本分を尽くす生涯

伝道の書12章1節から14節までを朗読。

 13節以下に「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。14 神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである」とあります。

「伝道の書」は日本人にも比較的分かりやすい箇所です。それはこの書の初めに「すべてのものは空の空、風を捕らえるようなものだ」と語られていることから分かるように、人生、この地上の生涯はいったい何の意味があるかと問いかけ、すべてが空しいと無常観に共感するからです。「何のために生きているのか」を考えると、食っちゃ寝、食っちゃ寝と、ある方が「人糞(じんぷん)製造機」と言ったのですが、そこまでストレートに言われると身も蓋もありませんが、考えてみたら、ただそれだけのために生きているのかと思うとむなしいですね。どんなに豪華な生活をしようと、壮大な屋敷に住もうと、何のために生きているのか、自分というものが何なのかが分からない。やがてある年数がきたら死んでしまって、消えてしまう、無くなってしまう。

二週間前ですが、家内の父が召されました。そのあと「あら、何があったのかな」と思う、アッという間でしたから。本人も「死にたい」「死にたい」と言っていましたし、私たちももうすぐ死ぬのだろうと感じていましたが、それでも、なお見る様子は元気そうだし、散歩もするし、三度の食事もしっかり食べますし、このままでひょっとしたら一年、二年ぐらいいくかな、という思いがあり、また存在感があったのです。ところが、今朝もそう思ったのですが、そういえば二週間前まで義父は生きていたのです。病院から「ちょっと容態が悪い」と電話があって出掛けました。病室に入ると、酸素吸入と、点滴でしたか、それで眠っているような状態、呼吸は少し荒いようでした。ただ「意識はない」と言われましたが、見るからに眠っている感じです。起こせば目を覚ましそうだけれども、声を掛けても反応がないところを見ると、眠っているのではなく、無意識だなと。そんな状態で落ち着いていますから、二,三日、ひょっとしたら一週間ぐらいこの状態が続くかもしれない。これは長期戦になるかもしれないと思いました。取りあえず今晩ぐらいは家族が泊まらなければいけないだろうと。病室には泊まれるようにソファーがありますから、家内に「やはり泊まったほうがいいのではないだろうか」と話しました。看護師にそう言ったら、「え!泊まるんですか?」と聞き返されました。「まだいいんじゃないですか」というようなニュアンスでしょう。しかし何かあったらいけないから、とにかく泊まってもらおうと、準備やほかの用事を済ませに席を外して戻って来ました。様子を見ると二時間くらい前とあまり変わらない。それで義母を老人ホームまで連れて帰りました。私も夜の集会のためにと戻って来た。すると家内から電話があり、「今なんか『心臓が止まった』と言われているけれども、どうする? 」と言うから「『どうする? 』って、それ死んだの? 」と言ったら「いや、モニターが消えたらしい」と言うのです。私は人の死がこんなに簡単に来るものかなと思いました。といって、生きようと思っても生きられないし、死のうと思っても死ねません。やはり神様の定められた時があるのです。

伝道の書にも「 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」(3:1)と言われています。神様が命の終わりの時を定められるのです。その後義母をまた連れて来まして、お医者さんが死の宣告をしてくださいました。葬儀屋さんにも電話して、早速来てもらい、何を着せるかという話になって、慌てて取りに帰り、準備して着せた。教会に連れて帰りましたが、そのあとはばたばたと葬儀から何から手配があれよあれよという間に進んで、気がついてみたら骨壷に入っている。今私の部屋に置いていますが、毎朝眺めながら「これが義父だったのかな」と、実に不思議な感じがする。病院にいたから、いつも気になっていました。それがスポッと抜けて、その部分が空白になって、消えるのです。人が亡くなると言いますが、文字通り無くなったのです。それまでに義父は何もかも潔(いさぎよ)く整理していましたから、処分するものもありません。遺品が無い。葬儀が終わって、義母から電話があり、「何かお父さんの遺品を弟にやってほしい」と言うのです。「え!形見? そんなものあったかな? 」と。振り返ってみると、病院では腕時計はしてなかったし、慌てて探したら、千円のカシオのバンドが切れているのがありました。それで義弟に「こういうのがあるけれども、これが形見でよければあげる」と「そんなものはいらん」と言うのです。それ以外に無い。着ていた洋服はあるが、やせ細ったときに買ったものですから「サイズが合わないだろうけれども、もしよかったら持って行ったら」と言ったのです。そのように何も無い。プラスチックの衣装ケース一箱に下着などが残りましたが、それ以外に何にもない。潔(いさぎよ)いといえば潔い。

 私の両親のことを思うと、残りすぎて困りました。母が亡くなって整理するとき、とうとう産廃業者にお願いして全部捨てるしかなかった。兄と弟が全部片付けて、「えらい目にあった」と言っていましたが、その点は家内の父は実に身辺整理がきちっとされて、行ってみたら空っぽ。そしてついには自分も亡くなってしまって、消えている。今、振り返って見ても、あまり思い出らしいものもない。こちらもだいぶ年を取って記憶力も薄らいでいますから、思い出すことが少ない。人の人生とはこんなものかな。アルバムぐらいあればいいのですが、写真らしい写真も無い。義父は写真が嫌いでしたので、写真もほとんど残っていない。晩年病院に入っているときに、やっと「葬式のために撮らせてほしい」と頼んで撮ったものがありますが、それ以外ほとんど写真らしいものも無い。これはなかなかいいことだな、と私は思います。

そうやって考えて見ると、人はいったい何のために生まれて、何のために生きてきたのか。ただ消えて無くなるだけでしかない。そうであれば、どうして苦労して、苦しみ悩んで人生を生きているのだろうかと思わざるをえない。だから、13節に「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」。人の本質、人の存在の値打ち、地上に生かされている目的、その値打ちはいったいどこにあるか。それは、その人がどんな人生を歩んだか、何をしたかとか、どういう家族であったとか、どういう人柄であったかが問題じゃない。そんなものはすぐに消えてしまう。自分がどういう人生を歩んだかは消えてしまう。では、私たちはこの地上にあって何をするのか。それが13節に「これはすべての人の本分である」とあります。「本分」とは、それをしなければその人の値打ちがない。物の価値がない。いろいろなすべての作られたもの、私たちが用いる道具であるとか、どんな物でもそれぞれの目的がある。これはこのために、これはこの目的のために、これはこれをするためにという、一つ一つ、それぞれが作られたり、置かれている、存在している理由があります。存在の理由がないことはむなしいことです。それを「本分」という言い方をしたらいいと思うのですが、私たちはその本分を尽くしていなければ、その意味をなさない。よく学生の本分は勉強することと言われます。確かにそうです。授業をサボってアルバイトに明け暮れたり、遊びにふけって学校にも行かない。それではいくら学生服を着ていようと、大学の学生証を持っていようと、それは学生としての「本分」を尽くしていない。主婦は主婦として、あるいは会社に勤める人にとっては、それぞれに与えられてそれをしなければその役割を果たしていないという内容のものがある。では、私は主婦だから主婦としての本分を果たす、それが本分かと言うと、なるほど、それは主婦であるとか、主人であるとか、あるいは父親であるとか、母親であるという、親としての本分、尽くさなければならないことではあります。しかし、それはあくまでも一つの人間の役割ではあります。そういうものをはぎ取って、いわゆる肩書きを抜きにして、裸のままの人間と、全くそういう肩書きも、役割もなくなった裸の人間になって、ではその人としての本分は何か?そこに存在すべき理由は何か。それはここに「神を恐れ、その命令を守れ」とあります。神様を恐れ、尊び敬うこと。神様を信頼すること、信じること。神様の命令、命令とは言葉です。神様が求める御心、神様の御思いを守り行うことが私たちの使命。私はもう一度そのことを深く教えられました。人が死んでしまって何にも残らない。そういう目に見える、地上の生活の家であるとか、持ち物であるとか、その人の生きてきた過去からの輝かしい経歴であるとか、業績であるとか、そんなものはその人の死と共にすべてなくなっていきます。ところが、それが人の本分かと言いますと、そうではありません。人間が本来あるべき事、なすべき事は何か。私たちがこの地上に存在しているかぎり、神様を恐れること、神様がいらっしゃることを信じることです。そして、神様にすべてのものが造られ、生かされている。私たちが日々の生活のすべての中で神様を証詞すると言ったらいい。「恐れる」とは、ここでは恐怖の「こわい」という意味で書かれていますが、本来尊び畏(かしこ)み大切にするという意味の言葉です。もちろん、すべてのものを正しく裁きをなし給う神様は怖い御方ですから、14節にあるように「すべてのわざ、善悪ともにさばかれる」御方でありますから、決して侮るべき御方ではありません。軽んじるべき御方ではありません。しかし、ただ怖い、怖いという山の神ではなくて、真(まこと)の神様はもっと人が尊ばなければならない、大切にしなければならない御方です。神様を神様として認めて神様がいらっしゃることを証詞する者として、私たち人間を造ってくださった。人がこの地上にあるのは、神様を明らかにする。そのために人が生涯を懸けて神様に仕えていく、恐れ、敬い、尊ぶことが、人の本分。それは同時に神様の御心にかなうことであり、神様の前に生きる価値ある存在となるわけです。だから、私たちはただ食べて、寝て、楽しんで、仕事をして、子育てをして、この世の中のいろいろな目に見える業を、事業であるとか、あるいは仕事であるとか、いろいろなことをやって、そのしていることがすべて生きがいと言います。しかし、本当に人がしなければならないこと、大切なことは、どんなことにも神様を認めて、神様の御心を大切に思うこと、神様の業の中に自分があることを体験する、それを自分が味わうことです。だから、何ができるとか、できないとかではなく、この世の中でどんなに無名の者であり、無きに等しい存在であっても、その置かれた所で神様を敬けんに尊び、敬い、そして私たちのなすべき一つ一つの事柄を神様からのこととして感謝して、神様を中心にして自分の生涯を、人生を生きていくことなのです。そうしますと、私たちのこの地上の生涯、目に見えるものは一切消えてしまいます。持ち物も身分も、したこと、業績も何もかも消えてしまいますが、私たちが神様に仕えて、神様の恵みを証詞する生涯であったら、ほかのものが消えても、神様にはそれが消えません。私たちがこの地上に生かされ、造られたのは、神様がご自分の栄光を明らかにしようとするためです。

 イザヤ書43章4節から7節までを朗読。

7節に「わたしは彼らをわが栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てた」とあります。神様の栄光のためにすべてのものを造り、それを仕立てている。本来、旧約聖書の一番最初に語られているように、エデンの園に人が造られ、置かれたとき、それは神様の業、神様の力、神様の御愛、神様の恵みを具体的に表す作品として、神様の作品として人をお造りになったのです。ところが、神様に造られたはずの作品である私たちが、神様の意図と目的から離れてしまった。神様を離れて勝手なことをする。造られたはずのものが、神様の栄光を汚してしまう、神様の作品としての輝きが失われてしまった。これが私たちのこれまでの姿です。神様は私たちをこの救いに引き入れてくださって、最初のように神様の業を、神様の素晴らしさを表そうとしてくださるのです。

今きれいな花が講壇に飾られていますが、こういう草花でもすべて神様の作品です。この花一つ一つを心を込めて見るならば、真に不思議としか言い様がない、神様の業としか言い様がない事ばかりです。花が自分はあそこに飾られたいから、こういうことのために造られたなどと自覚はありません。どこに置かれても花はつぶやかない。この花が今講壇だからパーと元気で咲いている。部屋の隅っこに置いたら、「こんな所嫌だ」なんてシューッとしぼむこともない。どこに置かれても、力いっぱいに輝いて咲いている。すべてのものがそうなのです。すべてのものが神様の栄光のために造られている。その中でも格別、人は神様の恵みを一番表すものとして造られている。そのために私たちの地上の生涯があるのです。私の夢を実現するためでもなければ、私の何かのためにこの地上に生きているわけではない。そうではなくて、私たちはこの地上に在ることによって、神様を恐れ、神様を尊び、神様の御言葉を通して伝えられる御思いに合う者となって、輝いていること。これが本分です。

7節にあるように「わたしは彼らをわが栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てた」。神様はご自分の栄光を表すものとしてこれを造り、これを仕立てたとおっしゃる。私たちが今日もこうして元気を与えられている。それは何かする使命があり、世話をする家族がいて、こういうことのためにという地上での役割ももちろんあります。しかし、もっと大切なことは「神を恐れ、その命令を守れ」。これが私たちの人として生きるべき使命です。だから、何もできなくても、寝たきりになって人の世話を受けなければならなくても、そこで神様を恐れて、その命令を守る。神様の言葉に信頼して、神様を喜び、神様に感謝し、主を褒めたたえていく。感謝賛美していくところに神様の栄光が表わされ、神様の業が初めて完成するのです。

だから、伝道の書12章13節に「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ」。「神を恐れ、その命令を守る」とは、私たちが置かれたこの地上の生活の隅々、くまぐま、ことごとくの中に、神様を認めていくこと。だから、箴言に「すべての道で主を認めよ」(3:6)とあるように、すべてのことに神様を恐れて、このことも神様が備えられたことです、この道も神様が与えてくださったことですと、一つ一つ神様を認めていくこと。そして神様を恐れること。私たちは自分で生きている、自分でしているのではなくて、神様が私たちに備えられることがあるから、先のことは分からないけれども、今私がしなければならないことはこのことであり、これは神様のご命令だから、神様がわたしに求められることだからと、真剣に主に仕えていくこと。これが私たちの本分です。私たちがこの地上であれをした、これをしたという、そういう業績と言われることよりは、一つ一つの事柄の中にどれだけ神様を恐れていたか、どれだけ神様の御心と信じて従ってきたか、これが問われている。だから、この地上に在るかぎり、すべてのことでここに神様が私を置いてくださっている、神様は私を造り生かしてくださっていると信じていく。これが私たちの大切な第一歩です。

先日もある方とお話をしていましたら、その方は大変苦労をなさったのです。結婚しての家庭生活も大変だったけれども、その中でご主人のお父さんの病気のためにご自分がほとんど世話をして死ぬときまで大変な苦労をしてお世話をした。末期がんになられてその痛みと苦しみの中のお父さんにその方は一生懸命に尽くしてきた。自分はこの親のためにしてやらなければいけないと思って一生懸命にしたけれども、今になってみたら非常にむなしいと言われます。そして、それに対して報われることは少なく、義理のお母さんは自分に対してつらく当って冷たくて、何のために生きてきたのだろうと、自分は神様を信じてきたけれども、どうしてこんな目に遭うのだろうかと嘆いておられる。私はそれを聴きながら「あの人のために、この人のために、誰のために、これのためにと、あなたは身を尽くして一生懸命にその義理のお父さんの最後の看(み)取りをしてくださったということはよかったけれども、そこには神様があなたに求められたことと信じる信仰がなかったのではないですか」と。「私は神様が置かれたと思って、それをこの人のためにとしたのです」。「神様が置かれたら、神様のためにするのであって、人のためにするのではない」。その方は初めてそのことに気がついた。「自分は神様によって、この人のためにするべきだと教えられたから、この人のためにしたのだが、その家族はそれを認めようとしない」と。「それはあなたの方向が違う。神様が『せよ』と言われたら、神様が答えてくださる。あなたは神様から言われてこの人のためにした。この人が報いてくれないと言っているけれども、そのとき既にあなたは神様を離れて人のためにしているのですよ。人を見ているのではないですか」と。それまで、その方は信仰を持って神様のためにしていると思ってきたけれども、結果を見ると自分の心はむなしくなってしまって「何のためにしたんやろう」とつぶやき、納得がいかないのです。多くの人々の信仰の一番の問題点はそこです。神様を信じて、神様に仕えていますと言いながら、この人のために、あの人のためにと、神様が人とスリ替わって人のためにしてしまうところに、私たちの失敗がある。そういうことが案外と多いのです。「神様のために」「主のために」で始めたら、その結果も何もかも一切主が報いてくださる、主がご存じです。徹頭徹尾、初めから終わりまで主だけ一本に徹底することが、大切な事柄です。人の本分としての生き方です。

その姉妹は若いときからクリスチャンだったのですが、そういう話を聞いたことがなかった。それで、義理のお父さんが亡くなって、可哀想だから何とか供養をしなければいけない。「先生、キリスト教ではこういうときどうするのでしょうか」と。「お父さんは神様の許(もと)に帰っている。供養するって、何をするのですか」と。「自分の気持ちが納まらない。家族から冷たくされて、孤独に亡くなって可哀想だから、何とかしてあげたい」「あなたがそういう願いがあるならば何をしてもいいですよ」と。「写真を立ててお花を飾ってお水を上げてもいいでしょうか」と。「いいですよ。どうぞ、そうしたければしたら。何をしてもいいですけれども、死んだ人はもうそこにはいないし、神様がすべてをご存じで、あなたが祈った祈りに神様は答えてくださっているはずです」と。やっとそこでその姉妹は「なるほど、そういうことか。先祖のお陰とは考えないですか」と。「先祖が何かあなたにしてくれたのですか」、「いや、私は先祖があって今がある」、「いや、聖書には先祖が大切とは書いていませんよ」と。「神様が私たちを造ってくださって、先祖も神様が造ってくださった。もしあるとすれば、このお父さんが、そのおじいちゃんが、自分の一族の先祖があるとすれば、神様が私のためにそのような一族郎党、血縁者を神様が置いてくださった、与えてくださった。それは恵みではあるけれども、神様に取って代わることはできない。先祖はあくまでも人であり、神様に造られたもの。そのことをしっかりと、きちっと心に信じていかなければ惑わされますよ」。私たちはともするとそのようなことを周囲から言われたりして揺れます。

そのように死んだ人のあとのことで心が納まらない、どうしたらいいだろうか。先だってもある方からそう言われたのです。奥様をついこの間亡くされて、葬儀が終わって写真を持って帰って、遺骨もまだ納骨をしておりませんから床の間に置いている。そのご主人は寂しくて仕方がない。「キリスト教は何にもせんのですか」と言うから「いいえ、しますよ、よかったら何でも言ってください」と言ったのです。キリスト教は寂しい、「死んだ人のことを思わない」と言う。「思わないことはない、あなたがしたいようにしたらいいじゃないですか。ご飯を飾りたければ飾ったらいいし、奥さんにこうしてやりたいとあなたが思うことは何でもしたらいいじゃないですか」と言ったのです。聖書には、あなたが気の済むようにしなさい、と書いてあります。ちょっと誤解をする言い方かもしれませんが、ただ大切なのはその人を拝むとか、その人が神になったとか、あるいはその人が何か先祖の一族郎党に祀(まつ)られて、私たちの守護霊と言いますか、背後霊となって守ってくれるとか、そういう考えは一切駄目。それは神様の前に罪を犯すことになる。「しかし、愛する人が亡くなってその人を思う思いで、こうしたら喜ぶに違いない、この人はこれが好きだったよね、と思い返して、そうすることで自分の心が休まるのだったら、その休まることをしたらいいじゃないですか。聖書にはどこにも『何もしてはいけない』とは書いていません。あなた方は自由である、何をしても。『食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する』(ローマ 14:6)。だから、私たちのすることなすこと、どんなことをしてもいい。主のためにこれをさせていただくのです。だから、神様が奥様を自分のためにこの地上で伴侶として与えてくださった。愛する人が神様の御許に帰っていった。『地上に残されて私は寂しいけれども、まだ今も思い出として心に家内のことが残っている』と言うのでしたら、その気持ちをご自分が納得する形で表してご覧なさい。奥さんの思い出の絵を書くのもいいじゃないですか」と。「私はそんなことはできません」と、「それなら思い出を語ってもいい。どんなことでもいいからあなたの心が落ち着くようになさったらいかがですか」。

私どもはどんなことでも、そこに「神を恐れ、その命令を守る」。神様を恐れ敬うから、あれをしてはいけない、これをしてはいけない。これはご法度というそのような律法の世界で生きているのではありません。神様が私たちをこの地上に置いてくださったのは、私たちが自由に喜びを持って生きることを願っているのです。そのために神様を前に置いて、神様を恐れ、神様の御言葉を心に信じて生きる、喜び感謝して生きることが大切です。13節に「事の帰する所」とありますが、結論は「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」と。今私は何のために? ああ、そうだ、今日も神様を恐れて、神様の御言葉に従い、神様の恵みに感謝して生きることにほかならない。これ以外にないのです。だから、私たちがどんな問題や事柄の中に置かれましても、これも神様が私のために置いてくださった、これも主が「せよ」と言われることですと。いつも自分の心の中心に神様がいることを絶えず認めていく、覚えていく者でありたいと思います。

あれもこれも自分の思いのままに、自分の願いどおりに、なんて突っ張らないで、「主もし許し給わば」と聖書にありますね。神様が「よし」とおっしゃるならばあれもし、これもしよう。主が今このことをとどめているなら、これはやめましょう。主が「行け」と言われるならば、喜んで行かせていただきましょう。そのとき、そのとき自由自在です。絶えず「神を恐れ、その命令を守る」とは、どんなものをも恐れないでいい。人も恐れない、事情、境遇、事柄をも恐れない。ただ私たちは神様を恐れ敬う。これに尽きるのです。そうしますと、私たちは誠に自由自在であります。そして、喜びと、安心と、望みが絶えず与えられます。

私たちは人としての本分、これを尽くしていきたいと思います。神様を恐れて、今与えられている事柄を、今私たちがしなければならないことを、置かれている問題、事柄の中で、そこでまず神様を恐れ、大切にし、神様に求めて、神様のみ声を聞き、それに従う者となっていきたい。これが私たちの人としての大切な欠くべからざる事柄だからです。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。