福音の処方箋

ローマ人への手紙1章14節から17節までを朗読。

 

 16節「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である」。

 

これはまだ会ったことのないローマにいるクリスチャンたち、イエス様を信じる人々にあてて書かれたパウロの書簡であります。15節に「ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである」と、自分の願いを語っています。ですから、まだ彼がローマに入っていない時でした。ローマにはイエス様の福音が伝えられてクリスチャンと称する人々が既にいたようです。しかし、信仰とは言っても千差万別、いろいろあり、一概(いちがい)にクリスチャンだといって、では本当にイエス様を信じていたのかというと、必ずしもそうではなかった。殊に、初代教会はユダヤ教からの改宗者、ユダヤ人でイエス様の救いを信じる人たちが多くいました。彼らは生まれ育った、長い伝統に基づいたユダヤ教の習慣や仕来り、そのようなものから抜け出すことができません。ただ部分的にイエス様のことを聞いて、自分の生活にちょっと色添えをするくらいの受け止め方です。

 

日本人もどちらかというとそういうところがあります。イエス様の話を聞きながら、それを自分が育って聞いてきた仏教的な風土の中に取り込んで、「聖書も仏教と同じことを言っているな」と感じる。だから「これはいい話だから、悪くないから信じよう」と言う人もいるに違いない。本当に福音を信じるとはどうすることなのかがはっきりしないままに過ぎてきた。だからガラテヤ人への手紙でもそうですが、パウロはしばしばそのことを指摘しています。「割礼を受けよ」だとか、あるいは「犠牲、燔祭そのような、これまでしてきたユダヤ教の習慣を守らなければいけない」と言う。それでいて、イエス様も信じるというクリスチャンが多くいました。

 

私たちも日本という風土、習慣、そういう世界で育ってきました。だからそのようなものに、イエス様を翻訳し直すというか、自分の分かりやすいものへと変えてしまう。このような危険が多分にあります。私は幸いに生まれた時から牧師の家庭で育ちましたから、キリスト教だけに接してきましたが、父や母の話を聞いていると、そのような要素を感じることがあります。やはり母などは、殊に仏教的な文化の中で幼年期から育ってきましたから、“三つ子の魂百まで”という様に、幼い時に聞いたものは抜けません。そうすると聖書を読んでも、親鸞の教えであるとか、法然の逸話(いつわ)であるとか、そのような仏教説話を読み込んで理解しようとする。これはいた仕方がない、ある種の限界でもあります。けれども、それでいいかというと、そうではない。やはりイエス様の福音、私たちが受けている福音に、掛け値なしに、純粋に、それに浸(ひた)ると言うか、密着しないといのちがない。薄めたら効果がない。

 

薬でもそうですが、病院に行って「これは一日3回、一錠ずつ必ず飲んでください」ともらいます。でも、調子がいいと「まぁ、いいか。取り敢えず飲めばいいのだから、3回を2回、2回を1回ぐらいにしておこう」と。そうしてしまうと全然飲まないのと同じなのです。薬はある一定の量に達したときに、初めて力が出る。その量に達するまでの間はあまり効いていない。風邪を引いて抗生剤をもらいます。「6時間おきに、4日間飲んでください」などと言われます。でも二日ぐらいしてくると、熱も下がってくる、痛みも引いてくる、気分もよくなった。「まぁ、やめておこう」と思うでしょう。そうしたらまたぶり返す。それは、4日間飲むのは、4日間の薬で効果が最大限に出るからです。それを中途半端でやめてしまうと、それは薬を飲まなかったことと同じです。

 

私たちに与えられた福音もいろいろな生まれ育った環境から出てくるもので薄めてしまうと、せっかくの良いものが身につかないで終わってしまう。だから、できるだけ純粋に、100パーセント取り込んでしまうことが大切です。

 

