、滅びに引き入れるサタンの力もそこには及びません。だから、天国に入ることが私たちの人生の目標です。死ぬまで、地上に生きている限り、戦いがあり、悩みがあります。その中で信仰を持ち続けることが求められています。

この黙示録2章のところから、アジアの七つの教会に宛(あ)てられた神様からのアドバイス、警告が書かれています。2章1節にはエペソの教会、8節にはスミルナの教会、12節にはペルガモ、そのほかにもガラテヤの教会であるとかサルデスの教会とか、当時の代表的な教会に、神様がそれぞれの長所短所についてアドバイスをしています。これは昔の話としてではなくて、イエス様の救いにあずかり、信仰を持って生きる私たちが、どういう点に注意し、どういう点に気をつけておくべきかを語っているものです。ただ単にスミルナの教会、昔スミルナという町にあった教会の人たちに宛てられただけではなくて、今信仰を持って生きる私たちに対する忠告でもあります。エペソの教会に書き送ったこと、1節から7節までの記事にも、私たちが大いに学ぶべきこと、私たち一人一人に神様が願っていることが語られています。そして8節のスミルナの教会に宛てられた記事も同じです。

 

この教会も大変恵まれた教会であったと思いますが、10節に「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない」と語られています。この黙示録が書かれた時代、イエス様が十字架におかかりになった後、天にお帰りになって、弟子たちが各地にこの恵み、福音を伝えました。その当時、大変厳しい迫害に遭いました。信仰に対して妨害する力が非常に強く働いた時代であります。恐らく、スミルナの教会もいろいろな非難や攻撃を受けておったと思います。9節にもありますが「わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている」と。神様は彼らの置かれた困難な状況、またいろいろなものに欠けている、不足している、物心両面において足らないものがあることを知っておられました。そしてそのあと、「ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている」。具体的なことは分かりませんが、いずれにしてもスミルナの教会に対する悪魔的な、意地悪で悪意に満ちた攻撃、信仰を打ち砕こうとするグループが絶えず付きまとっていたことをうかがい知ることができます。そういう困難の中にあると、どうしても信仰が弱ります。私たちもそうです。私たちは信仰そのものについての迫害、「もうお前は教会に行くな!」とか「キリスト教を信じるな!」とか、かつてキリシタンが受けたような迫害、妨害はありません。いやむしろ今は信教の自由が憲法において保障され、自由に信仰を持ち続けることができます。そういう外的な、外側の条件は恵まれた状況です。しかし、だから問題が無いわけではない。私たちの戦いは実は外側ではなくて内側にあります。しかも、私たちの信仰を失わせるような事態、事柄が必ず起こるのです。教会に来て信仰を持っている方が時々つぶやきます。「信仰しているのに、どうしてこんなになるのでしょうか」、「お祈りしているのに、私は神様の前に罪を犯したように思えないのだけれども、どうしてこんな目に遭わなければいけないのでしょうか」と言って嘆かれます。まさにそういう事態こそが私たちの信仰に対するサタンの攻撃です。

だから、しっかりと心を引き締めておきたいと思うのですが、10節に「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない」と言われています。イエス様もヨハネによる福音書16章の最後に「あなたがたは、この世ではなやみがある」と言われ、「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と宣言してくださいました。イエス様は私たちの模範となって、この戦うべき戦いを戦い抜いてくださったのです。勝利して、十字架に命を捨て、死という人間にとっていちばんの失望絶望の中にご自分を置いて、そこからよみがえって、私たちに希望を与えてくださる。私たちもまた同じようにこの地上にあって、悩みがあり、苦しみがあり、悲しいこともあります。失望落胆、絶望的な事態や事柄の中にも置かれます。しかし、絶えず主を仰ぎ望んで、イエス様を見上げて、私たちがイエス様に倣(なら)って、そういう問題や事柄の中で勇気を持って、信仰を持ち続けていく。これが私たちの求められている大切なことです。

 

