誤りのない選択

イザヤ書45章1節から7節までを朗読。

 2節「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する。わたしは主である、すべてこれらの事をなす者である」。

イザヤ書40章以下には繰り返して「わたしは主である」「わたしは神である」と語っておられます。45章の後半のほうにも繰り返していますが、神様が「わたしは神である」「わたしは主である」と徹底して何度も語り続けておられます。これは誠に不思議と言うほかありません。翻(ひるがえ)って考えると、それほど人は神様を認めていない現実があるからです。自分の生活の一つ一つすべて、自分にかかわる事は全部私が知っているべきで、ほかの人は誰も知るはずはないと思っている。ところが神様はそうはおっしゃらない。神様はあなたを造り、あなたを生かして、あなたに命を与え、生きる糧を備え、今に至るまでこの世で命を与えていると言われる。神様を信じることと、神様を知らないことの違いを、私どもはあまり感じていない、自覚していない。だから、信じてもよし、信じなくてもよし、神様はいてもよし、いなくてもよしと。それよりも、大切なのは自分だと。私がしっかりしていれば世の中でちゃんとうまくいくと思う。そこに私たちの大きな罪、人間の気の毒な、惨めな姿があると言えます。

 というのは、6節に「これは日の出る方から、また西の方から、人々がわたしのほかに神のないことを知るようになるためである」とありますように、こ
の天地万物の創造の神、聖書に証詞されている真(まこと)の神様以外に神様はいません。しかも、その神様は「わたしは主である」と6節に宣言しています。「主」というのはすべての事の中心、私たちの生活の中心、人生の中心ということです。これが神様なのです。このことを信じているかと言われます。案外、忘れているのです。朝起きて、夜寝るまで、日々の生活のなかで、常に自分が、自分が、私があれを考え、これを考え、これを心配し、これを何とかしてと、自分の力で家庭の細々したことを全部自分でやっていますから、つい「私が主です」と思っている。「主婦」と呼ばれて、私が主なる婦人だと思っている。でも横に「主人」というのがもう一人います。そうすると主が二人ですから家の中はしっちゃかめっちゃかになる。「主」は一人なのです。主婦であろうと主人であろうと、それよりももっと大切な「主」がいらっしゃる。6節で「わたしは主である」と言うのはこのことです。神様がすべてのものを備えて導いてくださる。

だから7節に「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する」。人が幸いと言われること、また不幸と言われる問題、悩み、悲しみ、苦しみ、うれしい、楽しいという事、あらゆるものは、実は「わたしが創造する」と言われます。神様の手によって起こっている事。だから7節に「わたしは主である、すべてこれらの事をなす者である」と。「どんなこともわたしがそれをしているのだよ」ということです。ところが、私どもはその神様を信じません。「いや、私は神様を信じています」と言われるかもしれないが「信じている」とは、取りも直さず神様が今私を生かして、私を持ち運び、一つ一つのことを備えていることを信じることにほかなりません。だから、私たちの生活の場に思いがけないことが起こってくる、ハラハラドキドキすることがある。いろいろなことがあります。あるいは自分の考えもしない、計画もしなかったとんでもないことが起こってきたりします。そうすると「どうして!」「何で? 」と狼狽し、慌てふためきます。「どうして、何で?」 と言うこと自体、神様を信じていないからです。神様を信じていれば「これは神様だ」と、「このことを起こしているのは神様だ」と、スパッと一瞬にして神様に直結する。これはまことに幸いです。ところがなかなか神様に直結できない。「何でこんなことになった!あれがいけなかったのだろうか。これが悪かっただろうか」「あの人がいけない」「世の中がいけない」「政治が悪い、あの政治家がどうだ」とか、あるいは自分の過去がどうであるとか、自分の生活状態がこうだから、ああだからと、自分を責めたりすることになります。挙句の果ては、落ち込んでみたり、失望落胆して世をのろい、人をのろうようになる。つぶやき、恨み、つらみが出てくる。そのことごとくの原因は何かと言うと、神様を信じようとしない。よくても悪くても、どれもこれも、それらは神様による以外にないのです。そこを私たちがしっかりと信じていくとき、毎日の生活が楽になるし、楽しくなる。さぁ、神様がこれからどのようなことをしてくださるだろうか。神様に期待していくことができる。これは本当に素晴らしい恵みであると、私は思うのです。

と言いますのも、実は来週の木曜日、ちょっと私は高校3年生にお話をしてほしいと頼まれていますので、そちらへ出かける予定でおりますが、昨日、その学年の担任の先生方と集まって懇談をするために出かけました。今の高校3年生がどういう悩みを持っているか。ついてはどのようなことについて話をしてほしいか、要望も伝えたいという。けれども、私など高齢者ですから役に立つかな、とは思いましたが、そう言われるから出かけてお話を聞きました。聞いていますと、3年生の子供たちですから、年齢はまだ17か18です。私たちとは半世紀以上も違う。だから余程悩み事も違うかなと思ったら、案外そうではない。聞いていると、悩みは同じなのです。いちばん印象に残った話ですが、先生方が異口同音におっしゃるのは、高校3年生、しかも秋口というこれからの季節は、非常に不安定な精神状態にある。自分のこれからの将来を選択して決断しなければならない時期に入ってくるからです。人生で初めてそのような問題に出会うときなのだと。なるほど、それまでは親掛りですから、親が「右」と言えば「はい」、「左」と言えば「はい」、「この学校に行け」と言えば「はい」、「ここに行くな」と言えば「はい」でしょう。幼稚園、小学校、中学校、あるいは高校、今は中学に入れば6年制もありますから、中学に入ったらそのまま高校まで行ってしまいますから、いったん入ってしまったらそれでおしまい。

しかし、高校三年生になって、人生で初めて自分で自分の生き方、自分の将来を決断しなければならない。これは気の毒というか、子供たちにとって大変な悩み。皆さんは「なあに、そんなことはちょろいことよ」と思っているかもしれない。「人生なんてなるようにしかならない」と思うでしょう。これまで生きてきて、したたかになっているから、そのくらいのものはあるかもしれません。しかし、皆さんでも悩むのです。何を選択し、何を決断することが自分にとっていちばん良いことなのか、今でも悩んでいるでしょう。「さぁ、私はどの子供の世話になろうか、なるまいか」、それだけでも選択が大変です。どうすべきか、毎日心配ではないですか。17歳、18歳の子供たちが、自分がこれから将来どういう学校に行こうか、どういう道を選ぼうかというのと同じ悩みです。だから80歳の人と17歳、18歳の人の悩みは違わない。全く同じです。私たちでも同じです。いつも右にしようか、左にしようか、1,2,3,4選択肢があるうち、どれにしようかと。そのとき、担任の先生が「どうしても一つを選ぶということは、そのほかを捨てるということです。そこのところで子供たちが悩みます」と言う。言われてみたら皆さんもそうでしょう。この子の世話になろうと思ったらほかの子を捨てることです。この道を行こうということを決めたらほかの道を捨てることです。そこに悩ましさがあるのです。私はその話を聞きながら、恐らく世の中のすべての人はそういうことで悩むのだろうと思う。

そのとき、ある先生が「ただ、その選択をするときに『これを選ぶ』と決めるのだが、必ずその後に『これでよかっただろうか。自分はこう選んだのだけれども、これでいいのだろうか』という不安があります」と。なかなか悩みは尽きませんね。選ぶには選んだけれども、今度は次に「これでよかったのだろうか」。ドシッとして揺るがない決断がない。バシッと立てないのです。何か泥沼の、底のない沼に立って宙に浮いたような感じ、これが大丈夫に違いないと握ってみたけれども、それがユラユラ揺れている。どこにも動かないこれでというものがなくて、子供たちが悩みます。私は「先生たちはどうなのですか? 」と尋ねたかったのですが、生徒たちのことばかり言われるから、そういうときに先生はいったいどのように子供を指導するのかな、と思いました。恐らく、先生たちも悩んでいるのだろうと思うのです。

そのときに教えられたことですが、それは、根本的に私たちを造り生かしてくださる神様がおられることを信じるのか、信じないのか。ここなのだと思うのです。この信仰を抜きにして、人は生きられないのです。と言うのは、私たちもそうですが、日常生活で右にするか、左にするかを選びます。そのために、いろいろなことを調べます。あれを調べ、これを調べ、こうして、ああしてと。そしてこれがいいに違いないと決めます。決めた後はまた揺り返しが来ます。こう決めたのだけれども、よかったのだろうか。選ばなかったあちらのほうがよかったのではないかと。捨ててしまった選択肢の方がよく見えるようになる。そうすると、また心が動揺する。風に吹かれる枝のごとく、なびきます。そのとき、これは確かだ、と言えないものだから、人の言葉を頼る。そうでしょう。自分がこうしてこの道を選ぶ、この方法でこれからこうしようと決める。そうすると不安になる。よかったかな、この道でいいのだろうか。そうするとすぐ人に聞く。子供に電話をしてみたり、友達に電話して、あの人この人に「こういう道があるけどどうやろうか」。「いい」という人がたくさんいたらやっぱりいいに違いない。「やはり私の選択は間違っていなかった」と思う。それで安心して十分かというと、まぁ、取りあえずそれで「よしいこう」と決めます。やっているうちにそれがうまくいかない、思い掛けなくおかしな方向へ展開していってしまう。そのとき、「あの人たちが言ったから」、「あの人があんなことを言ったから私はこの道に来たのだ。今こんな不幸になってしまった。どうしてくれる!」と、人を恨む。それは自分に自信がないからです。それで、もう人の話は聞くまい、私が自分で決めればいいのだと悟る。「よし、えいや!」と、「私が決めた!」と言うでしょう。それでやっていきますか。またそれがうまくいかなくなったら、「ああ、私の責任。私が決めたのだから、私がこんなにしてしまったのだから……」と。それで今度は自分が劣等感の塊になる。「私がいけなかった」、「私がいけなかった」と自分を責め続けて半生を終わる。どの道を行くにしてもそうです。だから、今の世の中の人たちはみなそうです。流行に流される。みんなが行くから行こう。“赤信号、みんなでわたれば怖くない”と、みんなでパーッと行けば、これで安心と思っている。それがうまくいっている間はいい。しかし、人生はうまくいかない。そうすると誰を非難したくなるかと言うと、人であったり、自分であったり、その時々の政治状態であったり、経済状況であったり、世の中の仕組みであったり、制度やそのようなものが自分を今こういう不幸な者にしていると、自己憐憫(れんびん)、自分を哀れむだけの生涯に変わっていく。根本は何といっても、そこで神様を認めるのかどうかにかかっている。

箴言3章5、6節を朗読。

ここに「心をつくして主に信頼せよ」あるいは「すべての道で主を認めよ」とあります。神様を信頼し、神様を認めていく生涯。これは誠に幸いな生涯だな、とその時私は思いました。これ無くして、人はどのように安心を得ることができるでしょうか。これ無くして、私たちは自分の人生を充実した、望みを持って生きることができるでしょうか。私はそのことを痛切に感じさせられます。そのことを思って、翻ってみるとき、私たちはどんなに幸いかと思う。今このように神様を信じることができるようにしてくださった、神様を知らせていただいた。だから、私たちの生活のどんなことも、主を認めて、善い事も悪いことも、「繁栄」も「わざわい」も「ひかり」も「闇」も「わたしが創造する」。「ここに神様が私を置いてくださっている。この道に神様が私を導いてくださっている」ことを信じていく。自分が選ぶのではない、人が選ぶのでもない、流行に乗るのでもない。ここにありますように「主に信頼し」「すべての道で主を認めて」、「このことは神様がわたしに備えてくださったことです」と信仰を持って立つこと、これがすべてです。だから、私どもは神様を知っていながら時に忘れて、そのように信じないものだから、うろたえたり、悩んだり、つぶやいたり、憤ったりするのです。どんなことでも「これは神様がしてくださったのだ」と、主を認める。「すべての道で主を認める」のです。そうするとき、人を恨む必要がない。「あの人があんなことをしたから、私がこういうひどい目に遭っている」と言いますが、人ではないのです。もう一つ奥に、見えない神様が私にそのことを体験させてくださっている。私にこの道を歩ませてくださっているのだと、信じるのか信じないのか。これが実は私たちの人生を変えていきます。そうすると、事情や境遇、あるいは人やいろいろなことがあまり気にならない。ここにも神様が備えてくださった道がある。自分で選んだと思っているから、後々までも自分を責めるわけでしょう。皆さんが何か選択し、「これはこうしよう」と決断する。そのとき、よく考えてみると、打算があったり、自分の損得利害が絡んでいたり、あるいは人情が絡む。親子の情とか、友情なんて変なものがぶら下がってくるから、それで心ならずもその道を選んだ。そういうとき、後どうしますか? うまくいけば有頂天になるし、自慢する。あるいは高慢になりますよ。ところが、うまくいかないと、すぐ格好をつけて、「私が愚かでありました」、「私が駄目、私がしっかりしていればよかったのに」と。私がしっかりしていたから駄目になったのに、「もっとしっかりしとけば……」と言う。そのような方向へ行ってしまう。これも気の毒です。私どもは「神様が……」という、すべてのことの主語と言いますか、始まりが神様にあるのですから、それを認めるのがここの記事です。

6節に「すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」。家族の者から何か自分が非難を受ける、あるいは「お母さん、こうなのだから駄目じゃないの」とか言われる。言われたとき「何よ!あんたなんか何も知らないくせに!」と言い返さない。そのかわり「そうだ、神様が私に語っていらっしゃる」と、神様を認める。これは私たちの人生を大きく変えます。どんなこともそうです。小さなことから大きなこと、こんなことまで? と思うかもしれませんが、一つ一つ、主を認めていくこと。「わたしは主である」と、そうおっしゃる神様がこのことをしてくださっている。

サムエル記下16章9,10節を朗読。

これはダビデがわが子アブサロムに謀反を起こされ、クーデターが起こって、あっという間に攻めて来られて、大慌てでエルサレムから都落ちをするのです。逃げ出すのです。逃げていく途中で先の王様サウル王様の一族の一人、シメイという人物がダビデの様子を見て、「ざまあ見ろ」と言って笑ったのです。「世が世ならば自分たちこそ王の一家であったはずの自分たちが落ちぶれてしまった。その原因はダビデだ!」と恨んでいたから、ダビデに対してのろいを掛けた。そのときダビデの忠実な部下であるゼルヤの子アビシャイが「あんなやつが悪口を言うなんて、王様、私が打ち首にしてやります」と言ったのです。そのときの答えが10節に「しかし王は言った、『ゼルヤの子たちよ、あなたがたと、なんのかかわりがあるのか。彼がのろうのは、主が彼に、「ダビデをのろえ」と言われたからであるならば、だれが、「あなたはどうしてこういうことをするのか」と言ってよいであろうか』」。これはまさにダビデがすべての道で主を認めた言葉です。シメイという人物がやって来て、自分を悪くいい、のろいを掛ける。悪口を言わせているのは神様だと、主が神であることをここでダビデは告白している。

どうぞ、私たちも誰かから何か有りもしないことを言われても、有るかもしれない事実を言われても、カッとならない。「ああ、そうね。神様があなたに言わせていらっしゃるのですね」と。謙そんになれば、けんかしないでいいのですが、私どもはそれを認められない。だから、私たちはいつもダビデがそう言うように「わたしは常に主を私の前に置く」(詩篇 16:8)と、いつも神様を前に置く。何があっても、これは神様がそうしてくださっている。あの人ではない、この人でもない、この事情、境遇、事柄によってではなくて、神様、あなたが今このことを……と。ですから、この時ダビデは「『ダビデをのろえ』と言われたからであるならば、だれが、『あなたはどうしてこういうことをするのか』と言ってよいであろうか」と、11節に「ダビデはまたアビシャイと自分のすべての家来とに言った、『わたしの身から出たわが子がわたしの命を求めている。今、このベニヤミンびととしてはなおさらだ。彼を許してのろわせておきなさい。主が彼に命じられたのだ』」。「主が彼に命じられたのだ」、だから、本当に神を信じるというのは、このようにどんなことの中にも神様が道を備えて、このことを起こしていると信じることです。「事を行うエホバ事をなしてこれを成就(とぐる)」(エレミヤ33:2文語訳)とおっしゃる。神様がこうしているのだったら、私が何を言うことがあるでしょう。ただ手を口に当てるのみです。

ヨブがそう言ったでしょう。それまでヨブもそのことがよく分からない。やがて神様がヨブに問いかけられた時、彼は「わたしは何も知らない無知なるものです」と告白しました。「あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを」(ヨブ42:2)と初めて神を認めたのです。

私たちはもう一度今与えられている恵み、私たちをこうして神様を信じる者としていただいた、その大きな恵みを知っておきたい。それは生活のことごとくが、神様の手によって成っている。どれ一つとして、神様によらないものはないことを認めることです。そうするとき、何が起こっても「ここに神様が備えてくださる」と確信できます。このときのダビデがそうです。ダビデは自分の愛するアブサロムから謀反を起こされて自分の命もねらわれるような事態になったのですが、それもアブサロムがしているとは思わないのです。

だから、アブサロムが攻めてきたとき、自分の部下に「アブサロムを決して殺してはいかん。彼は何か考えるところがあるに違いないから、生け捕りにせよ。決して命をとってはいかん」と命じたのです。ところがやはり部下は「あいつが謀反人だ」。王に反逆を起こすなんてこれは大罪ですから、民に示しがつきませんから、とうとうアブサロムが木に引っ掛かっているとき、ブスッとやってしまったのです。その知らせを聞いたダビデは悲しんで泣いたのです。大勢の前で、「ああ、アブサロム、アブサロム」と。自分に対して敵対してくる彼すらも、ダビデは憎まない、否、憎めないのです。なぜなら、それは神様がそうしていらっしゃる。だから人を憎むこともできなくなる。「あいつがあんなことを言うから…」「彼がこんな事をしたから、今のこの不幸がある」と、恨みつらみを持つのは、私どもは神様を信じていないからです。アブサロムに謀反を起こさせたのは神様だと、ダビデは信じました。今読みましたようにシメイという人にのろわせたのも神様。全部、どんなことの中にも「すべての道で主を認める」。私たちがこのことを信じていけることは、どんなに幸いなことでしょう。世の中の人々はそれを知らないから、失望してみたり、落胆し、嘆いたり争ってみたり、憤ってみたり、本当に争いが絶えないのです。

このシメイについては、この時ダビデは許したのです。そのようにダビデが都落ちしてアブサロムが死にました後、もう一度都エルサレムに戻って来る。戻ってきたら、このシメイが王様の所にやってくるのです。しかも、もみ手をしながら、「王様、ごめんなさい。もうあの時はついうっかり言ってしまいまして、あれは本心ではなかったからひとつ許してください」と言った。その時、ダビデは「お前の命は取らない」。ただ一つだけ条件を付けました。「お前を許してやる。この町に住め。ただしこの町から一歩でも外へ出たら命がないと思え」と。本当にダビデは彼を許したのです。ただ条件を付けただけなのです。しかし、シメイは自分が許された恵みを忘れたのです。勝手にその町から遠くへ自分の親族を訪ねて出かけたときに、王様は「殺せ」と命じたのです。それは彼に与えられた、自分が許された恵みを忘れたからです。私たちも神様から許されて、備えられた恵みの中に生きる者とされながら、それを飛び出してしまうならば命を失います。どうぞ、私たちは絶えず今どんな大きな恵みの中にあるか、神様を信じることがどんなことなのかを絶えず感謝し味わう日々でありたい。勿論、感情のある人間ですから、言われてカッとします。売り言葉に買い言葉、向こうが二つ言えばこちらは十くらい言い返す。でもそのとき「ああ、間違っていた」と認めることが大切です。そしてもう一度主に立ち返って「これは神様が起こしてくださった」とへりくだる。

だから、私は若い高校生にぜひこの神様を知ってほしいと思うのです。そうするならば、これからの人生、どんな道を選んでも、そこに神様が私を導いてくださっている。しかも、それが私にとって役に立つ道なのか、あるいは自分にとってよかった道なのか、これは分からないのです。皆さんでもそうでしょう。ズーッと今までの何十年という生涯を振り返ってみて、これはいちばんよい事だと選んだ道が、よかったはずがない。その道がよかったら今の自分はないはずです。とんでもない、思いもかけない道へ導かれてきて、そして今がある。私たちの人生の最終決算は生涯を終わるときでしょう。神様の前に帰るにあたって、自分の生涯をズーッと振り返って、80年90年の生涯を振り返って、「私は最善にして最高の生涯だった」と感謝できる人こそ勝利者です。部分的に「あの時代のあれはよかった。その後ズーッと不幸が続いて、その次はよかった」と、そのような色分けするような人生だったら、悲しいですね。感謝できる人になるためにはどうするか。「すべての道で主を認めていく」。「ここも神様が私に善いことをしてくださった。ここも神様がいちばん善いものを備えてくださった」と、神様を認めて感謝するとき、私たちの生涯はすべて問題なし、不平不満はあり得ない。どうぞ、誰が私の主でいらっしゃるのか。私たちの行く道を導かれる方がどういう御方であるかをはっきりと認めていきたいと思います。

イサクが成人したときに、お父さんアブラハムはイサクのお嫁さんを求めて僕(しもべ)を遣わしました。そうしたとき、ある遠縁の人の所へ導かれて行き、リベカの所へ来るのです。そのときにリベカのお父さんと言いますか、彼が「このことは神から出たことですから、私どもはよしあしをいうことはできません」と答えています。私はいつもその言葉を忘れることができません。いつも「これは神から出たことですから」と言い得たならば勝利です。どんなことでも「これは神様がなさったことですから」、自分がしたと思っている間は駄目です。確かに、私が今このことをさせてもらったのは、神様が「せよ」と命じられるから、しているのだ。私の主は神様で、私ではない。私は主に仕えている主の僕です。そのことを絶えず覚えていきたいと思います。そうすると、どんなことも感謝です。できなくて感謝、できて感謝。そうでしょう。何か一つできなかった。しようと思ったけれどもできなかった。そのとき、「これは神様がとどめられたことですね」「これは神様が『やめよ』とおっしゃってくださった。感謝します」と。それなのに無理強いして「いや、何とかしなければ、私が頑張って徹夜して……」などとやるから、次の日頭が痛くなる、あるいはどこかが悪くなる。主が「やめよ」とおっしゃる。「もう寝なさい」とおっしゃったら、中途半端でもいいではないですか。「いいや、これはちゃんと最後まで私が責任を……」と、偉そうなことを言うから体を壊します。そうならないように、私たちはいつも「すべての道で主を認める」。

イザヤ書45章7節に「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する」。「これはもう絶望だ。もうこれは先がないぞ!」と思える事柄であっても、主を認めていく。神様がしていらっしゃることだから、この絶望的なところから、どのように神様は導きなさるか。神様に期待する。そうすると、私どもは失望しない。なぜ失望するかと言うと、自分がやっていると思うからです。私の知恵で、私の力で何とかやろうと思うから「もうこれはお手上げ、考えても解決がつかない。あきらめるしかない」という言い方になる。そうではなくて、「これも神様がなさること、『繁栄をつくり、またわざわいを創造する』。だから、ここから神様、あなたが主です。何をどうしてくださるか、主よ、あなたに期待していきます」と、神様を待ち望むこと、これ以外にない。そうするとき、私たちを神様は用いてくださる。「何をせよ」「どこに行け」「こうせよ」「ああせよ」「こうするな」と、いろいろ教えてくださる。そして神様の業を、不思議を行ってくださるのです。

7節の後半に「わたしは主である、すべてこれらの事をなす者である」。私たちのすべてのことの根源であり源である御方。この神様をはっきりと認めて、その方の前に従順に従い行く者でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。