キリストを生きる

ペテロの第一の手紙2章18節から25節までを朗読。

 

 21節「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」。

私どもはイエス様の救いを受けて、今は神の子とせられ、神様を「アバ父よ」、「天のお父様」と親しく呼び求めることができる身分にしていただきました。イエス様を救い主と信じるに至るまで信仰に導かれる具体的な切っ掛けがありました。いろいろ問題があって、どうにもならなくて、何とか救いはないだろうかと、人生の苦しみ、悩み、恐れ、そのようなものから導かれてイエス様を求めてきたに違いありません。私どもの側からするならば、イエス様を自分で選んで、この方を信じようと心に決めたと、どちらかというとそのような見方ができます。しかし、聖書にはそうは書いていません。見えない神様の深いご計画があり、御心があって、そのような問題や事柄を通して、いろいろな所から「地のはてから」(マルコ 13:27)、名もない小さな取るに足らない私たちを引っ張り出してくださった、招いてくださった、招待されたのです。招待状をもらったわけではありませんが、神様のほうが私たちを招いてくださった。まさか、招かれているとは知らないから、自分が苦労してやっとこの救いにあずかった、私の選んだ道はよかった、と思っています。しかし、神様のほうから見るならばそうではなくて、神様が先に目をとめてくださった。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」(ヨハネ15:16)と語られています。私たちが神様を選んだのではなくて、神様のほうがエペソ人への手紙にあるように「天地の造られる前から」(4)、まだすべてのものが造られないうちに、私たちをやがてのときこの救いに引き入れようと定めてくださった、決めてくださった。だから、言うならば、気がつかないうちに私たちは神様の仕掛けたワナに入ってしまった。これは幸いな恵みのワナであったと思います。

 

 神様はなぜ私たちを召されたのか。そこの21節に「そうするようにと召された」とあります。何をするか? それは、「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」。イエス様の足跡に倣う、あるいは「キリストに似るものとなる」(Ⅰヨハネ 3:2)ためです。イエス様の生涯に私たちがぴったりと結び合うために召してくださった。これは意外な事ですね。と言いますのは、私たちはそのような事を願ったわけではない。憧れたあの方のようになりたいと、考えることがありますが、私たちはイエス様を初めから知っていたわけではない。どちらかというと、自分のために、自分の人生を生きるために少しでも力になる、助けになるものをと願ってやって来た。そこがイエス様の所だった。しかし神様が、私たちを多くの者の中から選んで招いてくださったのは、私たちをキリストに似る者とするためです。

 

21節「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」。キリストが私たちの模範となる。どのような模範であったかと言うと、19節「不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶ」。「不当な苦しみ」、イエス様は罪人となった、罪なきお方が罪人となる。これは誠に「不当な苦しみ」です。自分がしたことの報いとして、その報いを受けるのでしたら、これはもう仕方がない、当たり前ですからあきらめざるをえません。イエス様が十字架におかかりになったとき、両側に罪人がイエス様と一緒に処刑されました。一人の人はイエス様をののしりました。「何だ、お前がキリスト・救い主ならば自分を救い、またおれたちを救え」と言いました。もう一人の人は「この方は、何も悪いことをしたのではない。しかし、自分たちはしたことの報いを受けているのだから、これは当然のことではないか」と言った。だから、まいたところを刈る、自分がしたのだから仕方がないというのは分かる。私たちでもそうですね。相手に何か悪いことをして、その結果非難されたりポカッとなぐられたりして痛い目に遭うのは、これはもう仕方がない。原因があるわけですから。ところが、案外とそうではないことが多い。「どうして私がこういう目に遭わなければいけないだろう」、どう考えても理屈に合わない、理由がないという、そういうのを「不当な苦しみ」というのです。といって、イエス様のように罪人でないものが罪人とされてということではないでしょうが、生活の中のいろいろなことがそうでしょう。自分が願ったようにいかない、思うように事がいかない。「どうしてだろう」「何でだろう」。思いがけない病気になる。「どうしてだろう、私はいつも節制しているのに、用心して食べるものまで気をつけているのに、どうしてこんな事になったのだろう」と。不当な、私が原因ではない、という怒り、憤りのようなものが心にある。これが不当な苦しみを受ける。だから、19節に「もしだれかが、不当な苦しみを受けても」という言葉を聞くと、「ははぁ、『不当な苦しみ』、自分は今のところ不当な苦しみはないが、でも、あれは気に入らん、これは気に入らん。でも不当ではないな」と思っています。しかし、案外、考えてみたら心の底で「本来、私が受けることではない。なぜ私がこんな事をしなければいけないの!私ばっかりこんなことをさせられて!」と憤っている。どこかで納得できないと思っているときは、不当な苦しみを受けているときです。思いがけない病気になって、長患いをしたりして「いつまでかかるのかな、何でやろう、どうしてだろう」と、これは不当な苦しみと思う。ところが、それを受けても、「神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶ」、すべての事をご計画の中に導いてくださる、すべての事を裁き給う、報い給う神様がおられることを信じて、神様を信頼することです。その神様の大能の御手の下に自分を低くすることです。これがイエス様の歩まれた道筋です。だから、20節「悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか」。当然の報いですから、何の手柄にもなりません。その後に「しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである」。「よみせられる」とは、「よし」と言われる、神様から喜ばれることだというのです。だから、神様を仰いでその苦痛を耐え忍んで、神様の前に自分を低くして、神様を仰いでいくこと。これが21節の「そうするように」ということです。しかも、イエス様もそのようになさったのです。私たちがイエス様の救いに導き入れられた目的は、私たち一人一人がキリストになるためです。キリストなんておこがましい、私がキリストになるなんてと思いますが、私たちがキリストに似るものとされることです。だから、21節に「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」。イエス様のご生涯は、私たちのモデルといいますか、私の生涯でもあるのです。

 

有名なトマス・ア・ケンピスという人が『キリストに倣いて』という古典的な本を書きました。「キリストに倣(なら)う」とは、どのようなことをするのでしょうか。イエス様のなさったようにするというのはどうすることだろうかと思いますね。それは、イエス様のご生涯の一つ一つの小さなこと、こうしたから、ああしたからということ、具体的な何か業のまねをすることではありません。イエス様がどういう方としてこの地上を歩んでくださったか、その時にイエス様が何を大切にしてきたか、イエス様の生き方、イエス様の地上での歩み方に倣うのです。イエス様はどのような方でいらっしゃったか。これは皆さんもよくご存じのように、イエス様はピリピ人への手紙にあるように「神の位にい給うたお方」です。ちょっと読んでおきたいと思います。

 

ピリピ人への手紙2章6節から8節までを朗読。

 

これはイエス様のことについて語られた1節ですが、6節「キリストは、神のかたちであられたが」とあります。イエス様は「神のかたち」、言い換えますと、神と等しいお方、神ご自身と言ってもよいお方です。そのイエス様、神でいらっしゃった方が、「神と等しくあることを固守すべき事とは思わず」、言うならば、神であることを譲れないこと、どうしてもそれは外すわけにはいかない、神である地位、身分を捨てない、固守するとはそのように頑固に守ることです。私たちでも時にそのようなことがあります。「こればっかりは譲れない」と言って、ガンと握ってしがみついていることがあります。固守するとはそのような状態です。「どうして私がそんなことをしなければいけない!」「私がそんなことをする理由はない!」「そういう人間じゃない。私はもっと別のことのために生きているのだ」と、そのように頑固に、かたくなに自分を守ろうとすること。これを「固守する」と言います。だから、イエス様は、自分は神であるから、人の世に下るなんてそんなことはできないと、絶対嫌だと言わなかった。私どもは「絶対嫌だ」と言って突っ張りますが、もしイエス様がそこで突っ張って「わたしは嫌だ」と言われたら、私たちの救いはないのです。まずイエス様が父なる神様の御心に従って、神の位を捨ててくださった。まさに、これはご自分の存在の根底を捨て去ることです。自分の誇り、自分のメンツ、あるいは自分、己(おのれ)というものを捨てる。だから、イエス様は「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て」(マタイ 16:24 )とおっしゃいます。それは、イエス様ご自身がまさに神の位にいた自分を捨ててくださったからです。そして、人の世に来たのです。

 

その後に、「神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、7かえって、おのれをむなしうして」と、「むなしうして」と言うのは、無になることです。なきものにしてしまう。そして「僕のかたちをとり」と、僕になる。誰の僕か?父なる神様の僕になることです。父なる神様に仕えるものとなって、人の世に来てくださった。そして、イエス様は多くの人々の悲しみを知り、悩みを知り、病を知り、どん底にある者を支えてくださった。しかし、それは人のためではなくて、実は父なる神様に対して、イエス様が僕であることを明らかになさったのです。そして「人間の姿になられた」、「その有様は人と異ならず」とあります。私たちと全く同じ「弱きを知り給う方」、ヘブル人への手紙には「わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである」(4:15)とあります。様々な苦しみを味わってくださって、私たちと全く同じ弱き者となって、この地上に来てくださった。そして「その有様は人と異ならず、8おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。そして、イエス様の地上でのご生涯はゴルゴダの丘での十字架の出来事に終わったのです。

 

イエス様のご生涯を思い起こすならば、神様の位にいた方がこの世に下って、とうとうゼロになった。車のガソリン・メーターは満タンにするとフルになり、それがどんどん減っていって空っぽのゼロになる。イエス様のご生涯はまさにそうだなと思います。そして地に下ってくださった。イエス様のご生涯そのものがゼロへ向かって行くのです。最後は墓の中にご自身を置いてくださる。そして、その墓からよみがえって天にお帰りになられる。まるで下がってゼロになり、もう一度満タン、フル、100%へと、Vの字のように上昇する。ビクトリーです。勝利のご生涯です。私たちもそれに倣う者となるように召されたのです。「え、私は、じゃあ誰の罪を負って十字架にかからなければいけないの?」。「自分の十字架を負うて」(マタイ 16:24)とイエス様は言われます。まず、私たちは自分に死にきっていく生涯です。イエス様はこの世に来てくださった。人の世にあって人の姿をとり、むなしくなって、ゼロへゼロへと全く自分を消し去ってしまう。私たちがそこまで主に倣うものとなる。イエス様のご生涯に自分を重ね合わせて生きる者でありたいと思います。そのために私たちは召されたのだ。そして、イエス様は「十字架の死に至るまで従順であられた」。「従順に」というのです。イエス様はこの地上に来られた時、どういうものとして来られたか。イエス様は文字通り神の位にいた方で、人の世に来てくださった。これは明らかに派遣された、遣わされたものです。神の国にいた方が人の世に来てくださった。言うならば、われわれが日本からどこかほかの国に行くように、イエス様は神の国から人の世に来てくださいました。私たちも今この世から選ばれ召されて神のものとされたのです。

 ヨハネによる福音書17章13節から19節までを朗読。

 

 これはイエス様が最後の晩餐(ばんさん)の席で、お話が終わった後にお祈りをされた祈りの1節です。この所に繰り返して「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません」と祈っています。14節と16節もそうです。「世のものではない」、言い換えますと、イエス様の救いにあずかった私たちは、この世にありますが、この世のものではない。イエス様がこの世のものでないように、私たちもイエス様と同じくこの世のものではないのだと。では、私たちはこの世で何かと言うと、18節に「あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました」。ここでイエス様が、ご自身が父なる神様によってこの世に遣わされたように、実はイエス様の救いにあずかった私たちもこの世に遣わされている者です。イエス様のご生涯と同じ形、イエス様がそうであったように、私たちもこの地上にあってイエス様と同じ身分といいますか、あり方、そのようなものとして召されているのです。このことを常に自覚しているでしょうか。ピリピ人への手紙に「わたしたちの国籍は天にある」(3:20)と語られています。あなた方はこの世のものではないと言っているのです。私たちの国籍は天に移されたのだから、あなた方は今この地上にあるけれども、ここはあなた方がいつまでも住むべき所でないどころか、実は神様によって、私たちが今派遣されている所だと示唆した言葉です。だから「わたしたちの国籍は天にある」、私の国籍は天に移されたのだといつも自覚しているだろうか。あるいは今地上に、今日この家庭に、この職場に、この地域に、この社会に私が遣わされている者である。私はこの世のものではなくて、神様から遣わされた者と、身分を変えられたことを片時も忘れてはならない。イエス様がそうだったのです。イエス様はどんなときにも、この世のものと一緒になったわけではない。この世にいましたが、この世のものとなって「その有様は人と異ならず」と、全くわれわれと同じものとなってくださったのですが、心構えが違うといいますか、ご自分はいつも神様から遣わされたもの、天につけるものだという意識、自覚が徹底してあった。

 

私たちは案外それが抜けるのです。この世にあって地域の人やあるいは友人知人いろいろな人、神様を知らない人方々とも交わりをします。そのような中に常にありながら、心ひそかに「私は神様に遣わされて今ここにあるのだ。私はこの世のものではなくて本当に神様のものとして今ここに今日も生きているのだ」と、意識しているでしょうか。そのことを忘れて、みんなと同じだ、ほかの人と私も変わりがない。「そうよ、あなたたちと私は同じよ」。時々そのような事を言われるでしょう。「あなた、教会に行っているらしいね、クリスチャンなの?私たちと人種が違うわ」と言われて、「いいや、そんなことはない。私もあなた方と同じよ」と言うでしょう。「ええ、そうよ」と。「あなた方とはちょっと違うのよ」と言えるか。そこが問題です。14節に「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです」。更に、この世のものではないから、この世の人々から憎まれるとも記されています。だから、イエス様はこの世の人々から誤解を受けました。私たちも誤解をされて当然です。誤解されないクリスチャンは本物ではないのかもしれません。私たちは神の国の市民です。この世のものではない。イエス様の御足の跡に倣うとは、そのような私たちの生き方の根本がキリストと重なり合ってくることが求められているのです。イエス様のなさったこと、語ったことの枝葉といいますか、先っぽのところだけをまねしようとする人はたくさんいます。ところが、肝心なのは枝葉ではなくて、心を掴むことです。イエス様がどういう思いをもってこの地上を歩まれたか、その心を自分の心としていくことです。イエス様はこの地上にあって常に父なる神様に遣わされたと信じて、どんなことの中にも父なる神様の御言葉に従われました。

 

だから、17節に「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります」と、父なる神様の御言葉によって聖別するとは、御言葉を信じて、その御言葉を通して伝えられる神様の御心によって、私たちが聖(きよ)められ、世の人と区別される者となる。取り分けられた者、この世のものとは違うものへと私たちを造り変えてくださる。御言葉によって、自分をこの世のものとは違うものであることを自覚しつつ、この世の人とは違う生き方、あり方とは御言葉を通して私たちに伝えられる父なる神様の御心に従うことです。だから、世の人々とどこが違うかと言うと、食べるもの、着るもの、あるいはそのような生活が違うわけではありません。雲やかすみを食べて生きているわけではない。この世の人と同じく普通の生活をします。しかし、私たちの心にはいつも主の御心はいかに、父なる神様は私に何を求めているだろうかと、従うことに全力を注いでいく。それによって、私たちがこの世のものとは違う、聖別された取り分けられたものとされていくのです。だから、いろいろな事で、選択決断をしようとするとき、世の人がこうするから私もそうする、みんながこうするからこうしとこうというのでしたら、私たちはこの世のものに過ぎません。たとえ、百人が百人、みんなが「これはもう駄目だ」というところがあっても、あるいは「これはもう終わりだ」というような事態や事柄の中に置かれても、私たちは「いや、主は何とおっしゃいますか」、「主の御心はいかに」と、そちらのほうに心も思いも委ねていく。これが自分を真理によって聖別するということなのです。だから、ここで「聖別する」と言われると、何か特別なことをしなければいけないように、斎戒沐浴(さいかいもくよく)白い衣を着て滝にでも打たれなければいけない、寒中水泳や火の上を歩いて渡らなければいけないような、そのような事ではありません。世の人々と同じ問題に出会ったとき、世の人と同じような考え方や結論に達するのではなくて、父なる神様の御旨はどこにあるでしょうかと問う。周囲にいる人が「こちらがいい。右にしよう」というときも、果たしてそれが本当にいいのかどうか、私もそこに行くべきなのかどうかを尋ねます。私たちはこの世のものではない、神様に遣わされた者ですから、遣わしてくださった神様が何とおっしゃるか。その事に全力を尽くしていく。たとえ皆が反対しようとも、やはりこれは主が「せよ」と言われる場合は、他の人に同調できない、一緒になれないことが当然起こってきます。そうすると、「あの人は変人だとか、付き合いにくい人だ」とか、世間の人から不当に扱われる。ところが、そうやって扱われても、神様を仰いで苦痛に耐え忍んだならばよみせられる。これがイエス様の従う生き方です。イエス様に倣うというのはそこです。ところが、私たちはそこへ行かないのです。ちょっと反対されそると、みんなから白い目で見られそうになると「いや、いや」と媚(こび)を売って相手に合わせようとする。そこで私たちはいつも失敗するのです。私たちは神様によって遣わされてきた。私たちのすべき使命、勤めは遣わされた方の御心を行うことです。

 

ヨハネによる福音書6章38節を朗読。

 

これは大切なイエス様の一つの生き方の宣言です。「わたしが天から下ってきたのは」と、言うならば、私が父なる神様からこの世に遣わされてきたのは、それはイエス様だけでなくて、今私たちもそうです。だから、キリストに倣うというのは、まさにそこです。私たちもイエス様と同じように、天に国籍を持ち、この世に遣わされてきたのです。イエス様は「自分のこころのままを行うためではなく」、イエス様はこの地上に、自分の心のまま、自分の好きなこと、自分のしたいこと、自分の願っていることや夢を実現するために来たのではない。では、何をするためか?「わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである」。この一点です。これは私たちにも同じことです。キリストの御足の跡に踏み従うように、倣うようにというのは、まさにこの点です。イエス様がこの地上に在りし日々、常に父なる神様と交わりを持ちつつ、「父よ」、「父よ」と父なる神様の御心を求めて歩んで、この地上の生涯を全うなさったように、私たちも自分の心のままを、私の夢を、私の何とかを実現するために生きるのではなく、今父なる神様が私に求めているところ、私にご計画してくださるところに従うことです。だから、私たちは一日一日「今日も神様、あなたの御心に従うことができました」と心から感謝する生き方をする。一日を振り返ってみて、「あそこはちょっと違う。ここは私のしたいことをした。ここも私のしたいことをした」。一日を振り返ってみるとほとんど私のしたいことばかりで、どこに神様の御心があったかしらと。それでは遣わされた者の使命を果たすことができない。毎日、毎日いろいろな事の中に絶えず祈りつつ、いつも父なる神様と交わりを持ちながら、「これは主よ、御心でしょうか」「これは私がすべき事でしょうか」「ここは私が行くべきでしょうか」「あの人にこう言うべきでしょうか。言わないでおくべきでしょうか」と、一つ一つ父なる神様に聞いてご覧なさい。そうしたら言わないでいい事は言わないで済むし、言わなければならない事は必ず言わせてくださる。それをしないからとんでもない問題へ次々と波及するのです。私たちは父なる神様に遣わされてきたのです。「主よ、この事はどうしたらいいでしょうか」「神様、この事はどうしたらいいでしょうか」。いつも父なる神様の御心を伺う。これはイエス様のご生涯です。その結果、イエス様はあの十字架をすらもいとわず、父なる神様に従順に従いました。もし、万が一、主が私たちに「お前も十字架にかかれ、十字架の道を行け」と言われたら、「はい」とそこで従って行ける者でありたいと思います。私はえらいところに、ワナにかかってしまって、とんでもないことになったと思われるが、そうではありません。この道は本当に素晴らしい、栄光への道です。イエス様は徹底してご自分を無にしきって、ゼロにまで落ち込んで、あの墓の中にご自分を横たえてくださった。その全くのどん底に、陰府の底にまで下った時、神様はそこから引き上げて栄光の姿に、天にまで引き上げて、すべての名に勝る名を与えてくださいました。私たちもそのようにしてくださいます。私たち一人一人をキリストの分身として造り変えてくださるため、私たちを選び召したとおっしゃいます。どうぞ、私たちはこのキリストに倣う者となっていきたい。

 

ピリピ人への手紙3章8節から11節までを朗読。

 

ここで聖徒パウロが、自分がどのような生き方をしているか語っています。まさに彼自身も、今申し上げましたように自分をこの世のものとしてではなく、8節「キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値」、イエス様の恵み豊かな力とご愛を知って、彼はそれまで持っていたこの世に付ける一切のものを捨ててしまった。すべてのものを失ったが、それらを「ふん土のように」、ちりあくたのごとく、汚らわしいもののように思う。なぜかというと、彼はこの世のものではなくて、神のものとなったからです。それは「キリストを得るためであり」と。キリストに似るものとなるためです。私たちは、キリストの生涯に自分を重ね合わせる者となりたい。その後に「律法による自分の義ではなく」、言うならば、努力や熱心や自分のいいところ、自分の業や力を誇るのではなくて、「キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて」。「信仰による義」といいますのは、自分が神の子供として、神様から愛され、神様から受け入れられ、神様に罪なき者とせられたことを、神につける者、国籍を天に移された者であることを認めることです。それが「信仰に基く神からの義」というのです。「義」とは、解釈は難しいことですが、分かりやすく言えば神様から「よし」と言われること。神様から何一つ問われるところのない者とせられることです。言うならば、神様のもの、神様の子供としていただく。そして「キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」。イエス様の生き方がそっくりそのまま自分の生き方となっていく。そうなるために自分は励んでいる。10節に「すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり」、キリストと同じように死のさまにまで、自分を全くゼロにまで、あの死の墓の中にまで自分を捨てきって、そこからよみがえらせて、永遠のいのちの生涯へ引き入れてくださる。11節に「なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである」。何としてもイエス様と一つになって、キリストと共に死に、そしてキリストと共に生きる生涯へ入りたい。イエス様が父なる神様に全く従順に従い続けてくださったご生涯に自分も生きるものとなりたい。これが聖徒パウロの切なる願いであると同時に、私たち一人一人の願いでもあります。私たちはこのことをしっかりと心に置いて、私たちをキリストに似る者と造り変えて、私たちを栄光の姿にまで変えてくださるために、この地上に置いてくださる、遣わしてくださる方をおぼえていきたい。

 

もう一度始めに戻りますが、ペテロの第一の手紙2章21節に「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」。イエス様が私たちのモデルとなってくださって、私たちにこのように生きてください、このように地上を歩んでくださいよと先立ってくださる。その主の御足の跡を踏んで、どんな不当と思われること、苦しみと思われること、どんなことも神様を仰ぎ望んで、苦痛を耐え忍んで、主の御心を求め、自分の思いのままではなく、御心を行うためにここに遣わされている者であることをしっかりと自覚して、日々、主のものとなりきって生きようではありませんか。

 

ご一緒にお祈りをいたしましよう。