 10節「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない」。考えるといろいろなことを思わされます。だんだんと肉体的に年を取ってくると、決して良いほうには考えません。逆に、今よりますます悪くなるだろうことは目に見えます。だからといって、それで失望落胆してしまうのだったら、信仰は何のためかとなります。大切なのはまさにそこです。10節に「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない」。「苦しみ」、プラス「恐れ」と書かれています。私たちのいちばん弱点を突かれるのは、苦しいとか、痛いとか、悲しいとか、不安だとか、問題はありますが、その「苦しみ」にプラスして「恐れ」が続いてきます。皆さんもそうでしょう。「胸が痛いな」、「ひょっとしたら、私は心臓が悪いのかしら。いや、ひょっとしたら何か胸に悪い病気があるのかな」と思って、痛いだけで終わらないで恐れが来る。「死ぬかもしれない」という恐れが来ると、私たちは弱くなる。この恐れというのが私たちのいちばんの敵です。だから、詩篇23篇に「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない」と歌っているでしょう。恐れがない生涯は最高の生涯です。なぜなら、不安がない、痛みがない、苦しいこと、悲しいことがないこと。これもまた幸いとは思いますが、不安であっても恐れがなければ大丈夫です。悲しいことがあっても、恐れがなければ大丈夫ですよ。ところが、恐れがくるのです。「この先どうなるだろうか。ひょっとしたらああなるかもしれない。こうなるかもしれない」と、不安プラス恐れです。だから、10節に「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない」。恐れを持ってはいけない、というのです。なぜなら、「見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう」と。先ほど申し上げたように、スミルナの教会を迫害する者たちがいて、ありもしないことを言い立てて彼らを獄に入れようと、捕らえて、反逆罪とか何か訳の分からない罪名をつけて獄に入れようとすることがあるに違いない。そのときに「あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう」。「十日の間」だというのです。何を恐れるかと言うと、これがいつまでも続くに違いない。夜中にお腹が痛い、頭が痛いとか熱があるとか、うなされたりすると、「ひょっとしたらこのままズーッと死ぬまで行くのではないだろうか」と思う。期限がないのが恐ろしい。底なし沼の中に落ち込んでいくようです。ところが、神様はここで「十日の間」と期限を切られました。「あなたの病気もあと五日で必ず治る」なんて言われると、「そうか五日間か、じゃ我慢しよう」と。ところが「いつ治るか分からない」と言われたらゾーッとします。

 

私はバセドウ病になりました。その時、訳が分からなかったのです。心拍数は上がるし、息切れはするし、食欲は出るし、やせてはくるし、行きつけの先生が、「これはすい臓がんかもしれません」と言われた。家内にそっと「奥さん、これは大変なことかもしれませんよ」と言われた。私もそれを聞いて、「え!それはもう死ぬかな」と思いました。夜中に発作を起こして、救急車で病院に運ばれて、入院したのですが、調べてみたら何と甲状腺の機能亢進症、バセドウ病というのです。「これは命にかかわるほどの病気ではない」と言われて一安心。それで担当の先生が来られて、「榎本さん、良かったですね。バセドウ病で、心臓もどこも悪くありません。これから治療をしましょう」と。「そうですか。良かったです。それでいつ治りますか、どのくらいかかりますか」と聞いたら、「いや、こればかりは分からない。治るかもしれないし、治らないかもしれない。」と言われた時、私は奈落の底ですよ。「このまま一生涯、この病気と付き合うのか」と。まだ今より若かったから、そのときはショックでした。しかし、その時、人の命は医者によるのでも、誰によるのでもなく、また、病気によって人は死ぬのではない。神様が命を備えてくださるのだと教えられました。同時に、コリント人への第二の手紙の御言葉が与えられました。「高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた」(12:7)。「そうだ。私がこの病気を受けることによって、神様の前にへりくだり、謙遜(けんそん)になって、恵んでいただくためなのだと分かりました。神様、あなたが『善い』ということをしてください」と、主のみ手に委ねました。もうジタバタしない。そこに行くと安心します。そうしましたら、薬を飲み始めて、7年ぐらい掛かりましたかね。検査結果がだいぶ良くなった。それで担当の先生が「ひとつやめてみましょう。それで変化がなければ、一応治った、治癒したということにいたしましょう」と。うれしかったですね。「この時を神様が備えてくださった」。今、思いますと、本当に幸いな恵みの時を神様が与えてくださった。その間、もちろん症状が良かったり悪かったり、波はありましたが、今は全くそのことは消えています。神様がそれを取り除いてくださったのです。だから、どんなことにも初めがあれば終わる時が必ず来る。

 

だからここで「あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう」とおっしゃいます。「十日の間、苦難にあう」とは、それはそう長くは続かないのだという意味です。この世にあっての悩みや悲しみや苦しみも、いつまでも永遠にでは有り得ない。だから、そのあとに「死に至るまで忠実であれ」と。死を迎えるその瞬間まで、地上にあって息を引くその瞬間まで、「忠実であれ」というのです。「忠実」とは何のことか、何に対してか?私たちの信仰に対してです。私たちの信仰は、イエス様が私の救い主となってくださって、今も目には見えないけれども、共にいてくださる。そのイエス様に、神様に対して、私たちが忠実に従い、信頼する者となることです。というのは、今申し上げたように、何か問題があり、事柄があると心が揺らぐ。思いが崩れます。「神様」「神様」と、「感謝」「感謝」と言っていながらも、思いがけないこと、願わない予期しないことが起こると、「神様がいらっしゃるのにどうして、何でこんなことに……」と動揺します。

