心の所在

創世紀3章8節から13節までを朗読。

9節に「主なる神は人に呼びかけて言われた、『あなたはどこにいるのか』」とあります。

人が造られた創世の初めの時、神様は天地万物、森羅万象の、ありとあらゆるものを創造なさいました。その最後に人を造られたと記されています。そして造られた人をエデンの園に置いてくださいました。そこを人のおるべき場所として決めてくださったのです。そこはまた神と人とが共にいる場所でもあります。だから造られた人が神と共にあったのです。神様と隔てのない交わり、そのような関係が作り出されたのです。ですから2章には、彼らは二人とも裸であって恥ずかしいと思わなかったと記されています。これはお互いが裸であって恥ずかしいと思わないばかりでなくて、根本のところは、神様との交わり、神様の前に何一つ隠すところがない、そのような生き方をする場所であった。エデンの園は本来人がおるべき場所であった。なぜなら、人は神と共に生きることがなければ命がないからです。

2章7節を読みますと、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」とあります。神様が人をお造りになったとき、まず土のちりをもって人の形を造った。それで人が生きたわけではなくて、もう一つ「命の息」を神様が吹き入れてくださった。この創世記の記事は、大切なすべてのものの根本、基礎だと教えられます。これを抜きにしては、後のことが決して成り立たない。神様が人を生きる者としてくださる。それはただ単に肉体的な、動物的な命があるから生きているというのではありません。ともすると言葉が同じですから、身体的な命のように思います。「死んでも命があるように」と、そのようなことを言いますが、そのときの命は自分の肉体の命ですね。健康であるとか、病気がないとか、あるいは活動的に日常生活を不自由なく生きている。そのような状態、言うならば、心臓が鼓動して、体温があって、血圧もちゃんとある状態、これが生きているのだと世の中の人は思うのです。しかし、神様からご覧になるならば、それは生きた状態ではない。「いのち」がない状態です。では「いのち」とは何か? そのような生命として、肉体的な、生物学的な意味の命ではなくて、もう一つ違った「いのち」がある。それは生きていることの喜び、心からわいてくるエネルギー、あるいは将来に対する望み、平安、そのようなものをひっくるめて生きる喜びといったらいいかと思いますが、そのようなものを指して「いのち」と言います。

私たちが一生懸命に何かすると、それを受けて周囲の人が喜んでくれたり、褒めてくれたりする。「やはり私がしてよかった」と言って喜びます。人の役に立っている、人から喜ばれることがうれしい、と思います。そのようなものがあるとき、人は元気になります。ところが、年を取って人のためにも役立たない、あれもできなくなる、これもできなくなる。あるのはただ人から世話を受けるだけ、人に迷惑をかける存在だと、そのように思い込んでしまうと、毎日生きていても仕方がない。死んだ方がましだ、と言います。そのとき肉体的にどんなに健康であっても、世の中でいうところの生きがいを感じられないと嘆きます。そうなると、健康であっても、どこも悪くなくても、生きるのが苦しい。そのように生きがいを持つことは大切だと思いますが、生きがいとか、人から喜ばれたり、自分がすることで自尊心と言いますか、自分が満足を感じたりすること、このようなことは今申し上げた生物学的な肉体の命とは別の世界です。たとえ寝たきりであっても、あるいは何にもできなくて、人の世話を受けるばかりであっても、生きる喜びはあり得るはずだと思います。ところが、周囲を見ますと、そのような生きる喜び、つまり肉体の生物学的な命はあり、健康ではあるが、生きることに喜べない、望みがない、と言って何か悩みがある、問題があるわけではないが、自分が生きていることを確かなこととして感じられないでいる。

2,3週間前でしたけれども、F校の高校生に話をしに行きました時に、若い人だから、私たちのように年を取って生きがいをなくすというか、希望がなく生きていても仕様がないなどと思わないに違いない、若い人は将来へのいろいろな選択肢があって、希望に満ちあふれて、張り切っているに違いないと思いますが、今の若い人たちはそうでもない。自分は何のために生まれてきたのか? 自分は何のために生きているのだろうか? これから卒業した後、大学へ行くけれども、何を自分はしたらいいのだろうかと、生きる喜びがない。私は担当の先生たちのいろいろな悩み事と言いますか、今置かれている子供たちの現状を聞いて、今は本当に暗い時代だなと思う。望みが持てないでいる。生きていても、生きていることを実感できない。これは困ったことだ、大変な時代だと思います。それと同時に、私は極めて聖書的だなと思いました。

