心を主に注ぐ

ヘブル人への手紙4章14節から16節までを朗読。

 6節「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」。

日々の生活の中でいろいろな悩みや苦しみ、悲しいことに出会います。そうすると心が悶々(もんもん)と悩む。苦しい、苦しいから心にたまります。心配もたまりますし、不安も怒りや憤りといったそのような感情もたまります。普段はあまりそのようなことを外に出さないで、しっかりと抑えて我慢しています。しかし我慢にも限度がありますから、時々「切れる」と言います。最近の子供たちは我慢がないからすぐに切れますが、言うならば、心にたまったものを吐き出します。出してしまうと、自分の身が軽くなりますね。だから、我慢して、言わないで、黙って自分の心に蓄えておく間は、まだ何とかしのげますが、それが限界点に達してくると、表情も変わるし、言葉遣いも変わってきます。ちょっとこの人おかしいのではないかな、何かあるなと、そばにいてもよく分かります。そうすると、そのうちたまらなくなって「実はこうなんだ、ああなんだ」と言われます。殊に家族の中ではこのようなことが時折起こります。ご主人に、奥さんに、あるいは子供たちに、いろいろ言うわけです。言うと、ホッとします。ある意味では気が軽くなる。ところが、聞いた方は逆にその悩みをもらってしまう。

 今読みました15節に、「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない」とあります。確かに、家族に、あるいは友人知人に、自分の思いの丈を打ち明ける、あるいは怒りや憤りをぶつける。そして「ああ、すっきりした」と、本人は思いますが、では本当に心から不安がなくなった、心配がなくなったかと言いますと、実はそうではない。それは一時的な感情の吐露(とろ)と言いますか、発露であって、それで心の思いが解決する、あるいは心に平安が与えられるにはほど遠い。だから、その問題をひと時しゃべって、思いを吐き出してしまって、それで解決したかと思うとそうではない。またしばらくすると、三日、五日、一週間すると、またたまってくる。そしてまた同じことを繰り返す。ですから、本当の解決はそこにないのです。思いをいくら語ってみたって、それは一方的に語ることはできますが、それを共感すると言いますか、共有する、空っぽになった心を整理する、きちんと整えてくれるものではない。

そうでしょう。何か気になること、思い煩っていることがあって、家族の者、あるいは友人、親しい人に、この人はと思う人に打ち明けます。そうすると取りあえず気は軽くなりますが、それだけのことです。その後の自分の心を整理し整えて、きちっと前に向かって思いが変わってくるかというと、変わらない。これは限界があるのです。人が人の話を聞いても、どこまで相手の思いを受け止めることができるか、これは難しい。ある意味では不可能といったらいいと思います。お互いが何か言い合って、「あの人は私の言うことを分かってくれた」と、あの時熱心にうなずいて聞いてくれたからもう知っているはずだ、私の気持ちは全部伝わったと思いますが、案外違うのです。次の日ケロッとして何かちぐはぐなこと、全然的外れのことを言われて、「あら、昨日話したのはいったい何だったのだろう。あの人は聞いていたはずなのに・・・」と思います。それで「あの人はわたしのことを分かってくれない。鈍感だ」とか何とか言って非難しますが、それはお門違いと言いますか、初めから分からない相手にしゃべっているのです。言うならば犬や猫であろうと構わないわけです。

近くの大濠公園ではよく犬の散歩をしている。そうすると犬を抱っこして歩くのです。犬の散歩なのに何で抱っこするのかと思います。そして歩きながら「何々ちゃん、今日はいい天気でしょう」とか、「楽しいね」と、楽しいのかどうか分からない。言うならば飼い主が一方的に自分の心を語っている。犬は何とも思っていないと思いますよ。むしろ「うるさいやつだな」と思っているかもしれない。そのようなものですよ、人の会話と言うのは。だから、人は私のことを分かってくれるというのは、幻想、まやかしです。だからあまり期待しないでください。家族の者が私のことを分かってくれない、「どうしてでしょうかね? 」というのは、それは期待する方が間違っている。初めから分からないのですから、これはもう致し方ない。では私のことを知ってくれるものはどこにもないのかというと、ただ一つある。

それが今読みましたイエス・キリスト、主です。15節に「わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである」。イエス様は私たちの所に救い主として来てくださって、ベツレヘムにお生まれになって、三十数年の地上の旅路を歩まれました。その方は人となり給もうた神なる方、神ご自身であるとも記されています。神の位に居給うた方があえて人となってこの世に来てくださった。そしてイエス様はこの地上にあって生きる悩み、老いる悩み、病気についても、あるいは借金のことについても、何もかも、生活全般すべてのことの悩みを知ってくださっている。そして私たちの重荷を負い、悲しみを担い、病の人であったと。徹底してイエス様は私たちと全く同じ、人となった方です。そのイエス様は罪を犯したことのないお方でいらっしゃる。本来、人間は罪の塊です。イエス様はただ一つその点においては人と異なった方でいらっしゃる、罪なき御方です。しかし、私たちとすべての事を共有することのできる方。その後に「わたしたちと同じように試錬に会われた」。私たちと同じようにすべてのことをご自分でご経験してくださった。私どももそうですが、世間でもそのように言いますが“同病相憐れむ”と言うでしょう。同じ悩みに遭うと、相手のことがよく分かることを言います。

私もそのように思います。自分で病気をして、ひょっとしたら死ぬのではないか、と思うような体験をしますと、そのような人の話を聞くとき、わが事のように身にしみて感じます。「ああ、なるほど、このように経験しないと分からないことがあるな」と思う。だから、神様は私を教えようとして、いろいろな中を通してくださるのだと感謝しますが、確かにこれは一理あることです。ここにもあるように、イエス様はすべての事を経験してくださった。だからその少し前のところにもそのことが記されています。

ヘブル人への手紙2章18節を朗読。

ここに「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ」、イエス様は私たちと同じように苦しみを受けてくださいました。だから同じ苦しみの中にある者たち、試錬の中にある者たちを助けることができる。私たちの心の隅々まで、思いを知ってくださる、届いてくださる。これは人にはできない業です。もちろん今申し上げましたように、人であっても同じ経験をしたら、少しは分かります。私もそのように思いました。自分の病気を通して、同じ病の中にある人の思いを知ることは、確かにそれ以前より、知ることはできますが、だからといって、その人の思いを全部知っているかと言われると、知らない、分かり得ない。どうしてもそこのところにきますね。

先だってテレビを見ておりましたら、一人のがん患者の方が自分が末期であることを知って、残された余命半年でしたか、その間に何かできることはないだろうかと考えた。そういえば同じ病にある人々が集まって、それぞれの体験を話し合う、そしてその経験を通して、現場の医療機関にどのような医療をしたらいいのか、患者側からの提言をしていこうという働きをした方、もう亡くなられたそうでありますが、その方のことがテレビで夕方放映されて、ご覧になった方もいるかと思いますが、そのような集いを「患者の会」と言います。同じ病気を患う人たちが集まって、お互いに自分の苦労を、自分の悩みを、自分の苦しみを分かち合おうではないか、という会です。それはなるほど幸いなことだろうと思いますし、私もそれを否定はいたしません。しかし、自分自身の経験から言うと「同じ病気をしている人に言ったところで、どうなるだろう」という思いのほうが私にはあるのです。いちばん肝心な心の問題、私たちのいちばん深いところの悩み、思いはいくらしゃべっても通じない。

それで私は自分の病気を通して、なるほどそのような病気にある人の気持ちが分からなくはない、いや以前よりはるかに良く分かるとは思うが、だからといって、どれほど相手の人の心にまで届くことが言えるだろうか? 私はちょっと言えないと思う。ただ黙って聴いてあげる以外にないし、ではその聴いたことに対して、私は何かその人の心に触れることができるかと言うと、できません。無力です。だから、そのような病気をしたときの自分自身を考えてみて、何が自分にとっていちばん幸いだったのかなと振り返ると、人に自分がこんな状況、こんな状態ということを言うことはあまり慰めにはならないな、と感じるのです。では何があったのかと言うと、私にとって幸いだったのは主に打ち明けることができる。神様に、イエス様に祈ることができること。これはどんなものにも代えがたいものだな、と思います。私はいろいろなことで不安を覚えたり、健康上の問題があったりすると、それを人に聞いてもらって解消することはできないと思います。といって、語ってはいけないと言うのではなく、それは大いに言ってもらったらいいと思うのです。しかし、最終的にはやはり私どもがイエス様に打ち明ける以外にない。だから私はそのようなお話を聴いて、どうこうするとか、何も言えません。ただ言えるのは「お祈りしましょう」。一緒に祈ってあげる以外にない。これは最高の恵みだからです。だから「ああだからでしょう」「こうだからでしょう」「こうだからもう少しこうしたらいい」「こんなことがあるから頑張りなさい」「この次はこうなるに違いない。将来のこともあるし、まだまだ死ぬわけではないし……」と、いろいろ周囲で慰めてみても、結局その人の思いに届くことができない。

ヨブがそうですね。ヨブがあの大変な苦しみの中にあったときに、周囲の者が一生懸命に心を尽くして、ああも言い、こうも言い、十重二十重にいろいろな方面から彼を励まそう、教えてやろうとしましたが、結局ヨブの悩みが分からなかった。では、彼はどこへ行ったかというと、そのことを通して神様と直接的に触れ合う、神様に出会ったのです。それがただ一つのヨブの解決の道だったのです。それと同じで、結局、行き着くところはそこなのです。

だから、先ほどの4章14節に「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか」。ここに「大祭司なる神の子イエス」と記されています。「神の子イエス」という言葉の前に「大祭司なる」と言葉が付け加えられている。この「大祭司なる神の子イエス」という言い方は、このヘブル人への手紙だけに書かれている言葉です。と言いますのは、このヘブル書をお読みになると、皆さんお分かりのように、律法の世界にあって、神様と人とをつなぐものとしての「大祭司」、祭司制度ということがその背後にあって、イエス様のことを語っている記事です。だから、私たち日本人にはちょっと分かりにくい、なじみにくいことではあります。しかし、これは非常に大切なことです。と言いますのは、神様と私たちとの間は決して友達にはなりえない、あるいは親しくなる間柄ではありえない。神様は天地万物の創造者でいらっしゃる。それに対して私たち人間は被造物、造られた者です。その神様と人とは住んでいる世界が違う。これはもう雲泥、月とすっぽんどころではない、全く次元の違う存在です。そのような関係である神様と私たちとがつながることができない、交わる、接触するところがない。しかし、神様は一つの道を明らかにしてくださった。イスラエルという民を選んで、そこに祭司という制度を置いてくださった。これは出エジプト記などをお読みになると分かるように、イスラエルの民をエジプトから救い出してカナンの地へ導くその間に、神の民としての姿勢を整え、神と人とが共にあることができる証詞、証拠を立ててくださったのが出エジプト記です。

そのとき、神様は幕屋を設けることを命じました。幕屋とは後の神殿です。神様がいらっしゃる聖なる場所、聖別された特別の場所として、主の民の中に幕屋を設けることを命じたのです。といって、神様はそのちっぽけな幕屋の奥に鎮座していらっしゃるかというと、そんなことではない。神様はそんなちっぽけな所にいらっしゃるわけではない。もっともっと広大無辺、大きな方ですから、そんな中に住み給う方ではありません。けれども、私たち人間のために、神様がそこにいらっしゃるという証しの幕屋、私たちの目には見えない神様ですが、その神様は確かにここにいらっしゃいますよという証し、証拠として幕屋を建てることを命じたのです。
そのことを分かりやすく言うと、表札のようなものかなと思います。皆さんのお家に行きますと、必ず名前を書いた札が掛かっています。表札です。それはそこに誰が住んでいるのかを表しているでしょう。といって表札という小さな形の石かプラスチックか何かで作られたその中に住んでいるわけではない。ただその家はこの方のものですよ、という存在を証ししている札です。札だからしょうもない、とも言えない。やはりその家を表しますから、大切なものとして扱います。それと同じで、ここは神様のものであり、神様がそこにいらっしゃることを表す。だから、イスラエルの民の宿営地の中に幕屋を設けることを命じました。そして幕屋で「我其處(そこ)にて汝等に會(あ)ひ、汝と物(ものい)ふべし」(出エジプト29:42b文語訳)と、神様はその場所であなたに会い、あなたと語るであろう、とおっしゃったのです。言うならば、そこは神様と人とが出会う場所として備えてくださった。では誰でもそこへ行って、「はい、ごめんください、神様ご機嫌いかが」と入っていくような場所ではない。神様の前に人が立てない。汚れた罪を犯した者、造られたものである人間が造り主でいらっしゃる神様にずかずかっと土足で近づいて肩を並べて「あんた、元気」と、このような関係にはならない。

では、神様と人とをどのようにつなぐのでしょうか。実に神様は素晴らしい方だと思いますが、そこで祭司という制度を設けられた。神様はレビの一族を選んで、彼等を聖別して神に仕える者としたのです。そして彼等を祭司として立ててくださった。祭司はどのような働きをするか? それは幕屋にあって神様の臨在の前に絶えずとどまり、罪ある人々が神様の前に願い出てくる罪の赦し、また日ごとの様々な祈りをささげる場所として、ただそのときに選ばれたその祭司たちが、神様によって聖別されて立てられた祭司たちが、神様と人との間をとりなす、結びつける役割を神様は与えてくださった。神様はなかなか知恵者だな、と思いますね。到底、神様に近づけない者をして、神様とのパイプラインを造ってくださった。その役割を祭司たちにお命じになられたのです。

だから、当時神の民は日ごとの悩みや問題、また罪を犯して心に責められるところがある、うれしいことがあって感謝したい、そのような生活の事あるごとに、一つ一つの事に当たっては、幕屋に出かけて祭司にとりなしてもらう。父なる神様の前にその祈りを取り次いでもらう。そのような制度です。今はもちろんそのようなものはありません。しかし、だからといって祭司制度がなくなったのではなくて、律法に求められた神と人とをとりなす祭司が立てられていながら、それでは間に合わない。

ですから、ヘブル人の手紙5章1節を朗読。

ここに今申し上げたことが要約されていますが、祭司、あるいは大祭司は、人の中から選ばれた、いわゆるレビ族という人が選ばれたわけでありますけれども、それは神に仕える、しかも人々のために人々に成り代わって神に仕えたのです。ただ、その祭司は人の中から選ばれた者ですから限界がある、限りがあります。そのことが2節以下に「2彼は自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができると共に、3 その弱さのゆえに、民のためだけではなく自分自身のためにも、罪についてささげものをしなければならないのである」。ここに大きな問題点が語られています。人から選ばれた祭司は、一つにはいい点がある。それは人間ですから同じ悩みを持ち、祈りを求めてくる人々を思いやることができる。同じ人としての弱さを持っていますから、思いやることはできるのだが、逆にその弱さのゆえに祭司もまた罪を犯してしまう。あくまでも人間ですから、祭司はまず自分のためにいけにえをささげて、神様の前に罪のとりなしをする。そうしないと続かないのです。しかも年を取れば死にますから、また新しい祭司が選ばれる。絶えず絶えず人も祭司も神様の前にはまだまだ不完全な存在、いくら祭司が立てられても、その祭司は自分の弱さもあるので、自分の罪のためのあがないもしなければならない。誠に不完全な祭司であった。

ヘブル人への手紙9章7,8節を朗読。

7節に「幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり」と、この幕屋は二つに仕切られていました。聖所と言われる場所と、そして幕がありましてその更に奥に至聖所という場所があったのです。そしてその幕の手前、聖所で普段は神様の前に犠牲をささげるのですが、年に一度だけ、しかも祭司の中の長(おさ)、中心である大祭司が幕屋の奥に更に入って祈ることができる。そのとき、7節の中ほどに「しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない」。だから、大祭司、祭司の長でも、人である限りどうしても罪のあがないをしなければならない。だから民の罪のあがないと同時に自分のためにもいけにえ、犠牲としてささげた動物の血を携えて、中に入っていくのです。そうやって民のとりなしをする、神様との間を仲立ちとしてつないだ。祭司はどうしても限界があるのですが、その先の11節に「しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり」と。限りある祭司の勤めに代えて、神様は新しい大祭司として御子をこの世に遣わしてくださいました。今日は、イエス様が救い主であると同時に、私たちの大祭司でいらっしゃることを知っておきたいと思います。イエス様は「祝福の大祭司として」この地上に来てくださいました。しかも「手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋」で神様に仕えておられます。これは何のことかと言うと、それはイエス様の肉体、体そのものをさしている。イエス様は自分の身をもって、そこを幕屋として真(まこと)の神の臨在の場所として、自分の体を通して、神、真の父なる神様に仕えておられた。そのことが「手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋」という言葉に表されている。それまでは旧約聖書に事細かく材料、形から寸法などきちっと定められた形で造った、目に見える幕屋であり、あるいはダビデ、後のソロモンが建てた大神殿、神の宮の中に入って祭司が神様の前に仕えていた。ところがイエス様は大祭司となって来られて、イエス様の仕える幕屋、手で造ったものではなく、この世のものではなく、イエス様の体を通して、肉体となってくださった、その肉の体を通して、父なる神様に仕えるものとなったのです。

弟子たちが壮麗な神殿を見て「イエス様、これを見てください。これは素晴らしい建物ではないですか」と言ったとき、イエス様が「こんなものはすぐに壊れてしまう。しかし壊れても三日目に神殿を建てることができる」とおっしゃった。そのとき、パリサイ人たちが聞いて「そんな馬鹿な、とんでもないことを……、イエス様は神様を冒涜(ぼうとく)している」と言ったのです。「それはイエス様が自分のからだである神殿のことを語っていたのだ」とあります。まさにイエス様は十字架に自分の肉体を滅ぼして、三日目によみがえってくださった。それによって壊された神殿をもう一度建て直してくださったのです。イエス様はそこで、その先12節に「かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである」。しかも、今度はその聖所にあって、ご自分をいけにえとして、自分の体を祭壇の上にささげてくださいました。その祭壇は十字架です。ゴルゴダの上に立てられた十字架こそが、イエス様がいけにえをささげる祭壇であり、祭司でいらっしゃるイエス様がご自分の体をいけにえとして奉げ、ご自分の体という幕屋の中で、神様の前にあがないを全うしてくださった。これは本当に素晴らしい奥義ですよ。イエス様がおかかりになられた十字架こそが、神を礼拝する祭壇であり、そこにささげられた動物は傷のない、汚れのない、罪のない、神のひとり子イエス様ご自身であって、イエス様が大祭司となってご自分をささげたのです。その十字架の祭壇を覆っていた真の幕屋はキリストの体、肉体です。だから、イエス様の中に幕屋があり、祭壇があり、祭司がいて、ささげられたいけにえがあり、流された真の血があるのです。これは完全なあがない、それ以上足すことも引くこともいらない。全くパーフェクトというしかない、神様のあがないの完成です。

だから、12節に「かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ」、しかもそれはたった一回でいいのです。その完全なあがない、完全な赦し、それを成し遂げてくださるのに、それまでは祭司が度々自分のためにも民のためにも繰り返し、繰り返し、動物をささげ、動物の血を流し続けてきたのです。しかし神様はひとり子をこの世に送って祭司とし、そしていけにえとし、そして神に仕えるものとしてくださった。イエス様によってあがなわれた私たちは、二度と犠牲をささげることがいらない。動物の血を流すこともいらない。それどころかひとり子でいらっしゃる、完全なるいけにえをささげてくださったイエス・キリスト。

その先に「ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである」。期限付きではないのです。有効期限10年とか20年とかそのような話ではない。「永遠のあがない」、もう二度と廃れることのない、消し去ることのない約束を私たちに与えてくださった。

13節以下に「もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、14 永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか」。これは度々教えられる記事ですが、本当に素晴らしい約束です。「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として」「神にささげられたキリストの血」、イエス様の血、それは私たちを清めないではおかない。私たちを赦さないではおかない、私たちをして全き者へと造り変えてくださる。かつては牛や羊や、あるいは山鳩や何か動物の血を振り掛けて清められた。しかしそういったものでは、そんなに長く続かない、一回でまた次、また次、何度となくそれを繰り返さなければならない。ところがイエス様はたった一度だけですべて終わり。だから、本当に恵みとしか言いようがない。イエス様を信じるだけで、私たちを清めてくださる。私たちは今日もキリストの血によってあがなわれた者として感謝して生きる。これは本当に大きな力です。だから14節に「ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら」「なおさら」ですよ。動物の血ですらも赦されるくらいならば、なおさら、ましてや御子イエス様の血をもって清められない罪があるでしょうか。癒されない病があるでしょうか。どこにまだ足らないものがあるでしょうか。そして「私たちの死んだわざ」、本当に生活の隅から隅まで主の十字架の血潮によって清めてくださって、「生ける神に仕える者」、真の神様に仕えていく民、神の民としてくださる。神のものとしてくださる。その約束は今も変わらない。

ですから、初めのヘブル人への手紙4章16節に「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」。そうやってイエス様ご自身、傷なきものの血をもって、私たちをあがなってくださった。私たちを清めてくださった。だから、遠慮なく、ここに「はばかることなく」主のみ前に近づいて、主を呼び求めて、神様の助けを得る恵みにあずかることができる。私たちの見える現実がどうであれ、そんなことは問題ではない。私はまだ清められないところがある。あるいは私はまだこんなへんちくりんなところがある。まだねじ曲がった性質がある、こんなところがある、あんなところがあると、言えばいくらでも出てきます。しかし、そんなことは百もご承知の神様、その上でなお、私たちのためにひとり子の代価をもって贖ってくださった。今日もイエス様はご自分の血を携えて、父なる神様の右に座しとりなしてくださっている。「父よ、彼らを赦したまえ」、そればかりでなく私たちの祈りを知り、思いを知り、願いのすべてを父なる神様にとりなし、取り次いでくださっている。神様はイエス様のとりなしによって聞いてくださらないはずがないではありませんか。16節に「時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に」、遠慮しないで近づきなさいと。こんな者だからとか、あんなだから駄目だとか、自分で言うのではなくて、こんな者を知り尽くして、なおそのような私のために、今日も主がとりなしてくださっている。イエス様が私のために今日もご自分の血を携えて立っていてくださる。そうでしたら、何をためらうことがあるでしょうか。「はばかることなく」、遠慮なく主の前に出て、心から自分の思いを神様の前に注ぎだそうではありませんか。私たちの心を神様に明け渡して、何もかも主のみ手にささげきって、思いも怒りも憤りであろうとつぶやきであろうと何であろうと、全部イエス様に語って、知っていただきましょう。神様はすべてを知った上で私たちに御霊を注いでくださる。

御霊によって心を整えて、希望と命と力を注いでくださる。ここが人にしゃべった場合と大違いです。人に聞いてもらって「ああ、安心」と言うが、その後がない。ところが、神様の前に心を注ぎ出して、開けっ放しで、主に祈り求めていくときに、御霊は私たちの空っぽになった心を清めて、新しいいのちを注いで、力を与えてくださる。そして「生ける神に仕える」生涯へと、造り変えてくださる。だから、神様に祈るということは、ただ単に自分の思いを言い尽くして、「ああ、すっきりした」という、そんな程度ではない。実は神様に心を明け渡して語り続けていくとき、今度は神様が私たちの内に新しい業を始めてくださる。心を清めて、新しく造り変えて、真の神様に仕える者へと、文字通り、名実共に私たちを全く新しい者としてくださるのです。

だからどうぞ、ここにありますように「はばかることなく恵みの御座に」、遠慮なく近づいて、心にあるものをすべて打ち明けて、神様に知っていただきましょう。人に言うことはいらないし、誰に聞いてもらわなくてもいい。ただ、イエス様の前に心を注ぎだして、主の憐(あわ)れみを求め、その助けにあずかって、主に仕える生涯へ導かれていきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。