 

ヨブでもそうです。ヨブは誠に正しい人であって、神様から大変褒められた人物です。彼は神様を恐れ敬って、家族共々に神様を褒めたたえていた。ところが、サタンによって、これも神様の手の中のことでしたが、ヨブは大変な苦しみに遭いました。持ち物、財産、すべてを失いました。自分の愛する子供たちも、家族も失いました。やがて奥さんも逃げて行く。自分も健康を害して大変な痛みと悲しみ、苦しみの中に置かれた。そのときにヨブは「どうしてなのだろうか。何でなんだろうか?」と苦しみます。これが彼のいちばんの悩みだったのです。それは肉体が痛いとか、熱があるとか、苦しいというのは、もちろん苦しいのですが、心の苦しみはもっと大きなものです。ところが、「これはこういう理由でこうなったのだよ」と言われると、「そうか。分かった」と、気持ちが軽くなる。だから体の具合が悪いと「ここが痛い。どうしてでしょうか、何ででしょうか?原因は何でしょうか」と、医者に尋ねます。医者もいろいろ検査したけれども分からない。分からないときは大抵「神経痛でしょう」、「筋肉痛ですね」と言われる。人は「どうしたか分からない」という悩み、これがいちばんの心の悩みです。「これは神様が与えてくださったことだ」と言えない。私を造り生かし、今日に至るまで恵んでくださったから、この問題もこの悩みも主が与えてくださると言えない。

 

イザヤ書45章5節から7節までを朗読。

 

5節から7節までに、繰り返して「わたしは主である。わたしのほかに神はない」と宣言し、語っています。神様が「わたしが主なのだ」「わたしが神なのだ」「わたしはすべてのものを創造し、力ある手をもって、それを持ち運んでいるのだよ」と。だから、7節に「光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する」と。私どもは、自分のことは何でも自分が知っておかなければ収まらない。「この問題、この悩み、これはどうしてなのだろうか。その理由を知らないなんて嫌だ」と思う。そこに神様を恐れる恐れがないからです。どんなことも神様によらなければ有り得ないのです。ヨブも「どうしてだ」「何でだ」と言っていた時、神様が「では、お前は何でも知っているのか」と問われたのです。星の動く道筋、風や雨や雪はどこの倉に収められているか。あるいは海を通うすべての生き物の住みかやその道筋を、お前は何もかも知っているかと。神様から矢継ぎ早に問いかけられた時、ヨブは何にも答えられない。まことに無知な者でした。口に手を当てるのみ、黙る以外になかった。とうとう彼は「愚かなことを言いました。もう何も言いません。あなたはどんなことでもおできになる方です」と告白をした。オールマイティー、全能の神ですと告白するに至るのです。

 

私たちもその神様を信じて、神様が一つ一つのわざを備えて、私を生きる者としてくださっていると信じる信仰に立っています。ところが、苦しみに遭い、困難に出会い、思いがけないことに会うと、神様からつい心がそれてしまう。これが不忠実ということです。神様の御思いに自分を合わせようとすること、これが忠実ということです。

ヨハネの黙示録2章10節に、「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう」と。神様がそのようなことを許して、わずか「十日の間」、いつまでも続くものではなくて、必ず終わる時が来るという悩みの中に私たちを置かれる。その中で「死に至るまで忠実であれ」と。たとえどんな問題、悩み、事柄の中にあっても、そこで神様を仰いで、神様を信じる信仰を一途(いちず)にしっかりと持ち続けて生きる者となりたい。

 

マタイによる福音書25章19節から21節までを朗読。

 

これはタラントを預けて旅に出かけた主人の話であります。僕たちは五タラント、二タラント、一タラントとそれぞれを預かったのです。主人のいない間に、それを用いることを願ったのです。時がたって、主人が帰って来まして、それぞれの清算をした。五タラントを預かった人は進み出て「ほかに五タラントをもうけました」と、十タラントを主人に差し出した。そのとき、21節「良い忠実な僕よ」と主人が褒めてくれました。彼はどういう点で忠実だったのでしょうか。五タラントを預かった時、そのまま五タラントを持ち続けることもできたに違いない。ところが、彼はそれを倍にして主人に返したのです。主人が何のためにこのタラントを預けたか、主人の意図、主人の心の思いを知って、それに従ったのです。言うならば、主人に仕える意味で、彼はまことに忠実であったのです。だから、二タラントを預かって、二タラントをもうけた人も、23節「主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』」と。どうでしょうか、21節の言葉と23節の言葉は全く同一です。五タラントを預かった人が五タラントをもうけたから、「お前はよくやったな、倍にしたのか」。二タラントの人が二タラントをもうけたら「まぁ、そこそこか」と、そういう区別はありません。それぞれに預かった人が、預けた主人の意図、心の思い、願いを知って、忠実に使命を果たしている。その点で主人は、こちらのほうが多くて、こちらのほうが少ないという、そういう量的な区別ではなくて、彼が忠実であったという、いわゆる質、その内実を褒めてくださった。ところが、一タラントを預かった人はそれを土の中に置いていた。ご主人が帰ってきた時、「ご主人、あなたが預けてくれた一タラントがここにありますからお返しします」と。これは別に悪いとは思えませんね。ところが、この人は自分のことを考えた。「主人は過酷な主人、ないものまでも取り立てる人だから、へたなことはすまい。ひょっとしてこれを減らしでもしたら大変だ」。だから土の中に埋めて、隠しておいた。一タラントを差し出して「何か文句があるか」という感じです。「預ったままだからいいじゃないか」。ところが、このとき、26節以下に「悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。27 それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった」。この時、彼は自分の身の安全を考えたのです。「主人があんな訳の分からん頑固な主人だから、これは使わないで置いておこう、減らさないように」と思ったのです。ところが、主人が一人一人に預けたのは、それを増やすばかりでなく、用いるためです。だから、たとえその人が努力して一生懸命にやったけれども、減ってしまって、「ご主人様、こうやってやりましたが、減りました」と言ったら、それはそれで主人は喜んでくれたでしょう。

 

今、神様が私たちをこの地上に置き、この信仰を与えてくださった。一人一人に与えられた信仰の賜物を私たちがどのように忠実に生かしていくか。その道はただ一つ。このことを託してくださった主人でいらっしゃる神様の御思いに忠実であることです。そのために、神様の御心がどこにあるのか、私に対して今、神様が求めていることは何なのか。神様が喜び給うことは何なのか。絶えず主を見上げて、神様の御思いを求めていく。また、み心に忠実、過不足なく、曲がらずまっすぐに従って行くことです。これが今私たちに求められているのです。

 

ヨハネの黙示録2章10節に、「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう」。私たちは、今救いにあずかって、神様の恵みに生かされていますが、いろいろな悩み、苦しみに遭い、困難に出会います。そのときこそ、忠実に、今私に与えられた信仰をどのように働かせるべきか。この問題の中、この悩みの中、この事柄の中で、神様の御思いを求め、信じて、その御方にピシッと忠実に沿っていくことです。右に行ったり左に行ったり、フラフラするのは忠実とは言えません。そうではなくて一直線、神様の御思いに自分の心を沿わせて、まっすぐに仕えていく道を選び取るのです。これが私どもに求められている大切なことだと思います。

 

この御言葉は私自身の言葉でもあるのです。私は献身に導かれてすべてのものをささげて、主に仕えるという決断をしました。いまから二十数年前ですが、ちょうどお正月でした。その決断をしまして、最初の礼拝、一月の第一聖日だったと思いますが、そのとき開かれた御言葉がここだったのです。その時、「これは神様が私に与えてくださった御言葉だ」と受け止めました。「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない」。献身に導かれた喜びもありますが、同時に不安もあります。いったい私の人生はどうなるのだろうか。神様に仕えて、主の御用にあずからせていただきたい。「あなたは、わたしに従ってきなさい」というヨハネによる福音書21章の御言葉を頂いて、「主よ、従って行きます」と願って踏み出したはいいけれども、やはり心配はあります。家内もいましたが、幸い子供はいませんから、お互い野垂れ死するならそれもよかろうと覚悟はしたが、どうなるだろうか、食べていけるだろうか、自分にできるだろうか、さまざまな不安、心配がありました。自分をみると能力はない、力はない。まったく未知の世界で、福岡のことも何も知らなかったのです。生まれ育ったのは北九州ですが、今のように福岡に来ることはありません。何年に一度、母の親戚のうちに行く程度でした。福岡の町のことも知らない、そこにいる教会員のことも知らない。そういう思いがあったときに、「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない」。大きな励ましでした。ここに「苦しみがある」と書いてある。神様は正直ですから、「苦しみがあるよ」と。でも「恐れてはならない」と。それは「十日の間」、そんなに長いものではないのだから「死に至るまで」、死を覚悟して行けというのです。「死に至るまで」神様に仕えよと言っているのです。「忠実であれ」と。このことは私自身、これまでも繰り返し、繰り返し求められてきた事です。ともすると、この辺にしておこうかとか、あるいはちょっと疲れたからこうしておこうか、神様の御思いからずれようとしやすいときに、「忠実であれ」と言われます。「死に至るまで忠実であれ」と。「そうすれば、いのちの冠を与えよう」。「いのちの冠」です。

 

 この御言葉で生涯伝道者としての人生を全うした先輩がいます。その方は亡くなられましたが、末永弘海(ひろみ)という姫路福音教会の牧師をなさった方です。この方は母のいとこに当たりますが、福岡にあります『寿軒』という駅弁屋の息子です。御両親は福岡大濠公園教会の初代の信者でした。その家庭には10人近くのお子さんがいました。息子は3人だけだったのです。長男は本家に跡取りがいないことで養子に出したのです。次男の弘海先生がお父さんの事業の跡を継ぐということで関西学院の商学部に進学しました。卒業して、これからお父さんの仕事に携わるその前に、アメリカの大学に留学することに決まったのです。留学の準備をしているときに、たまたま柘植不知人先生の聖会に出ました。柘植先生の聖会に出て、彼の心がゴロッと変わった。そして、アメリカ行きはキャンセルしたのです。しばらくお祈りをしたいと宮崎へ出掛けました。先生がそこでお祈りをしている時、自分の生涯が商売をするのではなくて、神様に仕える生涯、伝道者として、献身者として歩むことが使命だと迫られました。そう決心した時に、彼はお母さんに手紙を書いたのです。「お母さん、申し訳ないけれども、私は家業を継ぐわけにはいきません。神様から求められて、私は生涯、この神様に仕える献身者の道を歩ませていただきます」と。お父さん、お母さん、殊にお父さんはカッカしたのです。頼りにして将来を夢見ていた彼が突然のごとくそんな信仰の道に進むと言う。とんでもない、といってもお父さんもクリスチャンでしたから分からないわけではない。「お前はそこまでせんでもいいんじゃないか」と。ところがそのお母さん、雪さんは素晴らしい信仰の人でした。息子の手紙をもらって、とても喜んだのです。そして息子に手紙を書いた。「あなたがそのように導かれていることは神様がなさったこと。だから最後まで、生涯、あなたがこの道を歩んでほしい。私はあなたに御言葉を贈ります」と贈ったのが、この2章10節の御言葉だったのです。弘海先生はそのお言葉を見て、「そうだ。『死に至るまで忠実であれ』」と。それから彼は柘植先生の許(もと)に修養生として入ったのです。そこで訓練を受けて、やがて伝道者として遣わされて、後に姫路福音教会の中心となり、その生涯を終わりました。78歳で召されるまで、最後はがんの病を得て、苦しみの中にありましたが、講壇にお布団を引いて最後までメッセージを取次ぎました。教会員の皆さんもそのことを喜ばれました。命懸けです。そして、最後は安らかに天に召されて行かれました。

 

 私自身も今、そのように思います。「死に至るまで忠実であれ」と。どうぞ、皆さんも「死に至るまで」「忠実に」信仰を持ち続けて行こうではありませんか。働かせて行こうではありませんか。「9割ぐらい来たからいいかな」と言っているのでは駄目です。信仰は100%でなければ値打ちがありません。「過去の実績を認めてくれ」と、神様に言っても通じません。今のあなたが求められるのです。今あなたが何を信じているのか。過去にどんなに勲章がたくさんあっても、そんなものは役に立たない。

 

時々、そういう方に出会います。しばらく教会に見えない。「どうなさいました」と。「ちょっと忙しくて、私はもう卒業しました」と言う。「卒業したの?」と聞くと、「昔は私は熱心でしてね。あの当時は朝に夕に教会に通っていましたが、懐かしいなぁ」と言う。それでは駄目です。「私も若いころは熱心だったのよ、今はこんな年になったから、これでいい」と言う。それでは駄目です。ここに「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう」と。この地上にあって、私たちは悩み、苦しみ、困難があります。暑い寒いもあります。しかし、「忠実に」、「最後まで」。死んだらいいのです。もう死んだ者なのですから。「死に至るまで忠実に」、神様の御心を信じて信仰を全うして行こうではありませんか。

 

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。