だから、パウロが15節で、なんとしても「ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである」と言っているのです。既に彼らは福音を聞いているはずです。だから、パウロが囚人としてローマに連れて行かれますが、そこにはクリスチャンがいたのです。そのクリスチャン達と交わりを持つことが許されたと記されています。そこで福音を語り続けたことが使徒行伝の終わりのほうに記されています。しかも、彼らが伝道旅行の中で出会ったプリスキラとアクラという二人の人が、大変熱心にパウロの手助けをしてくれましたが、彼らはかつてローマに住んでいたのです。ところが、いわゆるネロ皇帝時代に入って、キリスト教の迫害がローマでも始まり、そのために逃れて、コリントの地へやってきたのです。そういう人物です。だから、パウロが行く前に、既にローマの人々の中にも福音を聞いて、イエス・キリストを信じる人たちがいたのです。しかし、その人たちのことを聞いていると、「この人たちはちょっと違うのではないだろうか。福音を信じていると言うけれども、それはいったいどういうことなのだろうか」。彼らはどうもイエス様を信じたというけれども、その様子が違うのではないかという思いがあったので、ローマ人への手紙を書いたのです。

 

今お読みました16節に「わたしは福音を恥としない」と語っています。言うならば「恥としていた」人がいるわけです。「イエス様の救いを信じるけれども、でもイエス様、イエス様ばかりも言っておられないのではないか」。「いや、イエス様のことをあまり表立って言わないほうがいいのではないか。もう少しオブラートに包んでと言いますか、隠れクリスチャンのように、キリスト、キリストと言うのはちょっと恥ずかしい。そんなことはできるだけ伏せておいた方がいい」という思いが、恐らくローマの人たちの中にあったと思います。それは私の推測ですが、一つにはクリスチャンに対する厳しい迫害が迫っていたからだと思うのです。だからあまり大っぴらに言うわけにはいかない。そういう弱さからだんだんと福音を恥とするというか、イエス様のことは遠回しに、それとなくほのめかす程度にと、思ったのではないでしょうか。

 

現代でもそのようなところが少しあるのです。最近の多くの教会の話を聞きますと、教会が老齢化して、若者が少ない。いわゆる出生率が減ったのと同じように、教会でも若い人がいないから、それでいろいろな教会が苦心惨憺(さんたん)して、若者受けするようなやり方を始める。例えば、今風の歌を歌うとか、いろいろな楽しいプログラムを用意する、レクリエーションを取り入れるとか、さまざまなことをして若い人を集める。そうすると、福音、イエス様のことがだんだんと薄らいでいく。それを大っぴらに言わない。飛びつきやすいような話になっていく。

 

ところが、パウロはそのような行き方でなく、真正面からイエス・キリストを押し立てていく。18節「わたしは福音を恥としない」と。しかも、イエス・キリストを宣べ伝えるために欠かせないことがあります。それは、イエス様が処女マリヤから生まれたこと。処女降誕とよく言いますが、これを認めなければ次に進まない。そして、もう一つ大きなことは、死んでよみがえって、今も生きておられること。そんなことを聞くと、みんな敬遠する。パウロがギリシヤに来て、アテネの町でアレオパゴスの評議所にいろいろな暇人が集まり、ギリシヤ人ですから哲学と言いますか、議論が好きです。いろいろなことを議論する。人生について、世界について、宇宙について、そのような高尚な話をしている。それでパウロもそこに入ってパウロは神様のことについて話をした。そうすると、皆の興味を引いて、「あなたは何か新しい説を言っているようだから、ちょっと話して聞かせてくれ。あなたの話が聞きたい」と、パウロを皆で迎えてくれました。それで早速パウロは自分の体験を通して「イエス・キリストのこと、神様が救い主、イエス・キリストを送ってくださった。やがて、イエス様は私たちの罪のために十字架に死んでくださった。しかし、その方はよみがえって……」という話になった途端に、ギリシヤ人たちは「あなたの話はまたの機会にする」と言って、散って行ったことが記されています。だから、イエス様がどんなに愛の人であったか、どんなに素晴らしいことをしたかを語ることはしますが、死んでよみがえったことは、ちょっと伏せておくことになる。「そんな馬鹿なことがあるか」と思われるかもしれませんが、最近のアメリカの教会などもそうなのです。人気を取るために「神様は何でも私たちの言うとおりのことをしてくださる」などと調子のいいことを言う教会が増えて、クリスチャン人口が増加しているという。まさにこのローマの教会のようなものだなと思う。肝心な、大切なことを隠して、口当たりのよい、人受けのする、みんなが納得しやすいことだけを語ろうとする風潮が教会の中にあるのです。

 

だから「わたしは福音を恥としない」とパウロが言ったことは、実に大胆な言葉でもあります。ではその福音とは何か?「福音」、「グッドニュース」、「よい知らせ」。何がよい知らせでしょうか。スーパーの安売り広告のほうがグッドニュースだったりしますが、ここ1章2節に「この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって」とあります。福音とは、そもそも旧約聖書を通して、預言者によって語られたもの、約束された事柄であって、更に続けて3節に「御子に関するものである」と。「イエス・キリストのこと」です。だから福音とは、イエス・キリストそのものなのだということです。だから「福音」という言葉を聞いたとき、ぜひ、イエス様だな、と思ったらいい。「福音」、「よきおとずれ」とよく言います。難病に効く薬が見つかったとか、あるいは新しく作り出されたものなど、この人のための福音、いい話だ、と言いますが、聖書で言う福音は、そのような幅広い意味での言葉としてではなく、主イエス・キリストご自身と言い換えることができます。イエス様のことすべてです。イエス様がベツレヘムの馬小屋に、処女マリヤから生まれてくださった。そのイエス様は私たちのとがのために苦しめられて、十字架に死んでくださった。そればかりでなく、よみがえって、今度は新しいいのちの源となり、私たちのうちに宿ってくださる。この初めから終わりまで、イエス様のすべてを、私たちがそのままに信じることです。これが福音です。

 

ですから、16節に「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である」と。しかも「それは」という、その福音は、言い換えると、主イエス・キリストは「ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも」、ユダヤ人であろうとギリシヤ人であろうとどんな人であっても、という意味です。すべて信じる者、すべてイエス・キリストを信じる者。これは基本的なことです。私たちがイエス様を信じる。イエス様が私の罪のために、神様から遣わされた、ひとり子である方が、私たちの罪のために十字架に死んでくださった。そしてパウロが言うように、私たちもキリストと共に死んだ者、よみがえってくださったイエス様を信じて、主によって生かされている。イエス様が罪を赦して生きる者としてくださった。これを絶えず信じ続けていくこと。これが主イエス・キリストを信じることです。イエス様を丸のままに、死んでよみがえって、今も私を生きる者としてくださっている。今日、私が生きているのは、自分が生きているのではなくて、イエス様が私を生かしてくださっているのだと信じることです。信じるのは信じているけれども、一向に変わりがないと、思われるかもしれませんが、それは、日々の生活の一コマ一コマの中で、イエス様に心を向ける、思いを向けることが少ないからです。絶えずイエス様のことを心に思うことです。だからテモテへの第二の手紙にありますように「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」(2:8)とパウロが語っています。そこにも「福音」とあります。なぜ福音なのか、それはイエス・キリストをいつも思うことだからです。時たま思うのではない。一日一回思えばいいというのではない。薬と違いますから「いつも」ですよ。道を歩いているとき、人と話しているときでも、何か仕事をしているときでも、台所に立っているときでも、いつもイエス様を私たちの心に置いておくことです。イエス様のことを絶えず思う。ではイエス様のことを思うとはどうすることかなと思いますが、それは賛美することであったり、あるいは御言葉を心の中でにれはむ、繰り返し繰り返し反芻(はんすう)することでもあったり、あるいは自分のこれまでの生活の中に思い出す事柄をとおして、イエス様が私をどのように取り扱ってくださったかを思うことであったり、それはいろいろな形があります。「イエス・キリストをいつも思う」という、その一言は具体的にどうすることかと言われると、それは無数に、数限りなくあることでしょう。皆さんが朝起きて目が覚めるとき「今日も主が私を生かしてくださった」と思えば、それはそれで既にイエス・キリストを思うことでしょう。食事をしながら「今日もこうして健康を与えられ、食欲を与えられた。イエス様がこの食欲を与えてくださった」と、「主が……」「主が……」と、本当にいつも「イエス様が……」「イエス様が……」と思って生きていく。あるいは、自分のこれまでの事を振り返ったり、思い出したりして懐かしむときにも、そこにイエス様を思う。「イエス様がこのように恵んでくださったな」、「あの時こんな問題があったけれども、そう言えばイエス様が知恵を与えてくださった」と、すべての事柄をイエス様に結びつけて自分の心に絶えず思い続けていく。そうするとだんだんと私達の心が変わっていく。

 

皆さん、いつも人のことを思うでしょう。離れている娘であるとか、息子であるとか、孫であるとか、主人であるとか、自分であるとか、親であるとか、いつもその人のことが心にある。そうすると、それが私たちの心を暗くしていきます。怒りや憤り、苛立ちが、私たちの心に起こる。子供のことを思っているとき、最初は「今頃、何をしているかな」と思う。そうすると「最近、電話一つかけてこない、どうしたのかしら」と、まず不安がくる。そのうち、それを考えていると「どうもあの子は生まれたときからちょっと冷たいところがあって、私とは気が合わない子だな」とか、子供のことを通してどんどん自分の心が闇の中に入っていく。挙句の果ては「だから、あの子は駄目なのよ」と、怒りに変わっていく。そしてご主人や家族に向かって、「電話の一つくらいしてくれたらよさそうなものを……」と、八つ当たりをする。でも家族から「じゃ、お母さん、あなたから電話したら」と言われて、「何が私からできますか!」と、だんだん人のことへ心が向いてしまう。これは一つの例えですが、心の中にイエス様がいなくなると言いますか、消えていく。そうである限り、私たちは救われません。

 

16節に「それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である」。救いを与えてくださる神様の力、ここに「神の力」とあります。イエス様は「神様の力」でもある。力がないことにはどうにもなりません。しかし、私たちがいつもイエス様を心に抱いて、絶えずイエス様を心に置くことが、実は私たちの力なのです。私たちにはそもそも力がありません。イエス様は「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコ10:27)と言われました。「人にはできない」。私たちにはできないのです。できることがあるとすれば、それは怒ってみたり、憤ってみたり、サタンの力に支配されてみたりするくらいです。ところが、本当にしなければならないこと、言わなければならないこと、そのようなことが言えない、できない。誠に私たちは力のないものです。人を愛すると言っても、愛がない。愛する力がない。「いや、私は愛に満ちた自分だ」と思っているかもしれませんが、とんでもない。私どもはもちろん、自己愛はあります。自分のことだけは愛しますが、なかなか人を愛する力がない。しかし、なぜないかと言うと、私たちが弱いからです。力がないから愛せないのです。ところがその力はどこからくるか。主イエス・キリスト、福音を信じることによって、神の力が注がれるのです。だから、イエス様を私たちの心に置いていくときに、自分ではできないこと、自分ではとうていあり得ないことができるように変えてくださる、力を与えてくださる。いつもイエス・キリストを心に置いて、イエス様を信じていく。イエス様を自分の心にいつも思う者となる。そうしていくと、自分がしなければならない、これはするべきだと教えられたことを、スーッとすることができる。ローマ人への手紙7章には、パウロが「わが欲(ほつ)する所の善は之(これ)をなさず、返って欲せぬ所の悪は之をなすなり」(2節文語訳)と嘆いています。自分がこれはしなければいけないと思いながらできない。これはしてはいけないと思いながら、すぐやってしまう。自分は何と弱い本当に力のないものであろうかと。そのとおりです。私どもはまずそのことを認めておきたい。私たちにはどんな知恵も力もありません。もちろん肉体的な力もない、心も弱い。ではその私たちを正しい道に歩むことができるように、本当に人として造られた生き方へ、私たちを造り変えてくださるのは「神の力」であり、それが注がれなければ変わることができない。自分のこれまでの人生でない、全く新しいものへと、神様は私たちを造り変えようとしてくださる。それは、私たちをして神様のご目的にかなう者にするためです。神様は、私たち一人一人をこの地上に置いてくださった目的にかなう人間に、私たちを造り変えてくださる。

皆さん、人は案外と自分が変わることを恐れます。今のままでいい、あまり変化を求めない。ところが神様はそうではない。私たちを造り変えたいと思っている。私たちは、どちらかというと、他人(ひと)が変わればいい、状況や事柄や周囲のものが変わってほしいと、自分は変わらなくていいと思う。ところが神様は、事情や境遇ではなくて、あなたが変わることを求めているのです。私たちがどのように変わるか?キリストを着る者となる。イエス・キリストに密着する者と変えられていく。というのは、生まれながらの自分は、神様のご目的にかなう者ではない。すでに罪を犯して、神様の前から離れてしまった。滅ぼされるべき者、失われていた者、それをもう一度神様は、ご自分のものとして取り返し、私たちの内にキリストの姿、栄光の姿へと造り変えてくださる。だからどうぞ皆さん、今日はひとつ覚悟をしていただきたい。神様は皆さんを今のあなたではなく、もっと違う者に造り変えようとしてくださる。だから頑固に自分はこれでないと嫌だと、しがみついていては変えてもらえないのです。捨てられてしまいます、サウル王様のように。神様に従うとき私たちは変わるのです。何が変わるかというと、私たちの性情性格、生活の一切合財、根こそぎ神様は造り変えてくださる。そのように、私たちを変える力はイエス・キリストご自身です。神の力でいらっしゃる。だから、いつもイエス・キリストを心に置いて、主を第一として、イエス様を丸ままに、薄めることをしない、掛け値なしに信じて、イエス様によって今日を生きる。イエス様に命を賭けていく、他のものによらない、このイエス様に心を向けて、毎日イエス様と共に生きる。いつもイエス様を心に思って生きてご覧なさい。気がつかないうちに、私たちの生活が変わります。自分の性情性格、顔つきが変わります。やがて5年後、10年後、皆さんが栄光の姿、キリストの姿かたちに変っている。これは神様の熱心な、切なる求めであり、願いだからです。

 

16節に「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に」と、ここに条件はただ一つ「すべて信じる者」、信じることです。イエス様が私の救い主です。イエス様は私のすべてです。私はイエス様に生涯を賭けていく。私たちはイエス様から24時間、365日ひと時も離れない、そのくらい心をイエス様に向けていきたい。イエス様を信じることは取りも直さず神様を信じることですから、それは素晴らしいことです。

 

ここにあるように「神の力」、神様の力を、私たちはいただいているわけであります。知恵がなければ知恵を与えてくださる。健康が必要ならば健康を与えてくださる。経済力が必要なら経済力を与えてくださる。神様は私たちにどんなことでもする力を与えてくださる。だからパウロがピリピ人への手紙で語ったように「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(4:13)。神の力が私たちの内に宿ってくださる。私たちを持ち運んで、生きる者としてくださったのだから、私たちにはできないことがない。だから、私はこんな年だから駄目、あんなだから駄目、私にはこれが無いから駄目、あれができないから駄目、こんなものは私には不可能と、そうやって逃げないで、主が「よし」と言われるなら、私にできないことはありません、神様が「せよ」とおっしゃるなら、私にできないことはありませんと、はっきり確信を持って立っていく。そうするとき、神様が業をしてくださる、神様の力が現れる。

 

だから、パウロがコリント人への手紙にも語っているように、肉体に一つのとげが与えられ、これを何とか取り除いてほしいと願った。そのときに神様は「わたしの恵みはあなたに対して十分である」(2コリント12:9)。その後に「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それに続いて「キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」と語っています。「キリストの力」、言い換えると、イエス様が私の内に宿ってくださる。自分が弱いことを認め、自分が足らない不足だらけであり、ゼロの者であることを認めて、後はすべてが主のもの、私はキリストによって生かされている者である。このことを信じていく。そのとき、何が起こってきても、主が共にいてくださる、大丈夫です。問題の中、事柄の中にあっても、失望しない、落胆しない。絶えずイエス様が私と共におってくださる。この主と共にあること、キリストが私を生きる者として、力の源であることを絶えず味わっていきたい。そして造り変えられていきたいと思います。

 

そのために、熱心になって主を求めていく。「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて」(使徒 1:8)と、私たちが神様の力を、よみがえってくださった主ご自身を、私たちが絶えず内に握って、キリストの力によって生き動く者となりたいと思います。そのとき「救を得させる神の力」が私たちの内に業を進めてくださる。この「力」とは「ダイナマイト」で、「命」と言うことも出来ます。力が消えていくことは命がなくなる。死んだ人が命がなくなって動かなくなるのは力がないからです。では、私たちは元気はつらつで、自分は力があるかというと、もっと大切な自分を変える力がない。自分を造り変えることができない。弱虫で、意志薄弱な自分を変える力は自分にはありません。その弱い所にこそ、キリストが現れてくださる、主の力が注がれて、神様が業をしてくださる。ただ、自分が力のない者であることを認めて、主を信じることです。キリストが私の力であり、いのちであり、恵みとなります。私たちを造り変えるものはダイナマイトです。全部ひっくり返して破壊して、また造り出していく再創造の力を、私たちのうちに現してくださいます。

 

ご一緒にお祈りをいたしましよう。