人を生かす力

ローマ人への手紙1章8節から17節までを朗読。

 16節「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である」。

パウロの書簡と言われるものを読むと、特徴的なことが一つあります。もちろん新約聖書、あるは聖書全体がそうなんですが、それは「力」ということです。「力」という言葉が繰り返し語られております。今読みました16節にも「神の力である」とあります。神様という方はまず「力」なのだということです。神様はオールマイティー、全能の神と言われます。どんな事でもなし得るパワーですから、力が神様の一つの属性、性質、あるいは神様を表す言葉でもあると思います。コリント人への第一の手紙には「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」(Ⅰコリント 1:18)と、そこにも「神の力」と語られています。また「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて」(使徒 1:8)という言葉もあります。そうやって聖書を気をつけて読みますと「力」について、何度となく語られている。パウロの場合は、自分が大変弱い人間であると自覚していました。だから、コリント人への第二の手紙にありますが、彼は自分の肉体に一つのとげが与えられたと言っています。それを何とか取り除いてくださいと三度も主に祈った。ところが「わたしの恵みはあなたに対して十分である」、それでよろしいという神様のみこころでした。そのときに彼は「キリストの力は弱いところに完全にあらわれる」と語っています。「キリストの力」と語っています。「力を得る」、力を頂く、これは聖書の中で繰り返して語られています。ところが、現実の私たちの生活を振り返ってみると、力を意識することはあまりない。「力が足りないな」と感じるのは、学校時代の試験の後ぐらいです。成績表をもらったとき「おれは力がないな」と思いますが、それは知力のことです。日常生活の中で「体が弱いなぁ」あるいは「わたしは気が弱いからね」とは言うけれども、「力」という言葉は日常的なものを超えた事態や事柄に関係するような感じを受けます。しかし、力は命と置き換えても同じことです。力がないのは、命が乏しくなる、小さくなることです。パワー、エネルギーという言い方もしますが、そういうものが内に満ちている事が実は命です。それは肉体的な命でもあると同時に、内なるものといいますか、魂の力、これが命です。パウロは自分に力がない、力をどうしても神様から頂かなければならないことを痛切に感じている。そして、それを求め続けてきたのだと私は教えられています。

私どもは普段の生活で、自分はそもそも力がないと自覚はしています。だから、力とは縁がない、そんなものは有力者か、経済人か、この世の中の政治家であるとか、そういう人が力を持っているので、私は力がない。「力がなくて当たり前、こんなもんや」と思っていますが、そうではない。確かに力のない者ですが、私たちはそれを得なければならない。それは命だからです。その力がなければ生きることができないのです。今、私にとって何が必要か、それは命であり、また力です。それがなければ動けない。言うならば、今朝、目が覚めて元気に窓を開けるなり「晴れて五月晴れだ、いい天気やな。教会に行くのはもったいないけれども行こうか」と、そう思う。新緑の頃だからどこかに出かけて、遠出でもしたいという気持ちがわいてくる。力に満ちてくる。でも、どんよりとした曇った梅雨空になると、「もう出かけたくない。したくない」となえてくる。すると力がなくなる。私たちは満ちたり引いたりする力によって支えられているようですが、その自覚がない。しかし、これは大切なことです。私は何によって力が与えられているだろうか、このことをパウロは常に自覚していたのです。彼は自分が弱い人間だということを認めました。それは彼は生まれながらにそういう肉体にとげがあるから、何か持病があったから体が弱かったからかというと、必ずしもそうではない。コリント人への第二の手紙に語られているように、海の難、盗賊の難、陸上の難、海に漂ったことが何度となくあったり、むち打たれたこと、投獄されたこと、ありとあらゆる患難、いろいろなものに出会っている。それでもなおへこたれない、強い人です。なぜ彼は自分が弱いと言ったのか。それはちょっと読んでおきたいと思います。

 ピリピ人への手紙3章2節から6節までを朗読。

 パウロがイエス様の救いにあずかる前の事態、事柄です。彼は肉を頼みとして、それを力としていたと告白しています。彼は生きる力をどこから得ていたか。肉の力を彼は誇りとしていた。それを誇りとし、頼みとしていた。5節に「八日目に割礼を受けた者、パリサイ人、ベニヤミン族、ヘブル人」と語っています。言うならば、ユダヤ人の中でも自分は誰よりも優れた家柄であり、体力、知力を持って、優秀な民族、ユダヤ人と言われるだけでも素晴らしいのですが、ベニヤミン族とは数の少ない部族でしたが、初代イスラエル王サウロの出身の部族ですから、名門です。輝かしい歴史のある部族だったのです。だから、「ベニヤミン族の出身」と彼は誇らしげに言っているのです。彼にとってはこれが力だったのです。彼はその時代にあって前途有望な青年であり、また自分自身も、力のある人間という誇りで、文字どおりそのように生きていました。クリスチャンを迫害し、教会を迫害し、当時としては大変な勢いをもって、世の中の支配者としての地位を確立するために頑張っていたのです。

ところが、7節に「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった」と語っています。ここから彼の方向が完全に変わります。今まで自分の頼みとしていた、肉を頼みとし、自分の家柄を誇り、自分の知力、体力、自分の持っている才能を誇りとし、それを頼りとし、それを力として生きていた。これがあるから大丈夫、誰にも負けないというエネルギー、力に満ちていた生涯。ところが、ダマスコにクリスチャンを迫害するために出かけた途中で、よみがえってくださった主に出会った。そのとき、彼と共にたくさんの人がほかにもいたのですが、ほかの人たちはそれに気がつかない。何か物音がした、雷鳴が聞こえた、落雷にでも打たれたのか。しかしそのとき、パウロにはイエス様の声が聞こえた。「サウロ、サウロ、何ゆえ私を迫害するのか」と。「あなたはどなたですか」と尋ねると、「お前が迫害するイエスだ」。イエス様がよみがえって生きている。そのイエス様に出会った瞬間から、彼の人生がガラッと変わった。今度は、弱くなってしまった。7節に「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった」。続いて8節に「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている」。それまで自分の誇りであり、力の源であり、よりどころとしていたものが全部ガラガラッと消滅していく。そして残ったのは、誠に情けない、ひ弱な自分しかなかったのです。彼がよみがえったイエス様に出会った後、目が見えなくなった記事があります。もう自分で動けなくなった。彼は両脇を人の手で抱えられて過ごすしかなかった。やがて、見えなかった目が開かれる体験をしますが、それはイエス様の十字架の死とよみがえりを体験することでした。自分の今まで誇りとしていた、自分の生きがいと思っていたすべてのものが失われてしまった。ぼう然自失、自分の力がなくなったのです。死んだ者になった。その姿こそが自分の真の姿である。誠の姿はそこにあることを彼は初めて認めた。それまでは張子の虎のように、風船を膨らませたように、家柄であるとか、自分の才能であるとか、生まれ育ちとか、そういうもので、自分は力ある者のごとく振舞ってきた。ところが、イエス様に出会ったとき、それらの一切が消えてしまったのです。そして、生きる望みすら失うほどに全く消え去った存在になる。その後、彼は目が開かれましたが、社会からまったく身を引いて、しばらく消息不明のような時期を過ごしています。彼はその中を通して、初めて何が人を生かす力であるか、命であるかを学んだ。それがイエス・キリストです。だから8節をもう一度読んでおきますが、「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている」。イエス様を知ること、これがすべてだ。キリストのゆえにわたしはすべてを忍ぶ。キリストを得ること、これが私のパワー、命であり、力です。今まで自分がより頼んできた、自分が力だと思ってきたものが壊れ去って、それにとって代わって、今度は、イエス・キリストが私のすべてとなった。その時に初めて人を生かすもの、人の力、本当に頼るべきものが何であるかを彼は体験した。

私たちにもそのことは必要で、大切な事態だと思います。私たちもどちらかというと、パウロのような自分の持っている物や与えられている物、能力であるとか、家柄であるとか、学歴だとか、この世のいろいろなものを力として、「これがあるから大丈夫」「これが……」と思っている。ところが、そのようなものが一つ一つそぎ落とされて、「私って何でこんなに力がなかったのだろうか」と嘆く。年を取ってくると、そういう思いになるでしょう。昔は力があると思ったが、そんなのは本当の力ではなかった。

先日もある方とお話しました。「先生、どうしてこんなに力がなくなったのでしょう。こんなはずではないと思う。年を取るってこういうことなのでしょうか」と言われるから、「そもそもが力がなかったのではないですか」「いや、そんなことはありません。もう一度回復できるように祈っています」「それは無理でしょう」と私は言った。そのような肉の力を頼みとしても、無理です。私たちは初めから力がない、弱い者である。私たちの力はどこにあるのか。それはまさに、神様からの力です。パウロがここに語ったように、今まで肉の力に頼ってきたが、そうではなかった。今度はよみがえってくださったキリストこそが、私のすべての力の源であることを体験したのです。だから、彼は絶えず事あるごとに、そのことを語り続けます。自分は弱いのだ、自分には力がない。ピリピ人への手紙4章には「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(13節)と語っています。わたしに力を与えてくださる方がいなければ、わたしはなにもできない。そうですね、車は便利なもので動いている間は良いですが、ガソリンでも切れてご覧なさい。何百万円する立派な車でもガソリンを入れていなければ走りません。動かなければ無用の長物どころか、邪魔物です。「いや、これは一千万円近い外国の高級車だぞ」と言っても、「走るの? 」「いや、動かん」。動かなくては駄目ですよ。パワーがないのです。私たちの力は何か。イエス・キリストが力です。これがパウロが言っていることです。だから、「わたしを強くして下さる」、パワーを与えてくださる、力の源であるイエス様により頼んでいくとき、わたしはどんなことでもできる。できないことはない。これは素晴らしい力です。だから、自分を生かすものは何なのか。私にとって力とは何なのか。皆さんのわずかな老後の蓄えは力ではないのですから、それを頼っていてもすぐに消えます。私たちが頼るべきものは神の力です。

ローマ人への手紙1章16節に「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である」。ここに「わたしは福音を恥としない」と語っています。日本人は「恥の文化」と言われますから、教会でも「こんなの恥ずかしい」「そんなことを人に知られたら恥ずかしい」「こんなことは……」とよく言われます。「先生、これは誰にも言わんといてください」と言われたら、こちらにたまります。その人は誰かに言いたいから言ったと思うのです。「言わんといてくれ」と。知られたら恥ずかしいと思うのです。ところが、パウロは「福音を恥としない」と言ったのです。「福音」とは、よきおとずれ、グッドニュースじゃないですか。それは知られたら恥ずかしいことではない。そうでしょう、いい話です。もちろん自分だけ宝くじに当たってほくそえんで、これは誰にも言うまいと。それは福音を自分だけのものにしておきたいのでしょうけれども。「福音」は、宝くじと違って、言っても減りません。むしろ言ったほうが増えるぐらいです。この「福音」とは、1章2節から読んでおきますが、「この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、3 御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、4 聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである」とあります。2節以下に「この福音は……」と語られていることは、言うならば聖書に約束された神の御子に関する事柄、神の御子のことである。御子とはイエス・キリストのことです。ということは、福音はイエス・キリストに関する聖書の約束、そしてイエス・キリストは福音そのものです。福音はイエス様ご自身である。だから、イエス様が、神の子が人となって世に来て、私たちの罪のあがないとなり十字架に死んで、よみがえって、今も私たちと共にいてくださる。そのイエス様の全部、初めから終わりまでを福音と言う。だから、イエス様を信じていることが恥ずかしいこと、恐らくパウロの時代はそうだったと思います。「私はイエス様を信じている」「そんな馬鹿な!」と、殊に彼はガマリエルの門下生という当時では最高学府の教育を受けた人物ですから、「そんなまやかしめいた、おとめマリヤから生まれて、死人がよみがえったなんて、馬鹿なこと、そんな事を信じるなんていうのは、これは恥ずかしいこと」と彼自身が思っていたのだと思うのです。

以前私が勤めていたころ、勉強家で聖書をよく読んでいた友人が、私がクリスチャンだと知っていたものですから、「榎本君、君、分かるかね。福音を恥としないとパウロは言っているだろう」と。「はい、言っていますね」「あれはね、パウロが福音が恥ずかしくてたまらなかったのだよ。だからああいう事を言うのだよ。君にとってはどうかね」と言われたのです。恥ずかしいことなのかな、と思いましたが、考えてみたら「そう言えば子供の頃、恥ずかしいと思ったな」と思いました。子供の頃、牧師の子供で、学校へ行くと「アーメン、ソーメン、何とか」と言われて、「恥ずかしい、何でこんな恥ずかしい家に生まれたか」と思ったことを思い出しまして、「福音を恥としない」、なるほど、パウロもそういう時代があったのかなと思ったことを忘れられません。

どうですか、皆さん、「福音を恥としない」と、パウロも私と同じように恥ずかしいと思ったことがあった。ところが、今は恥としないと言っています。福音がなぜ私たちにとって恵みかというと、「それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に」とあるように、イエス・キリストを信じるのです。イエス様を信じていくとき、「救を得させる神の力」だからです。私たちを救ってくださる。救いとは、条件なしで、どんな事の中からも救ってくださる。もちろん、いちばん大きな救いは罪からのあがない、滅びからの救いです。しかし、そればかりでなく、神様は病からも救ってくださるでしょう。お金がなければそこからも救ってくださるでしょう。人間関係のどんなことからも、あるいは私たちの性情性格をも作り変えることだってできる。私はこういうことから救われたい、自分はひ弱で、思いだしたら心配ばかりしてやめたくてもとまらない、こんな自分をどうにかしてくれないかしらと嘆くなら、それから救ってくださるのは信じる者に救いを与えてくださる神の力です。イエス・キリスト、イエス様こそが私の力の源、イエス様を信じることが私たちの力です。そして、それが命です。力は私たちを造り変える。だから「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(Ⅱコリント 5:17)と。新しく造り変えてくださる。「だれでもキリストにあるならば」と、どんな人でもイエス・キリストを信じるならば、イエス様は私たちに力を与えてくださる。神の力、力が働きますと、いろいろなものに変化を生み出す。年を取って力がなくなってくると、毎日毎日同じものを着ているし、同じものを食べているし、変化がなくなってきます。力に満ちている子供たちを見ていると、目まぐるしく変わっていきます。別にそれと競争する必要はありませんが、私たちの内に神様が、キリストが力となって、内に宿ってくださる。だから、パウロは「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている」(Ⅱコリント 4:7)と語っています。「その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」と続きます。彼は繰り返し「力は神にある」と語っています。しかも、それはイエス・キリストだと言い続けている。イエス様を信じていくとき、私たちは造り変えられるのです。自分の性情性格、こんな私だから何とかと願う。そういう私たちがどうしたら変わるか? イエス・キリストを信じるのです。命を捨てて、よみがえった主が、今、この問題、この事柄の中に共におられる。そのイエス様を信じていくとき、そこから神様は素晴らしい業を現してくださる。私たちに必要なのはそこです。だから、パウロは繰り返し「イエス・キリスト以外にない」と。彼は「我キリストと偕(とも)に十字架につけられたり。最早(もはや)われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」(ガラテヤ2:20)と告白しています。キリストは私の内にあって私を生かしてくださる。私の力の源はイエス様。だから、イエス様を信じて、イエス様に従っていくとき、私たちに力が与えられる。私たちは恐れることはいらない、また怖じ気つくこともいらない。どんなことの中にも、私を強くしてくださる主がおられることを信じて、主が与えてくださること、どんな大きな問題であろうと、「これは到底私の手に負えない、私にはこれはできない、私には力がない」と思うところでも、「いや、そのとおり私は力がありません。しかし、主よ、あなたは私の救い主、あなたは私の力です。神様どうぞ、これに打ち勝たせてください。私に力を与えてください」と切に求めようではありませんか。イエス様を信じて、そうするときに、私どもに思いもかけない、想像もつかない力を神様は現してくださいます。

 使徒行伝3章1節から8節までを朗読。

 神の宮の門の所に、生まれながらに足のきかない男の人が置かれていました。彼は施しを受けながら生活をしていた。その日、ペテロとヨハネがたまたま彼の前を通りかかった。そして、二人が立ち止まって、彼をじっと見たので、彼は何かくれるものと思って期待したのでしょう。何かもらえるだろうと思っていたときに、6節「ペテロが言った、『金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう』」。「金銀はわたしには無い」、金銀とは、ある意味で力の象徴です。これを持っている人は強い。“地獄の沙汰(さた)も金次第”と言いますから、どこに行っても金は力です。といって、ペテロがここで「金銀はわたしには無い」と。私には力が無い。言うならば、私は何も無い。ところが「しかし、わたしにあるものをあげよう」と言ったのです。ペテロが持っているわたしの力をあげようということ。何を彼は持っていたのでしょうか? 「わたしにあるもの」とは明らかにイエス・キリストです。イエス様を信じて、よみがえってくださったイエス様が私の力の源になっていることをペテロは体験した。言うならば、聖霊が彼に臨んでくださって、内に宿ってくださっていることを確信していました。それが証拠に、彼はイエス・キリストをあんなにまで恥ずかしいと思っていた。その仲間になることすらも拒みました。そういう弱い、本当にひ弱な彼が、ペンテコステの事態によって、イエス様の力に満たされ、よみがえった主に力を与えられて、町へ出て行って多くの人々に「このイエス・キリストこそ神の御子、私たちの救い主ではないか。そのイエスを殺したのはあなた方だ」と、実に大胆に、恐れることなく語るべきことを語りました。その勇気と力はどこからきたか。それはただイエス・キリストを彼が信じたからです。イエス様の力に満たされ、動かされた。私たちはいろいろなことを恐れます。不安になります。思い煩いが心に満ちてきます。そのとき私たちはイエス様を忘れている。力をなくします。そして、意気消沈すると言いますか、ヘナヘナとなって立つ力もなくなる。そのとき、もう一度神様の力を頂く。それは「すべて信じる者に、救を得させる神の力」「すべて信じる者」とあるように、信じるのです。もう一度静まって神様を求めて、イエス様の力をいただくのです。今、私が何ゆえにここに立たせられているか、イエス様が私にとってどのような御方であったか、イエス様は私に今何を求めているかと、主に心を向ける。そして、力を求めて待ち望んでいくときに、「主を待ち望む者は新たなる力を得る」(イザヤ 40:31)とあるように、はっきりと、「キリストが私の主です」と告白し、キリストと共に死んだ自分だと認めたとき、一瞬にして神様がよみがえりの力をもって、私たちに恐れを乗り越えさせてくださる。不安になって嘆いている、つぶやいている心を造り変えて、新しい者に変えてくださる。その秘訣(ひけつ)は、私たちに与えられているキリスト以外にありません。

 このときペテロが「わたしにあるものをあげよう」と言いましたが、ペテロが持っていたものはイエス・キリストです。キリストに結びついた者であったのです。どうぞ、このキリストにしっかりと結びついて、人が何と言おうと、人がいようといまいと、そんなことはどうでもいい。キリストに結びつくこと、これが力の源です。私を通して神様は力を表そうとして、今この問題や事柄においてくださっている。どんな中に置かれても「大丈夫です」と言えるのです。私が大丈夫ではなく、私は弱いもの。パウロが言うように、キリストの力が現れて、だから私は「むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」と。

このときペテロは「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と命じたのです。なぜなら、ペテロの中にイエス・キリストがいた。私を生かし、私に力を与えて、私をこんな者に造り変えてくださった、ガリラヤの一漁師であった私をしてキリストの僕としてくださった神様の力を、キリストを、私は握っていると確信していた。だから、あなたもこれによって立ちなさいと。その瞬間、この生まれながらに歩けなかった彼は変わるのです。何と大きな力でしょうか。今も神様の力は私たちを通して働こうとしています。どうぞ、信じてください。信じることがすべてです。

ローマ人への手紙1章16節に「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である」、神様の力が働く。この力がなければ、私たちは全く無に等しいのです。無きに等しい、消え去るしかないのです。どうぞ、日々、イエス・キリストが私の力ですから、そのキリストに結びついて、主に生かされていく毎日でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。