なぜなら、私たちの出発点である創世記の記事にあるように、私たちが何ゆえに造られているか? 誰が造り、私たちは何のために生きているか、その根本が失われている。言うならば神様抜きにして生きようとするとき、そうならざるを得ない。聖書にはちゃんとそう書いてある。神なき生涯、神様を恐れないで生きる者は、生けるしかばねのごとくと、生きていても死んだ者のごとく生きるしかないことが記されている。私たちにとって「いのち」とは、神と共にあること、2章7節にあるように、「鼻に命の息を吹きいれられる」ことです。これが私たちにとって大切なことです。私たちは「命の息」とはどのようなものだろうかと思いますが、分かりやすく言いますと、神様と共にあることです。ですから、エデンの園の生涯こそが「いのち」に満ちた生涯。神様が私と共にいてくださる、神様の前に恥じない者であること、神様と私たちとの間が隔てのない関係、そのような関係に自分が絶えずおることです。本来、人はそのような形でエデンの園に置かれていたのです。そのとき、神様と人とは何の隔たりもなく信頼することができる。神様はエデンの園に置いた、アダムとエバ、初めの人たちを神様はちゃんと養い育てて、また持ち運んでくださった。彼らは幸いな生涯だったのです。ところが、ご存じのように罪を犯してしまいました。3章1節以下に蛇の誘惑の記事があります。これも皆さんはよくご存知のとおりです。蛇が女の人を誘惑して神様から食べてはいけない、必ず死ぬと言われたその命の木の実を取って食べることになりました。彼らの心に隙ができたとき、サタンの誘惑に負けてしまった。それで結局、自分を神とする、己を神とする自分だけの世界に入って行くのです。そのとき、神様との交わりが絶たれてしまう。それを象徴的に語ったのがエデンの園からの追放です。人がエデンの園におることができない、言うならば生きるいのちに満ちあふれたところから、私たちは切り離されてしまう。それが今の世の中です。「エデンの東ノドの地に住んだ」(創世4:16)と記されています。

昔『エデンの東』というタイトルの映画がありました。若いころ皆さんも見たことがあるかもしれませんが、あのストーリーの中はまさにそのように神から切り離されて人が神となって、人の欲得・情欲、そういうもので生きようとする世界がどんなに悲惨なものであるかを描いた映画でした。確かに、神様から離れて、人は死んだものとなったのです。

とうとう、蛇の誘惑に女の人は負けてしまって、その木の実を取って食べました。「善悪を知る者となる」「目が開けて、神のように善悪を知る者となる」と言われて、誘惑に負けたのです。自分が神様のようになれるのだと思う。そしてその木の実を食べる。それを夫にまで与えた。そのために、彼らは神様の前に立てなくなった。これは私たちの姿です。今私たちが生きている世の中はまさに神なき時代、世界でしょう。神を畏(おそ)れることを知らない。人が神となり、人がすべてです。だから自分の思うように、自分の願うように、自分の欲に従い、自分の情欲に従い、自分の損得利害に従い、私が、私が、おれが、おれがと、自我で生きていく。その結果、生きる「いのち」がない。確かに肉体的、生物学的な命はありますが、やがてそれは枯れていきます。必ず消えていきます。本当の「いのち」とは、神様と共に生きること、これ以外にありません。

3章8節に「彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた」とあります。神様が近づいてきたのです。それまでは、すぐに神様の前に立つことができた彼らが、身を隠してしまう。「主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した」とあります。人にはそのようなところがある。神様の前に出られなくなる。そして自分を守ろうとする。これは私たちの一番の罪です。

そして神様の前に立てなくなったとき、神様は9節に「主なる神は人に呼びかけて言われた、『あなたはどこにいるのか』」。「あなたはどこにいるのか」、神様は彼らが隠れていることを知っていました。場所もきっと知っていたのです。神様は知らないはずはない。どこに隠れているかも知っていました。けれども、神様は自分から悔い改めて出てくることを待っておられたのだと思います。だから、あえて「あなたはどこにいるのか」と声を掛けてくださったのです。そのとき彼らは10節に「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。恐れが生まれてくるのです。神様との間に恐れが生じる。

日本人はよく言うように“触らぬ神にたたりなし”と、神様とは怖いものだと、恐れます。ところが、恐れを持つことはその人との関係が壊れていることでもあります。だから、「あの人は怖い人だ」と、「主人は怖い人」と思ったら、その人に対して愛がないときです。聖書にも「完全な愛は恐れをとり除く」(1ヨハネ 4:18)とありますね。だから愛があるならば恐れは生じません。

 伊藤重平先生が『愛は裁かず』という本を書いています。先生は少年院などの指導をしていた方で、20年ほど前に、福岡で講演をしてくださいました。そのとき、そのようなことを話していました。罪を犯した子供たちのカウンセリングをするときにまず尋ねるそうです。「あなたのお父さん、お母さんは怖い人かね」と。「怖い、父さんは特に怖い。恐ろしい」と言うとき、その子供との親子関係が崩れていると。なぜなら、その親子関係には愛がない。恐れを感じる関係、恐れによって結びつけられた関係は壊れた関係。そう言われました。親から厳しくせっかんされ、家を飛び出して非行に走る少年でも、時に「お父さん、お母さんをあなたはどのように思う」と言うと、「両親は優しい人たちだ」と答える。恐れはないというケースもあるそうです。そういう時は回復といいますか、元へ戻っていく確率が比較的高いと。だからその人が相手に対してどういう感情を持つか、優しいとか、温かいとか、あるいは怖い、冷酷な人だと恐れを感じるのかによって、その人との関係に愛があるかないかが測られるそうです。私はその話を聞いたときに、なるほどそうだなと思いました。

だから、ここに彼らは「恐れて身を隠した」とあります。エデンの園にいるとき、罪を犯さなかったときは、決して神様に恐れを覚えたことはない。神は愛なる御方です。彼らを愛してくださった。その神様に対して恐れを感じるのは罪の結果です。神様がしてはいけないと言われた、神様の言葉に従わなかった。そのために、人は神様から切り離されてしまったのです。そしてとうとう身を隠してしまった。「あなたはどこにいるのか」、私たちが本来おるべき場所に帰ること、これが何よりも大切です。

「ポジション・ハビット」という言葉がありますが、これは心理学で使う言葉です。私はいつも皆さんを見ていてそう思います。ポジション・ハビットとは、一人の人がある場所に座るとそこに安心を感じる。こうやって集会に出る。すると、大体決まった所、別に指定席、名前を書いているわけではないが、どういう訳か同じ場所に座る。それは人間の本来の性質だそうです。いつも座り慣れた所へ座るときに安心がある。一列でも前に、あるいは後ろに行ってご覧なさい。見る角度がくるっと変わって落ち着かなくなる。それに慣れるまでにしばらくかかる。特に年を取ると順応性がなくなるから、だから執ように自分の場所を探す。だから困るのです。「どうぞ、前に詰めてください」と勧めても、頑として動かない。こういう習慣を「ポジション・ハビット」と言います。本来おるべき場所におることが大切です。最近理解しましたから、私はあまり「あちらに動いてください」「こちらに動いてください」とは言わない。座ったところへ座りなさい。おるべき場所におらなければ、落ち着かない。私たちも本来おるべき場所に帰らなければ安心がない。皆さんが自分の決まった座席があって、そこに座ると「教会に来たな」と安心できるわけでしょう。前の方が空いていても誰も座らないのは、そういう自分の安心できる場所に居たいと思う。私たちの心の置き場所、これをしっかりと正しい所へ置いておかなければ、いつまでも安心がない、喜びがない、平安がないのです。

罪を犯した結果、アダムとエバは神様の前から身を隠してしまった。神様との関係の中に恐れが生まれてきた。だから、こんな事をしていたら、神様から呪われる、こんな私を見たら、神様からきっとしかられるに違いない、いつも神様は私を監視している、あるいは神様は私のミスを、間違った所を、目を皿のようにして見ているに違いない、これは怖いぞと思うようだったら、私たちの心に何か神様に対して罪がある。神様にどうしても素直になれない思いがあるとき、心のどこかで自分を主張している、己を神にしている、絶対譲れないと思っているものがある。そのようなとき、神様の言葉に従えないどころか、神様に近づきたくなくなる。どうぞ、私たちは絶えず本来おるべき場所がどこであるかを知っておきたい。私たちのおるべき場所は、エデンの園の神と共にあることです。

このとき、神様は彼らを見つけて11節以下に「神は言われた、『あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか』。12 人は答えた、『わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです』」。アダムに神様が「お前はいったいどうしてそんなことをしたのだ」と言ったら、「あなたが一緒にしてくれたあの女が言った」と。ここでアダムは自分の責任を転嫁している。神様が求めていたのは、罪を糾弾(きゅうだん)することではなかったと思います。むしろ、ここで彼らに悔い改めるチャンスを与えてくださった。「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか」と詰問しているようですが、実は素直に罪を認めることを願っておられたに違いない。ところが、アダムは「あなたがわたしと一緒にしてくださったあの女が」と言ったのです。確かに物事の順序から言うと、3章1節から読みますと、蛇が女を、女が男性をというような流れではあります。しかし、いずれにしても、ここで中心にあるべき者は彼、アダムです。人がきちっと自分の責任を認めて……、自分も食べたわけですから、いくら誘われても拒むことだってできたのですが、自分がそれを選択し、決断したのでしょう。自分が取ったのでしょう。その点においては誘われたも何もないのです。私どもも案外そのように神様にいつも言い訳をする。心の中で気がつかないうちに、ああだから、こうだから、こうあったはずだから、あの人があんなに言ったから仕方なしにしたんだと。自分がした、私がそうしましたと言えない。これが実は私たちのいちばん厄介な姿、罪です。自分が罪だということが見えないのです。なるほど、あの人この人、こうだああだと、事情境遇、こんな状況だったから、こういうことがあったから、これがあったからできなかったと、ついそのように思う。

実は先日、毎朝『日々の聖言』のメールを皆さんに送るのですが、その日はどういう訳か、火曜日だったと思いますが、朝バタバタしていて、火曜会があって、時間がなかったものですから、午前中、まぁ、いいや、火曜会が終わったら送ろうと思っていた。火曜会が終わったらまたほかの用事が入ってきて、忘れてしまった。それで夜になったのです。ある方から電話があった。「先生、大丈夫でしょうか。ご病気ではありませんか」と。「え!大丈夫ですよ。元気にしていますよ」と「いや、実は今日はまだ御言葉をいただいていません」と。「え!送ったはずですが!」と言ったのです。「そうでしょうか。普段こんなことがないのに、今日はまだなかったから、きっと先生がお体でも悪くしているのじゃないかと思って、心配で電話をしました」と。「有難いことでした。ごめんなさい」と言ったのです。「そういえば用意していたからすぐに送ります。忘れていました」と電話を置いたのですが、置いた後で、私は「今日は忙しかったからね」と思いました。あれもあったし、これもあったし、仕方がないわ、これはもう……と、まさに言い訳の連発です。取りあえず相手の方には「有難う。忘れていました。私が忘れていました」とは言ったのですけれども、電話を置いてからパソコンで送るまでの間、いろいろ言い訳をしている自分がいる。あれがこうで、こういうことがあったし、朝からこんなことが続いていたし、それで忘れたんだわ、これは仕方がないやと。忘れたのは忘れたのであって、それはごめんなさい、でおしまいなのだけれども、それプラス、様々な思いがグジュグジュ出てくる。そのときの私はこのアダムそのものです。言い訳をするのです。

「あなたはどこにいるのか」と、神様が私たちにそのようなことを教えてくださる。だから、12節に「人は答えた、『わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです』」。そう言ったとき、自己弁護の世界であり、自分を義とする世界でしょう。私は正しいのだ、神様、あなたより、私のほうが正確であり、正しくて、私のほうがしっかりしているのだと言わんばかりでしょう。神様が「だれが知らせたのか」と問われます。神様、あなたは知らないの、あなたって馬鹿ね。あなたが一緒にしてくれたあの女が私に言ったのであって、そんなことはあなたは知っているかと思った。ああ、神様もたいしたことないね、という気持ちがここにある。己を義とするというのは、そういうことですよ。神様がこのことを教えてくださった。神様、ごめんなさいと認めれば問題はない。アダムが「ああ、私が罪を犯しました」と言えばおしまいなのですけれども、それを言えない自分がいる。そこに罪の根本がある。私どもはいつもこのことを警戒しなければならない。

この後、今度は、神様は13節に「そこで主なる神は女に言われた、『あなたは、なんということをしたのです』」。「あなたは、なんということをしたのです」と、この女の人に言った。女の人もここで素直になればいいのですが、なれないのです。そして「へびがわたしをだましたのです」。「だました」という、私どもはそうやって一方的な被害者のようですけれども、先ほど申し上げましたように、そうではない。結局のところ、自分が選択しているわけです、決断しているのです。蛇が、嫌がっている彼女に無理やりに食べさせたわけではない。ただ言葉で「食べてみてはどうですか」と誘った。そもそも彼女は食べたかったのです。だから本人の罪なのです。これは私たちが神様の前に清く生きるための根本的なあり方です。これは他人(ひと)には分かりません。皆さん、私たち一人一人が心の中で本当に主を前に置いていく生活、神様の前に自分を絶えず置くためにはここが大切です。私たちが素直になって悔い改めること。

イザヤ書55章6、7節を朗読。

6節に、「主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ」と。「今は恵みの時、救の日」です。今は主にお会いすることのできる時です。ただ、お会いするためには罪を悔い改めなければならない。だから7節に「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて」とあります。自分の間違っていること、神様の前に立てない自分であることを知るならば、何がそれをさせているのか、自分の中にある罪を認めて、「主よ、ごめんなさい」と悔い改め、主の許しを受けることです。そこにありますように「そうすれば、主は彼にあわれみを施される」、またその先に「主は豊かにゆるしを与えられる」と。神様は私たちを許そうとしてくださる。許したくてたまらない。だからこそ私たちに「あなたはどこにいるのか」と問われる。もし、初めから許すつもりがなければ、一瞬にして木っ端みじんに、滅びに投げ込むことだってできます。そのような神様が、あえて「あなたはどこにいるのか」と声を掛けてくださる。これは「恵みの時」です。生活の中でいろいろな問題にあいます、事柄にあいます。それは主が「あなたはどこにいるのか」と問われている時です。エデンの園のように、神と共に歩んでいること、神様と一緒に居て、何の妨げるものもなく、隔てるものもなく、「主よ」と心から神様を信頼することができる者となること、そして一日一日神様のご愛と恵みの中に自分が生かされていることを感謝して、今地上に置かれている私は神様が必要としてくださっている。誰かが、人が、家族が必要としてくれることを知るだけでも喜びがわいてくる。生きがいというものはそういうものです。しかし、本当の生きがいは、神様が喜んでくださっているところにあるのです。神様の御心に従って、神様が「よし」と言って下さる。神様が私という者を今日も大切な者としてくださって、「わが目に尊く、重んぜられるもの」(イザヤ43:4)、命の代価を払って買い取ってまで、私どもをあがない、神様が共にいてくださる。神様が地上の日々の一つ一つの業を導き、させてくださる。私たちに委ねていらっしゃる。そのことを果たすことが、神様に喜ばれることが、私たちの生きがいです。だから、神様の前に立つことができるように、絶えず自分の心の内を整えておきたいと思います。

 初めに戻りますが、創世記3章9節に「主なる神は人に呼びかけて言われた、『あなたはどこにいるのか』」。ともすると、いろいろな問題、悩み、事柄に出会い、右往左往したり、神様を忘れたりします。そのような時に、いつも私は今どこに立っているだろうか。私は今エデンの園の神と共に生きているのだろうかと、自分を点検していただきたい。案外と気がつかないうちに、神様から離れたところに立っている。神様を呼び求めながらも、心がここにあらず、ほかのことに心が向いて、神様が私たちの内にいない。それでは喜びにあずかることができない。生きる喜びを感じることができません。主が「あなたはどこにいるのか」と語っておられるように、私は本当にどこに立っているのだろうかと、点検してください。人の思い、世の様々な仕来りや習慣や人のことばかりを気にしていたり、その人を恐れたり、そうしている間はなかなか神様と共に歩んでいる喜びを味わえない。神様の前に立ち返って、神様と共にあること、これが実は生きる「いのち」です。そして今日も神様が備えられた一日であった、今日も生かされて、神様が「よし」と認めて、私をこうして顧(かえり)みてくださる、受け入れてくださって、握ってくださっていることを感謝し喜ぶことが、実は「いのち」です。それが「命の息」を吹き入れられた人の生き方です。

そのために、私たちは絶えず神様の前に立ち返る者となりたい。アダムとエバは去って行ってしまった。エデンの園から離れて行った。今、神様はそこからもう一度エデンの園の生涯、神と共に生きる者へとしてくださったのです。どうぞ、この恵みをしっかりと心に受け止めて、神様の前に何一つ妨げるもののない、神様を信頼する心を、魂を、絶えず持ち続けていきたい。もし、神様との間に、何かわだかまるもの、あるいは憤る事柄があるならば、そのことを悔い改めて、神様、どうぞこの心を清めて主の霊に満たし、あなたの御前に歩ませてくださいと、主の前に立ち返っていきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましよう。