重荷から軽荷へ

マタイによる福音書11章28節から30節までを朗読。

 28節「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」。

この御言葉は度々教えられ、また力づけられる言葉です。人生にはいろいろな重荷があります。心の思い煩いから、現実の生活上のいろいろな心配、不安、あるいは心を騒がせる事態や事柄が数多くあって、青息吐息と言いますか、時々、フーッとつらい、生きているのが苦しい局面にも出会います。誰だか忘れましたが“人生とは重き荷を負うて遠き道を行くがごとし”と言った人がいると聞いたことがあります。人生、生きることは、何か大きな荷物を抱えて遠い道のりを歩いているものだと言う。それでどこまで歩けばいいかというと、死ぬまで歩かなければなりません。これは大変です。ところが、イエス様はここに「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい」と言われます。苦しい、重荷を負うて、大変だと思っているならば……と。もっとも人それぞれですから、重荷が楽しいという人もいるでしょう。「あなた大変ね」と言うと、「いや、平気よ」と。重荷と感じない人がいますから、人のことは言えません。

この御言葉で救いにあずかった一人の伝道者がいます。それは柘植不知人先生です。柘植先生は自分の人生の問題、また妹さんの問題を抱えて悩んでいた。そのころ、神戸の湊川にある伝道館でウィルクスという宣教師の方が特別伝道会をしていた。湊川という所は繁華街だそうです。黒崎であるとか小倉の魚町のような所でしょうか。そこで夜、伝道集会が開かれていた。その入り口に「凡(すべ)て勞(つか)れたる者、又重きを負へる者は我に來たれ」文語訳で御言葉が記されていた。柘植先生はハッと、「重きを負へる者」、考えてみると、自分はその悩みの真っただ中にいたのです。少し知的障害のある妹さんが行方不明になっていて、妹さんの消息を尋ねて歩いていた。神戸辺りにいるらしいということを聞いて探していました。人生上の悩みを持って、丁度そこへやってきた。目の前に「重きを負へる者は、我に來たれ」と、こんな事を言ってくれる人はどこにいるだろうかと思ったそうです。どこの神様もそのように「重荷を負うて、わたしのもとに来なさい」ということは聞いたことがない。「よし、ひとつ入って、聞いてやろうではないか」、「もし重荷が取り除かれないのだったら、この看板はもらってかえろう」と、道場破りのような感じで、先生はその夜の伝道集会の一番前に座って、足を踏ん張って「何を言うだろうか。どんな話をするだろうか」と構えていた。宣教師であるウィルクス先生がとても上手な日本語で説教を始められた。だんだんとその話を聞いているうち、「神がいらっしゃる」と、「うん、そうだな」と分かる。やがて罪の問題、人の心に罪があるために神様の祝福を受けられなくなっている。そのように言われ、自分の心を振り返って、これまで生きてきた道筋を思うと、なるほど自分に罪がないとは言えない。それどころか神がいると知りながらも、自分は神を畏(おそ)れていなかった。その結果、いろいろな悩みに遭った。ところが、その罪をあがなう御方、救い主として神のひとり子・イエス様がこの地上に来てくださった。そのような話を諄々(じゅんじゅん)と説かれていくのを聞きながら、それまではふんぞり返っていた柘植先生がだんだんとうつむき加減になった。彼の心の中に御霊が働いてくださったのです。とうとうそのメッセージが終わるときには泣き崩れてしまった。そして「イエス様の救いを受ける人、信じたい人は前に出てきなさい」と招かれて、即座に立ち上がって、ウィルクス先生の所へ行き、自分が本当に罪人であったことを悔い改めて、「イエス様を救い主と信じます」と告白したのです。それから新しい生涯へと変わっていった。一晩の出来事です。こんな事があるのですね。それは人が説得したからではなくて、何といっても神様の言葉を信じて、柘植先生はそれが聖書の言葉であるとか、あるいはそれがどのような内容であるとかは知らなかったと思います。しかし、入り口に書かれた言葉を聞いて、「よし、それじゃ、休ませてもらおうではないか」と信じて、出て行った、求めて行った。そこに御霊が働いてくださった。そのような魂に神様が力を現してくださったとき、どんなかたくなな人の心でも変わる。これは私たちにとって大きな望みであり、慰めでもあり、喜びでもあります。

私たちの周囲に頑固な人がたくさんいます。自分を含めてですが、みんな頑固ですよ。なぜ変わらないかと言うと、神様に働いてもらおうとしないからです。人の力で動かそうとする間は絶対に動かない。自分の心だってそうでしょう、皆さん。素直になりたい、家族の人が親切にあのように言ってくれたから「ああ、そうね。はい」と言いたい。言いたいのだけれど言えない。後になって「ああ、あんな心にもないことを、裏腹なことを言ってしまった」と言って、悔やまれますが、自分の心であっても、自分が握っているわけではない。やはり、罪の力が私たちの心をかたくなにしてしまう。素直になり得ない。ではその心を柔らかくするものはないかと言うと、ただ一つだけ「岩のごとく かたき心 砕くものは みちからのみ」と讃美歌の514番に歌われている。私はその歌詞を聞くたびに「岩のごとく かたき心」は誰かと言うと、私たち皆さんでしょう。大きな岩ですよ、ここに何個もありますよ。その岩を砕くのは「み力のみ」と、神様の力によらなければ砕かれないのです。だから、本当にどうしようもない私、私は何てこんなひねくれた人間だろうか、何でこんなに素直になれないのだろうか、すぐみんなから嫌われるようなことをつい言ってしまう、一言多い人間だなと思っていながら、自分で変えようがない。そのようなときにどうするか。それは一つだけです。「自分はこんな取るに足らないかたくなな人間です。神様、どうぞ私を造り変えてください」と、神様に求めないからです。そうでしょう。神様が力を現してくださったら人の心は変わります。

私たちはすぐ他人様のことを考える。「あの人のことやろうか」「この人のことやろうか。私はまだ固いといっても柔らかいほうかもしれない。ダイヤモンドほど硬くない」と、皆そう思うのです。でも、その心を砕いてくださるのは神様です。私たちに大切なのはそこです。「神様、私をどうぞ粉々に砕いてください」と言えるか言えないか。大抵は「人を砕いてください」と祈る。「主人を砕いてください」「家内を砕いてください」「息子たち、あのかたくなな者を早く何とかしてください」「では、あなたは? 」と問われる。「え!私、私は悪いと言えば悪いけれども、まぁそこまで今すぐにどうこうというわけではない。これは後でもいい、そのうちに……」となります。問題はそこなのです。「本当に自分は、これでは駄目なのだ。これではいかん!何とか変わりたい」と願わなければ、それは実現しません。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(マタイ 7:7)。「神様、どうぞ私は汚れたものです。私はこんな者ですから、このようなかたくなな心を、けちくさい心を、ねじくれた、ひん曲がった心を、どうぞ神様、たたき割って粉々にして、新しくしてください。素直な心に変えてください」と切に祈る。ダビデですらもそのように、「わたしの心に清き聖なる自由なる霊を与えてください」とお祈りをしたのです。ダビデですら、そのように祈るのですから。ましてや、私たちは切に願わざるを得ない。何としても変えていただきたい。

ところが、人は変わりたくないのです、少しでも。だんだん年を取ると余計にそうでしょう。若いころはまだ冒険心がありますから、何か少しでも新しいものに「おお、やってみよう」と言う。ところが皆さん、今になったら「もう昨日の今日、今日の明日、変わらないでくれ。何も新しいことはしない」と、そのように思います。そうなると、焼冷ましの餅ですから、これはどうにもならない。しかし、私たちはそのように言わないで、神様は私たちを造り変えようと願っていますから、自分からそれを求めていくことが大切です。

柘植先生は何とかこの重荷を取り除いてほしいと願ったのです。その問題や事柄のいちばんの根本に何があるかと言うと、人の罪がある。自我性という、そのことに気がついた。罪が赦されなければ、清められなければならない。そして、人の力ではその罪を清めることができない。人は、自分で生きているようですが、自分ではない。神様の力によって生かされなければ正しく生きることが出来ない。残念ながら、私たちはサタンの支配に捕らえられてしまっている。それに気がつかない。しかし神様が憐(あわ)れんでくださって、私たちを罪から解き放って、神様のものにしようとしてくださるのです。その神様の大きなご愛と恵みを知ったときに、柘植先生は本当に心砕かれた者になったのです。柔らかい心になって、それからの生涯を、その晩から神様の前に自分をささげる生涯、献身の生涯に入ってしまった。私は柘植先生の『ペンテコステの前後』という自伝を読みましたときに「本当にすごいな」と思いました。それは先生がすごいというよりも、神様のなさる業は本当に大きな力だなと思うのです。

28節に「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい」とありますが、では「イエス様のところに来る」とは、どのようなことなのでしょうか? それは、イエス様が私の罪のために十字架に死んでくださったことを、本当に喜び、感謝して受け入れることです。「イエス様のところに来る」と言っても、イエス様を知るとか、イエス様のことについての知識をたくさん蓄えることではありません。イエス様が私のために何をしに来てくださったか、私にとってイエス様はどのような方なのか。「イエス様のところに来る」という言葉は、分かったようでよく分からない。どうやったら、イエス様のところに行けるのだろうか。

イエス様がこの地上に来てくださった目的は、私たちの罪のあがないの供え物となってご自身をささげるためでした。言うならば、私たち、皆さん一人一人の罪の犠牲となってくださいました。それに対して、私たちはどれほど自分の罪を自覚しているか? ここがいちばんの根本でしょう。自分の中に抜きがたい、根深い罪がある。表面に現れたわずかな事柄ではない。もっともっと根深いところがあります。私たちはイエス様の清めにあずかって、イエス様の十字架のあがないにあずかって、罪を赦されたと感謝しています。しかし、救われてから5年10年15年20年30年、相変わらず自分の罪の姿が見えるではありませんか。抜きがたい罪の力はもう既に十字架に処分されたはずなのです。しかし、それがまるでとかげのしっぽのように、時折チョコチョコ出てくる。そして「私はやはり救われていないのではないだろうか。こんな私のように汚れた者が……」と失望落胆します。だからパウロは「たとえ私たちは、イエス様を信じて救いにあずかっても、次から次へとそのような過去の罪が、いやそれどころか今まで自分では気づかなかった奥深い、根深い罪の塊、それが消えないでいる。それによって失望落胆するけれども、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」と語っています。何と汚れた者だろうか、いよいよもって救いがたい自分であることを知れば知るほど、なおその上に、それすらもあがなってくださったイエス様のあがない、赦し、十字架の血潮、その有難さと言いますか、尊さがいよいよ深くなる。

ほんのちょっとのものを赦されたのでしたら、「こんな程度か」と思うでしょう。しかし、いよいよ深い大きな罪を赦されたら「こんなにまで、これ程のものを赦してくださったのか」と、主の赦しの深さ、長さ、高さを深く知ることができるのです。だから、イエス様の十字架に立ち返っていくとはそこなのです。イエス様は過去のあるときに十字架にかかってくださったから、それでもうおしまい。もう私は罪を赦されたから、後は聖人君子、私はどこをたたいてもほこりは出ません、というような人間にはならない。と言うのは、それだけでおしまいだったら、神様の恵みの深さ、大きさを私たちを味わいそこなう。だから私たちをなお地上に置いているのは、神様の「めぐみ深きことを味わい知る」ためでしょう。

長く生きれば生きるほど、自分の罪深さを感じます。だから“憎まれっ子世にはばかる”と言うでしょう。自分の罪が多いものほど、地上に置かれる時間が長いのは恵みです。なぜならば、その度ごとに十字架に立ち返ることができる。「ここも主が赦してくださった。こんな自分であるのになお主が赦してくださる」。泥沼を行けども、行けども、そこに十字架が立てられていく。それ程の神様のご愛を味わうことができるのはこの地上にあってこそです。だから、どうぞ失望しないで、自分のしようのなさをいよいよ深く味わえば味わう程、感謝したらいいのです。「自分にも想像がつかなかったこんなひどい者をなお神様はご存じで赦してくださっている。気がつかない前から、既にそこに十字架を立ててくださっていた」と、喜んでいよいよ神様に近づいていくことができる。だから年を取れば取るほど恵みは深くなります。神様の許しの真っただ中へ自分がすっぽりと覆われ、包まれる生涯ですから、失望落胆することはどこにもない。イエス様のところに来るとは十字架の主に結びつくことです。イエス様が私のために今日も死んでくださった。そして、よみがえった主が今もとりなしてくださる。だから、まずイエス様のところに来て、本当にこんな者のために命をかけて愛してくださった。十字架に罪を赦してくださった。そればかりでなく、こんな私にも愛想を尽かさずに、よみがえり給うた主が共にいてくださる。そのよみがえりの主と密着することです。これが「わたしのもとにきなさい」という意味です。「イエス様のもとに来る」とは、十字架を通して死んでよみがえってくださったイエス様に自分が結び合わせられていくこと。だからパウロが言ったように「最早(もはや)われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」(ガラテヤ2:20文語訳)、イエス様が私の内にあって生きてくださっているのだと確信するとき、キリストのもとに来たと言えるのであります。そうでない限り、いつまでもイエス様と私たちとの間になお隔たりがある。遠目には見ているだけでは、イエス様に来るとは言えない。

28節に「すべて重荷を負うて苦労している者」、私どもが人生に行き悩み、あるいは様々な問題や事柄で「どうしようか」「ああしようか」と思い煩っているとき、その思い煩いの奥深いところをよくよく探っていくと、必ず自分の罪の問題にぶつかる。どこかで思い煩っている、重荷だなとため息が出る、こんな問題は嫌だなと思っているとき、自分の心の奥、奥をよく探ってみると、自己中心であり、譲れない自分の考えや思いをしっかり握っている。自我性というものが頑固にそこにあるのです。これをたたきつぶしていかないと、実は重荷は消えない。「わたしのもとにきなさい」とイエス様が言われるのはまさにそのことなのです。「イエス様、私は今経済問題でこんなに……」「私は今人間関係に苦しんでいる。あの人との関係がうまくいかない、職場でこんな問題が起こった。あれがあった」。だからこのことのためにイエス様のところに来て、「イエス様、あの問題を解決してください」「この問題を解決してください」と祈る。もちろん、そのような祈りを持ってイエス様に近づくことも、別に悪いわけではない。またそれが的外れというわけではありません。しかし、ここで「わたしのもとにきなさい」という言葉の意味は、ただイエス様をヘルパーとして、あるいは何か助け手として、救急車か消防自動車を呼ぶような意味で「わたしのもとにきなさい」と言われたのではなく、イエス様がしようとしていることは、私たちがイエス様と一つになることです。そのためには、問題や事柄、重荷と思われることのいちばん奥にある罪の問題にどうしても行き当たります。「私はあの人のために、この人のために心配してやる」。「息子のため、あるいは子供のために私は心配してやるので、そこには私の私的な感情はありません」と言われるかもしれませんが、そんなことはない。人はとことん自分の事ばかりを考えますから、「何としても、こうでなければ」と思う。そのような心がある間、イエス様の休みにあずかることができない。28節に「すべて重荷を負うて苦労している」とありますが、今、何か重荷を負うていますか? 自分自身の病気の問題、老後の問題とか、あるいはほかの人とは関係がない、私自身の問題と言われるものでもそうです。それを喜んで神様のものとして受け入れられないのは、死にきっていない自分がそこにあるからでしょう。

私は自分自身の病気を通してそのことを深く教えられました。神様を信頼しきっている、神様のものだと言いながら、ああでは困る、こうでは困る、こうなっては嫌だと思っている自分がある。神様が何とおっしゃるか、そこに徹底できないものがある。だから「わたしのもとにきなさい」と言われる。イエス様のもとに来ることは、自分のいちばん奥深いところでの罪を認めて、そして、共にいてくださるイエス様のみ声に従う者と変わっていくとき、「あなたがたを休ませてあげよう」、今まで重荷と思えていたものがスーッと消えていくのです。これは大切なことです。今自分が抱えている悩み事を、イエス様のところへすっかり委ねてしまう。そのとおりです。ところが現実、委ねたつもりが委ねられない。委ねてみては引っ張り、委ねてみては引っ張り、その根本は何かと言うと、自分の中に神様に対して信頼できない、神様を疑っている罪の心がある。これが問題です。どうぞ、私たちは「わたしのもとにきなさい」と、主のもとに来る者となりたいと思います。

そして、29節「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」。ここに、イエス様は「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」と。休ませてもらうはずだったのに、どうしてわたしがくびきを負わなければいけないのか。「休ませてくださる」というのは、私たちの重荷を取り除いて、後は昼寝でもしていようという休みではない。よくそのようなことを言いますね。肉体の休みもそうですけれども、何か疲れるでしょう。いろいろな忙しい事があって疲れて次の日一日「これだけ私はしたのだし、自分にご褒美だ」と言って、次の日、朝からガーッと寝て、家族が「どうしたの? 」「いや、私は今日は寝るから!」と寝るではないですか。余程寝たから疲れが取れたかと言うと、翌日ボヤーッとして「ああ、疲れた」と言います。それは自分のわがまま放題の心に支配されてしまった結果です。

イエス様のところへきて、重荷をイエス様に委ねて「これで私は楽をするわ、寝るわ」と言って、むさぼるのは罪です。いくら疲れたからといっても横になって寝る時間なんて普段と同じでいいのです。やはり次の日は少なくとも起きて軽い運動をするなり、仕事も軽目のものをすることではじめて疲れは取れるのです。ところがそのようなことをしたらますます疲れるに違いない、という欲望、人の何ていいますか汚いものがある。何とかしてとむさぼりがくる。

イエス様が「あなたがたを休ませてあげよう」と言ったのは、そのような意味の休みではない。「お前の好き放題、思う存分、お前のむさぼりのままに放っておく」というのではない。そうではなくて「イエス様にくる」、先ほど申し上げましたイエス様に密着する、よみがえってくださったイエス様と共に生きるとき、今度はイエス様についていくのです。だから、29節「柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」。イエス様のくびきを負うこと。「くびき」とは、牛など2頭ほどを一つのものとするために横木を置くのです。これがくびきです。そしてそれに鋤(すき)であるとか、いろいろな道具を付けて田畑を耕す。その作業は1頭では大変だから2頭並べてする。そのときに2頭とも同じ歩調で同じ荷重になるようにバランスよくするためのものです。「くびきを負う」とは、イエス様と一緒になって生きることです。

その後に「そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」。イエス様が休ませてくださる休みは、決して体が楽になったとか、仕事が少なくなって暇になったという意味の「休み」ではなくて、心に平安を与えてくださるのです。イエス様と共に負うには、30節に「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」とあります。今度はイエス様が負わせてくださる、イエス様が共にいてくださる、担ってくださる荷を共に負いつつ歩んでいく。これは幸いです。「このことも主がなされることです」と、そこに立たなければ心の平安がありません。
お祈りをいただきました家内の母が、思いがけない形で福岡の教会のそばにある老人ホームに今度入ることになったのです。突然のごとく言われまして、もう何年か前から申し込みをしていたのです。そうしましたら先月の終わりの日曜日でしたが、家内の所に電話があって、「お母さんがもし良かったら入居できますがどうしますか」と、聞いて家内はびっくり仰天、大喜びをしました。今老健センターに入っていますが、「老健」は一時的な仮の住まいですから、落ち着かないのです。時々日曜日の午後など帰りにちょっと寄ってみますと、日曜日はお休みですから係りの人も少なくなって、何も行事もない、することがなくてダラーッと寝ているだけです。元気で動けるのですが、居場所がないからベッドに寝る以外にない。行きますと母もショボッとしていますから可哀想です。もっとうちの近くだったら時々連れ出してもやれるし、出かけて行って話し相手にもなれるのにと思います。だからその母の様子を見て、家内が「母を何とかできないだろうか」と。私は「じゃ、うちに引き取ったらいい。次の施設があるまでうちの教会においてやればいいじゃないか」と言いますと、「そこまではしきらない」と言う。といって放っておくわけにはいかない、どうしようかと、そのような悩みのときに、ポンと神様が道を開いてくださいました。だから家内は大喜びで母に言いました。母も喜んで「娘のそばに行ける」と喜んだのです。

いろいろな手続きがあって、準備をしておりました。先週の土曜日何気なしに、掛かりつけのホームドクターの所へ行きまして「今度家内の母がこうやって近くのあそこのホームに入ります」と言ったのです。するとその先生が「あそこは以前は人気が高くてなかなか入りづらかったが、最近は何だかベッドが空いているようですね。よかったですね、そういう時期で」と言われた。家内に「あそこはだいぶすいているそうだよ」と言ったのです。すると「何か表に出ない問題があるに違いない」と、家内はまた悩み始める、夜が眠れない。せっかく連れて来たはいいけれども、母から「何でこんな所にしたのよ」と言って非難されそうにもあるし、といって可哀想にもあるし、これから先どうしようかと。それで私は「いいじゃない。どんな事があっても、いよいよとなったらうちに来てもらえばいいのだから、……」「いや、来てもらうのもいいけれども、それも大変だし……」と、逃げようとする。「トコトン自分が引き受けてやりたい」と思えない。それには自分を捨てて掛からなければならない。悩みは悩みですが、よく見るといちばんの根本は自我ですよ。自分がどうしても譲れない。あれは嫌だ、これはできない。

だから「わたしのもとにきなさい」と言われるのです。「もうお手上げです、神様。私は本当にこんな罪なる者ですから、神様、どうぞ赦してください。あなたと共に行きます」と、主を求める。よみがえってくださった主が『負え』とおっしゃるならば、主の負わせ給う「くびきは負いやすく」「その荷は軽いからである」。肝心なのは何といってもやはり状況や事柄が問題ではなく、結局のところは自分の罪の問題です。「わたしのもとにきなさい」、イエス様のもとに来なければならない。

イエス様のところに来て、自分を主にささげきって、よみがえってくださった主と一つとなって、「よし、主が負わせてくださる、主が『行け』とおっしゃるなら、主が『負え』とおっしゃるなら、主が『通れ』とおっしゃるならば、ここは喜んで主のご愛とめぐみに感謝して歩ませていただきます」と、心を定める。そのとき私たちの魂は喜び、心もまた安らかで、魂に休みが与えられる。今、「これは嫌やな、逃げ出そう」と、何とか逃げる道はないか、自分が助かる道はないか、自分が損をしないように、自分の命を惜しむから、重荷なのです、苦しいのです。何もかも、健康だろうと、何だろうと、これは全部主のもの、私はもうイエス様のものですから、主よ、あなたが必要とおっしゃれば差し上げます。あれも、これも、何もかもひっくるめて放り出していけばいいのです。ところが「惜しいな、これをしてやったら良いのだけれども、そこまではできないし、ああ、どうしよう、どうしよう」と。「どうしよう、どうしよう」との悩みを考えてみますと、自分が何とか生き残ろう、自分が何とか傷つくまいと、逃げにかかるから悩むのです。そうではない、どうなろうとこうなろうと、主が共にいらっしゃるのだから、主の手に委ねて、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いから」、そして「あなたがたの魂に休みが与えられる」と。このイエス様から受ける平安、イエス様が与えてくださる安心を自分のものとしていきたい。

そのためには絶えず私たちが重荷と感じるとき、苦しいなと思うとき、まず「わたしのもとにきなさい」。イエス様の十字架のもとに来て、よみがえってくださった主と一つになることをまず努めようではありませんか。そうするなら、私たちの内に今度はイエス様が力を与え、また与えてくださる重荷は軽くなり、むしろ喜びでありレクレーション、楽しみになります。イエス様の重荷を負うのですから、自分の重荷ではない。誰かの重荷でもない。誰に代わってしているわけでもない。イエス様の負わせ給う重荷を喜んで負うのです。

よく小学校の先生が授業が終わって何か道具を持っていこうとすると、子供たちが喜んで先生の手伝いをする。「先生、僕に持たせて!」かばんを持ったり、道具を持ったり、「ちょっと、誰か黒板をふいてくれる者はいないか」なんて言うと「はい」「はい」「はい」「はい」、何とか先生の役に立ちたいと思うでしょう。私たちもそうです。イエス様のお役に立ちたいと思うなら、何をためらうことがあるでしょうか。イエス様を放ったらかして、自分が助かろう、楽をしようと思うから、常に苦しい嫌なことばかり、人生は苦しみばかりというのです。そうではない、「わたしのもとにきなさい」、イエス様の所へ来てイエス様と一つになって、主が「負え」とおっしゃる荷を負い、「行け」とおっしゃる所へ喜んで出て行きたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましよう。