神様からの辞令

サムエル記上15章17節から23節までを朗読。

 

この記事は、初代のイスラエル王となったサウル王様の生涯にとって、決定的な事件といいますか、事態について記されたものであります。そんな遠い昔の他国の王様の記事など、どれほどの役に立つか、そんなものは私とは関係がないと思われるかもしれませんが、私たちのために大切なことが語られている箇所です。

 

 

 

まず、私たちは神様から造られた者であり、神様によって生かされています。このことは繰り返し申し上げているとおりです。ところが、それをすぐに忘れる。この地上の生涯は何のためなのか?人は生まれてからこれまで、ああなりたい、こうなりたいと夢を描いたり、いろいろな計画を持ってやってきた。そのような夢や欲望を実現することができたら、その人生は大成功だと、多くの人々は思っています。しかし、果たしてそれが本当に生きがいのある人生なのでしょうか。言うならば生きて良かったといえる人生なのでしょうか。自分が満足したからそれでいいではないか、と言われます。確かに考えようによっては自分が満足していればそれでいいと言えます。しかし、それは自分で生きていると思うから、自分の願いどおりになるべきだと思っているのです。自分の生まれたことも自分の力や努力だと思うから、「おれが好きなように生きて何か文句あるか」と考える。あるいは自分の思いや願いが実現されたら、それが100パーセント、少なくとも90パーセント、70パーセントぐらい自分の思いどおり、願いどおりの人生を生きられたら、死んで悔いなし、と言えるかもしれませんが、それはあくまでも造り主を認めない生き方です。ここが大切です。自分は独りで生まれてきたのだし、独りで人生を生きて、どっちみち独りで死んで、死んだら消えてなくなって無になる。全部が消えてしまって無くなる。だからおれはおれの好きなように生きていいのではないかと、しっかり自分で覚悟をしているなら、それでいいと思います。それでいいと言うと、無責任な言い方かもしれませんが、それは何も出来ません。だから聖書にはそのような生き方はやがて滅びるとあります。自分が造られた者であり、造り主がいらっしゃることを認めるか認めないか、ここが大きな違い。これは白か黒かというくらい、天と地が違うように、まったく正反対の方向なのです。私どもは、神様が私を造って、今ここに置いてくださっていると信じる。造り主を信じる、神を信じるとは、取りも直さず、自分の人生を好きなように生きるのではないと、認めることなのです。

なぜなら、すべての造られたものには、神様、造り主の意思、目的、使命がある。私たちが物を作るときでもそうです。どんな物でも、必ず目的があります。これは何のために、これは何のことのために、あるいはこれはこういうことのためにと、目的・用途があります。私たちが「神様を信じる」と言う時、その言葉には当然、私は神様から造られたのであって、この地上の生涯は神様が意図している、計画している使命と目的があるに違いないということにつながるのです。もし神様を信じなければ、自分の好きなように、自分の心のおもむくままに、情欲に従って、情動に従って、好きなように勝手に生きればいい、ただそれだけのことです。これは生きる上で大変大きな違い。私は近頃いろいろな人のことを、周囲の人々の姿、様子を見て、これはしみじみと思わされる、感じさせられる事柄です。ここにいる皆さんは、神様がいらっしゃると信じて、それを前提として、聴いていますから、何を今更そんなことを、新しいことがあろうかと思われるかもしれません。しかし、もう一度よく考えていただきたい。私は自分の力で生きているのではなくて、私を造り、生かしてくださった、大きな眼に見えない力ある方、神様がいらっしゃると信じる。これはどんな宝にも勝る大きな恵みです。人生の勝利だと思います。もし、それを知らなかったら、自分の力でああしたい、こうしたい。これがならない、あれがならない、あいつが悪い、こいつが悪い、欲望を実現するために人でも殺す、何でも盗んでやれと。まさに今の世はそうでしょう。神を認めない世になってしまった時、人は無軌道、無秩序な世界に入っていきます。ただ自分が正義ですから、自分の求めることを実現しさえすれば良いわけでしょう。これは極めて怖い、恐ろしい世界です。私たちが住んでいる世はまさにそのようなところです。そこから、神様の憐(あわ)れみによって、私たちが今こうして神様を知る者、信じる者としていただいた。そして、今申し上げたように造り主なる神様が、私たちに生きる目的と使命を与えてくださっている。

 

イエス・キリストは十字架にかかって、私たちの罪を赦し、清め、そして神のものとなることを、そこに安心を得る道を整えてくださった。イエス様の十字架がなかったら、いくら神様を信じても怖いですよ。安心がありません。義なる、聖なる、力ある全能の神が、私たちのお父さんになっていただくには、ちゃんとしたそれなりの裏付け、保証がなければ、いつ神様からはじかれてつぶされてしまうか、分かりません。だから、もしイエス様を知らないで、ただ神様だけを信じているならば、これほど怖い話はない。なぜなら、ひょっとして神様のみ心に添わなければ、神様のみ思いに背くことがあったら、一瞬にして滅ぼされてしまうからです。ところが今は、「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」(Ⅱコリント 6:2)。恵みや救いが与えられている。それは神様と私たちとの間にある罪を取り除いてくださった。すべての罪を取り除いて、神様と私たちがまるで家族のように、「あなた方の天の父」とイエス様はおっしゃっている。神様を「お父さん」と呼ぶことができる。これは何と感謝でしょうか、喜びです。神様は私たちを造ってくださったばかりでなく、到底近づくことができない、そのそばに近づくことすら許されない私たちを許して、清めて、神と共に生きることができる者へと造り変えてくださる。それは神様の初めの目的、造られた目的にかなう者にしようとしてくださる。神様は私たちをこの地上に置かれたこと自体が、既にこの者をして何か目的を果たさせようと、神様の意図、意思があったのです。だから、何気なしに生きているかもしれません、あるいは、毎日、朝起きて、好きなように今日はああしようか、こうしようか、今日は天気がいいから何をしようか、自分の好きなように生きているようですが、実は一人一人がその生涯を通して、神様があなたでしかできない一つの使命を与えてくださっている。

 

就職して、会社に勤めますと辞令をもらいます。私も勤めましたときに、初めて辞令というものを知ったのです。私は大学に勤めましたが、その大学で「このものを専任講師として、担当はこれこれの科目を命じる」、「それについては俸給月額幾ら」と書いてある辞令をもらう。このことのためにお前を雇ったという目的がはっきりしている。それから勤めまして、いろいろな役職が回ってくる。教務委員であるとか、学生部委員であるとか、あるいは教職課程の指導委員であるとか、その度に辞令をもらう。その辞令には「この勤めを命じるからお前はこれをせよ」と書いてある。終わりますとまた辞令をもらうのです。「この者はこの職を解任した」という辞令をもらって終わる。

 

実は私たちは神様から辞令を、何のために生きるべきかという目に見えない辞令をもらったのです。ところが、それをどこかへ置き忘れたり、破り捨てたり勝手なことをしてしまった。だから、神様はもう一度私たちにその辞令を交付してくださった。それが主イエス・キリストを私たちのうちに宿すことです。神様はこの地上で生きる目的、使命を果たさせようと、私たちを選んで、ここに立たせてくださった。だから、神様から辞令をいただいて、それぞれの家庭に、それぞれの職場や地域に派遣されて生きているのです。そのようなことをあまり自覚しないで生きているかもしれませんが、それは大きな間違いです。今日から心を改めて、毎日私は誰のために、何のために生きているのか?神様は私たちを、ひとり子をもってあがなってくださった。買い取ってくださった。そして、イエス様がそう言われたように、私たちに使命を与えて遣わしてくださった。私たちは今この地上にあって神と共に生きる者とされた。主イエス・キリストが私たちと共にいてくださるのは、私たちをして神様のみ心にかなう、言い換えますと、私たちにご計画してくださっていらっしゃる、求めていらっしゃる神様の使命を果たさせようとなさるのです。それをはっきりと自覚して、その使命を受け止めていくことが大切です。

 

今お読みいたしましたサウル王様の記事、17節に「サムエルは言った、『たとい、自分では小さいと思っても、あなたはイスラエルの諸部族の長ではありませんか。主はあなたに油を注いでイスラエルの王とされた』」。サウル王様は王様の家柄に生まれたのではなかった。キシの子サウルといわれるベニヤミン族の小さな部族の一員でした。ところが、神様は彼を選んで、王の位に立ててくださった。王様になったのです。それが私たちと何の関係があるかと思われますが、大切な関係があるのです。実は、そうなるべき血筋や家柄はありませんが、私たちをして神の子供、神の国の世継ぎとして、選んでくださった。このとき「サウル王様に油を注いで」とありますね。王に任命する、任職の油を注いでくださった。私どもはどこで油を注がれたかしら、と思いますが、実はイエス様を信じて、聖霊が注がれました。イエス様を信じて、神の子となる力を与えてくださった。その力は聖霊です。御霊が私たちの内に注がれている。その昔、サムエルの時代は王様に任命するとき、オリブ油を頭に注いで、その職に任じる。いわゆる辞令を交付するのです。だから、その後のダビデ王様もそうです。エッサイの子供で、羊飼いだったダビデに、祭司サムエルが王として任職の油を注いだ。サウル王様やダビデ王様と同じ神の国の子供として、私達にも任職の油、聖霊を注いでくださっている。

 

イエス様が天にお帰りになられて、弟子達がお祈りをしていたとき、10日目、五旬節の日に、彼らに聖霊が下った。これはイエス様を信じるすべての者が、神の子、神の国の世継ぎ、皇太子としていただいたことでもあります。私たちをして神様の使命を果たさせようとしています。18節に「そして主はあなたに使命を授け、つかわして言われた、『行って、罪びとなるアマレクびとを滅ぼし尽せ。彼らを皆殺しにするまで戦え』」。神様はこのときサウル王様に「使命を授け、つかわして言われた」とあります。私たちも今イエス様の救いにあずかって、神の御霊、聖霊の油注ぎを受けて、神様の使命を与えられた者であります。神様がすべての人々に与えた使命、共通した使命がある。それは実に簡単なこと、私たちが喜び、感謝し、輝いていのちに満ちて生きること、これが使命であります。そんなのは簡単だと思うかもしれません。実に簡単なことです。「いつも喜び絶えず祈りすべてのことについて感謝せよ」(1テサ 5:16~)と言われる。これを毎日実現する者として、今イエス様の救いにあずかっている。今、使命を果たしていると確信している人はどのくらいいますか?たまに喜ぶ、ときどき感謝、そんなのはあるけれども、いつも喜んで、すべてのことに例外なく感謝しているか。もし、していないとすれば、私たちは使命を果たしていない。そして、日々の生活の中で、神様がもう一つ個別の使命を与えてくださる。それは神様の声を聴かなければ分からない。ここに「そして主はあなたに使命を授け、つかわして言われた」とあります。神様は私たちに「お前はこれをして、その使命が終わったら次はこれをして、その次はこれだ」というように、全部を明らかにしているわけではない。一つの使命が終わるまで、次なる使命が分からない。だからイエス様が言われるように、「あすのことを思いわずらうな」(マタイ 6:34)と。私達はすぐ先を見よう、知ろうとする。今の使命は分かった、では次は何でしょうか、その次は、前もって言ってもらわないと困る。私達はそのようなところがあります。突然言われると、うろたえてできない。私は比較的昨日の今日、スッスッとどんな場面でも切り替えができます。ところが、なかなかそれができない方がいます。最低でも一週間前には言ってもらわないと、自分は心の準備ができない。だから、神様に「その先はどうなりますか」「その先はどうなりますか」と、聴きたがる。でも神様は沈黙なさいます。とにかく「今」が大切なのです。

 

神様はサウル王様に18節「使命を授け」ました。「行って、罪びとなるアマレクびとを滅ぼし尽せ。彼らを皆殺しにするまで戦え」。「皆殺しに」、一切合財全部残すところなく殺してしまえ、動物も幼子も男も年寄もありとあらゆるもの、アマレクに属する一切のものを全部、皆殺しにしてしまえと。そのような戦いにサウル王様は遣わされた。この言葉を聴いて、サウル王様は「はい、それでは」と戦いに出た。そして、勝利して帰ってきました。彼らはカルメルという町に凱旋門、戦勝記念碑、戦いに勝利した記念の塔を造り、お祭をしていたのです。その時、祭司サムエルに神様が「早く行ってご覧、私はサウルを王としたことを悔いる」とおっしゃった。サムエルは一晩泣き明かして、神様がどんなに悲しい思いをしているかと思うと居ても立ってもおられない。翌朝早く行ってみました。すると、サウル王様は上機嫌で、「おれは戦争に勝った」。王様としての実力を発揮して喜んでいる。そこで、サウル王様に「あなたはいったい何をしたのですか」と言った時、「いや、私は神様から言われたとおりのことをしました」と。するとメェーメェー、モーモーと羊や牛の声が聞こえる。祭司サムエルは「あの声は何だ!」と言う。「いや、あれはアマレク人から取ってきたもの。しかも傷のない、立派な良いものだけを選んできました」。そればかりではなくてアマレクの王様アガグを生け捕りにして連れてきた。そのときサムエルは「何ということをしたのだ。どうして神様に従わなかった」。

 

19節に「それであるのに、どうしてあなたは主の声に聞き従わないで、ぶんどり物にとびかかり、主の目の前に悪をおこなったのですか」。サウル王様に、あなたは使命を受けて行ったではないか。どうして言われたとおりにしなかった。これは今も私たちに神様が問われる事です。サウル王様と同じように使命を受け、油注がれ、神の御霊、聖霊を受け、キリストが私たちの内に宿られ、私たちは日々の戦いの中に遣わされている。アマレク人を皆殺しにするまで戦えと。神様のみ心が行われるように、従うことを求められました。では、私のアマレクは何だろうと思われるでしょうが、アマレクは私たちの肉性です。肉の力です。私たちの自我であるとか、情であるとか、感情であるとか、そのような神様に敵対するものがアマレクです。実は、私たちもそのアマレクとの戦いを戦わなければ勝利を得ることができないし、神様のご目的を果たすことができない。神様は「今日はお前はこれをしなさい」、「今週はこのことをしなさい」、「今月はこれがあなたの使命です」と、きちんと語ってくださるのです。そう言うと皆さん「え!」とびっくりしなさる。「そんな、語られたことはない。主人から小言を言われるけれども、神様の声は聞いたことはない」と思われるかもしれませんが、神様は絶えず私どもに願いを起こさせ、思いを与え、御霊が「このことを今すべきだ」、「そうだ、これは今神様が私に求めていることだ」と、それを聞くことはできます。「そうだ。そういえばあれはしておくべきだな」、「このことは断らなければいけないな」と思いつつも、そこでどうするか?だってそうしたら、ああなるに違いない、あの人が何というか分からない、あの親類の誰かが文句を言うかもしれない。私は年金生活だから、もうこのくらいで神様勘弁してくださいと、言い訳していることがたくさんありませんか。考えてみたら、あれも拒む、これも拒む、これもやめておく。それは自分の内なるアマレクの力に負けた結果です。そうである限り、私たちは神様の使命を果たし得ない。「お前、そんなことをして大丈夫か。そんなことをしたらあの人が何というか分からんぞ」、あるいは「こんなことをしたらお前は病気になるかも知れんぞ」と、いろいろささやいてくる声が聞こえてくる。その中にあって「いや、そうではない。私は神様が『これをせよ』とおっしゃる。これを『やめよ』とおっしゃる。その御霊のみ声に従う」。これが私たちに与えられている使命です。御霊が求められることこそが、私たちの果たすべき責任ある事柄です。周囲の家族が、「お母さん、年をとったのだから、そんなことまでしなくてもいいではないの。もうやめとけ、やめとけ」と言われる。「そうか、やっぱり家族は私のことを思ってくれるから、お祈りして感謝しよう」。でも、お祈りをしても喜べない。神様は「そうではない、これをせよ」とおっしゃるのに、自分はしたくないから家族の言葉を口実に逃げている。そうすると、喜びがない。いつも喜べない。何か心に引っ掛かるものを持ち続けることになる。だから、どうぞ皆さん、私たちはいつも神様の声にまず聞き従う、これが第一。神様は今何を求めていらっしゃるのか、何をどうすべきなのか、どこへ行くべきなのか、行かないほうがいいのか、そのような小さなことまで、神様に聞かなければ分からないのです。自分が何のために今日生きているのか、これは神様に聞く以外にない。聞かないでも、生きることはもちろんできますが、それだと私たちの本来の使命を果たし得ない。だから、いつも祈らなければ事は進まないのは確かです。そして神様のほうに思いを向けて、「神様、今日は何をすべきでしょうか?家族がこう言っていますが、あの人がこう言ってくれますが、どうしたらいいでしょうか」と、絶えず聞くのです。そうしますと、神様は必ず私たちの心に「それはやめておけ」、「ここに行くべし」、「彼に聞くべし」と、いろいろなことを教えてくださいます。そのとき「はい」「はい」と従う。まず聞くこと、二番目は従うこと。

20節以下に「サウルはサムエルに言った、『わたしは主の声に聞き従い、主がつかわされた使命を帯びて行き、アマレクの王アガグを連れてきて、アマレクびとを滅ぼし尽しました。21しかし民は滅ぼし尽すべきもののうち最も良いものを、ギルガルで、あなたの神、主にささげるため、ぶんどり物のうちから羊と牛を取りました』」。サウル王様はここで大変な失敗をしたのです。この言葉の中に落とし穴がある。私たちもこのような言い方をする。「私は言われるとおりのことをしました。しかし民が……」と。誰が王様なのか、サウル王様が王ですよ。いくら民が何と言おうと、王だったら王らしいことをすべきです。ところが彼はそうしなかった。私たちもそうです。夫として、親として、父親として、娘として、母親として、それぞれに与えられた使命がある。その使命を果たすためには、父親が父親として、夫が夫として、妻が妻として、母親が母親として、きちっと神様に従う。神様から与えられた使命としての歩みをしなければ、家庭も社会もごちゃごちゃになる。ご覧のとおりの今の日本じゃないですか。このときのサウル王様も王なのです。従うべきは神様だけです。ところが、彼は民に従った。これは決定的な失敗です。私たちもそのような失敗をしやすい。しやすいどころかよくする。ただ、今は神様の憐れみによって、忍耐によって神様は罪を赦してくださって、絶えず新しい霊に満たしてくださる。

 

ですから、21節に「しかし民は滅ぼし尽すべきもののうち最も良いものを、ギルガルで、あなたの神、主にささげるため、ぶんどり物のうちから羊と牛を取りました」。なるほど聞くと、ああ、そうやな、感心なことやな、と思うでしょう。民は取ってきた。取ってきたけれどもそれは「わたくしする」といいますか、欲のためではなくて、神様にささげるために取ってきたのです。どこが悪いのですかと。神様はうれしいでしょう、ささげられるのだからと。そこに既に大きな落とし穴がある。自分の使命を忘れた結果です。神様は「滅ぼしつくせ」と言われた。その命令に一分一厘たがわずに従うことが求められるのです。私どもも失敗するのはおおむねここです。家族がそう言うから、あの人がこう言うから、そんなことを言ったらあの人がこうなるに違いないから、ここは黙ってお祈りしとこう。お祈りをするのは結構ですが、今主があなたにしかできないことを求められている時に、黙っているわけにはいかない。

 

エステルがそうだったのです。彼女が王妃でユダヤ民族が危機存亡のときに、彼女は王にいちばん近かった。それで黙って口をふさいでいたら、自分の民は死んでも自分は安全です。王の前に出るのは命懸けでしたから。ところが、彼女はそこで断食して祈って、神様の使命を感じた時、「死ぬべくは死ぬべし」と、命を神様にささげて、主の使命に立った。おじさんのモルデカイは「あなたがこの時このことをしないのだったら、神様はほかにどんな人でも立てることができる」と。つい家族に対しても言うべきことを言わないで、もちろん何でも言えというわけではないですが、神様から求められること、神様が親として使命を与えて、求められることについて逃げることはできません。私がすべきことは何かと、神様の前に歩む姿勢を絶えずきちっと整えていくこと。それができない理由は、人なのです。もちろん、自分が可愛いということもある。自分が良いお母さん、良いお父さんでありたい。あるいは優しい親切な者でありたいという気持ちもあります。また、人を恐れる思いもあります。あの人から嫌われたくない、この人から嫌われたくない。だから、私どもは出るに出られない、言うに言えない。そして心の中で悶々(もんもん)としている。後になって、「しまった。あの時、言えばよかった」と悔やみ続ける。「このことを言え」「このことをせよ」「ここへ行け」「これはやめよ」と、出処進退をきちっとして、神様の言葉に、神様が求められるそのところに従いたいと思います。

 

いろいろなことをして、人のために、家族のために、子供たちのためにしてやって、子供たちが喜ぶ様子を見て、「おれは良いことをしてやったなぁ」とうれしい、喜びがあります。ところが、その喜びはあくまでも肉にある喜びです。やがてその喜びはスーッと消えていき、消えた後は「何であんなにしたの」。今度は揺り返しが来る。これはきついですよ。喜んだのはつかの間です。しばらくすると「あんなにしてやったのに、お礼一つない」。そんなことを言うと、奥さんから「いや、ありがとうは言っていたよ」と言われる。「言い方が悪い」、「もうちょっとこう言うべきだ」とか、せっかく喜んだはずの「おれは良いことをした。うれしいな」と言っているのもつかの間です。それは肉にある喜び。神様が「せよ」と言われたことをさせていただく。「言え」とおっしゃったことを言ったとき、たとえ言った瞬間、相手がカンカンに怒って、「もう絶交や!」と言っても、その後に喜びがある。神様、あなたに従うことができました。主に従う者の喜びがある。これはどんなことがあっても消えない。

 

人を恐れない、あるいは自分の感情に負けない。これらはみなアマレク人なのです。それに乗っかってしまうとき、私たちは失敗します。21節以下に「『しかし民は滅ぼし尽すべきもののうち最も良いものを、ギルガルで、あなたの神、主にささげるため、ぶんどり物のうちから羊と牛を取りました』。22 サムエルは言った、『主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか』」。ここですね。神様が「み言葉に聞き従う事」といわれます。神様のお言葉、聖書のお言葉を通して、御霊が、聖霊が私たちに語ってくださる神様の声を聴き、それに従う。これを何よりも喜んでくださる。たとえ燔祭や犠牲、どんなものをささげるよりも、神様はそのことを喜んでくださる。サウル王様は民がそう言ったからといって、羊や牛を取ってきた。神様にささげる犠牲献身のため、それで何が悪い、どこが悪いんだと言った。でも、神様が喜ばれるのはそんなことではない。

私たちに対してもそうです。神様が喜ばれるのは、「主よ、これはあなたのみ心ですから従います」と、従うことを喜んでくださる。家族から総反対を食らうかもしれない。あるいはみんなから、あの人この人から憎まれることになるかもしれない。しかし、そうなったとしても、私たちの魂が喜び、いのちに満ちてきます。私たちはこのような生き方をするように使命を与えられている。そのために生きているのです。神様に従う喜びといのちとその恵みを絶えず味わっていきたいと思います。その後に、「見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる」と。神様に聞くこと、従うこと。人ではない。だからといって、「俺は神様に従うから、お前の言うことなんか聞いておれん」というのではない。子供の言うことでも、もしかしたら、それは神様が言わせているかもしれない。ただ大切なのは祈ることです。祈って本当にそれが主から出たことですと、確信を得ることが何よりも大切で、これを抜きにしては神様に従えません。だから、どんなことを言ってくれる人がいても「ありがとう」「ありがとう」でいいのです。だからといって、そのとおりにしなければならないわけではない。人が何か言ってくれるときは、感謝して受けたらいい。「本当にそうですね」「そう言われるとおりですね」「はいそうですね」、そういってご覧なさい。絶対にけんかにはなりませんから。大抵、人から言われると、「いや、そうじゃない」と、瞬時に反撃する。「いや」とか「そうでない」とか、それが神様のみ心かどうか聞きもしないうちに否定するから、けんかになる。「そうね。分かった。よくお祈りしてみるわ」と言うのです。いいですか、これから何か言われたら「そう。いいことを聞いたわ。でもお祈りをしてみるからね」と言う。神様に従うのです。そして祈って、これは主から出たことだ、これは神様が今私に求めていることだと、心にしっかりと確信が与えられたら、サーッとする。その時は「あんたが言ったからした」というのではない。私は神様に従ったと言えます。

 

だから、「先生が言われるからこうしました」と言われる。私は時々困る。「先生が言われるからこうしました」と、何か責任がこちらにかかってくる。たとえ先生が言っても、主が言われたことと確信がなければ、それは駄目です。だから、絶えずどんなことでも祈ること。それを心掛けてご覧なさい。人とけんかしない、争わないでいい。自分のことを非難されても「そうね。よくお祈りをしてみるわ」と。そしてお祈りをして自分が間違っていたら「ごめんなさい」と言えばいい。間違っていなければ、これは神様が「そう言え」「そうせよ」と言われたのだから、私には責任がない。あるとすれば「せよ」と言った神様にある。

 

私たちはいつもこの主に聞き従う。22節に「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる」。どうぞ、絶えず祈りつつ主のみ声を聞き、そこに従って、神様に従う喜びを日々満たされたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。